少年と具合のいい枕

 それは麗らかな昼下がりのことだった。
 この日、雪城飛鳥はふたりの眷族とともにゲミュートリヒへ来ていた。
 リィンクローヴァ国王レーヴェリヒト・アウラ・エストの側近となるに相応しい知識や技術を身につける学習のためである。
 朝早くから午前中いっぱい、国史や世界史、語学などの勉強に費やして、簡素だが贅沢な昼食を、ゲミュートリヒ市領主夫妻を初めとした面々と心穏やかに摂ったあと、教師役であるアルディア・ミュレから借りた本、比喩でなく小山になっているそれを、しかし特に重さを感じている様子もなく腕に抱えて、飛鳥はきょろきょろと辺りを見渡していた。
 場所はゲミュートリヒ市領主宅の一角。
 居間と呼ぶのが相応しいであろう、広々として快適な空間だ。
 客を迎えるためというよりは、家人がくつろぐための場所で、ふかふかの絨毯とどっしりとしたソファ、シンプルだが流麗なテーブル、グラスやティーセットをたっぷりと抱え込んだ戸棚が美しく配置されている。
 窓からは、高くて深い青い空と、目が痛くなるほど白い雲が垣間見え、緑の匂いを含んだ風が流れ込んでくる。
 贅沢としか言いようのない空間であり、風景だったが、しかしそこにも目当てのものはなく、どうしようかと一瞬思案した飛鳥に、
「アニキ、どしたの? すっごい本だね。なんか探し物?」
 昼食後のデザートと称して大量にもらってきたらしい、多種多様、色とりどりの果物が入ったカゴを抱え、ものすごく幸せそうな顔をわずかな疑問で彩って、圓東鏡介が問うてくる。
 飛鳥は本を抱えたまま器用に肩をすくめる真似をしてみせた。
「いや、大き目のクッションみたいなのがないかと思ってな」
「え、ソファならあるけど、クッションじゃなきゃ駄目?」
「ああ」
「なんで?」
「床に寝転がって本を読みたいと思ったとき、そのくらいのサイズのクッションがあると一番快適だからだ。首も痛くならないしな」
「いいじゃん、座って読めば」
「……判ってないな、それだからお前は所詮ポチなんだ」
 やれやれと大げさに首を振った飛鳥が、いかにも嘆かわしいという風に切って捨てると、ものすごい断じられ方をした圓東が目を剥いた。
「ええぇッ!? そ、そんなこと言われましても……っ!」
「食後の、このダラダラした気持ちのいい時間に、何故鯱(しゃちほこ)張ってソファになぞ座らねばならんのだ。何のためのリラックス時間だ。まったくこれだからポチは困る」
「え、あ、うー……その、ご、ごめん……」
「うむ、判ればよろしい」
「あ、うん、ありがと……ってか、なんでおれが謝ってんの……?」
「それは当然、一片の疑いもなく俺が正しいからだ」
「……今一瞬、何の疑いもなく納得しかけた自分が嫌だ……。ま、まあいいや。じゃあアニキは、ちょっといい感じのクッションを探してるんだ?」
「そういうことだな。なかなかこれはと思うものがなくて、腰を落ち着けられずにいる。これだったら、ウチの気に入りのヤツを持って来ればよかった。せっかくこんなに借りて来たんだ、早く読みたい」
「へー。アニキはすごいよなぁ、ハイルさんの魔法もなしに、そんなよく判らない文字が読めるんだから」
「慣れるとそれほど難しくもない。もともと、読書は数少ない趣味のひとつだからな、興味は尽きない。……といっても、まだ神聖語には手が出せてないけどな。表音も表意もあるんだ、日本とそんなに変わらないだろう」
「よくわかんないけど、そうなんだ。あ、そだ。じゃあじゃあ、いい枕がありますよお客さん。いやもうコレがびっくりするほど素晴らしい逸品なんですよ! 一度お試しになってみてはいかがですか? 損はさせませんぜ!」
「……なんで急にそんな胡散臭い商売人口調になったのか、小一時間ばかり議論してみたい気もするが、どんな枕だ」
「おっ、興味を持たれましたか! それはお目が高い! えーと、じゃあちょっと待ってね」
 実はちょっと好奇心に負けた風情のある飛鳥は、いったいどんな枕が出てくるのかと少しばかり期待していたのだが、胡散臭い商売人口調から唐突に普通に戻った圓東が、周囲をきょろきょろと見渡して、
「おーい、金村のアニキー?」
 と、この異世界ソル=ダートにおいては眷族と呼ばれるもうひとりの男、真紅の髪と漆黒の目をした元ヤクザを実に気安く呼んだ辺りで首を傾げた。
 飛鳥の下僕を自称する、初対面の相手に思わず直立不動の姿勢をさせずにはいられない強面の、しかし実際には内面総天然色の男が、何故今のこの時に名を呼ばれなくてはならないかが判らなかったからだ。
「……呼んだか?」
 静かで渋い声がして、どこにいるのかと思えば、こちらからは死角になるソファに寝転んで、飛鳥と同じように読書に精を出していたものであるらしい。この距離で飛鳥がその存在を察知できなかったのは、金村がそれだけ自然に、いつも他者に気配を感じさせない生活をしているというだけのことだ。
「あ、そこにいたんだ。ちょっとこっち来て。早く早く」
「ん、ああ。どうした?」
 圓東の手招きにむくりと起き上がった金村勇仁が、分厚い本を手にこちらへ歩み寄ってくる。
「ちょっと、ここに寝転んでみてよ」
「……こうか?」
 触れれば切れそうな鋭い雰囲気を持ちながら、実は相当気のいい、穏やかな性質の金村が、圓東に言われるままに、ふかふかの、毛足の長い絨毯に寝転ぶ。手には本を持ったままだ。
「そうそう。で、アニキ、こっちこっち」
「ああ」
「はい、どうぞ」
「…………もしかしなくても、それがお前の言う『枕』か」
「そう。前はおれ専用だったんだけど」
「どこから何をどう突っ込めばいいのかものすごく困るんだが」
「まあまあ、そう言わずに一度試してみなよ。なんてゆーかもうウルトラスーパーミラクルフィット? て感じでびっくりするから」
「極でも超でも奇跡的でも構わんが、この場合金村の都合や意向は確認しなくてもいいものなのか。つーかあんたも何の疑問も持たずに横になるな。しかも微妙に待ってるだろ、今」
「……ん、ああ。いや、条件反射ってのもあるんだが。若が腹枕をご所望なら別に構わねぇぞ、俺は。圓東にゃしょっちゅう使われてたしな」
「そうそう。ほらアニキ、ものは試しだから。横になって横になって」
「……突っ込みどころがどんどん増えていくのは気の所為か……」
 屈託なく、膝でも腕でもない新種の人体枕を薦めてくるふたりに、膝枕も腕枕も経験のない飛鳥は思わずこぼしたが、金村がせっかく横になってくれた手前、このまま突っぱねるのも申し訳ない気分になってしまい、ひとつ溜め息をついてから膝を折った。
「……あー……じゃあ、まぁ、失礼して」
 男同士でこれってものすごく不毛なんじゃなかろうか、という意識がちらりと脳裏をかすめたが、恐らく、金村も圓東も気にはしていないだろう。
 よっこらしょ、などと年寄り臭い声を発しつつ、金村の引き締まった腹部に頭を乗っける。
「どうだ、若?」
「…………」
「え、駄目? おれにはちょうどなんだけどな」
「――――…………いや、あまりにもぴったりサイズすぎてどうしようかと思ってるとこだ。なんだろう、このちょうどよさ。ものすごく本が読みやすいぞ、この角度と高さだと」
「そりゃぁよかった。ま、遠慮なくゆっくりしてくれ」
「……あんまり遠慮なくゆっくりするのもどうかと思うが、まぁ、じゃあ、せっかくだからそうさせてもらうか。あんたなら、重たくて腹筋が痺れてきたので退いてくださいなんて圓東みたいに軟弱なことは言わないだろうしな」
「えっなんかもしかして密かに馬鹿にされてる、おれ!?」
「おや、その程度のことは判るのか。……いや、気の所為だ、気にするな。次からはもっと高度な言葉で馬鹿にしよう」
「うう……」
 目頭を押さえて呻く圓東を尻目に、飛鳥は本を手に取る。
 圓東の言うとおり、金村式腹枕は、高さといい角度といい、まるで自分のためにあつらえられたかのようなちょうどよさで、飛鳥は思わず自分が頭を置いている場所を忘れて読書に没頭しそうになった。
 が。
「……金村」
「どうした、若」
「あんたの腹が硬くてゴツゴツしてるのはまぁ仕方ないとして、だ。あんたの中年肥りとか、想像つかないしな」
「ああ」
「身体の上下動で視界がぶれる。字が追いにくい。酔ったらどうしてくれる」
「……そうか」
 飛鳥の、ものすごく身勝手な注文に、金村がかすかにうなずいた気配があって、その途端、呼吸による腹部の動きがピタリと止まる。見事としか言いようのない静止だった。
「お、いい感じだ」
「そうか、そりゃよかった」
 飛鳥はひどく満足し、具合のいい枕に頭を預けると、今度こそ本気で読書に没頭し始めた。ひらがなとアルファベットを混ぜ合わせたかのような、流麗で精緻な文字を一心に追う。
 そこから、十五分ばかり経った頃だろうか。
 ソファに陣取った圓東が、カゴいっぱいの色鮮やかなフルーツを無心に食す音を耳と意識の端に聞きながら、飛鳥は、リィンクローヴァの第十二代目国王の人柄と功績を一心不乱に読み耽っていたのだが――そしてこの国の王ってこういう猪突猛進の直球馬鹿ばっかりなのか、と歴代の臣下の苦労をしみじみ慮っていたのだが――、
「若」
 唐突に金村から声がかかったので、ふと意識を現実に引き戻された。
 金村の声はどこまでいっても静かで、揺らぎというものがない。
 この男が取り乱して声を裏返らせるようなことが世の中にあるんだろうか、とすら思うほどだ。
「なんだ」
 金村の声があまりに静かだったので、飛鳥は、それほど深刻な用事ではあるまいと思って文字から視線をはずし、彼を見上げたのだが、真紅の髪の眷族は、ものすごい真顔で、
「……そろそろ呼吸が苦しいんだが」
 などとのたまった。
 その瞬間の飛鳥の脱力感は言うに及ばずだろう。
「頼むから吸え。もう、力いっぱい好きなだけ」
「そうか」
「というよりもっと早く言え。そこであんたに窒息死されたときの俺の不名誉ぶりはどうなる」
「いや、夢中で読んでるようだから邪魔しちゃ悪ィかと」
「黙って窒息死される方が悪いわ。夢に観そうだ」
「そりゃすまねぇ。じゃ、失礼して」
「なんつーか、たまに……いや時々? ……むしろよく、か? あんたのテンポが判らなくなるな……」
 十五分間呼吸をせずにいられる肺活量には驚かされるが、だからといって何も、苦しくなるまで黙っていなくてもいいのだ。俺の周囲は変なヤツばっかりだ、と、自分のことを棚に上げて思う。
 そこへ、カゴのフルーツを半分ほどに減らした圓東が――たかだか二十分程度で何故そんなに減るんだと声高に言及したい飛鳥である――、拭き布で行儀よく手を拭ったあと、
「じゃ、そろそろおれも失礼して」
 などという言葉とともにいそいそと絨毯に膝をつくや、飛鳥の腹の上に頭を乗っけてくる。
 飛鳥はほぼ脊髄反射でその頭を鷲掴みにした。
 ここ一ヶ月で飛躍的に握力の向上した手に頭蓋をむんずと掴まれ、圓東が顔を引き攣らせて悶える。
「い……いたたたたたっ!? ちょっ……アニキ、割れる割れるっ!」
 ほんの一瞬で涙目になっている圓東だが、対する飛鳥は涼しい顔だ。
「ん、ああ、すまんすまん。こんなところにちょうどいい抱き枕があると思ってついつい力を入れてしまった」
「えええっ!? だ、抱き枕ってそういう使い方するもんだっけ!? 今本気で割られるかと思ったんですけど!」
「何を言う。抱き枕なぞストレス解消以外何に使うというんだ。そもそも、この俺の腹を便利に枕代わりに使おうなどと思うからには、多少の痛い目は覚悟してしかるべきだろうが。むしろ鼻の穴に指を引っかけられて千切れんばかりに引っ張られなかっただけありがたいと思え」
「ううっ、想像するだに痛い……ッ! いや、でも、だってさー。アニキがやってんの観たらおれもって思うじゃん」
「……そういうものか」
「そういうもの。ってわけで、いいよな?」
「…………まぁ、仕方あるまい。好きにしろ」
「やった。……ってか、アニキのおなかも金村のアニキみたいに硬いなー」
「俺の腹がふわふわしててどうする」
「いや、まぁそうなんだけど。まあいいや、ハラいっぱいで眠いし、小難しいことはいいっこなしで。じゃ、オヤスミー」
 あっけらかんと笑った圓東が電光石火の勢いで昼寝体制に入る。
「食ったら眠くなるとか、子供か」
 呆れつつも飛鳥は、圓東の頭の重みを不快には思えず、――むしろこんな経験をするのも初めてで、それをどこか得難くも感じていた。
 そう感じることもまた稀有だった。
 だから、そのままの体勢で読書を再開し――今度は、『枕』の多少の上下動は気にしないことにして――、三十分ばかり手書きの文字を読んだ辺りだっただろうか。
 流麗な文体で紡がれる歴史は興味深く、脈々と語り継がれてきた彼らの血が、飛鳥が呪縛されて悔いることのない唯一の存在、レーヴェリヒトというひとりの人間をかたちづくったのだと感じられたこともまた得難く貴かったが、頭を預ける『枕』の温かさと、腹に預けられた頭の温かさに、飛鳥もまた眠気を誘われ始めていた。
 時折ページを繰る音がするのは、金村が黙々と本を読んでいるからだろう。その、緩慢でかすかな音もまた、意識をゆるゆると眠りへ向かわせた。
(俺も、人のことは言えない、か)
 自分も圓東と何も変わらないと、胸中に苦笑した飛鳥だったが、無理に起きる必要性も感じられず、それももったいなく口惜しく思え、頭上に掲げていた本をゆっくり降ろして、そのまま静かに目を閉じた。
 ――それを充足と呼ぶのだと、魂の根っこが理解している。
 呪われた……偉大で不吉な目的のために生み出された己が、こんな風に、深い安らぎを感じ、満たされていることに驚き、訝しみながらも――自身の幸いなど求めてどうすると自嘲しつつも、この瞬間を誰にともなく感謝している自分がいる。
(起きたら……文字の書き取り練習をして、行政の仕組みをもう少し掘り下げて、あとは、そろそろ神聖語の学習に取りかかりたいな。夕食にはレイも来るんだったか)
 目覚めてからのスケジュールを忙しなく脳裏に思い描き、それから、ついつい苦笑する。
 いや、それは、苦笑というより、くすぐったさのあまり漏れた微笑だった。
(…………ああ、なんだろうな、この、)
 欠伸がひとつ、口をついて出る。
(――――思わず笑い出したくなるような感覚)
 まわりに尋ねれば、きっと、皆が決まりきった言葉をそろえるであろうそれを、ふわふわと、思考の中に転がす。
(…………ああ、でも)
 感覚が曖昧になる。
 穏やかで、満ち足りた眠りの訪れを感じる。
(――――…………悪くない)
 微苦笑を含んで胸中につぶやいた瞬間、意識が静かな暗闇の中へ落ちた。



「……寝たみたいだね」
 寝たふりをしていたというよりは眠りが浅い所為で目が醒めたのだろう、圓東が不意につぶやいたので、勇仁はああ、と小さく返した。
 起こしてしまわないように注意しつつ、自分の腹の上でかすかな寝息を立てる少年を見下ろす。
 この世界においては神威の象徴とも言える漆黒の髪と眼の、少女めいた繊細な面立ちの少年は、日頃の苛烈な言動などまるで幻か冗談だとでも言うような、穏やかで邪気のない、どこか幼い表情を無防備に見せて寝入っていた。
 彼自身は、決して美少年とか美形とかいう表現が使われる容貌ではないのに、その光景は、穏やかに眠る彼の姿は、何故かたとえようもなく美しく、そして得難く感じられた。
「ねえ、勇兄(ゆうにい)」
「なんだ。……懐かしい呼び名が出たな」
「うん、ああ……つい。あのさ」
「ああ」
「アニキって、寝顔可愛いよな」
「……そうだな」
「なんだろ、こんな顔で寝ることもあるんだなぁって思うと、変な感じ」
「多少は信頼されてるってことだろ」
「かな。ちょっと……嬉しいよね」
「……ああ、そうだな」
「おれも金村のアニキのこと言えないかも」
「何がだ?」
「ん、おれもどんどんアニキ馬鹿になっていくのかも、って」
「……ああ。悪くねぇだろ」
「うん」
 うなずいた圓東が、このときばかりはどことなく大人びた顔で笑い、勇仁もまたかすかに笑った。
「おれさ」
「ああ」
「アニキが幸せなら、嬉しいな」
「――――ああ」
 ――この、自分に厳しい、孤独を愛する抜き身の刃のような少年は、きっと気づいていないだろう。
 この少年が、たったひとりのと断じる『友達』のために何でもしてやろうと心に決めているように、勇仁や圓東が、彼らが馬鹿になるたったひとりの存在のために、自らの幸いを望みもしない、潔すぎる人物のために、我が身以上に心を砕いていることを。
 気づかなくてもいいと、思う。
 そういう思い方があってもいいと、思う。