第一話 ソラさんと俺

 フラワーガーデン・ミソノは今日も色々と忙しい。
 何せ九月の五連休中なので、どこかへ出かけて行こうという人たちが、次から次へと花を買いに来る。
 花を買おうと思うってことは、ちょっと景気が上向いてきたから、っていうのもあるんだろうけど、特に、この辺りはちょっとお金持ちの人たちが住む地域みたいだしね。
 いやまぁ俺だったらこの店まるごと買えるけど。
 あ、まるごとは言い過ぎかな、ごめん。
 とかなんとか、誰かに謝ってから、俺は、切花がたくさん入った大きなバケツを抱えたまま、店先でくるくると立ち働いている女の人を呼んだ。
「ソラさんソラさん、このトルコ桔梗どこに置いたらいい?」
 ちなみにトルコ桔梗っていうのは、ユーストマとも呼ばれるリンドウ科の花で、逆釣鐘型の、優雅なフレアースカートをさかさまにしたみたいなかたちの綺麗な花だ。一重で、花びらの先端のほんの少しが紫だったりピンクだったりするのが基本らしいけど、最近では八重咲きの全面ピンク色なんかが人気品種らしい。
 一年を通して、大抵どこの花屋さんにも売ってるから、たぶん誰でも見たら判るんじゃないだろーか。
 といっても、俺だって、フラワーガーデン・ミソノでアルバイトをするまでは、花について詳しくなんかなかったんだけど。
 三ヶ月もあれば人間変わるってことだ。
「あと、こっちの仏花のバケツ、外に出しといた方がいいかな?」
 俺が言うと、身なりのいい老婦人につり銭を手渡し終わり、じゃあまた薔薇をいただきに来るわね、と上品に笑った彼女が去っていくのを見送ってから、ようやく女の人はこちらを振り向いた。
「あー……どうかな。まぁ、これからお参り行く人もいるやろし、菊系の仏花と榊は表の方に出しとこか。言うてもあと一時間半やし、そんな量は要らんかもな。あ、トルコ桔梗はそっちの隅でええで」
 ちょっとハスキーな、でも何か聴いてるとホッとするような声に、俺は笑顔で頷く。テレビで聴いたことしかなかった関西弁も、彼女の口から出るとすごく親しみを感じるから不思議だ。
「んじゃ俺仏花出しとく。ソラさん榊でいい?」
「ん、ああ、判った」
 時刻は午後三時三十分。
 ちょうど客足も途切れて、周囲は急に静かになった。
 俺は小振りの菊を束にした、お墓参り用の花束を表通りに出しながら、榊の小さな束を並べている彼女の横顔をこっそり盗み見た。
 意志の強そうな眉と、これから冒険旅行に出かける少年みたいに――我ながらくさい表現だと思うけど、それ以上に巧い言い方を思いつかない――きらきら輝く眼、よく日焼けしてるのにきめが細かくて綺麗な肌。肩くらいまでの長さの髪は、鋼みたいな光を放つ黒で、今は前髪だけをまとめてピンで留めている。
 背は低くない。
 165cmって言ってたから、女の人にしてはわりと高い方、かな?
 背筋がぴんと伸びてて、俺みたいな素人でもああこの人隙がないんだな、って判るような空気感を醸し出してる。ああこの人と喧嘩しても勝てないだろうな、って思う。……実際俺、この前腕相撲で負けたし。
 彼女は独特の雰囲気を持った人だ。
 なんだろう……昔の侍みたいな? 女の人に使う表現なのかどうかは判らないけど。
 でも、はっきりいって美人じゃない。
 醜いとか、不細工とかでもないんだけど、普通の顔、って感じ。
 化粧っ気もないし、着てる服は変わった絵の描かれたTシャツにジーンズ、それからお店のエプロンだけだし、しばらく前の俺だったら見向きもしなかったような、少なくとも全然タイプじゃないはずの顔だ。
 こんなこと面と向かって言って、石動(いするぎ)さんとか東雲(しののめ)のおじさんに聞かれようものなら、組の皆さんに全力で小突き回された挙げ句、コンクリート詰めにされて海に沈められるだろうけど。
 好みの顔じゃなかった、っていうのは、でも本当だ。
 俺は、華奢で小柄な、少女っぽい雰囲気の女の人が好きなんだよね。
 いや、涼子(りょうこ)さんは……ちょっと怖いけど……。
 ……それなのに、今は、彼女の顔を見るだけでホッとして、何か、胸の奥がじんわりあったかくなるんだから、不思議だ。
「どないした、太騎(たいき)」
 横顔をぼうっと眺めていたら、いつの間にか作業を終えたらしい彼女が、不思議そうにこちらを見ていた。
「えッ、あ、はいっ? な、なに、ソラさん」
「いや、なんやぼーっとしてるから。風邪でも引いたんか?」
「ち、違うって、ちょっと考えごとをしてただけだよ」
「ふーん。あ、判った」
 彼女がちょっと笑って頷いたので、俺はどきりとする。
「えっ、何が?」
 美人じゃないとは言ったけど、なんか彼女、笑うとすごく可愛いんだよなー。
 俺だけの意見じゃないんだけど。
 ともあれ、俺が彼女を見つめてた理由とか、気持ちがようやく伝わったのか、って、ほんの一瞬期待した俺の切ないオトコゴコロは、
「腹減ったんやろ」
 彼女の断定的な、自信ありげな一言によってあっさりと粉々になった。
「いや、ええと、あの……」
「今日は昼間も忙しかったから、昼飯もあんまちゃんと食べられへんかったしな。図体のでかい育ち盛りにはちょっとしんどかったか」
 おまけに彼女、自分の答えが間違ってるなんて思ってもみないらしく、ひとりで納得してうんうんと頷いている。
 いやそりゃお腹はちょっと減ったけど、あなたを見つめていたのはごはん作ってーって理由じゃありませんから! って言ったってたぶん無駄なんだろうなぁ……出会い方が出会い方だったし。
 俺がフゥと溜め息をついてトルコ桔梗のバケツを移動させると、彼女は明るく笑って俺の背中をばしっと叩いた。女の人とは思えない握力を持つ彼女の『ばしっ』なのでかなり痛い。
 痛いけど痛いとは言わない、言えないのが俺なりのプライドだ。
 あんまりちっぽけすぎるプライドなもんで、石動さんなんか、ヘタレにも多少の根性はあるんだな、とか言って馬鹿にするだろうなぁ。
 でも彼女は馬鹿にはしない。
 俺が持ってる色々な気持ちに気づいてくれないだけで。
 彼女は俺のいいところを見つけてくれる。
 ……だから、ここにいるとなんかホッとするのかもしれない。
「判った判った、今日の晩飯は肉多めにしたろ。もちろん、野菜もたっぷり食べてもらわな困るけどな」
「いや、だから……まぁいいや。んじゃ俺スペアリブの山賊焼きとワンタンスープがいい」
 何を言い募っても無駄な気がしてきたので、あっさり諦めて献立をリクエストする。
「さよか。ほなそこに菜っ葉と揚げの煮浸しでもつけよかな」
「あ、あの、小松菜とか水菜をくたっと煮たやつ? あれ、美味かったよね」
「はは、そりゃよかった」
 俺の家は母親が料理をしなくて、ずっと家政婦任せだったし、俺が今まで付き合ってきた女の子や女の人たちにも、料理が趣味とか、料理上手って人はいなかったから、身近な人がぱぱっと美味しい食事を作ってくれる、っていうのは、なんだか新鮮だ。
 たまに、もしかして俺は餌付けされてるんだろうか、と思う。
 ……否定は出来ないかも。
 俺が彼女の家に入り浸るのも、同じ花屋さんでアルバイトをしてるのも、彼女が作ってくれるごはんがあんまり美味しくて、あんまりあったかいからだ。
「ほなまぁ、もーちょい頑張ろか」
 言って笑った彼女が、励ますみたいに優しく俺の肩を叩いてくれる。
 見下ろしたら、中で星が輝いてるみたいな眼が、やわらかーい優しさを宿して俺を見ていた。
 たったそれだけのことなのに、急に、なんとも言えない気持ちがこみ上げて、
「……うん」
 俺は、そう返すのが精一杯だった。
 それ以上口を開いたら、彼女に抱きついて、色んなことを口走りそうだったから。

 そう。
 この人が、鍔守天(つばもり・そら)さん。
 俺より十年上の、今年で三十歳。
 俺、香野(こうの)太騎が、今、一番好きな人です。

 ……全然キモチに気づいてもらえてないどころか、男としても見てもらってないけど。
 まだまだこれからですよ、これから。