彩園寺理珠のわがまま

 ベルゼブルの居城は虚空の彼方にある。
 名のある【魔】にしか創れぬ別荘のような代物で、ここに囚われた人間に待つものは死のみというような場所だが、彩園寺理珠にとっては勝手知ったる第二の我が家でしかない。
 理珠がジーニアス能力者だからというのもあるだろうが、何やかやで理珠には甘いベルゼブルがそれを許しているというのもあって、理珠はおそらくこの世で唯一【魔】の居城に自由に出入り出来る人間なのだ。
 漆黒の炎を纏った白亜の巨城、シャイネンナハト城は、ベルゼブルの創り出した“代理人(エージェント)”が転じたもので、そのため城全体に意志がある。
 城には十数名の従僕がおり、自分では何もしたがらない主人の世話をしているのだが、彼ら彼女らはいにしえの昔にベルゼブルが気に入った人間に力を与えて配下とした存在であるのだそうだ。
 彼らはむろん、主人であるベルゼブルに絶対の忠誠を誓っており、当然のようにベルゼブルの信奉者だ。そして、その延長で理珠のことも大切にしてくれる。
 もちろん、実家、彩園寺の人々も理珠を慈しんでくれるし必要としてくれるが、彩園寺家宗主の実弟と呼ばれつつ実は複雑な出自を持つ理珠にとっては、彩園寺の家は息が詰まるような錯覚に陥る場所でもあるのだ。
 彩園寺の人々、『紅隼』の人々を愛していないわけではないけれど、時々、何もかも振り捨てて自由になりたい、と思ってしまうし、そんなことを思ってしまう自分に嫌悪感を覚えもする。
 だからこそ、空気抜きにここへ入り浸るのだ。
 十五歳の冬にベルゼブルに拉致され、この城に監禁されて、二年にわたって陵辱と調教の限りを尽くされた理珠が、何故かその張本人と惚れた惚れないの話をする間柄になったのも、複雑すぎる背景がさせたと言って過言ではない。
 といっても、話を聞くに、ベルゼブルは初めから一目惚れで理珠をさらったらしいが――要するにベルゼブルの愛情表現は傍迷惑なのだ――、よく考えるとそれはそれで充分変態である。
 聖などは理珠に言われるようじゃ終わりだぞと呆れるかもしれないが。
「こんにちはー」
 今日も今日とて、理珠は双子の護衛をまいて自由の身になり、城へと遊びに来ていた。
 部下であり護衛でもある近衛家の双子ギフト能力者、黒鋼(くろがね)と白鋼(しろがね)は、物心ついたときから一緒に育ってきた幼なじみでもある。ふたつ年下のくせに妙に過保護な連中なので、多分帰ったら泣かれたり怒られたりするのだろうが、何故恋人の家に護衛同伴で行かなくてはならないのかというのが理珠の主張だった。
 そもそも、双子が束になってかかったところで理珠には勝てないし、別に危険な場所へ行くわけではないのだ、そのくらい好きにさせてくれと悪びれることなく思う。
「ベルいますかー……っていないわけないだろうけど」
 別れろとか言ったら家出してやると何度かゴネたのと、ベルゼブルが元々は古代種【天】から転じたD-Arkとは関わりのない中立派の【魔】であるのもあって、ふたりの関係は家ではもうほとんど公認だ。家の人々も、ベルゼブルが離れにいても見なかったことにしてくれるとは言え、やはり心底くつろごうと思ったらこちらに来るに限る。
「……来たのか。暇な奴だな」
 従僕の皆さんの丁寧な挨拶に丁寧な返答をしながら中へ進むと、広い廊下の一画にベルゼブルがたたずんでこちらを見ていた。
 この世のものとも思えない鋭利な美貌は威圧感を滲ませているし、初対面の相手に自分は嫌われていると誤解されそうな、冷ややかな眼差しと物言いだったが、面倒くさがりのくせにわざわざ奥の自室から出て迎えに来ている辺りでバレバレだ。
 要するにベルゼブルの好意は傍迷惑だし見えにくいのだが、二十年の付き合いともなると慣れたもので、
「何、じゃあベルは俺が来たのうれしくないってこと? お茶だけ飲んで帰った方がいい?」
 小首を傾げて理珠が言うと――わりと誰に対してもこういう物言いをするので、聖にはその年で小悪魔とか盛大に鬱陶しいと言われる――、ベルゼブルはしばし黙り、ややあって大げさなため息とともに理珠の腕をつかんだ。
「……お前の見たがっていた本を手に入れてきた、見に来い」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「はーい」
「まったく……」
「あ、そうだ、なーなー、ベル」
「何だ」
「もう少ししたら始まる映画で、すっごく観たいのがあるから、今度付き合え?」
「何故俺がお前ごときに命令されねばならんのだ」
「あーそう? せっかくペアで前売り券買っておいたのに。んじゃ頭領君誘って行ってこよっと」
「……お前という奴は……」
 またしても盛大な溜め息。
 理珠はあははと笑ってベルゼブルの腕をとった。
「ベルって可愛いよな、ある意味」
「人間のそういう感覚は俺には判らん」
「えーじゃあベルは俺のこと可愛くないの?」
「可愛いと思ってほしいのか?」
「んー、微妙。三十七歳にもなって、って頭領君に言われそうだし」
「……またあいつか」
「何か悪い?」
「悪いことだらけだから言っている」
「ふーん」
 素っ気ない口調にベルゼブルが沈黙する。
 文献に見る、初めカナン人の神として君臨し、その後キリスト圏に平らげられて悪魔と呼ばれる存在となり、あまたの災厄を撒いてきた【魔】とは思えない可愛らしさだ、と理珠は胸中に笑った。
 薄情なのは自覚しているが、それだって言ってみればベルゼブルが絶対に自分を見捨てたり嫌ったりしないと判っているからで、要するに甘えの延長線上のことなのだ。
 今の自分とベルゼブルが、恋人という関係なのは確かだが、実際には、絶対的な信頼の置ける家族のようでもあるし、命に代えても裏切らない友達のようでもあるし、互いに切磋琢磨しあうライバルのようでもある。
 べたべたに甘くないからこそ、本性に炎と風を持つ理珠にとっても付き合いやすく、また長続きしているのかもしれない。
「……まぁ、いい。あいつに関しては、今はどうでもいい。今度会ったら先日の礼も兼ねて盛大にもてなしてやるとしよう」
「ベルの言うもてなしって碌でもないことばっかだよね。……まあ、好きにすればいいと思うぞ。多分ベルなんかじゃ手も足も出ないだろうし」
「理珠、お前はどっちの味方だ」
「頭領君」
「お前……」
「だって頭領君の方が可愛いし」
「あれが可愛いのかどうかはさておき、そもそも俺が可愛くてどうする。比較対象にならんだろうが」
「んー、ホラ、そいうのは人それぞれって言うし。……まあそんなことはどうでもいいや、ベル、とりあえず俺ちょっと運動したいんだけど。最近D-Arkの動きもないし、なまっちゃうんじゃないかと思ってさ」
「どうでもいいことはないような気もするが……言い募ったところで無駄だろうな。なら闘技場を開けてやる。俺が相手をするのか?」
「もちろん。殺し合い……は皆に心配かけるからやめとくけど、手加減はしなくていいから。あ、そうだ、どうせだから賭けしようよ、賭け。勝った方が相手の言うこと聞くの。どう?」
「……いいだろう」
 理珠の言葉に、ベルゼブルが炎を思わせる風合いの目を細めて笑った。
「じゃあ俺が勝ったら、ベルが映画と買い物に付き合うってことで」
「お前の『言うことを聞く』はいつも他愛ないな」
「ホントに聞いて欲しい『言うこと』のときは賭けなんかしないから」
「なるほど、違いない」
「ベルはどーすんの?」
「……ふむ、なら、お前の夜を一晩、独占させてもらうとするかな」
「そんなのいつものことじゃないか」
「お前の『言うこと』とレベルを合わせただけだ」
「あー、なるほど」
 理珠が笑うと、ベルゼブルもほんの少し唇の端を上げてみせた。
 基本が偉そう・無表情・威圧的というベルゼブルが、笑ったと判る程度に笑うのは珍しく、しかもそれが自分にだけ向けられるどこかやわらかなものだったので、理珠はくすぐったい気持ちになった。
「ベル」
「どうした」
「俺は笑ってるベルが好きだよ」
「……なんだ、急に」
「ん? 別に」
 くすっと笑ってベルゼブルに手を伸ばし、褐色の頬をむにっと引っ張る。
 種族とか性別とか立場とか、なにひとつ関係なしに自分はこの人が好きだな、と思いつつ、素直に言葉にしてベルゼブルを喜ばせるような趣味はなく、肩を竦める仕草だけで済ませてしまう。
 とはいえ、そこで終わらせておけば、ただの睦言の一環で済んだのだが、理珠の言葉にベルゼブルが何か言を継ごうとするより早く、
「あ、でも笑ってる頭領君も好きだな、うん」
 などと余計なことを口にしたお陰で、
「またそれか……!」
 後日聖が碌でもない目に遭うなどとは、無論その時の理珠には予測もつかないことだった。
 ――予測がついてたとしても言ったけどね、とは、後々の理珠の悪びれない言葉ではあるが。