極悪少年、心ならずも騒動を引き起こす。

 お茶の時間を大幅に回った午後四時過ぎ、雪城飛鳥は王都近くの森を散策していた。
 今日の分の勉強も終わり、鍛錬も済み、あちこちから頼まれていた細々とした用事もすべて片付いたので、ここへ来てからの習慣となっている、フィトンチットの大量摂取でもしにいこうと思ったのだ。
 落葉樹が少ない地域柄、日本ほど厳然とした季節の区切りがあるわけではないものの、初秋にさしかかり、青さを増した空の下を、ひんやりとした空気とともに目的もなく自由に歩くのは気持ちがいい。
 今や飛鳥は、この景色と空気を、まるで生まれた時から知っているかのように、生を受けた瞬間からともにあったかのように愛していた。
 恐らく、生まれついてのリィンクローヴァ人たちと変わらず。
「……ん?」
 飛鳥が足を踏み入れた森、城下町を水の流れる方向に沿って二十分ほど歩いた先にあるそこは、青栄(あおばえ)の森の異名の通り、空の青と森の碧(あお)とが見事に調和した、比類なく美しい場所だった。
 そんな中、飛鳥が声を上げたのは、森を歩き始めて三十分ほど経った辺りのことだった。道なき道の向こう側、光の通らない薄暗い茂みの中に、見慣れない物体を見かけたのだ。
 確か、一週間前に来たときには、あんなものはなかったように思うのだが。
「……一昨日の雨で生えたのかな」
 興味を惹かれ、飛鳥は茂みへと踏み込んだ。雑草をかき分け、それへ近づく。
「黒瑪瑙茸(くろめのうたけ)の仲間、みたいに見えるが……菌類はイマイチよく判らんな。しかし、よくぞここまで大量発生したもんだ」
 足元一面に広がる黒い絨毯を見下ろし、飛鳥はつぶやいた。
 彼の足元には、貴石を彷彿とさせるつややかな黒いカサと、象牙のように滑らかな軸を持った、ずんぐりしたシメジといった印象のキノコが生えている。
 半径二三メートル程度の範囲にびっしり生えていて、正直少々気色悪い。
 ちなみに、黒瑪瑙茸とは先日圓東が市場で仕入れてきた、香りも歯ごたえもいい食用キノコだったが、このキノコはそれに大変よく似ていた。
 似ていたが、カサのかたちと色艶が、微妙に違って見えるのだ。おまけに、黒瑪瑙茸はここまで群生しないはずだ。
 無論、山菜採り名人ではない飛鳥にこのキノコの有毒無毒は判らないし、判断するつもりもない。キノコというものは、ソル=ダートより格段に『世界』に対する理解や調査の進んだ地球ですら未知の領域といって過言ではなく、時と場合によっては人の命を奪いもする危険な代物だからだ。
 といっても、それらの成分は飛鳥には効かないが。
「……ああ、そうだ、持って帰って調べてみようかな。あの事典の使い方を練習出来る」
 最近始まった、古代語、もしくは神聖語と呼ばれる学術語の勉強の練習材料にしよう、と、飛鳥はキノコの群れにしゃがみ込んだ。
 これを持って帰って、特徴などを照らし合わせつつ、世界最大級の情報量を誇る(らしい)金剛華大事典を使ってみようというつもりなのだ。
 十センチを軽く超える厚さの、ティータイム用のちょっとしたトレイくらいある巨大な事典は、古代言語学の権威・シュプラーヘ博士が銀麗珠辞典とともに贈ってくれたもので、色とりどりの精緻な説明図が入った手書きの貴重な本だ。
 まだまだ古代言語には堪能でない飛鳥には使いこなせていない部分が多く、きちんと役に立っているとは言い難いが、書物という存在をこよなく愛する飛鳥にとっては宝物と称するべきものでもあった。
 だから、少しでもそれを使う機会を作ろうと――そして、たかだか数日でこうまではびこるキノコへの興味も手伝って――、飛鳥はキノコの群れに手をかけ、そっと地面から引き剥がした。キノコや山菜などを採集する場合、素手はよくないと聞いたことがある気もしたが、漆(うるし)を素手でつかんでもかぶれない飛鳥だ、キノコの分泌物程度でどうにかなるようなやわな肌はしていない。
「うわ、ずいぶんたくさんついてきたな。こんなには要らないんだが……まあ、勝手な理由で引っこ抜いておきながら量が多いっつーて捨てるのもなんだしな。持って帰るか」
 同胞にしがみつくかのようにごっそり採れたキノコにちょっとびっくりしつつも、それを掌に包んで飛鳥は立ち上がる。想定した量の三倍、赤ん坊の頭くらいの量が採れてしまったが、この際だから成分の調査でもしようなどと自己完結する。
「……ま、とりあえず帰るか。夕飯の時間に遅れたら圓東が怒る。あの顔の面白さは正直耐え難いしな」
 さりげなく人でなしなことをつぶやき、徐々に色合いを変えてゆく空を見上げると、飛鳥は踵を返した。
 それから、一般人たちが気軽に散策するには少々深すぎる森を、地図やコンパスや目印に頼ることなく、出口へ向かって真直ぐ歩き出す。
 すでに庭と化している森だ、飛鳥にとってそれは当然のことだったが。

 『家』へ戻ってみると、金村も圓東も、用事や仕事で出かけたまままだ帰宅していなかった。
 現在の時刻がおよそ五時半だから、五時ごろには夕飯の仕度を始める圓東にしては遅れ気味だ。
 とはいえ、細工師バドの工房に正式な弟子として入ったばかりなのだ、新米の下っ端が夕食の仕度があるとかそんな理由で、師匠を置いてさっさと帰るわけには行くまい。
 バドの小物屋は大層繁盛していると聞いたから、その応対や店の後片付けに追われているのかもしれない。
 金村の方は恐らく、飛鳥直属の下僕騎士たちとともに訓練に励んでいるのだろう。
 あまり嬉しくはないが、飛鳥の護衛官として勤めることが決まったときの金村の喜びようといったら護衛対象の飛鳥が引くほどで(といっても無表情だったが)、それを鑑みるに、鍛錬にも相当力を入れているだろうと予測されるからだ。
「……なんだ、だったらこんなに早く帰って来なくてもよかったんじゃないか。時間があるなら夕市に寄ってきたのに……すごく損した気分だ」
 つぶやき、ひとつ溜め息をついた飛鳥だったが、
「あぁ、そうだ、だったら今のうちに課題を提出しに行って来よう。そしたら早く採点してもらえる」
 シュプラーヘ博士に出されたいくつかの課題、もしくは宿題とでも言うべきそれを渡しに行こうと思いついた。根がせっかちなので、出来たものは端から見てもらいたいのだ。
 自室に置くべきか迷ったものの、一旦泥を落とした方がいいだろうということで、リビングのガラステーブルの上にキノコを置き、そのまま自分の部屋に戻ると、いくつかの紙束を抱えて再度居宅を出てゆく。
 どうせすぐに戻ってくるんだからいいだろう、という意識があったのも事実だ。

 ――それがあだとなった、と、後々飛鳥は溜め息したものだ。
 意図せず騒動の発端になるなど、彼の望むところではなかったのだが。

 飛鳥が居宅を出て行った数分後、バタバタといううるさい足音とともに、圓東鏡介が大慌てで戻ってきた。
「うわー、遅くなっちゃった……! アニキ、ハラ減ったっしょ、ごめ……あ、あれ?」
 大いに焦っていた鏡介だったが、部屋に灯が入っていないことに気づいて首を傾げた。
「まだ出かけてるのかな……? そういや金村のアニキは訓練があるから遅くなるかもって言ってたっけ。よかった、急いでメシ作ろう」
 ふたりの兄貴分を待たせずに済んだことに安堵しつつ、光霊石と呼ばれる発光物質をふたつずつ、あちこちに設置されたランプに放り込んで部屋を明るくした鏡介は、リビングと呼び習わしている一角に据えつけられたガラステーブルの上に、こんもりとしたキノコの山が置いてあったのでまた首を傾げた。
「あれ、黒瑪瑙茸じゃん。なんでこんなとこに? アニキ、夕市にでも行って来たのかな。台所に置いといてくれればいいのに……。まぁいいや、これで野菜炒めでも作ろう」
 言って、鏡介はキノコの山を持ち上げた。
 しっとりしたきめの細かい手触りと、カサのツヤのよさが、キノコの新鮮さを教えてくれる。
「えーと、じゃあ今日は、全粒粉の薄焼きパンと、子羊肉のシチューと、黒瑪瑙茸と季節の野菜の炒め物って感じかな。あ、王様にもらったチーズも早めに食べないとなー」
 脳裏に今夜の献立とそのもっとも手際のよい調理方法を描きつつ、鏡介は賄い場へと向かった。
 ものを作ることでのみ発露される、圓東鏡介という人間のアイデンティティと、ものを作ることにのみ向かう、生きることへの喜び、その双方をいちどきに感じられるこの日々に、言葉ではなく感謝する。
 しかもそれが、自分の大切な人たちの役に立てるとなれば尚更嬉しい。
「さー、今日も美味いメシを作るぞっ!」
 賄い用のナイフを手に、ガッツポーズとともに宣言し、鏡介は食材との格闘に取りかかった。
 ふたりの兄貴分に満足してもらうために。

 ――調理の喜びに逸る鏡介は、気づかなかった。
 確かに飛鳥は、今まであのガラステーブルに、森や河川から持ち帰った様々なものを置いていた。ガラステーブルを、様々な鉱石や植物などを自室に持ち込む前の、ちょっとした置き場所として使っていた。
 しかし彼は、あのガラステーブルに、食材となるものを置いたことはないのだ、一度たりと。

 もしも鏡介がそのことを知っていたら、この一連の、馬鹿馬鹿しくも本人たちにとっては深刻な騒動は、起こらずに済んだのだが。

 飛鳥が帰って来たのはそこから一時間半が経過してからのことだった。
 本当は、『宿題』の添削が終わったらすぐに帰るつもりだったのだが、シュプラーヘ博士が更なる『宿題』を与えるのとほぼ同時に生まれたばかりの孫の自慢を始めてしまい、それにつき合っていたら一時間半も居座る羽目になったのだ。
 薄情を地で行く、興味のない話になど耳を貸しもしない飛鳥ではあるが、あんなに嬉しそうなのを無下にするのも可哀相だ、などと思ってしまったもので――何せ、飛鳥は基本的に老人と子供には甘い――帰るに帰れなくなり、それだけの時間がかかってしまった。
 益体もない爺馬鹿話が一時間半で済んだのも、博士の秘書官を務める女性が、どうやってこの場から巧く退室すべきかを真剣に思案している飛鳥を見るに見かねて止めてくれたお陰なので、下手をすると二三時間はかかっていたかもしれない。
 そんなわけで、すっかり暗くなった王城の廊下を早足に歩き、居宅に辿り着いたのは午後七時過ぎだった。
 いつまでも待つのも面倒だし待たれるのも億劫だということで、三人のうちふたりがそろった時点で食事を始めるのが彼らのルールだ。恐らくもう夕食は始まっていることだろう。
 もっとも、食べる絶対量が少ない飛鳥にとって、多少開始が遅れたところでどうということはないのだが。よく食べる分、飛鳥より先に食べ始めた圓東が一番最後まで食べている、ということも多いくらいだ。
「すまん、遅くなっ……」
 食堂代わりに使っている、階段傍のテーブルへと向かった飛鳥の言葉が途中で途切れたのは、
「……そのキノコ、もしかして」
 テーブルの上でほかほかと湯気を立てている色鮮やかな野菜炒めの中に、先刻手ずから摘んだ、食用かどうかどころか名前さえ定かではないキノコの姿があったからだ。
 半ば確信を込めて入口横手のリビングを見遣っても、置いておいたはずのキノコはない。
 それは俺が採って来た正体不明のキノコであって黒瑪瑙茸じゃない、と飛鳥が言うよりも早く、箸を手にした金村が、そのキノコを色とりどりの野菜と一緒に口元へ運んだ。止める暇もなかった。
 飛鳥はそれをなすすべもなく――というのは誇張だが――見届け、ひとつ溜め息をついてから金村に声をかけた。
「……金村」
「ん、どうした、若」
「味はどうだ? 何か、変なところは?」
「いや……? 普通に美味いが。何故だ?」
「……それな」
「ああ」
「さっき俺が採って来たんだ」
「山菜取りか?」
「違う。実験用にだ。だから、食べられるキノコなのかどうかはっきりしない」
「えっ、これ黒瑪瑙茸じゃないの?」
「黒瑪瑙茸にしてはカサが開きすぎだし、色合いもちょっと違うだろう」
「いやそんな細かいこと判んないよ。おれ、てっきりそうだと思って使っちゃったんだけど……ど、どうしよう毒キノコだったら。毒消しハーブってキノコにも効くのかな……。ごめん金村のアニキ、変なもの食わせて。気分とか、悪くない?」
「いや、多分大丈夫だと思う」
「? 何故そう思うんだ、金村」
「ああ……精霊がな、危ねぇともやめろとも言わなかったからな。むしろ楽しそうにしてたから、悪いモンじゃねぇと思うぞ、俺は」
「……何だって?」
「ん、いや、何でもねぇ。まぁ、何かあるようならすぐハイリヒトゥームにでも頼んで毒を消してもらうさ、心配するな。それに、毒を持たないキノコかもしれねぇからな」
 ごくごく淡々と、キノコで人が死ぬこともあるという事実を知らぬわけでもなかろうに、毒キノコなど屁でもないといった風情で金村が言い、それから飛鳥にソファを勧めた。
「そんなわけだ、若。明日も早いんだろう、俺のことなんかにかまけてねぇで、若も早めに飯を食ってくれ」
「……ふむ、まぁ、いいか。誰かさんの早とちりのお陰で大惨事になる可能性もあるが、何かあったらその時はその時だ、適切に処置をしよう。とりあえず圓東、お前はやめておけよ、例え金村が平気でも、お前みたいなへなちょこはすぐにでも死ぬかもしれん」
「あっ、なんか言葉の隅々に厭味が込められてる気が……!?」
「気が、じゃない。事実だこの唐変木」
「くううっ、確かに悪いのはおれなんだけど……ッ」
 男泣きに泣く仕草をする圓東を尻目に、飛鳥はソファへと腰かけた。
 その間に、まったくもって冷静かつ暢気な金村が、賄い場から飛鳥の分の薄焼きパンと子羊肉のシチューを持ってきてくれる。
 決して大食漢ではない金村の半分、圓東の五分の一以下の量しかない夕食ではあったが、こんがり焼けたかたちのいい薄焼きパンと、色艶のよい羊肉と色の濃い、新鮮そのものといった野菜がたっぷり入ったシチューは、確かに飛鳥の食欲を刺激した。
 そのことを、稀有と思う飛鳥である。
「若は、明日は何があるんだ?」
 飛鳥が、千切ったパンをシチューに浸してから口に放り込み、咀嚼していると、立ち直ったらしい圓東が切り分けて持って来たチーズをつまみながら金村が問うてきたので、飛鳥はちょっと考える仕草をしてから口を開いた。
「午前中いっぱいはシュプラーヘ博士のところで古代語の勉強をして、午後からは騎士団長閣下と剣の稽古かな。時間が余ったらレイの仕事を見学に行くつもりだ。あんたは?」
「俺はイースとノーヴァと稽古をしてから、ふたりと一緒に城内の見回りだろうな。あとは乗馬の訓練か」
「ああ、いいな乗馬。俺も今度訓練したいって主張してみようかな」
「確かに、馬はいい。あいつらの目を見ていると心が安らぐ気がする」
「だな。で、圓東はバド爺さんのところだな。どうだ、調子は」
「え、あ、うん。今日、おれが作った根付が売れたんだー。すっげ嬉しかった。だから明日も頑張るよ。んで、いつかはアニキと金村のアニキになんかプレゼントするね」
「そうか、そりゃ楽しみだ」
「まぁ、そこまで言うならもらってやろう。精々励め、バド爺さんの厚情に報いられるよう、お前が満足行くまでな」
「……うん」
 どこまでも偉そうな、ぞんざいで横柄な飛鳥の物言いに、しかし圓東ははにかんだように、ひどく嬉しげに笑った。
 飛鳥がそこに感じるのは、自分の好きなこと、得意なことで認められることへの喜びと、自分の存在意義や価値を見出すことが出来たものだけが持ち得る至福だ。
 飛鳥はそれを少し羨ましくも思い、同時に、このどうにも手のかかる眷族が、幸いという境地へたどり着けたことを喜ばしく思うのだ。
「まぁいい、ポチにつきあってる時間はないんだ。とっとと食って風呂に入って寝るぞ、俺は」
 無論、そんなことをあっけらかんと言葉にしてやるほど素直でも優しくもない飛鳥は、さっさと自分の栄養摂取に取りかかってしまったが、心のどこかでは、言葉にしなくとも伝わっているだろうと信じてもいた。

 変化は次の日、もろに訪れた。
 その日、飛鳥は四時前に起きて事典と格闘していた。
 知識欲が生命の三大欲求を凌駕する、とは金村に言われたことだが、事実、飛鳥の知ることへの欲求は深く、それは途切れるところを知らない。
 昨夜、早めに床に就いたはいいのだが、キノコのことが気になって仕方なかったので、いつもより一時間ほど早く起きたのだ。
 それで、二時間ばかり古代文字と格闘し、この、黒瑪瑙茸とよく似たキノコを調べていたのだが、リィンクローヴァやソル=ダートの動植物を網羅している(らしい)金剛花大事典にも、黒瑪瑙茸と似たキノコの記述はなかなか見つからなかった。
 探し方が悪いのかと何度も調べているのだが、どうにも見当たらないのだ。
 そこから更に一時間が経過し、今度はリビングで本を開いていると、トレーニングから帰ってきたらしい圓東がひょこっと顔を覗かせた。
「うあ、アニキ、おはよー。今日も早いねー……って、何その本。でかっ」
「恐らくお前には生涯縁がないだろう類いの本だ。――縁があるとしたらこれで撲殺されるくらいのものだろうな」
「うわー、聞くだけで痛そう。そんな死に方絶対嫌です先生」
「誰が先生だ。トレーニングは終わったのか」
「うん。疲れたー、喉渇いたー」
「だが、始めた当初に比べたら相当ましになったな。あのプログラムでそれだけしゃんとしてるなら悪くない。ま、頑張ってるお前に免じて茶くらい俺が淹れてやろう、そこで休んでろ」
「え、ほんと? やった、ラッキー」
 タオル状の拭き布で汗を拭き拭き圓東が破顔し、飛鳥は肩をすくめて賄い場へ入る。
 必要ないという理由で調理その他には関わらない飛鳥だが、実際には恐ろしく器用だし、一度見たものは二度と忘れない、便利で難儀な記憶力のお陰で、何をどうすれば料理が出来るのかはきちんと理解している。
 お茶に関してもその記憶力は発揮されていて、白磁のティーポットに茶葉を入れた飛鳥は、かまどで沸かした湯をまずティーカップに注いでから、カップが充分に温まったあとポットにも湯を注いだ。
 葉っぱを蒸らしたあと、湯を一気に注ぎ入れると、なんとも華やかな芳香が立ちのぼり、飛鳥の鼻腔をくすぐる。
「いい葉っぱだな、これ。……ああ、ハイルがくれたヤツか」
 鈴蘭と柑橘を足して二で割ったような、甘くて爽やかなその香りを楽しみながら、温まったティーカップにお茶を注ぐ。お茶はやわらかな薄紅色をしていた。
「……上出来だ」
 自画自賛とともにカップをソーサーに載せ、リビングへと戻ると、圓東が物珍しげに事典を観ていた。意思疎通の魔法をもらっているとはいえ、日常言語ではない古代の言葉が理解できるわけではないので、絵や図を見ているだけだろうが、精緻かつ正確なそれらを見ているだけでも楽しいだろうとは思う。
「入ったぞ、圓東」
「んあ、ありがとアニキ。一休みしたら朝飯作るね」
「ああ、まぁゆっくりやれ」
 目元を和ませてティーセットを受け取って、中の液体にふうふうと息を吹きかけ、やがてゆっくりと口をつけた圓東が、
「うん、美味しい。アニキはこんなことまで上手なんだから、すごいよなぁ」
 にこっと笑って言ったので、飛鳥は肩をすくめた。
「お前の淹れ方を真似ただけだ」
「真似できちゃうとこがすごいよ」
「……そういうもんか」
 圓東の物言いに対して、飛鳥はまた肩をすくめただけだったが、圓東はどことなく嬉しそうにお茶を啜っていた。
 そこへ、完璧に身なりを整えた金村が二階から降りてくる。
 濃い、明るい茶色に白い糸で蔦の縫い取りがされたサーコートと灰色のシャツを身にまとい、腰には黒い革のベルト、そして黒いしっかりした脚衣(ズボン)とこげ茶色のブーツで足元を固めている。
 出かけるときには、更に腰に剣が佩かれることとなる。
 きちんとまとめられた赤い髪といい、綺麗に手入れされた髭といい、衣装や立ち居振る舞いの秀麗さとあいまって、金村のその姿は、生まれたときから騎士で、剣士だったと言われても信じてしまうだろう程度にはこの世界に馴染んでいる。
 足取りは確かで、一片の揺らぎもなかった。
 ではキノコは無害なものだったのかと――といっても、一週間十日経ってから急に毒素を出すキノコも存在するので、まだ油断は出来ないが――、ひとまず安堵していた飛鳥だったが、
「あ、おはよう金村のアニキ」
「ああ、おはよう。今日は早ぇんだなマイハニー」
「ま゛……ッ!?」
 素っ頓狂な声とともに圓東が茶を噴いたため、それを被りそうになってものすごい渋面を作った。
 無論圓東ごとき(酷)の噴いた液体を素直に被ってやるほど鈍くもないが、お陰で綺麗な絨毯がちょっと濡れてしまったのも事実だ。
「お前……」
 飛鳥が睨み据えると、圓東は咳き込みながら首をぶんぶんと横に振った。
「い゛、いや、だって……!」
「だって、何だ。圓東汁で俺を侵食でもするつもりだったのか。俺の高尚な脳味噌が圓東菌で死滅したらどう賠償する気だ。むしろ、存在を賭けた殺し合いならいつでも受けて立つぞ?」
「うあああああ、何でそんなおおごとにッ! いや、そうじゃなくて! 金村のアニキ、今なんかすっげー変なこと言わなかった!?」
「ん、そうか?」
「はあ? お前、自分の落ち度を金村の所為にするとか、ありえない駄目人間ぶりだぞ」
「いいいいいいやそんなんじゃないって絶対! 絶対今の空耳じゃないから! 金村のアニキ、なんか言ってみてよ、ためしに」
「そうだな、今日も世界は美しいぞ、まるでお前のようだマイハニー」
「うひぃいいいっ!」
 ちょっと見には強面の男前としか思えない鋭い眼差しに真直ぐに見つめられ、真顔のままうそ寒い賛辞を向けられて、圓東が身も凍るような悲鳴を上げる。よっぽど驚いたのだろう、ものすごい勢いで窓辺まで逃げていた。
「……金村。どうかしたのか」
 先日、さる貴い血筋の姫君、ものすごい美女に告白されたときでさえ表情ひとつ動かさず、歯の根の浮くような言葉など欠片も言わなかった朴念仁が――ちなみに、玉砕したに均しいその姫君は、それでもまだ金村を虎視眈々と狙っていると聞く――、唐突に恐ろしい口説き文句を吐いたことを訝しみ、飛鳥が声をかけると、金村は小さく首を傾げた。
「いや、別に何でもねぇぞ。いつも通り、普通だ。一体何を驚いてるんだろうな、あのスイートハートは」
「ほぎゃああああああっ!!」
「……待て、やっぱりなんかおかしいぞあんた」
 更なる殺し文句にものすごい悲鳴を上げた圓東は、絨毯の下に隠れんばかりの勢いでガタガタ震えていたが、金村本人は自分の物言いを奇妙とは思っていないようだった。無意識に出ている言葉なのかもしれない。
 ちょっとこっち来い、と手招きして、目や皮膚の調子を確かめたが特に変わったところはない。強いて言うなら、妙に人を惹きつけるオーラを発散しているような気がしたくらいだろうか。
 はて、と飛鳥が首を傾げていると、居宅のドアがノックされ、いつも洗濯や掃除を手伝ってくれている侍女たちが顔を覗かせた。
 飛鳥たちは自分ですると言ったし、レーヴェリヒトたちに命令されたわけでもないのだが、ありがたいことに、彼女ら自身の意志と好意で、不慣れな三人を手伝いにきてくれているのだ。
 今朝来てくれたのは、二十代前半から半ばと思しき三人の娘たちだった。飛鳥も何度か顔をあわせている相手だ。
「朝早くに申し訳ありません。お洗濯もの、ありませんか? おいやでなければ、あたしたち、洗っておきますから」
「あと、よかったらお掃除もしておきますから、言ってください」
「それからこれ、料理長から分けてもらってきました。黄金柑のジャムです、よかったら使ってください」
 娘たちの言葉に、ガタガタ震えていた圓東がようやく立ち直り、何かを言おうと口を開きかけるよりも早く、
「ああ、いつもすまねぇな」
 びっくりするほどはっきりと微笑んだ金村が、長衣の裾を翻して娘たちへと歩み寄ったので、飛鳥は成り行きを見守るべく押し黙った。
「あ、ユージンさま」
 金村を見上げる娘たちの頬に朱が差す。
 口数が多いわけでも愛想がいいわけでもないが、侍女や侍従たちの仕事を手伝うことも、馬鹿な貴族たちから難癖をつけられて困っている人々に手を差し伸べてやることも多い元ヤクザは、現在、国王陛下の客人三人の中でもっとももてていた。
 男女関わりなく、というのはこういう時代、文化によるものだろうが、何にせよ、国王陛下や大公家の面々ほど浮き世離れした美形ではないものの、確実に人目を惹く男前ぶりと、気は優しくて力持ち、を地で行くその性質が、城の人々の心を捕らえていることは間違いない。
 現に、ここへ手伝いに来るようになった当初は、金村の目つきの鋭さを恐れていた風情のあるこの娘たちも、今では熱っぽい目で彼を見つめるようになっている。
 そんなわけで、近寄ってきた金村に対して、若い侍女たちが目を輝かせたのは当然だったが、
「あんたたちみてぇな、綺麗で働き者の女たちがいるリィンクローヴァ王城は幸せだな。それをこうして間近に観られる俺たちも幸せ者だ」
 ――などと金村が言い出すとは、誰ひとりとして想像しなかっただろう。
 基本的に、気はいいし進んで他者の手伝いはしても、気遣いや感謝を含んだ短い言葉を口にする程度で、それほど喋る男ではないのだ。
「額に汗して働く女は美しいな。こうして観てるだけで心が躍るようだ」
 そのことは彼に憧れる人々も知っていただろうが、それだけに相当な衝撃だったらしく、娘たちの頬が真赤になる。それから彼女らの色とりどりの目に、驚きと歓喜の光がゆれた。
「ユージンさま、そんな……」
「やだ、恥ずかしいわ」
「でもすごく嬉しい」
「ええと、じゃあ、ひとまずお洗濯ものだけいただいていきますねっ。行こ、アレイア、ユーミア」
「ええ、ファーティナ」
「どうしよう、皆に自慢しなきゃ」
「ほんと、ほんと!」
 頬を赤く染めたまま、きゃわきゃわと笑いさんざめいた娘たちが、大して多くもない洗濯物を手に姿を消した後、飛鳥は顔をしかめて金村を見遣った。
 娘たちは単純に喜んでいたが、いくらなんでもおかしすぎる。
「……なんなんだ、一体。妙なもんでも食っ……あ」
「ま、まさか」
 食った、で脳裏に浮かんだのは昨夜のあれだ。実際、思い当たるものといえばそれしかなく、飛鳥はまたしても渋面になった。
「あのキノコ、か?」
「いや、ででででもッ。そんな変なキノコ、あるもんなの!?」
「地球にだって、食うと真紅の夢が見られるサボテンがあるくらいだ、世の中まだまだ広いわけだしな、珍妙な成分を持ったキノコくらいあってもおかしくないだろう。というか、そうでなきゃアレの説明がつかん」
「だ、だけど……だったら、どうやったら元に戻るんだろ、金村のアニキ。おれあんな変な金村のアニキ怖いんですけど……っ」
「知らん。まぁ、見てる分には面白いから俺は構わんぞ。とりあえずお前が矢面に立っておけよ、責任は取らないとな」
「えええええ、お、おれですかッ!?」
「……おとなしく金村の相手をするか、俺に穴が空くまで頭蓋骨を刺激されるかどちらがいい?」
「ええと、あの、ど、どっちもいやなんだけど、まだ前者の方がマシ、なのかな……ッ!?」
「そういうことだ。じゃあ、そろそろ俺は出かけるぞ、あいつの面倒、しっかり見ろよ」
「って、お、おれも仕事……!」
「知るか。お前の仕事より俺の都合だ、全うしろ」
「ううう、うううううっ」
 真剣に泣きそうになっている圓東を見棄て、飛鳥はさっさと立ち上がった。飛鳥にとって、飛鳥の意志や思惑や都合以上に大切なものはないのだ。物理的な害がないなら、飛鳥が出張るまでもない。
「若、でかけるのか」
「昨日言った通りだ」
「そうか、気をつけて行ってきてくれ」
「ああ」
 金村の、飛鳥に対しては特に変化のない、あまり抑揚のない静かな声を背後に受けつつ、居宅を後にする。
 実際、命に関わらない変化、症状なら、しばらく様子を観るしかない、というのが飛鳥の認識だった。

 一週間経っても金村は元に戻らなかった。
「ううう、お、おれもう駄目ですアニキ……ッ。昨日は貴族のお姫様三人が鉢合わせですよ。誰が一番金村のアニキに好かれてるかで取っ組み合いの大喧嘩が始まるとこだよ!」
 それどころか、他者を魅了する、妙に心を揺さぶる物言いで、恐ろしい数の信望者をこしらえていた。
 一番彼らと関わることの多い侍女や侍従たちを始めとして、稽古途中に行き逢った騎士たちや、王城に出入りする下級役人たち、果ては貴族の若君姫君まで、恐らく三桁にのぼる数の人々が、金村勇仁に骨抜きにされてしまっているのだ。
 男も女も老いも若きも、金村がわずかに唇を笑みのかたちにし、二言三言甘い言葉をささやくだけで、誰もが頬を赤らめ、とろけそうに幸せな顔をするのだが、そこで紡がれる言葉の金村らしくなさといったら、傍で一言一句聞いていた圓東が窒息死寸前の表情で頭をかきむしったほどだ。
「……確かにアレはすごかったな。このままいくと人死にすら出そうだ。明日になっても元に戻ってなかったら医者かハイルに見せるか」
「そんなのんきな! お姫さんたちの間に入って場を取り持つおれの身にもなってよ! 絶対金村のアニキの代わりに刺されるって、おれ!」
「知るか。元はといえばお前が俺に尋ねもせずアレを食わせるからだろうが」
「そ、それはそうなんだけど……ッ」
 圓東が半泣きなのは、あまりの熱烈な愛されぶりからも判るように、金村の寵を競って諍いまで起きているらしく、彼はその調停に身を細らせているのである。
「というかやっぱりあのキノコ、新種だったみたいだぞ。どこを調べても出てこない」
「そ、そうなんだ……。じゃあ、アニキが第一発見者?」
「まぁ、そういう概念がこの世界にあるとしたらな。ちなみにお前だったらなんて名前をつける、あのキノコ」
「ええー……そりゃ、タラシ茸(たけ)でしょ。アニキは?」
「概ね同じだな。俺ならジゴロ茸にする」
「あの症状って、誰でも出るものなのかなぁ。アニキとか、おれでも」
「さあな。というかお前、食ってみたいか?」
「か、勘弁……」
「俺もだ」
 しかし、それがたとえキノコの中毒による一種の発作だとしても、出自のはっきりしない、得体の知れない新参者に批判的だった上級貴族の姫君をほんの数分で陥落させたその手管には驚くばかりだ。
 そもそも、確かに人目を惹きやすい男ではあったが。
 くだんの姫君は、次の日には高級劇場の観劇チケットを持ってここへ現れ、少し照れながらも金村をいわゆるデートに誘ったものだ。
 金村は忙しいからと断ってしまったが、姫君は諦める様子もなく、今日も色とりどりの花と美しい贈り物を持ってドアを叩いてくれた。普通そういうのは男がやることじゃないか、と飛鳥が思ったのは内緒だ。
 それほどの人気ぶりであり、変貌ぶりなのだが、飛鳥に接する金村はごくごく普通で、特に変わったところも見受けられなかったので、自分に害がなければいい、という鬼のような所業によって金村の治療は捨て置かれていた。
 何せ、飛鳥は忙しいのだ。

 飛鳥が動いたのは――というか、動かざるを得なくなったのは――、その日の夜の一幕ゆえだ。
 その時飛鳥は、リビングのソファに腰かけて、例に漏れず本を読んでいた。
 シュプラーヘ博士の指導のお陰で、ちょっとずつではあるが確実に古代語が読めるようになってきたので、まさに喜び勇んで、簡単な古代語の書物を読み漁っていたのだ。
 今飛鳥が読んでいるのは、日本における記紀神話のような、国の成り立ちの根本とも言える、多分に幻想的な色合いを含んだ伝記の一種だったが、判りやすい言葉で書かれているところを見ると、貴族や神官の子供たちが古代語を学ぶための易しいテキストの類いなのかもしれない。
 なんにせよそれは興味深く面白く、飛鳥は時間を忘れて読み耽っていたのだが、ふと視線を感じて顔を上げると、いつの間にか金村がいて、飛鳥をじっと見つめていた。
 眼差しは静かで、理知的だったが、金村がそんなに凝視してくる理由が判らず、飛鳥は眉を寄せる。
「……どうした、金村」
 すると最近すっかり女泣かせ及び女タラシの二ツ名が定着している元ヤクザは、いや、と静かに前置きして、
「若はいつ見ても美しいな」
 などとごくごく真顔でのたまった。
「……」
 そのときの飛鳥の胸中は、言葉では言い表せないほどだ。
 氷点下の嵐が吹き荒れたと言って過言ではない。
 金村以上の無表情、鉄面皮のお陰で面にこそ出なかったものの、内心恐ろしく引いた。この世の果てまで後ずさりたい気持ちになった。
 気力の類いを根こそぎにされそうな殺し文句に、本をテーブルに置いた飛鳥が、眉間を押さえて黙っていると、
「その姿勢や生き方や心のありよう、どれを取っても若以上の人間はいねぇ。俺は、そんな若に仕えられて心底幸せだと思う」
 やはり真顔で、常日頃より心持ち真剣な声で、金村が言葉を重ねてくる。
 飛鳥は溜め息をついて立ち上がった。
 ついに自分にも来たか、というのが正直な気持ちだ。
「金村」
「ん、どうした?」
「しばらく目を閉じてろ」
「……?」
「いいから、早く」
「ああ、判った」
 飛鳥の言葉には絶対服従の節がある金村が、彼の言うとおり目を閉じたので、飛鳥はもう一度溜め息をついたのち、金村の背後に回り込んだ。
 そして、金村の首筋を、手刀で軽く一撃する。
 素晴らしく的確なそれに、飛鳥がなにをしようとしていたか気づくよしもない金村が声もなく――もっとも、気づいていたとしても黙って受け入れただろうが――昏倒したのを見届けて、飛鳥はその硬くて筋張った身体をひょいと担ぎ上げた。
「圓東! ハイルを呼んで来い!」
 それから、声高に圓東を呼びつける。
 主人の元に馳せ参じる柴犬さながらに駆けつけた圓東は、飛鳥に担がれた金村を見てすべてを理解したらしかった。少し、恨めしげな顔になる。
「アニキ、自分になんかあってようやく行動起こしただろ」
 対する飛鳥は涼しげだ。
「何か問題が?」
「……いえ、何もないです……。じゃあ、とりあえずハイルさん呼んで来る。ええと、金村のアニキの部屋?」
「だろうな」
「了解です。んじゃ行って来るね」
 言った圓東が居宅から駆け出してゆくのを見送って、飛鳥はもう一度溜め息をついた。
「……結局、騒動の根本は俺か? なんか、ものすごく不名誉だが、自業自得って言葉が脳裏をよぎったぞ……」
 それから、金村の身体を担ぎ直し、二階へと向かう。
 賢者たるハイリヒトゥームは優秀な医師でもある、きっと、すぐに解決策を見出してくれることだろう。
 怪しい言動も多い、完全に味方なのかどうかも疑わしい魔導師ではあるが、このときばかりは、彼の到着と助力を切に願う飛鳥だった。

 次の日、目を覚ました金村はしきりと首をかしげていた。
 ハイリヒトゥームが煎じた薬湯が効いたのか、圓東を前にしても、心臓直撃級の殺し文句を口にすることはなくなっていた。
 ただ、ひどく訝しげな、なんとも納得の行かない表情で、飛鳥に問うただけだ。
「……若」
「なんだ」
「ひとつ尋ねてぇんだが」
「ああ、どうした」
「若が第五天軍の見学に行ったのは昨日だったか?」
「九日前だ」
「……そうか。なら、俺の記憶は八日分途切れてることになるな。何かあったかな」
「ああ、覚えてないのか。あんたは八日前、急に熱を出して寝込んだんだよ。どこかで妙な菌でも拾ったらしくてな」
「そうだったのか」
「たちの悪いヤツだったのか、なかなか目を覚まさないから心配していたんだが、治ったみたいでよかったな。ま、特に何も起きてない、気にするな」
「……そうか、判った。ありがとう」
「礼を言われるようなことでもないな」
 この八日間の出来事を、初めからなかったことにしてしまおうという飛鳥の目論見に、金村はあっさり騙されたようだった。まだ多少首を傾げているものの、飛鳥が嘘を言うはずがないと思っているのだろう、飛鳥の用意した嘘過去を受け入れたようだ。
 もっとも、記憶がまったく残っていないのに、お前はこの八日間で歯が浮くような甘い台詞を吐きまくり、あちこちにものすごい数のファンを作ったんだ、などと言われても、かえって混乱するだけだろうが。
 熱烈な金村信望者たちには、階段から落ちて頭を打ち、ここ数日の記憶をなくしたと伝えてある。彼女らは、元に戻ってしまった彼に寂しい思いをするかもしれないが、飛鳥には自分の都合の方が大事だ、間違いなく。
 これで一件落着だ、などと思っていた飛鳥だったが、
「おはようございます、アスカ!」
 元気いっぱい、はちきれんばかりの喜びの含まれた声とともに居宅へ飛び込んできた下僕騎士の片割れノーヴァが、
「見てください、アスカ! 城のね、すみっこの方に生えてたんですよ。綺麗じゃないですか?」
 などと言いつつ、エメラルドグリーン色の、透き通ったキノコの群れを差し出したので、黙ったまま晴れやかに笑った。
 そして、ゆっくり立ち上がると、飛鳥がはっきり笑うことはイコール不吉なのだと徐々に理解しつつあるノーヴァが、壮絶に腰の引けた風情で後退するのへ歩み寄る。
「あ、あれ? どうしたんですか、アス……ええと、あの……ぎ、ぎゃー!」
 ――そんなわけで、昨日の今日で怪しいキノコなど持ち込んだノーヴァの首を、晴れやかに黒い笑顔のまま飛鳥が絞めにかかったのは、ごくごく当然のことだった。