夕方六時。
 店仕舞いを終えた俺とソラさんは、夕飯の材料の買出しに来ていた。
 って言っても、俺は荷物持ち未満ですらないんだけど。
 だって俺よりソラさんの方が力持ちだし。
 店の片づけだって、俺の三倍動いてるのに疲れた顔ひとつ見せないんだもんなぁ。
 あの無限の体力はどこから湧いて出てるんだろう? って思って、尋ねてみたことがあるんだけど、そしたら、何のことはない、俺が根性なしなだけだ、って答えが返ってきて若干凹んだ。
 同じ場にいた石動さんが呆れ顔をしてたのにも凹んだ。
 俺にはライバルが多すぎる……!
 この三ヶ月で、今までにはない経験をたくさんして、今まで会話を交わしたこともなかったようなタイプの人たちとお付き合いさせていただくことになったわけだけど(意識の中でさえつい謙譲語になるのは、皆さんが怖いからに決まってる)、自分が生きてきた二十年が、どれだけ幸せでありがたいことだったかが実感できるような扱いをよく受けてるなぁと思う。
 とりあえず、両親の知り合い関係で接する人たちや、大学の友人たち、それから自宅周辺のセレブな方々からは絶対に言われないようなことを山のように浴びせかけられて、この三ヶ月でかなり強心臓になった気がする。……気がするだけかもしれないけど。
 ともあれ、俺が根性なしなのは間違いないとしても、ソラさんがびっくりするほど働き者で、ものすごい体力の持ち主だ、ってことも事実だと思うんだよね。
 ちなみにフラワーガーデン・ミソノの店長は半年前に腰をやって以降仕入れに専念しているらしく、お店には滅多に顔を出さない。
 お陰でバイト代ふんだくれるけどな、とはソラさんの言だけど、ちいさいお店とは言えそれをほぼひとりで切り盛りしてる彼女はホントすごいと思う。……俺ももう少し頑張らなきゃなぁ。
「リクエストはスペアリブの山賊焼きとワンタンスープやったか」
「うん。あ、でもいいスペアリブがあったら、でいいよ。『日によって仕入れ状況が違うのはしゃーない』だもんね」
「お、自分もだいぶ判ってきたな」
 ソラさんが眼を細めて笑い、手を伸ばして俺の頭をぐしゃぐしゃっと掻き混ぜる。
 俺はへへへと笑ってちょっと胸を張った。
 初めは髪型がーとか騒いでた俺だけど、最近はぐしゃぐしゃしてもらえるのが嬉しくて、あんまり整髪料を使わなくなった。だって、ソラさんの手が汚れたら困るじゃん。
 そういえばこの『自分』って言い方、関西弁独特の表現で、お前、とかあんた、っていう砕けた意味みたい。京言葉の涼子さんは使わないから、多分、関西弁の俗語みたいなものなんじゃないかな。
「んー、ほな、まずはキムラ屋に顔出して、それから八百秀やな」
「牛乳とヨーグルトも買うんじゃなかったっけ?」
「あ、せやった。八百秀の次はミスギに行かなあかんな」
「うん。あとソラさん、俺、今度栗ごはんが食べたいです。そろそろ季節だよね?」
「せやな。おやっさんの知り合いに山持ってる人がいるし、栗拾いにでも行くか。薩摩芋掘りにも行きたいな」
「栗拾いに芋掘りかー、俺も行っていい?」
「ああ、かまへんで」
 なんて、他愛ない会話を交わしながらアーケード下を歩く。
 ここは、ミソノから徒歩五分の位置にある商店街。
 この商店街の常連さんは、大抵ミソノの常連さんでもある。
 俺も最近は常連さんの仲間入りをしつつある……かな?
 ひとまず、いい肉を安くで買えるキムラ屋で、ソラさんが俺待望のスペアリブを買ってくれて、それから彼女は常備菜用に、って牛の切り落としを買った。細かく切って甘辛く煮付けたやつをごはんに載せると、三杯くらいお代わり出来ちゃうんだ、あれ。
 八百秀の、ねじり鉢巻のおじさんはソラさんのファンらしくて、青菜と梨を買った彼女に、もうそろそろ終わりだから売り物には出来ないし、って万願寺唐辛子をくれた。
「ソラさん、これ、切り落としのそぼろと一緒に煮たら美味しくない?」
「ああ、ええなそれ。そしたら太騎がようけ食べるやろし、一合余分に米を炊かなあかんかもな」
「そう思って母さんに頼んで新米もらってきた。明日届けるね」
「ありゃ、そら申し訳ないけど、ありがたいな。ほな、好きなだけお代わりしてや」
「うん。ソラさんの作るごはん、美味しいから、食べすぎて太らないようにしないとね」
「はは、そうやって美味い言うてもらえんのは嬉しいな」
 朗らかに笑うソラさんは、美人じゃないけど、やっぱり可愛い。
 むしろ俺は、最近、美人とか美人じゃないとか、あんまり関係なくなってる自分に気づいてる。ソラさんが強くてやさしくてカッコよくて可愛いことに比べたら、他の、綺麗とか美人とかおしゃれとか、そんな表現はどうでもいい気がしてくるから人間って単純だ。
 でも、それは多分、俺が彼女を好きだからで……それを意識すると、どうしていいか判らなくなる。
 初めて女の子と付き合ったのは中学一年の夏で、そこからもう数え切れないくらい恋をしてきたけど、今みたいな気持ちになったのは、実を言うと、生まれて初めてのことだからだ。
 唐突に抱き締めてキスしたくなったのをぐっと堪えて、お金を払ってる彼女の横顔をちらちらと盗み見ていた俺は、自分を見つめる、幾つもの熱っぽい視線に気づいていた。
 視界の隅っこで確認した限りでは、視線の主たちは四箇所くらいにいて、俺と同い年か、三つ四つ年上か年下か、その辺りの年代の女の子たちが、俺のことを見て何か言ってる。彼女らの頬が心持ち赤い理由も、俺は知ってるけど……だから何なんだろう。
 俺の外見とか、生まれとか、経済力とか、そういうものを見て俺に近づいてくる人たちと、二十年間特に何も思わずお付き合いしてきたし、俺だって彼女らに対して同じようなものにしか価値を認めてなかったんだから同類なんだけど、今はもう、そんなものはどうでもいいんだ。
「太騎、どないした、行くで」
 おまけの万願寺唐辛子をエコバッグなるビニールの手提げに仕舞い込みながら、ソラさんが俺を呼ぶ。
 それだけで、俺の意識は、彼女だけでいっぱいになる。
「なんや、腹減りすぎてしんどなったんか? 大丈夫か?」
「いや、いくら俺でもそこまでヘタレじゃないし。ちょっとね、考えごと。なんでもないよ」
「ふーん? まぁ、ええねんけど。ほな、ミスギ寄って帰ろか、早いとこスペアリブをソースに漬け込まなあかんしな」
 彼女の言葉に頷き、ソラさんと並んで歩き出す。
 少女たち、女の人たちの、嫉妬交じりの視線がソラさんに集中する。
 どういう関係? って表情だった。
 俺の十倍鋭い感覚の持ち主なんだから、視線に気づいてないはずがないのに、ソラさんは欠片も気にしていない風情で、いつも通りの飄々とした態度で、さっさとスーパーに向かって進んでいく。
 あんな女のどこがいいの。
 って、付き合ってた女の子たちからも言われたし、友達には物好きだって呆れられたけど、ソラさんのすごさ、ソラさんの優しさ、ソラさんの可愛さが判らないような連中の横槍なんか、俺にはどうでもいいことだった。
 たかだか三ヶ月で、なんで、って俺自身思う。
 ちょっと怖いくらいだ。
 だけど。
 彼女のお陰で十年以上冷え切ってた両親が初恋同士みたいな関係に戻った。
 大嫌いだった親父は、今は頼もしくてカッコいい。溜め息ばっかりだった母さんが、少女みたいに幸せそうな笑顔を浮かべるのを見て、ホッとする。
 俺は命を救ってもらったし、今も護ってもらってる。
 俺のことなんか放っておいたって何の損にもならないのに、裏返せば俺がいたって何の得にもならない、俺は彼女の『仕事』の邪魔にしかならないのに、ソラさんは俺を近くにいさせてくれる。
 ソラさんの作るごはんと、裏表のない笑顔と言葉、俺には到底真似出来ない生き様が、俺の世界に別の光を入れてくれた。
 そんな人を、どうやったら好きにならずにいられるって言うんだろう。
 それとも、彼女を好きになったから、俺の世界は変わったんだろうか。
 とかなんとか考えながら、考えたって仕方ないので今は気にしないことにして、ソラさんと並んでスーパーミスギに入り、牛乳とヨーグルトを物色するソラさんを横目に、俺はミスギの店舗内にあるケーキ屋さんに足を運んだ。
「あら、いらっしゃい太騎君。今日もソラちゃんのお供?」
 スイーツ工房 夢瑞輝(ユメミズキ)のカウンターには、ここ三ヶ月ですっかり顔馴染みになったパティシエ兼店員のお姐さんの笑顔がある。
 俺はちょっと笑って頷き、財布を出した。
 世界中のセレブが愛用してるって言う、イタリアの高級ブランド物だけど、最近の俺は、だから何? って気分になってきてるので、扱いも無造作だ。
 衣装や持ち物がその人間を創るわけじゃない。
 持ち主の中身が伴わなかったら無意味だし、無駄だし、虚しいだけだ。
 俺はそれを、この三ヶ月でいやってほど学んだ。
 これからもきっと、学んでいくんだろう。
「そっちの、葡萄が載ったケーキ、ワンホールでお願いします」
「あら、奮発するのね? 何かの記念日?」
「え、あー……うん、ソラさんに助けてもらって三ヶ月記念」
「まあ」
 お姐さんがくすっと笑った。
 ……実際、締まらない記念日だけど、まぁいいや。
 ソラさんは甘いものが大好きだ。
 自分でも、そこだけはちょっと女らしいやろ、って笑ってた。
 どう頑張っても恩なんか全部返しきれないだろうって思うから、こうやって、時々、彼女の好きなケーキを買って、ちょっとだけソラさんの幸せ顔に貢献するんだ。
 この夢瑞輝のスイーツは、お菓子を作らせても天下一品、のソラさんが唯一手放しで褒める、こんなスーパーの一角にあるのが不思議なくらい美味しいものばかりなんだよね。しかもびっくりするくらい安い。カットケーキ一個三百円前後で採算が取れてるんだろーかとか妙な心配をしちゃうくらいだ。
「ありがとうございます、千五百円になります。おまけにフィナンシェふたつ入れておいたから、ソラちゃんと一緒に食べるといいわ」
「あ、マジで? ありがとう早苗さん」
「ふふ、太騎君カッコいいから特別よ。……ソラちゃんの友達だから特別、っていうのもあるけどね」
 くすくす笑ってお姐さんが言い、俺は笑みを返してお礼を言った。
 お姐さんの特別が、俺の顔より、ソラさんの友達だ、って方に比重が傾いてることも、実は知ってる。
 ソラさんが、どれだけこの辺りの人たちにとってなくてはならない存在か、ってことの証明のような気がして、俺は嬉しくなる。
 嬉しい気持ちのままケーキの入った箱を提げてレジの方へ戻ると、ソラさんは牛乳とヨーグルト、ねぎと生姜、ワンタン皮なんかをレジ袋に詰めているところだった。
「ん、なんや、またケーキ買ってきたんか」
「うん。ソラさんに助けてもらった三ヶ月目記念ってことで、お礼に」
 俺が言うと、ソラさんは一瞬きょとんとして、それからあははと明るく笑った。
「まだそんなこと気にしてんのかいな。あれは偶然やし、自分の責任でもないんやから、そんなんせんでええのに」
「うん、ソラさんがそう言ってくれるって判ってるから、反対にそうしたいって思うだけ。……それとも、要らない? 新作の葡萄のケーキだって」
 俺が小首を傾げて箱を揺らしてみると、ソラさんはくすっと笑って俺の肩を小突いた。やっぱり痛い。
「要らんわけないやろ。ありがたくいただくわ。せや、篠崎の兄さんがくれたいい茶葉があるんやった、あれも淹れよか」
「あ、いいねそれ」
「太騎がケーキ買ってくれたし、今日の夕飯は豪華になりそうやな」
「うん、俺もう空腹MAXだよソラさん。はやくごはんにしよう」
「はいはい」
 なんだか楽しそうなソラさんと並んでスーパーを、そして商店街を出る。
 また、女性陣の視線と行き会ったけど、気にしなかった。
 いや、気にならなかった、っていうべきかな。
 なにせその時、俺の脳内を占めていたのは、ソラさんの作ってくれる美味しい夕飯のことだけだったから。


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