* * * * *

「よし、まあこんな感じかな」
 五時間後。
 午後二時を少し過ぎた辺り。
 この道三十年の家政婦も真っ青、な手際のよさで書斎と物置、子どもらのいる居間を片付け終え、隅々まで掃除を終わらせて、聖は満足げに頷いた。
 物心ついた頃……というよりは、春とは言え雪に埋もれた富士山のてっぺんで、たったひとりぼんやりしていたところを育ての親たちに救出され、記憶も身よりもなかったため彼らに拾われて以降、仕事が忙しいふたりに代わってすべての家事を請け負ってきた聖だ。
 その仕事ぶりは完璧だし、本人も妙に活き活きしている。
「やっぱり俺って家事の天才だな。きっといい婿になれるぞこれなら」
 自己愛というにはあまりにも生活密着型の自画自賛をして、どんな嫁をもらうつもりなのか自分でも考えないままうんうんと頷き、最後、自分も何度か貞操の危機に陥りかけた寝室の掃除へと向かう。
 正直あまり入りたくなかったが、契約内容は『離れ全般の掃除と整理整頓』だ。そこだけ外すというわけには行かないだろう。
 どうせ掃除にかこつけて呼ばれただけなんだから、と思わないその生真面目さが、理珠やその他諸々の能力者仲間たちにつけ込まれる原因なのだとは思いもせず、聖は掃除用具を抱えて寝室へ移動する。
 途中、覗いた居間では、お腹いっぱい菓子や昼食を食べ、見たこともないような高価な玩具で遊んでご満悦の子どもらが、誰かが敷いてくれた布団で眠っているのが見えた。
 ――子どもらが幸せそうなら、聖に文句を言う筋合いはない。
 この件に関しては理珠にも礼を言わなきゃな、と思いながら、離れ内の部屋をぐるりと一周する形状の、綺麗な板張りの廊下を歩いていると、寝室の方から争うような声が聞こえ、聖は小首を傾げた。
 廊下を曲がった先なので、人影は目に入らない。
 確か理珠は、昼食後思う存分セクハラに花を咲かせようとしていた辺りで『紅隼』内の会議だか何かが入ったらしく、渋々出かけて行ったのだが、諍いの声の片方はどう聴いても彼のものだ。
「しつこいな、俺はもうお前とは遊んでやらないって言っただろ。お客さんが来てるんだから、さっさと帰れば?」
 おまけに、変態とはいえいつも朗らかで誰にでも親切な彼とは思えないほど語調が冷ややかだ。
「お前にそれを言う資格があるとでも?」
 しかし、返る声は、低くて蠱惑的な美声だったが、刺々しい理珠にも増して冷ややかで嘲笑的だった。
 声を聴いた時点でそれが誰か判ってしまい、関わりたくないから帰りたい気持ちと寝室を掃除しなくては帰れないというジレンマの間で板ばさみになっていた聖だったが、そこへ、
「んー……兄ちゃん、どこ……?」
 寝惚けて這い出して来たと思しき星狼の声がふたりの傍でしたので思わず溜め息をついた。
「……何だ、貴様は」
「貴様とか言うなよ、頭領君の弟君だぞ」
「知るか。俺の邪魔をするなら何であれ同じだ」
「邪魔なんか何もしてないだろ! 弟君が怖がるから馬鹿の一つ覚えみたいに殺気出すのやめろって」
 理珠の声がもうひとりに噛み付く。
 もうひとりが鼻で嗤った。
「あ、あれ……――ッ!?」
 その辺りでようやく目が醒めたらしく、星狼が息を呑む音が聞こえた。
「邪魔だ、消えろ。……それとも、消し炭に変えてほしいのか」
 じわりと滲み出す殺意がここからでも判る。
 その殺意を敏感に感じ取り、星狼が泣きそうになっていることも。
「そんなことしたら本気で縁を切るぞ」
「……出来もしないことを偉そうに」
 聖はもちろん黙って隠れてなどいない。
 やり取りの途中で掃除道具をその場に放置し、大股で角を曲がると、
「ウチの子を泣かす奴はどいつだ、この世の地獄を見せてやるから名乗り出ろ!」
 ――のちに理珠が、「あの時の頭領君、極道でも失禁しそうな気迫だった」と何故かうっとりしながら語ったような怒りのオーラを滲ませて声の主を睨みつけた。
「……貴様は」
 寝室の前には、理珠と、理珠の腕を掴む背の高い男、そして泣きそうな顔で右往左往する星狼の三人がいる。
「馬鹿に貴様呼ばわりされる謂れはないぞこの馬鹿【魔】め。【魔】の分際で昼間っから姿を現すとか頭沸いてるんじゃないのか」
 救い主を見つけたような顔で抱きついてきた星狼を宥めるように頭を撫でてやりながらじろりと見上げると、理珠の腕を掴んだまま、男が片方の眉を跳ね上げた。
「この俺を相手にいい度胸だな、よほど死にたいとみえる」
 筋肉質の長身から、じわりと明白な殺意が滲み出る。
 赤みがかった金髪に濃い朱金の目、褐色の肌。
 鋭い目つきと、すっと通った鼻筋に均整の取れた肢体の、絶世の美男子だが、頭の両脇には漆黒の鋭い角が一対(これは一定以上の能力者にしか見えないらしい)、今は隠しているものの、背中には蝙蝠を思わせる巨大な黒翼が三対ある。
 造物主がありとあらゆる生命を創るより先に、生命の導き手として創ったと言われる古代種の、その中でもっとも数多くもっとも人間にとって危険な存在である【魔】たる男だ。
 銘(な)をベルゼブルと言い、様々な神話や伝承などで語られて来ている、著名で強大な【魔】の一体である。
 三百ほどが存在する【魔】内では中立に位置し、D-Arkとも関わる気はないようなので人類の敵と一概には言えないものの、無論一般人など餌食にされる以外の選択肢はないような相手だが、時に古代種すら凌駕するジーニアス能力者だからという以前に、子どもを前にした聖は当社比1.5倍規模で無敵だ。
 【魔】などに負ける要素がない。
「はァ? お前程度が何でそこまで自信満々でいられるのか不思議でたまらん。この世の地獄を見せてやると言ったはずだ、すぐに体験させてやるから大人しくお預けでもして待ってろ」
「頭領君の悪口雑言って聞いてるとすっごいぞくぞくするよね。俺も罵ってほしいなー」
「……いいからお前は黙れ変態……」
 理珠のドMすぎる横槍に脱力しながら返す。
 ちなみに何故【魔】と戦うための一族の戦闘部門長の離れに【魔】の上位種がいるかというと、何故かあのふたりが恋人同士だからだ。つまり先刻のアレは確認するまでもなく痴話喧嘩である。
 だからこそ係わり合いになりたくなかったのだ。
 ジーニアス能力者の常で性別にはとんと頓着しない聖だが、それでも相手は選んだ方がいいんじゃないか、とつい思ってしまうような(ある種の)ロイヤルカップルだった。
 が、理珠の恋人であろうとなかろうと、子どもに害なすのであれば容赦はしない。聖の行動の大前提は、子どもたちを守ることであり、子どもたちを幸せにすることなのだ。それを邪魔する奴は全員真っ平に伸ばす、が聖のモットーだった。
 もちろん、ベルゼブルの方も聖をそのままにしておくつもりはないようで、
「人間如きが……」
 言葉尻に怒気を滲ませて彼が言うと、周囲に漆黒の焔が浮かび上がり、人魂のように揺らめいた。
「ちょ、馬鹿ベル、頭領君に怪我とかさせたら本気で嫌うからな……!」
「……お前がそれだけの好意を寄せる相手だと言うだけで腹が立つ」
 若干慌てた様子の理珠へのそれに、あっ主にジェラシーでしたかすっげ迷惑、と聖が思ったのは当然だっただろう。
 とはいえ睨み合っていても埒が明かないし、星狼は間近に見る【魔】が怖くてぷるぷる震えているし、放っておいたら奈央が目を醒まして泣き出すだろうし……ということで、聖はさっさと事態を片付けることにした。
「つまり、貴様を消し炭に変えて、理珠の頭の中を弄って記憶ごと消してしまえばいいわけだな」
「えー何それ最低。俺の意志とか完全無視だし」
「理珠をどうしようと俺の知ったことじゃないが……まぁ、出来るならな」
 やっぱり来るんじゃなかった、などと胸中に溜め息しつつ意識を集中させる。
「口だけは達者なやつだ……なら、望むとおりに、……理珠、何がおかしい」
 眉をひそめたベルゼブルの頭を見遣って、理珠が笑いを堪える。
 不審げな顔をしたベルゼブルが自分の頭に手をやって、ほんのちょっと固まった。
「貴様、一体何を……」
「観れば……いやお前には見えないか、まあ、ベルゼブル様のご立派な角をちょっとこねくり回して花束に変えさせてもらっただけのことだ、気にするな」
「……待て、ジーニアス能力者とはいえ、人間如きが古代種たる俺を創り変える、だと……?」
「世界の構成物である限り、お前もまた俺にとってはマテリアルのひとつに過ぎない。っつか、神さまに近いからか古代種の方がこねくり回しやすい材質で出来てるみたいだな、すごくやりやすかった。まあ、そんなわけで頭に花でも咲かせとけよ、中身と同じく、めでたそうでいいじゃないか」
 聖の言葉通り、頭の両脇から真紅の薔薇とピンクのガーベラとカスミソウが生えたベルゼブルをびしりと指差すと、理珠が堪えきれずに噴き出し、
「わあ、きれいだね」
 泣きそうになっていた星狼は笑顔になった。
 怒りに眦を吊り上げかけるベルゼブルに、
「この、」
「……もう一度同じようなことをしたら、今度はお前の股間からぶら下がっているご大層なものを葱坊主に変えてやる」
 緊迫感はないが恐ろしいことこの上ない脅しをかける。
 しかし、残念ながら聖には赤子の手をひねるより容易いことだ。
 むしろ赤子の手をひねる方が悩みに悩んでしまって出来ないかもしれない。
「あはは、股間に葱坊主ってすっごい嫌だな! 駄目だ想像するだけで噴く。俺そんな奴とは付き合いたくないかもー」
 絶賛爆笑中の理珠が無意識に追い討ちをかけ、拳をぎりぎりと握り締めた後、ベルゼブルが若干遠い目で殺気を消した。毒気を抜かれた、とも言うかもしれない。
「……」
「あ、我慢できたじゃない、ベル。偉い偉い、いい子だな」
 完全子ども扱いで理珠がベルゼブルの頭を撫でると、色とりどりの花は光る粒になり、かと思うとそれは、一瞬後にはもとの角へと戻っていた。
「ありゃ。頭領君、これって」
「ん? まあせっかくの色男がずっと頭に花を咲かせてるのも可哀想だしな、お前が触ったら戻るようにしといたんだが、早かったな」
「ふーん、やっぱり頭領君って優しいな、惚れ直すよ」
「おま、人がせっかく穏便に事態を収拾しようとしてるのに……!」
 理珠の不用意な発言に、またしてもジェラシー的な何かを滲ませるベルゼブルを見遣って聖が溜め息をつくと同時に、居間のほうから泣き声が聞こえた。赤ん坊が目を醒ましたらしい。
「星狼、奈央を頼む」
「うん」
「とりあえず痴話喧嘩は夜にやれ。俺はとっとと寝室の掃除をして、夕飯の支度に帰らなきゃならないんだ、邪魔すんな。そんなわけでお前らちょっと出かけて来い、デートとかいう奴だ」
 ほぼ命令形で言って、ふたりの返事も待たずずかずかと寝室へ踏み込み、障子や襖を開け放って空気の入れ替えを始める。
 星狼がうまくあやしてくれたようで、赤ん坊の泣き声はすぐに止んだ。
 なにやら顔を見合わせた理珠とベルゼブルが、お互いに肩を竦め、連れ立って出て行く。……途中でどちらともなく手をつないだような気がしたが、多分気の所為だろう。
「……さて、仕事仕事」
 いつの間にか、居間からは楽しげな笑い声が響いて来ている。
 何であれ、生きることが楽しくて幸せであればそれでいい。
 そんなことを思いつつ、聖は掃除に精を出す。