無何有の日々

 もうじき夕日も沈もうかという黄昏どき。
 お世辞にも穏やかとは言い難い空気の中、漆黒の少年は、わずかな蝋燭の明りで黙々と本を読んでいた。
 稀有な輝きを放つ漆黒の髪と眼ながら、決して美貌などという顔立ちではないのに、一度目にすれば二度と忘れられないような鮮烈な印象を持った少年だ。眼差しは厳しく、力強い。
 ゆったりとした漆黒の上衣と、濃紺の脚衣とだけを身にまとった彼は、慌ただしく行き来する人々の足音など気にも留めぬ様子で、一心不乱に文字を追っている。めまぐるしく繰られるページ内の文字は驚くほど細かいが、薄暗い部屋であっても、少年がそれに不便を感じている様子はなかった。
 血と煙と緊張の匂いがあちこちから漂い、周囲を甲冑に身を包んだ人々がばたばたと行き交う中、ひとりだけその空間からはぐれているかのように読書に耽っていた彼は、しかし近づいてくる足音に気づくや唐突に顔を上げた。唐突過ぎて、彼のまわりで立ち働いていた人々がびくりと身体を震わせて硬直したほどだ。
 少年に近づいて来たのは三人の男だった。
 三人が三人とも驚くほどの美貌であり、長身であり、手練れである。
「……こちらにおわしたか、エスト卿」
 彼に声をかけたのは、その中のひとり、赤茶の髪に銀の目をした青年だった。
 黒地に銀の紋様のある、一般のものとは明らかに質の違う甲冑を身にまとった青年は、触れれば切れる刃のごとき、鋭く厳しい雰囲気を漂わせていたが、それに対して少年が萎縮することはなかった。少年はただ、本を閉じながらうっすらと笑い、
「ここが一番よく観える。やっつけ仕事の砦にしては、居心地は悪くない」
 そう、淡々と言っただけだ。
「……卿(けい)はどう見る」
 次に声をかけたのは、硬質的な鉄色の髪に、南国の海を思わせる鮮やかな青碧色の目をした男だ。銀の目の青年よりもいくらか年上で大柄な、雄々しい美貌の持ち主だ。
 青地に黒の紋様のある、丁寧に使い込まれた上質の鎧に身を包んだこの男には、左腕がなかった。頬にも大きな――引き裂かれたような無残な傷痕がある。
 しかし少年は、左腕を失ってなお、この男が国でも指折りの戦上手だということをよく理解している。そして彼の、国と王への忠誠が、二度と揺るぎようもないほど強固に築き上げられているということも。
「こちらの消耗を待っているな、あれは。まぁ……向こうは難攻不落と謳われる城塞、こちらは急ごしらえの砦だ、当然といえば当然だが。とは言えこちらの補給線は完璧だ、このままいつまでも睨み合おうと思えばそれも可能だが、埒があかないのも確かだな」
「どう出る」
「国王が先頭に立てば向こうも黙ってはいないだろう。ということでレイを聖叡騎士団を中央に置いて、一緒に正面から突っ込ませる。グロウ、あんたは第五天軍を二手に分けて両翼を支えろ。一番きつくて楽しい仕事だぞ、精々張り切れ?」
「……肝に銘じよう」
 グロウと呼ばれた男が苦笑とともに一礼して下がる。ブーツの立てる音とともに、指示の声が朗々と響いてくる。
 少年は次に銀の眼の青年へ目を向け、
「奴らは間違いなく伏兵を出してくる。それに備えてヴィル、あんたは第一天軍の半分を森に潜ませるんだ。ばれないようにこっそりな。半分は聖叡騎士団に混ざって中央を叩けばいい。伏兵が第五天軍の懐に入りきったら、背後から思う存分叩きのめせ。不意打ちは卑怯だとか道に悖(もと)るとか、生ぬるいことは抜かすなよ?」
 自分より十歳も年上の相手にまるで物怖じせず、むしろ楽しむような風情で言う。
 ヴィルと呼ばれた銀の目の青年は、少年のそのような気性には慣れてしまったのか、薄い唇に微苦笑をにじませて一礼しただけだった。
「承知した。第一天軍の名に恥じぬ戦いをご覧に入れよう」
「ああ、期待してる」
 青年が長靴(ちょうか)の音も高らかにその場を辞すと、立ち働いていた人々も徐々に己の持ち場へと戻ってゆき、そこに残るのは少年ともうひとりの青年だけとなった。
 青年は、グロウとヴィルと呼ばれたふたりよりもなお美しかった。
 男に――武人に『美しい』という表現を使うことが妥当かどうかは別として、青年には神代の細工物のような繊細優美さと、それを惰弱に見せない勇猛さとが備わっていた。優美に麗しいその容色は、しかし決して女性的には見えない。
 陽光に照らし出された雪を思わせる白銀の髪と、世界中を探してもこれ以上のものはないと断言できるほど稀有に輝く紫水晶の目、すらりとした長躯と力強い四肢を持った彼は、少年がこの世でただひとり膝を折って悔いない人物であり、それ以上に強い絆で結ばれた唯一無二の友でもある。
 彼は、白地に青と銀で流麗な紋様の入れられた、晴れがましいほどに輝く甲冑を身につけていた。腰には見慣れた剣の姿がある。
「正面から突っ込ませるとは、まったく気楽に言ってくれるよな、お前は。ま、俺としても最前線で剣を振ってる方が性に合ってるけどな。――――で、お前はどうするんだ、アスカ?」
 問いかけというよりは確認の声で青年が言う。
 少年は薄い唇ににんまりと笑みを刷いた。
「よく判ってるじゃないか、国王陛下にしては上出来だ」
「国王陛下にしては、だけ余計だっつの。お前が指示だけ出してあとは高見の見物なんてことぁあり得ねぇからな。そのくせ俺のとこに混じるともいわねぇし、だとしたらなんか企んでると考えるのが妥当だろ?」
「認識としてはこれ以上望むべくもないほどに正しいな。俺はあの城を手に入れてくる、あそこは今後の戦いを続けていく上でのいい拠点になる。そのためにはなるべくあの中が空っぽにならなくちゃまずいんだ。人間が百人や二百人いたところでどうということもないが、あまり壊されたくないし、血で汚したくもないからな」
「なるほど、じゃあ俺たちは完全に囮ってわけだな。精々肝に銘じて張り切るさ。――――ひとりで行くのか?」
「三ツ子が一緒だ、何とでもなる。足手まといになるから下僕どもは全員お前の隊に任せる、好きなようにこき使え」
「了解だ、軍師どの」
「華々しい戦功という名の目くらましを期待してるぞ、国王陛下。制圧のあかつきには城壁から国旗を掲げる、まぁ、時々気にしてくれ」
 言って漆黒の少年と神代細工の青年はにやりと楽しげに――確信を含んだ目で笑い合い、互いに片手を打ち合わせる。主と従という関係でではなく、同じ目的のために歩む友人として。
「さぁて討って出るぞ、用意はいいか!?」
 急ごしらえにしてはそこそこの出来上がりを見せる砦から一歩出た青年が、闊達に弾む美声でもってそう高らかに呼ばわると、夕闇に沈みつつある大地が震えるほどの鬨の声が上がった。
 黒々と広がる平原の向こう側には、旧く強固な城塞が、討てるものなら討ってみろとばかりにその雄姿を見せつけている。
 少年は青年の背を見遣り、かすかに笑った。
 彼の隣にあり、彼を守り、彼とともに生きるこの日々、彼の愛するすべてのもの――彼を愛するすべてのものに囲まれて生きる、この何に変えるべくもない日々の存続のため、少年は戦うのだ。
 それが例えようもない困難を伴い、そのことが少年にたくさんの痛みを強いるとしても、彼は恐れない。退くなどという選択肢は、彼の中から消え果て久しい。
 最後に行き着くところが己の死だとしても。
「さあ……始めようか」
 少年はつぶやき、不敵に笑う。
 これから繰り広げられる、熱く激しい祭へ思いを馳せるようにして。