序.雪城飛鳥(ゆきしろあすか)

 もうそろそろ秋になろうかという季節の、夕暮れ間近のひとときだった。
「……まったく、懲りない奴らだな」
 飛鳥は余裕の態度を崩さぬまま、奇声を上げて飛びかかって来た少年を勢いよく蹴倒し、背後からそっと近づいていた別の少年の顔面に裏拳を叩き込んだ。鼻の骨が砕ける感触に、うっすらと笑う。
 顔面を強打された少年が、鼻血をこぼしながら情けない悲鳴を上げて地面を転がるのを見届けて、飛鳥は路地の隅に置いておいた花束を拾い上げた。
「次に来たときは、手加減してやる保証はないぞ? 言っておくが俺は寛大じゃないし、学習しない馬鹿は大嫌いだ」
 足元に転がる総勢十二人の少年たち、身体のあちこちを強かに砕かれて、痛みに啜り泣いている彼らを見下ろしてそれだけ言うとその場をさっさと後にする。不細工な同性の泣き顔など観ていても気が滅入るだけだ。
 薄汚れた路地をまっすぐに行くと、傾きかけた家がいくつもいくつも並んだ通りに入る。大きな地震が来たらひとたまりもないようなぼろさで、あちこちにガラクタなのか日用品なのか判別し難いモノが積み上げられている。死体が転がっていないだけまし、というところだろうか。
 そこでは、色のぼけた服に身を包んだ年齢も様々な女たちが、午後の用事を忙しくこなしている。薄汚い路地裏の光景だが、飛鳥にとって彼女らとその家族たちは旧くからの顔見知りであり、この情景を目にした彼の胸にまず去来するのは懐かしさであり親しみだ。
 しかし、この呆れるほどの汚らしさは、とてもここが首都に属する町とは思えない。が、国の中枢付近であっても、光の届かない場所など、所詮はこんなものなのだろう。
 飛鳥が通りに足を踏み入れると、狭い軒下で洗濯物を取り込んでいた若い娘のひとりが彼に気づき、彼の抱えた大きな白百合の花束に気づいて首を傾げた。飛鳥に気づいた他の女たちが、あらあらなどと言いながら寄って来る。
「どうしたの、雪城くん。そんな大きな花束。何か、お祝い?」
 飛鳥は少女を一瞥し、近づいてきた女たちを見遣って軽く肩をすくめる。
 薄汚れた恰好はこの辺りの住民の常だが、彼女らの目はどれも美しい。現代社会に飲み込まれて、生きる意味の何たるかを理解できなくなった人々と比べれば、この底辺に住まう人々は少なくとも不幸ではなかった。
「そんなめでたいことならよかったけどな。――――墓参りだ。月命日だからと思って、花を持って来た」
 飛鳥の言葉に少女が顔を曇らせる。飛鳥を取り囲んだ女たちも、一様に沈んだ表情になった。
 ――それだけ惜しまれた人たちの墓へ飛鳥は行くのだ。
 この辺りで、彼らの死を悼まぬ者はいないだろう。それを思えば、少し心は晴れる。失った者への哀惜も、少しは癒される。
「ああ……そうね、そうだった。時間って、本当に経つのが早いね」
「まぁな。でも、そのお陰で人間は生きていられるのかもな。ま、爺さんたちだって、俺やあんたらがくよくよすることなんか望まないだろ。今日は何か美味いものでも食って、爺さんたちが天国とやらへ行ったことを祝ってやってくれ」
「うん、博士たちならきっとそう言うね。じゃあ今日はとっておきのお酒を出してきて家族で呑もうかな」
「お前未成年だろ」
「そういう雪城君もでしょ。こないだ飲んでたじゃない」
「……まぁ、そうだが」
「だからおあいこ。からだを悪くするほど飲まなきゃいいんだって博士も言ってたもの。あっそうだ、雪城君、お墓にこれもお供えしてあげてくれる? あたしがこの前仕事先でもらってきたんだけど、お父さん禁煙しちゃったって言うし」
 言った少女が、エプロンのポケットから取り出した煙草のパッケージをひとつぽんと放って寄越した。飛鳥はかすかに笑って頷く。
 すると、彼を取り囲んだ女たちが、じゃあアタシもなどと言いつつ家へ駆け込み、あっという間に戻ってくると、
「アスカ、これをお供えしてあげてよ。ウチの亭主のだから半分しかないけど、残り全部飲ましてあの宿六をアル中にするよりは博士にお供えした方がよさそうだから」
「うちはこれ。娘が作ったんだ、美味しそうだろ? 半分は飛鳥が食べればいいよ、またうちにもごはんを食べに来て」
「これもお供えしてあげて、飛鳥。本当はもっと豪華なものを供えてあげられればいいんだろうけどね、これで勘弁しておくれ」
 有名メーカーの中級ウィスキーの入った瓶やちょっと形が崩れたクッキー、つまみ用のビーフジャーキーの袋などを次々に差し出され、飛鳥は苦笑しつつそれらを受け取る。墓に眠るふたりがどれだけこの地域の人々に愛されていたかを物語るそれらに、飛鳥の薄い唇をやわらかな笑みがかすめる。
「ああ、ありがとう。あんたらだって生活きついんだろ、そう無理するな。これでも充分喜ぶだろうさ、あのふたりならな。じゃ、行って来るわ。――ああ、また何かあったら呼んでくれ、いつでも駆けつけるからな」
「いつもありがとうね飛鳥。あんたのおかげでずいぶん助かってるよ」
「気にするな、俺だってそれは同じことだ。あんたたちのおかげでずいぶん癒されてる。お互い様ってことだろ」
「それと、こないだは屋根を修理してくれてありがとうね雪城君。お父さんが雨漏りしなくなったってとっても喜んでた。また今度うちにゴハン食べに来てね、美味しいものを作るから」
「判った。じゃあなリコ、みんなも。ああ、それからさっき例のアホガキどもをのして来たから、向こうの通りには行かない方がいいぞ。変に関わったり助けたりして逆恨みされたらイヤだろ」
「えっそうなんだ。判った、でも雪城君にやられたんじゃそのまま放っておくのも可哀相だから、警察に連絡だけしておくね」
「どういう意味だそれ。しかし、相変わらずここの連中はびっくりするほどお人好しだな。つってもまぁ、止めはしないが。……じゃあな」
 軽く手を振って少女と女たちに別れを告げ、なんだか急に増えてしまった荷物を抱えて、飛鳥は更に奥へと進む。
 と言っても、目的地は墓地などではない。一般の人々が眠る墓地に骨を収められるような、日の当たる場所で生きてきた人物が葬られているわけではないのだ。
 ここをもう少し進むと、この辺りでは貴重になってしまった緑のある場所に出る。お綺麗に整えられた緑化公園などではなく、場所的な問題で子供の小遣い並の値段しかつかなかった土地を業者が放置して出来た、広いだけが取り得の荒れた空き地だ。
 そこに飛鳥とこの近辺に住まう人々が花や草、小型の木を植えて、憩いの場として整えたのだ。ちょっとした仕事で知り合った植物学者が、少ない水量でも根付く強い草花の種をくれたので、こんな汚れた場所にもちょっとした緑地を創ることができた。
 お陰でそこは子供たちの貴重な遊び場として、貧しいというのも馬鹿馬鹿しいような、底辺を生きる人々の憩いの場としてずっと機能している。
 飛鳥が目指しているのはそこだった。
 歩き出して十分もすると、太陽の光が赤みを増し始める。
 ふと見上げた空に、夕焼けと同じ色の蜻蛉が飛んでいるのを見て、飛鳥は思わずつぶやく。
 ひとり暮らしの常で、飛鳥は独語が多い。
「ああそうか、九月も終わりだ、もうじき秋だな。季節なんて、本当にあっという間に変わるんだな……」
 二年前にも半年前にも感じたそれ、哀惜と微苦笑との混じった感覚は、飛鳥に自分がひとりきりなのだということを強く自覚させたが、去ってしまった愛しい者たちが飛鳥の生を望むから、飛鳥に生きろと願っているのが判るから、彼は今でもこうして歩き続けるのだ。
 それだけが、この世を去った人々へのはなむけであるかのように。
「……また、草引きに行かないとな……」
 独語しつつ更に十分歩くと、小汚い違法建築の家々は姿を消し、変わってごちゃごちゃと積み上げられたスクラップの山が辺りを埋め尽くす場所に出る。もともとは自動車であったものから家電製品のなれの果て、細かいくず鉄から明らかにビルの残骸としか思えない鉄筋、どこからどう見ても古ぼけた戦車にしか見えない不可思議な鉄の塊まで、長い長い年月を非合法の廃棄場として機能してきたここには、『山』と表現するしかない程度には様々なものが積み上げられている。
 ここでかくれんぼをしたら鬼は永遠に鬼のままでいるしかなさそうだ。
 その、二年間まったく代わり映えのない『山』の隙間をすり抜け、そこから五分ほど歩いた辺りでくだんの広場へと到着する。
 飛鳥とあの貧しい地域の人々で整えた憩いの広場は、前回訪れた一ヶ月前と何ら変わらず、青々と繁る背の高い雑草と虫の声、そして夏の終わりを告げる涼しい風に満ちていた。どこか牧歌的ですらある風景からは、片隅ではあれここが首都に属するなどとはとても伺えない。
 雑草が涼風に吹かれてざわざわと謳いながら流れる様などは、まるで海原にでもいるようだ。
 どんな穢れた場所にあろうとも、所詮は人の手で創られた紛い物の風景であろうとも、それ以外の風景を知らない飛鳥にとって、ここは確かに彼をかたちづくるもののひとつだった。ここは確かに、飛鳥にとってもっとも美しいもののひとつだった。
 飛鳥は花束とたくさんの供え物を手にゆっくりと広場へ踏み込むと、年老いた夫婦がよく日向ぼっこをしている手製ベンチ付近を通り、子供たちがよく追いかけっこやボール遊びをしている真ん中を行き過ぎて、日当たりと風通しが一番いい、広場の南端で歩みを止めた。
 そして、そこに突き立てられるようにして鎮座している、でこぼこした長方形の花崗岩の前にしゃがみこみ、岩の上に花束をぽんと放る。
 花崗岩は貧困階級とでもう言うべきあの路地裏の人々が、ここに眠るふたりの死を悼んでどこからともなく手に入れてきたものだ。
 それは磨き上げられてもおらず、決してよい品ではなかったが、日光を受けた石英や雲母がきらきらと光る様などはちょっとしたもので、サイズといいかたちといい、葬られたふたりのためにしつらえられた大きめの枕かクッションのようだ。もっとも、枕やクッションにするには少々硬すぎるだろうが。
「一ヶ月ぶりだな、爺さん、婆さん。どうだ、そっちの様子は……?」
 花束の下に煙草のパッケージやつまみの類いを供え、ウィスキーの蓋を開けて中の液体をひとくち含むと、残りを墓石代わりの花崗岩に注いでやる。とても上等とはいえないものの、独特の芳香がゆるやかに立ちのぼり、飛鳥の鼻をくすぐる。
 飛鳥は肉付きの薄い唇にゆるりと笑みを浮かべ、墓石の側面を指先でそっと撫でた。ざらざらした手触りの岩肌は、しかしどこか不思議な温かさを含んでいた。
「こっちはまぁ、問題ない。馬鹿どもはいつも通りにやかましいが、所詮馬鹿どもだからそれ以上のことは出来ないだろ。――――まぁ、つまりは、あんたたちが身体を張っただけのことはあったってことだ……」
 そうつぶやいて目を閉じ、頭を垂れて、飛鳥は二度と戻らないものへ祈りを捧げる。
 飛鳥は神などというものを信じてはいないし、信仰心など欠片も存在しないが、それでも、他者のために死んだふたりが、彼が祈ることで天国とかいう場所に行けるなら、そこで楽しく幸せに暮らすことが出来るというのなら、幾らでも祈ってやろうと思う。
 時間にしておよそ一分間、瞑目してふたりの冥福を祈った飛鳥は、次に花崗岩の横にこっそり埋められた黒い石、飛鳥の拳くらいの大きさのそれを指先でそっと撫でた。これを埋めたのは飛鳥だが、誰にも何も説明していないので、飛鳥以外にその意味を知る者はいないだろう。
 いないだろうが、飛鳥にとっては、博士と呼ばれた老夫婦の眠る花崗岩と同じく大切なものだった。ようやく与えてやれた安息の場所なのだ。
「おまえも元気でやってるのか、レイ。そっちの方が、案外暮らしやすいか。おまえが爺さん婆さんと出会うことが出来たんなら、俺もそう心配しなくてすむんだけどな……」
 漆黒の双眸に悼みとも嘆きとも、微笑とも安堵とも取れぬ色の光を載せて飛鳥は独語する。
 ひとりで過ごす時間が増えた飛鳥にとって――これからはずっとひとりなのだと自らに言い聞かせている飛鳥にとって、孤独は彼の親しい友であり、彼を生かす糧でもあった。
 安穏とした生活に溺れてしまえば、きっと彼は生きる意味を見失ってしまうだろう。
 孤独という鉄敷(かなしき)で厳しく鍛え上げられた、一本の抜き身の刀のようであることが、飛鳥が飛鳥という魂を保ちつつ、過去を甘受して生きる絶対条件なのだ。
「……」
 飛鳥はしばらくの間、無言で黒い石を撫でていたが、藍色を増した空が最後の朱を手放すにあたって、ようやくゆっくりと顔を上げた。
 暗くなったからといって――この辺りが治安という点では絶望的に整っていないからといって、身の危険を感じるほど彼はやわではないが、片付けなくてはならない仕事や用事が細々と残っていることを思い出したのだ。
 飛鳥自身は、この十七年間を一般的と言われる同年代と比べれば壮絶としか言いようのない環境の中で生きてきたので、今更十人や二十人のチンピラ風情に囲まれたところで恐怖など感じない。
「さて……帰るか。晩飯、どうしようかな……」
 今晩の食事と明日までに頼むと言われていた仕事の算段をしながら立ち上がり、飛鳥は軽く伸びをした。秋の匂いを含んだ風に吹かれ、雑草がざわざわとざわめく。草引きをしなくてはという意識が脳裏をかすめたが、青々とした草がまるで海のようにそよぐ様は悪くなく、しばらくはこのままにしておこうと思い直す。
 踵を返し、立ち去ろうとした飛鳥だったが、誰かの声が聞こえたような、誰かに呼び止められたような気がして立ち止まり、振り向いて墓石を確かめた。無論、誰かがたたずんでいるはずもなく、首を傾げる。
「――まぁ、いい。また来るよ、今度は菓子とワインでも持って。次に来るときは墓の掃除もしてやるから、それまで機嫌よくやっててくれ。俺は俺で、あんたたちが望むように、好きなようにやるさ……」
 言って墓石に軽く手を振り、今度はもう振り返らず、海のごとき広場をあとにする。
 飛鳥が立ち去ったあとも、草海は風とともにざわざわと歌い、何かを讃えるように何度も歌を繰り返した。――――それは、これから始まる大きな流れを、世界が全身全霊で祝福しているかのようだった。
 祝福されるべき人物は、まだそのことには欠片も気づいてはいなかったけれど。