朝日ニ祈ル

 宴は盛況だった。
 ハーブや野菜をこれでもかというほどに詰め込んで、牛や豚や羊を丸ごと焼き上げた肉の塊、大きな魚をパイで包んで焼き上げたもの、色鮮やかな野菜で作られた、鳥や蝶や花を模した細工料理、香ばしく焼きあがった何種類ものパン、山盛りのチーズとナッツ、美しくカットされた果物、クリームと瑞々しい果物で作られた生菓子の類い。
 金色に泡立つエールと血のように濃い赤葡萄酒、蜜のように甘い白葡萄酒と琥珀色の蒸留酒、果物の絞り汁に蜂蜜と炭酸水を混ぜたもの、葡萄のシロップを湯で割ったもの。
 美食という名の美食をかき集めたかのような、豪奢で贅沢な食事を、めでたい日の盛装に身を包んだ人々が、談笑しながらついばんでゆく。
 ホールの前方にある舞台のうえでは、中世の管弦楽団を思わせる人々が、優美で耳に心地よい旋律を奏で続けている。
 日の沈む前に始まった宴だが、そこから七時間弱が経った今でも、老若男女関わらず集った人々は美食と美酒に舌鼓を打ち、優雅に――楽しげに笑いさんざめいて、様々な会話に花を咲かせているようだった。
 雪城飛鳥(ゆきしろあすか)は、広い広いホールの真ん中で大貴族たちと談笑するレーヴェリヒトを見るともなしに見ていた。
 彼のまとう盛装、青と白を基調とした優美なそれは、一国の王であることは納得させても、レーヴェリヒトが生粋の武人であることをかけらもうかがわせない。
「……若」
 不意に横からかかった声は、聞き慣れた眷族のものだ。
 視線をずらすと、手に琥珀色の酒が入ったグラスを持った金村勇仁(かねむらゆうじん)が立っている。
 葡萄酒を蒸留し、樽に長時間貯蔵して熟成させらそれは、彼らの故郷で言うとブランデーになる。芳醇な香りとぴりりとした味が身上のきつい酒だが、ザル並の酒豪である金村にはどうということもないらしい。
「金村か。どうだ?」
「ん、やはり、華やかな場は、疲れる」
「あんたらしいな」
「この国の人間は、こんな騒ぎをあと二日も三日も続ける気なのかね」
「この世界の人間は、かもしれん。新しい年の訪れは、どこであってもめでたいことなんだろうさ。己がまた続いてゆくということだからな。だが……まぁ、あちらさんとの全面戦争も近い今、息抜きは必要だ。そのあとで、ぐっと気を引き締めればいい」
「……だな」
「新年まであと一時間ちょっとというところか。正直なところ、そろそろ帰りたいんだがな、俺としては。――つっても、レイを放って帰るわけにも行かないか、仮にも側近が」
「同感だ。まァ、今年は年賀状を用意する必要もなかったし、特別に忙しいわけじゃあねぇけどな」
「……あんた毎年年賀状書いてたのか」
「ん? ああ、そうだな、ちゃんと手書きしてたぞ。人数が多くて、二十四日までに出せねぇことも多かったが」
「まめで律儀なヤクザだな、本当に。もし料理好きだったら、おせちなんかも全部自分で準備してたんだろうな」
「ああ、それは圓東(えんどう)の役目だ。黒豆を煮たり、煮しめを作ったり、雑煮の準備をしたり、イクラを醤油漬けにしたりな」
「餅を準備したり、数の子や新巻鮭を買いに行ったりか?」
「そんな感じだな。餅はさすがに自分たちでついてるほどの暇はなかったが」
「おせち料理の準備をするだけでも十分だ。ヤクザって案外まめな生き物なのかと錯覚しそうになるな、あんたのそれを聞いてると」
「そうか? 他の奴らがどうだったかは知らねぇが、ウチはだいたい毎年そんな風だったぞ。しかし……なんか、一年前のことなのに、ものすげぇ懐かしく感じるな」
「……本当に。まだこっちに来てから数ヶ月しか経ってないはずなのに、もう十年も二十年も離れているような気がする」
「ま、色々あったからってのもあるんだろうが」
「まったくだ。で、これからも多分、いや間違いなく色々あるんだろうさ」
 この世界に迷い込んでからの、激動のと呼ぶべき数ヶ月を思い起こしながら飛鳥が言うと、金村もまったくだと返して頷いた。
「そういえば、圓東はどうした?」
「ん? さっきまで、豚の丸焼きのテーブルにかじりついてたが。あんまりよく食うから、この分だと一頭分丸ごと食われちまうかもしれねぇって料理長が苦笑してた」
「……判りやすいな、あいつ。……というか、あの貧弱な身体のどこにあれだけの食物が入るんだ……?」
「ああ、それは永遠の謎だな。なにせ、篠崎組の七不思議のひとつに数えられてたくらいだ」
「なんか、ものすごく嫌な七不思議だな、それ……」
 胃袋に七不思議のひとつを持つ眷族に、飛鳥は呆れた声を出した。
 篠崎組における残り六つの不思議がどんなものなのか知りたいような気もしたが、ホラーや心霊関係が大の苦手だという金村が何でもない表情で言う辺りから、多分ろくでもないことだと胸中に断じ、追求を諦める。
 世話になった人々への挨拶も済ませてしまったし、これ以上養分を摂取するとあとで辛いし、さてでは宴会が終わるまで何をしていようかと思案していた飛鳥は、ふと視線を感じて振り返った。
 そしてそこに、赤銅色の髪とオリーブ色の目をした壮年の男が佇んでいるのを認め、表情を引き締める。
「……シュヴェーアト・グレイズ・シャーベフルツ卿」
 彼は四十代を半ばも過ぎた辺りだろう、がっしりとした身体つきの男だ。
 数ヶ月前、飛鳥にこっぴどくしてやられたどこぞの馬鹿貴族とよく似た顔立ちをしているが、肥満しすぎて顔立ちの美醜を云々する以前だった彼とは違い、こちらは間違いなく男前だ。
 優美なという表現は似合わないが、きちんと整えられた髭が驚くほど様になっている、渋い美壮年である。
 空気を含むとふわりとたわむ、優美で彩な文官の盛装ではなく、落ち着いた色合いの、式典に臨む軍族を思わせる、シャープなラインの衣装に身を包んでいる。動きやすさ重視といったところだろう。
 飛鳥の声に、男は鷹揚に手を上げてみせた。
「うむ。ああ……先の戦い、見事だったぞ。卿の采配のお陰で被害も少なかった、リィンクローヴァを愛するもののひとりとして礼を言う」
「卿に礼を言われたくて采配を揮ったわけじゃない。いわば必然だ。……それで、何か用か? 卿のことだ、それが言いたくてここまで来たわけじゃないだろう?」
「おお、話が早くて助かる。宴の余興だ、私と手合わせ願えまいか」
「……出来れば、遠慮したいんだが」
「おや、貴き黒の御使いが、私ごときの挑戦を躊躇するか?」
 静かだが明らかに挑発の気配を含んだシュヴェーアトの言葉に飛鳥は苦笑する。
 弟は塵芥並の馬鹿でも、この兄は決して侮れない。頭脳、戦闘能力、経験、人脈、そのどれもがだ。
 明らかに家名を汚しそうな弟に家督を譲り、その責務を負わせた理由、シャーベフルツ家私兵軍の育成に力を注ぎたいからというそれだけでは、どうにも納得出来ない気がする男である。
 国内の力関係が微妙な現在、あくまでも出来ぬと突っぱねることは、飛鳥心象を悪くするのみならず、レーヴェリヒトにも皺寄せが行くことになるかもしれないと判断し、彼はかすかに肩をすくめてから首を縦に振った。
 別に、戦いそのものが嫌いなわけではない。
「……仕方ない、判った、受けよう。何でやる?」
「では、卿の腰のもので」
「真剣だぞ」
「怖気づいたか?」
「はっ、まさか。もうじき新年を迎えようというめでたいときに、大公家の一員を真っ二つにし、この場を血で汚しては申し訳ないだろう」
「自信家だな」
「性分でね」
「なるほど、それは頼もしい。――ならばお前たち、この辺りのものを片付けよ。面白い見世物が始まるぞ」
 シュヴェーアトの言葉とともに、てきぱきと動いた彼の侍従たちが、料理や酒の載ったテーブルを移動させ、十メートル四方の空間を作る。
 その素早さに、なんとも手際のいいことだと飛鳥は呆れたが、侍従たちの動きがあまりにも滑らかで統制立っていたため、最初からそう言いつかっていたのかもしれないと思い至った。
 どうやら、シュヴェーアトは何がなんでも飛鳥と剣を交えたいらしい。
 黒の御使いとしてリィンクローヴァの中枢に腰を据えて早数ヶ月、味方は増えたが敵視するものも増えた。シュヴェーアトもまたそのひとりだ。
 権力とは麻薬だ、と心底思う飛鳥である。
「別に心配はしねぇが……難儀なこったな」
「まったくだ。ひらひらした服を着てこなくてよかった」
 武官とは言い切れないが少なくとも文官ではありえない飛鳥は、数ヶ月前の初顔見せで着せられたようなひらひらの衣装を断固として拒否し、黒い布と銀の金具で仕立てられた、身体にぴったりとして動きやすい、しかし武骨なだけではない衣装を身にまとっていた。
 即席競技場が出来上がった辺りで、貴族や侍従たちがなにごとかと集まってくる。
 飛鳥は小さく息を吐いて、腰に佩いた星鋼の剣を確かめ、正方形の『競技場』の中央へと歩を進めた。
「何やってんだ、アスカ?」
 騒ぎを聞きつけたらしいレーヴェリヒトが野次馬たちの間から顔をのぞかせ、声をかけてくる。アメジストの双眸には、間抜けなほどに不思議そうな光が宿っていた。
「俺に訊くな」
 まばたきを繰り返す神々しい美貌へ吐き捨てるように返し、同じく『競技場』の中央へ立つ男へと視線を向ける。
 シュヴェーアトの目は、確かに敵意を含んでいたが、それと同時にひどく楽しそうだった。
「用意はいいか?」
「好きにしてくれ」
「そうか。では…………参る」
 始まりの声は静かだった。
 しかし、その踏み込みは重く、速く、そして剣閃は激烈だった。
 シュヴェーアトの軍靴が床を蹴った、そう思った次の瞬間には、彼の腰にあった剣は抜き放たれ、鋭い光となって、飛鳥めがけて一直線に飛来した。
 言葉にするならば一陣の死。
 それは手加減も何もない、一撃必殺とでも言うべき代物だった。
 あまりの速さ、容赦のない一撃に、見物人が悲鳴を上げる。
 彼らのうちの何人かは、間違いなく、国王の傍に控える軍師であり側近でもある人物が、恐るべき凶刃の餌食となって、なすすべもなく血の海に沈む姿を想像しただろう。
 それほどの剣だった。
 しかし。
「……何を思って手合わせなど願うのかは知らないが」
 文官なら……否、並の武官でもだ、よほどの手練れ以外には何が起きたかも判らず上半身と下半身とを真っ二つに断ち割られていただろう一閃だったが、それが、飛鳥を傷つけることは出来なかった。
「……やはり、黒の申し子か」
 シャーベフルツ家の影の当主とでも言うべき男の、オリーブ・グリーンの双眸、意固地さと誇り高さと理知とをまとったそれには、率直な感嘆の光が宿っている。
 シュヴェーアトが地を蹴ると同時に抜き放った剣で、彼の一閃をやすやすと受け止め、飛鳥は小さな溜め息をつく。
 シュヴェーアトは今も、飛鳥を真っ二つにでもしたいのか、全身の力をこめて押してきていたが、ゲミュートリヒ領主夫妻から譲り受けた星鋼の剣は、非常識な飛鳥の膂力に支えられ、男の力押しにも揺らぐことはなかった。
「殺す気で来ただろう、今」
「さあ、何のことだ?」
「俺が何の変哲もない文官だったら、間違いなく死んでたな」
「そうではないと理解しているからこそ手加減しなかった」
「……つまり、本気だったってことだな?」
「おや、そういうことになるか」
「まったく、どいつもこいつも……」
 毒づくと、両腕に力をこめて、シュヴェーアトの剣と身体を押し返す。
 むしろそれは押し返したというより弾き飛ばしたと表現すべきもので、たたらを踏んで数歩後退したシュヴェーアトが、体勢を整えると同時に感嘆の声を上げた。
「すごい力だな」
「育ち盛りだからな」
 生まれつきの……当然のことだけに、褒められたところで嬉しくもなんともなく、適当な言葉、やる気のないそれとともに、飛鳥は己が責務を果たすべくシュヴェーアトへ撃ちかかった。手加減というほど生易しくなく、全力というほどの緊迫もなく、上下左右前後へと、緩急をつけて剣を繰り出し、シュヴェーアトを翻弄する。
 飛鳥の、一片の無駄もない剣舞に、見物人たちは声もなく見入っていた。
 純度の高い金属同士の打ち合わされる、高く澄んだ音が響き渡る。
 シュヴェーアトは確かに熟練の武人だったが、自身を天才と言い切る、戦うために生まれたといって過言ではない飛鳥の前には無力だった。
 そのまま、五分も打ち合った辺りで、飛鳥は剣を握り直した。茶番のクライマックスへ向けて気合を入れ直す。
 ――有り体に言えば、飽きたのだ。
「さっさと終わらせる、ぞ!」
 鋭く息を吐くと、シュヴェーアトの剣を強かに打ち据える。
 がきっ、という鋭い金属音とともに、
「……ッ」
 シュヴェーアトが息を飲んだ。
 そして一瞬遅れて、カラン、と、金属が堅い地面へ転がる音がする。
「……俺の勝ちだな。まだやるか?」
 強い衝撃で痺れたのだろう、剣を取り落としたのち右手を押さえたシュヴェーアトへ、白く輝く星鋼の剣を突きつけ、淡々と飛鳥が言うと、彼は苦笑して首を横に振った。
「いや、御使いの実力、身に沁みた。満足だ、感謝する」
 肩をすくめ、飛鳥は剣を腰に戻す。
 流れるような自然な動作で。
 わっ、と、歓声が沸いた。
 飛鳥と、そしてシュヴェーアトを讃える言葉があちこちから聞こえてくる。
 特に喜ぶでも照れるでもなくそれらを聞いていた飛鳥へ、剣を腰に戻したシュヴェーアトが声をかけた。
「卿は」
「ん?」
「剣を習ってどれくらいだった?」
「半年は経ってない」
「……その短期間で、それか。末恐ろしいな」
「そうでなくて、何が御使いだ?」
「なるほど、違いない。頼もしい話だ。……処分するのが惜しくなるほどに」
「……? なんだって?」
「いや、なんでもない」
 最後の一言が聴き取れず、飛鳥は眉をひそめたが、シュヴェーアトはかすかに笑って首を横に振った。二度言う気はないということだろう。
 それ以上追求する気にもなれず、追求したところで答えるとも思えず、飛鳥は肩をすくめるだけに留めた。
 どうせそれらも、いずれははっきりとしたかたちになって、飛鳥の前に姿を現すのだ。
「手を取らせてすまなかった。よい年を迎えてくれ」
「ああ、卿もな」
 深々と、もったいないほどの敬意をこめて一礼したシュヴェーアトが、灰色のマントを翻してその場を辞す。倍以上年の離れた子供に敗北したことへの悔しさや己への怒りをうかがわせない、潔い退場だった。
 たとえ敵であってもあの姿勢は悪くない、と、その背を見送っていた飛鳥に、
「や、さすがだなアスカ。やっぱすげぇや、お前」
 何故か嬉しそうなレーヴェリヒトが声をかけ、飛鳥は、彼に賛辞を向けられたときだけ嬉しくなる自分自身へ微苦笑する。
 もう、条件反射といっていい。
「当然だ、天才がこれくらい出来なくてどうする」
 無論、返す言葉が憎まれ口なのは、飛鳥の飛鳥たる由縁でもあるのだが。
「はは、お前らしいな」
「ま、師匠の腕がいいからだろ」
「……照れるじゃねぇか」
「俺が褒めるなんて珍しいぞ、思う存分照れておけよ」
「そう言われると途端に萎えるのはなんでかなァ……」
「おや、それは失礼」
 他愛ない言葉遊びをして、飛鳥がかすかに笑ったそのとき、鐘が鳴った。
 純度の高い金属で作られたと判る、重厚で濁りのない音だった。
 レーヴェリヒトがホールの天窓へ目映いアメジストを向け、そして繊細優美にして類い稀な美貌を、晴れやかな――裏表のない明るい笑みで彩る。
「……新しい年か、もう」
「の、ようだな」
「あけましておめでとう、だな、アスカ。それにユージンも」
「ああ、おめでとう、レイ、金村。今年もよろしく」
「こちらこそ、よろしく頼む。……しかし、なんだ、」
「ん? どした、ユージン」
「いや、なんかこう、面映い気分だな。こんなとこでこんな挨拶をする日が来るたぁ、思ってもみなかった」
「は、俺もだ。だがまぁ、悪くはない」
「……そうだな」
「今年も目が回るほどクソ忙しいんだろうが、よろしく頼むぜふたりとも。頼りにしてるからな」
「仕方ない、頼りにされてやろう」
「若がそう言うなら、俺に否やのあろうはずはねぇな」
「……なんか偉そうだぞ、お前ら」
「何を言ってる、偉そうなんじゃなく、偉いんだ。伏して拝め」
「えええ……ッ」
「……いつ見ても面白いな、ふたりとも」
「一緒にするな、金村」
「そうか、それは失礼した」
「ここで怒っとくべきなのか、俺……?」
 真顔の飛鳥と金村にタイミングをはずされ、レーヴェリヒトが珍妙な顔で首を傾げる。
 飛鳥は珍しく、声を立てて笑った。
「ま、何にせよ」
「ん?」
「今年も頑張ってみようか」
「おう、頼むぜ」
「そういうお前もだ」
「……判ってるよ」
 レーヴェリヒトに新年の挨拶をしようと、人々が集まってくる。
 飛鳥はそれを確認し、一歩後退して、見物の姿勢に入った。
「新年の初仕事だ、せいぜい励めよ国王陛下」
「……判ってるっつーの」
 恨めしげな視線を寄越すレーヴェリヒトにもう一度笑い、壁にもたれかかる。
 ――世界情勢は決してよくはなく、予断を許さない状況ではある。
 だが、それでも、だ。
 レーヴェリヒトの傍らにある限り、この国にある限り、この先何が起きたところで、飛鳥は笑って「悪くない」と答えるだろう。
 そう思える人に出会い、そう思える場所へ訪れ、そんな人と、そんな場所で過ごせる新しい年に、彼は不思議な感慨を抱くのだ。
 運命とか巡り合わせとか、そういう見えないものへの感謝とともに。



 ふと気づくと飛鳥の姿が消えていた。
 時刻は恐らく、午前六時をまわっている。
 ホールの天窓から見える真冬の空が、徐々に白み始めているのが見える。
 宴に列席していた人々は、レーヴェリヒトや大公家の面々に新年の挨拶をしたあと、三々五々、親しいもの同士連なって帰っていた。
 この場に残っているのは、一定以上の地位にある上位の貴族たちと、彼らに仕える侍従たちばかりだ。
 第五天軍将軍グローエンデとなにやら話し込んでいるレーヴェリヒトと、満腹の表情で椅子に寄りかかって居眠りしている圓東、その双方を見比べてから、勇仁は周囲をぐるりと見渡したのち、そこに目指す人物の姿がないことを確認し、そっとホールから抜け出した。
 特に目当てもなく歩き回り、十分二十分探しただろうか。
 今日ばかりは開け放たれた城門から、なだらかな丘陵を見遣った勇仁は、美しい丘の一角に、漆黒の少年の姿を見出し、ゆっくりと近づく。
 少年は正確に日の出の方向を向き、真冬でもやわらかな草に覆われた丘に膝をついてこうべを垂れていた。
 折りしも地平の向こうから、天を刺すかのごとくに太陽光が差し、空の支配者がその威容を現そうとしているところだった。
「……わ、」
 五メートルほど手前まで近づき、常の彼らしくなく勇仁に気づく様子もない飛鳥に声をかけようとして、勇仁がそれを躊躇ったのは、礼拝のごとくに両手を組み合わせた少年が、長い長い言葉を小さな声でつぶやいていたからだ。
 そこに、決して勇仁が入り込めない何かを感じ取ったからだ。
「日置一幸(ひおきいっこう)。里屋弘子(さとやひろこ)。ヘンリー・マクレガー。ヴァイオレット・ミンストレル。アルフレッド・カールソン。李星音(リ・シンイン)。金泰成(キム・テソン)。インディラ・タゴール。ルイ・バラデュール。アンリ・パスカル。ヴィルヘルム・コール。エンゲラ・ブレヒト。コンスタンティノス、プロティナ、アントニヌス。レオナルド・ルジェロ。アンティーロペ・カルロス。ゼノビア、テオドラ、イザベル。ローザ・ラフマニノフ。アブドル、ハリド、ファハド。……雪城陽司(ゆきしろようじ)、雪城遥(ゆきしろはるか)。俺をかたちづくったすべてのもの、すべてのひと、すべての言葉へ。I hope,I wish,I pray……」
 それは人名のようだった。人名がいくつも連なっているようだった。
 発音から、様々な国が想像された。
 それらの、果てるともなく紡がれる名に、そして少年の、外見による予想を裏切るほど低い声に、勇仁は、言い知れぬ哀しみと諦観と、どうしようもない苦悩とを感じ取る。
 飛鳥は、勇仁にはまだ気づいていないらしかった。
「I can't forget,I mustn't forget,and I may remenber……」
 淡々とした、単純な英文の中に、万感の思いが含まれていることを、鈍いと言われ続けている勇仁ですら、感じ取ることが出来た。
 ――――あかい日が、昇って来る。
 まぶしい光が、丘陵を照らし出す。
 輝くような黒髪に、一番最初の光が差した。
 飛鳥はなおも静かに、何かの祈りの言葉を紡いでいる。
 その姿は、顔立ちの美醜云々ではなく、ただひたすら静謐で、孤独で、美しかった。
 不意に、本当にらしくないことに、少年が今すぐにこの場から消えてしまうんじゃないかという錯覚に囚われ、いてもたってもいられなくなって、勇仁はほとんど反射的に、彫像のような飛鳥へ声をかけていた。
「若」
 それでようやく、飛鳥は、勇仁に気づいたらしかった。
「……金村か」
 稀有な漆黒が、まっすぐに勇仁を見る。
「こんなところで、何をしてるんだ?」
 声をかけたものの、何を言えばいいのか判らず、ごくごく月並な質問をすると、少年はどちらが年上なのか判らないほど静かに微笑んだ。
 それは、勇仁が普段目にすることのない、穏やかな笑みだったが、どこか激しい悲嘆を含んでいるように思えた。
 返った声は、やはり、少女めいた外見に反して、低い。
「……何でもない」
「初日の出でも、観に来たのか」
「…………そうだな」
 そういうことにしておけと返し、飛鳥が立ち上がる。
 揺るぎなく力強い、そしてどうしようもなく孤独な、それのみで輝く金剛のごときその立ち姿。何もかもを内包し、受け入れ、甘受して、己が力と変えるような気高い強さを、少年からはいつも感じる。
「レイはどうしてる」
「グロウ閣下となんか話し込んでたが」
「……そうか。なら、戻るか。日も昇った、そろそろ引き上げ時だ」
「若」
「何だ?」
「――――――――今、幸せか?」
「なんだ、それ。どこの宗教勧誘だ」
「いや……何となく、聞きたくなった。――――馬鹿馬鹿しい質問だったな、忘れてくれ。戻ろう、レヴィ陛下が探してるかもしれねぇ」
 何を問いかけているのか、何が知りたかったのか自分でも判らず、苦笑して首を横に振り、歩き出した勇仁の背へ、
「――――この世にあって、この世に生きる限り、己の幸いを求めようと思ったことはない、今までも、これからも」
 静かすぎる声が、かかる。
 それは、その生は、どう考えても苦悩そのものじゃあねぇのかと、思わず立ち止まると、
「だが」
 言葉が、ほんの少しだけ、温度を増した。
 隣に、漆黒の少年が並ぶ。
「本当に何でかな、今は、なにをやってても、どんなことがあっても、すごく楽しいんだ。分不相応なほどに、今こうやって新しい年を迎えられてよかったって、そう思ってるんだ。俺は、そんなことのために、生まれたわけじゃなかったのにな」
 口にした自分に照れているのか、それだけ言うと、立ち止まったままの勇仁を置いてさっさと歩き出す。
「……そか。そりゃ、悪くねぇ」
 少年の背負う、とてつもなく重いものの存在をそこかしこで感じる。
 それが彼を、こんなにも潔く、冷酷に、強くしたことも。
 それでも、勇仁は思うのだ。
 新しい年の訪れを、率直に喜べるなら、どこにでも希望はあるのだと。
 少年を取り囲む人々と環境が、きっと彼を変えて行くだろうと。
 事実、初めて出会った日より、格段に彼はやわらかくなった。たったひとりと断ずる王のため、彼の幸いのためだけに、鋭さと冷酷さを増したのと同じくらいの位置で。
「そうだな、それなら、悪くねぇ」
 勇仁は苦笑して少年の背を追った。
 隣に並び、歩をそろえて城内を目指す。
 ――きつい陽光が目を射たが、それも、決して不快ではなかった。
 新しい世界で迎える新しい年の、その明るさ目映さを、予言するようだったから。