2.

「不本意だ……」
 巨大としか言いようのない屋敷の前で、御剣聖はがっくりと項垂れた。
「たか兄ちゃんどうしたの、フホンイってなーに?」
 きゃっきゃと笑う赤ん坊を抱いた小柄な少年が、小首を傾げて自分を見上げてくるのへ力のない笑みを向ける。ふたりの手前、このまま回れ右をするわけにも行かないのが辛いところだ。
「……そうだな、残念な気持ちでいっぱい、ということだ」
「ふーん……?」
「まあ、来てしまったものは仕方ない。星狼(シンラン)、奈央を頼むぞ」
「うん、任せといてー」
「美味いものをたくさん出してくれるそうだから、思う存分食わせてもらって来い。ついでに皆への土産も催促しておくんだぞ」
「はーい」
 素直に頷く少年、魯星狼(ルー・シンラン)と赤ん坊の頭をわしゃっと撫で、聖はもう一度深々と溜め息をつくと、意を決したように屋敷へと踏み込んだ。どこのお城ですかと思わず言いたくなるような門をくぐる時、表札に『彩園寺』と書いてあるのが見え、ますます気が重くなるが、仕方ない。
 中に踏み込むと、話が通っているのだろう、和服姿の人々がずらっと一列に並んで三人を迎えてくれた。所謂使用人と呼ばれる人たちで、ざっと見ただけで五十人くらいいるようだった。
 今まで何度かこの屋敷には来ているが、正面から入ったのは初めてのことで、よってこの大歓迎ぶりも初体験だ。それだけで一般庶民の聖には破壊力抜群すぎるのに、
「御剣聖様とそのご家族様でいらっしゃいますね。まあまあ、皆さんお可愛らしいこと……若様の仰っていた通りだわ。可愛らしいお客様をお迎え出来てわたくしどもも嬉しゅうございます。どうぞお入りくださいませ」
 この中で一番高い地位にあると思われる、七十歳前後の上品な老婦人に恭しく一礼され、穏やかな微笑を浮かべられるとなると、ますます回れ右したくなってくる。
「あー……」
 聖は外見こそ十六、七歳に見えるが実際には三十路前だ。
 下手をしたら三十どころかもっと行っている可能性もある。
 もちろん意識は二十代後半のそれで、よって『可愛い』と言われて喜ぶような神経は持ち合わせていない。あの変態は俺のことをどう説明してるんだとげっそりしただけだ。
 しかし実を言うと、聖はここに遊びに来たわけではない。
 子どもふたりは他に守を出来る人間がいなかったので連れてきたが、基本的には仕事をしに来たのだ。
 なので、
「ありがとうございます。理珠さんに呼ばれて参りました、御剣聖と申します。今日一日お世話になります」
 無理やり営業スマイルを作って、とにかく早く終わらせる作戦に出る。
 赤ん坊を抱いた星狼が育ての親たちにしつけられた通りお辞儀をしている様子には若干目尻が下がったがそれどころでもない。
「はい、ではこちらへおいでくださいな。ああ、申し遅れました、わたくしお屋敷で働くものを統率しております、夏森サトエと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」
 どこまでも丁寧で穏やかなサトエに、恐縮するやら尻がむずむずするやらで浮き足立ちつつ、彼女に促されるまま屋敷に上がり込み、自分を呼びつけた当人の元へ向かうと、長い渡り廊下の向こう側から背の高い青年が飛び出してきて聖にいきなり抱きついた。
「あっ頭領君、いらっしゃーい!」
 もちろん聖は固まるが、サトエの手前その場で殴り倒すわけにも行かず、彼女がころころと笑ってごゆっくりと去るまでの数十秒間、抱擁にかこつけてあちこちをまさぐる手に耐える以外ない。
「お前……何してる……?」
「え、頭領君の身体を撫で回して楽しんでるところ?」
 あっけらかんとした返答に思わず殺意が湧くが、子どもたちの目もあるし今は仮にも雇い主だから、と周囲を観察することで耐える。
 世界的に見ても有数の力を持つ旧名家・彩園寺の現宗主の実弟にして彩園寺の私兵軍『紅隼』筆頭でもある青年、彩園寺理珠は、屋敷の東端にある広い離れで暮らしているようだった。
 離れと言っても、寝室に書斎に居間に物置、更にふたりの護衛官の居室まであるという規模からも判るように、これは別に兄弟仲が悪いとかではなく――むしろ現宗主・彩園寺祥至(サイオンジ・ナガユキ)の弟大好きっぷりはあちこちで語り草になっているくらいだ――、単純に本人が大きな屋敷で暮らす煩わしさを厭ったためだという。
 といっても聖などは、普通の民家が丸々一軒入るような離れを『大きな』というカテゴリでくくらない理珠に呆れるくらいだが。
「……うん、とりあえずその手を離そうか変態。俺はここに仕事をしに来たのであって、お前に抱きつかれるためじゃない」
「えー」
「そのえーってのやめろ。とりあえずさっさと帰りたいから早く始めたい」
「えー? だってせっかく来たんだからゆっくりしていけばいいじゃないか。弟君たちにはお菓子と玩具を用意してあるよ? あ、もちろんお昼ごはんもね。頭領君が作るごはんには及ばないかもしれないけど」
「……お前、何のために俺がここに来たと……?」
「え、遊びに、でしょ」
「違うわッ」
 しつこく抱きついてくる理珠を引き剥がし、叫ぶ。
 ちゃんと訂正しておかないと後々どんな不味いことになるか判らないので気が抜けない。
「言っておくが俺はここに掃除に来ただけだからな。それ以外は知らんからそのつもりでいろ」
 今月も《朧》頭領としての仕事が忙しく、育ての親も収入が今ひとつで、御剣家の家計は火の車だったのだが、仕方ないアルバイトでもするかと聖が思っていた矢先に、理珠から離れの掃除を頼みたいと言う連絡があったのだ。
 もちろん今までに何度も貞操の危機に陥っている聖が首を縦に振るわけもなく、素っ気なく断ろうとしたら、売り言葉に買い言葉とでも言うのか、相場の二十倍もの金額を提示され、断れなくなってしまったのだった。金銭的に不自由したことのない彩園寺家の次男坊に金銭に関する内容で断りを入れようと思ったのがそもそもの敗因かもしれない。
 ――要するに聖は、札束で頬を引っ叩かれてここに来たのだった。
 情けないし不本意極まりないが、今の懐具合ではどうしようもない。
「うん、判った。じゃあそのつもりでこっそり悪戯しようかな」
 何の反省もないどころか超アグレッシヴに過ぎる発言をされ、聖はその場で蹲りたいという欲求に駆られたが、当然そんなわけには行かないことも判っている。
「……この賃金が入ったら子どもらの服を新調して、風呂釜と台所を整備するんだ……平常心平常心」
 生々し過ぎる金銭の使い道をぶつぶつと呟いて心を落ち着かせ、子どもふたりを菓子と本と玩具で満たされた居間に放り込んで仲良く遊べと言い聞かせてから、聖は大量の掃除道具を前に腕まくりをする。
「よし、やるか」
 場所は不本意だが、職業・主夫の聖にとって家事とは楽しむものなのだ。
 夕飯の献立などを考えつつも、居間から聞こえてくる笑い声をBGMに、聖は作業を始める。