1.遥か高き空より呼び声響きて

 十人もの男たち、どこからどう見ても真っ当な職業を営んでいる人間とは思えない、凶暴で頭の悪そうな雰囲気の、殺意と暴力への愉悦を全身から発散しているような連中に囲まれても、その男は毛ほども取り乱したところを見せることがなかった。
 年の頃は三十代前半から半ばくらいだろうか、赤茶の髪を短く切り散らした渋い男前で、無精髭がこのうえもなく似合っていた。双眸には強靭でありながら静かな、しかし理知的な光が輝いている。
 それほど上背があるわけではないが、上等な仕立てのスーツの上からでも、その身体がひたすらに鍛え上げられていることが判った。
 彼もまた堅気の人間には見えないが、まとう雰囲気にいやらしさはなく、ちんぴらやごろつきというよりは旧い時代の武将を彷彿とさせた。
 格で言えば十人の男たちなど端にもかからぬほどだ。事実、男たちなどまったく眼中にないのか、彼は、多勢に無勢の、洒落では済まなさそうな空気の中でも、煙草をくゆらせながら悠然と男たちを見ているだけだ。
 男の付き人か配下なのだろうか、彼の広い背に隠れるようにして、飛鳥と同い年くらいの、アッシュブロンドの少年が男たちを伺っているが、こちらは明らかに腰が退けていた。
 飛鳥も身長に関して言えば170cmジャストと大して大柄ではないが、その飛鳥より更に小柄で華奢な印象で、ひょろっとした頼りない様子からは、とても彼に喧嘩が出来るようには思えない。彼がヤクザ者と一緒にいることそのものが不思議ですらある。事情あってのことなのかもしれないが、使い走りがいいところだろう。
 もしくは、膝に穴の空いたジーンズにTシャツという格好の他に、様々な、細々とした道具が差し込まれた腰鞄を身につけているところからして、金村のいる組で自動車の整備でもしているのかもしれない。
(面白くなってきた、な……)
 飛鳥はスポーツドリンクのペットボトルを片手に、古びたビルの壁に寄りかかるようにして、彼らの様子をつぶさに観察していた。
 決して隠れているわけではないのだが、飛鳥は動作のすべてが無音のうえ、常に黒を身にまとうので、今のような時間帯にこんな裏通りなどに入れば、よほど気配に敏感な人間でもなければ、闇に溶けた彼に気づくことはできないだろう。
 飛鳥はこの緊迫した場面を、映画鑑賞でもするかのような気楽さで眺めながら、いくら夜更けとはいえ、色とりどりのネオンサインが輝くきらびやかな通りのすぐ裏側でこんな荒っぽいことが起きる、猥雑に過ぎるこの街に笑みを漏らした。
 警察を呼ぼうとか助けに入ろうという意識は今のところない。
 飛鳥はただ単に、ちょっとした仕事を片付けるためにこの町を訪れただけで、それが旨く収まって懐も温かい今、何の益にもならないヤクザの小競り合いにちょっかいを出すつもりは欠片もなかった。
 明日は墓の掃除に行こうと思っているのだ、成り行きを見届けたらさっさと帰るつもりでいた。
 飛鳥が無条件で親切心を発揮するのは、ごく限られた身内か子供、年寄りくらいのものだし、そもそも飛鳥はヤクザとかいう不燃ゴミ並に邪魔な人種などこの世から今すぐ絶滅してしまえばいいと思っている類いなのだ。
 あの武将然とした男をチンピラ紛いのヤクザと断じはしないが、少なくとも真っ当な人間ではないことは明らかだ、ヤクザがヤクザ同士で潰しあって消えてくれれば、こんなに手間がかからなくてありがたいことはない。一般の善良な――『堅気』の――ご近所に迷惑をかける輩など、仁侠者と名乗ることすらおこがましいというものだ。
 基本的に飛鳥はすべての物事に対して薄情だし、お節介でもない。
 大声で助けを求められれば渋々なりとも動くが、それがない以上行動を起こすつもりもなかった。
 何にせよ、放埓を意味する名を冠したこの町は、人間の坩堝と言うべき首都たるこの地の中でも有数の歓楽街だけに、こんな小競り合いも決して珍しいことではないのだろう。
(だが、田舎者には刺激が強すぎる)
 どうでもいいようなことをうそぶき、無論居心地が悪いわけではないが、などと胸中につぶやいた飛鳥がかすかに笑ったのと時を同じくして、煙草を口にくわえたまま男が一歩踏み出す。その一歩に込められた足捌きの揺るぎなさだけで、飛鳥には彼が相当場慣れしているということが見て取れた。
 気圧されたのか男たちが一歩退き、包囲網がわずかに広がる。
 男はにこりともすることなく、飛鳥が想像した通りの声で、
「俺を篠崎組の金村(かねむら)と知ってのことか、ニイさんたち」
 そう言って男たちを一瞥した。肚(はら)に力のこもった、低いのに通りのよい声だった。
 男たちはまた少し気圧され、仲間たちと顔を見合わせるという無様をしたあと、数を頼むごとくに――それこそが絶対の神話であるとでもいうように一歩踏み出し、ふたりへの包囲網を狭めた。金村と名乗った男の背後で小さくなっている少年が、傍目からもはっきりと判るほど表情を引き攣らせる。
 だが、金村の表情はまったく変わらない。小揺るぎもしない不動のままだ。もしかしたら精神や顔面が鋼か何かで出来ているんじゃないかと思わせる程度の硬質さを保っている。
「――近藤の差し金か」
 金村がそうつぶやき、煙草を握り潰す。
 なすべきことをなすために肚を決めたのか、それとも金村の威圧感を幻想と決めつけたのか、男のひとりがそうだ、と低く答えた。どうやらその男がこの襲撃のリーダー格であるらしい。
 堅い印象の髪を短く刈り上げた彼は、身体と同じくごつい造作の顔に獣じみた笑みを浮かべ、
「察しがいいな。うちの親爺さんはあんたのとこの組が目障りで仕方ないらしくてな。篠崎組を潰すためには努力を惜しまないらしい。そのための第一歩があんたってわけだ」
 一般人が相対すれば間違いなく威圧されてしまうであろう、凄みの利いた声でそう言った。しかし彼からは、黒幕の差し向けた兵隊以上の印象は抱けず、声だけでも、彼と男たちの格の違いがよく判る。
 明らかに緊迫した場面であるにもかかわらず、金村はまったく頓着のない様子だった。図太いのか鈍いのかは判然としないが。
「……なるほど。だが、俺ひとりどうこうしたところで大局は変わるまい。俺は所詮兵隊アリのひとりに過ぎねぇんだ」
「やけに謙遜するじゃないか、先代の懐刀が」
「……先代の、な」
 と、どこか自嘲めいた声で金村がつぶやいたとき、緊迫感に耐えかねたかそれとも待ちきれなくなったのか、いかにも頭の悪そうな派手なシャツに身を包んだ、まだ若い男が奇声を発して金村に襲いかかった。手にした鉄の棒を振りかぶり、一気に振り下ろす。
 が。
「……気の早ェ野郎だな」
 金村はまったく動じた風情もなく、振り下ろされた鉄棒を片手で受け止めるや、絶妙のタイミングでそれをひねり、男の手から棒を奪い取った。そして、あまりに鮮やかな手際に思考がついていかなかったのか、ポカンとなった彼の腹に、重々しい拳を叩き込む。
 ごふっ、という呼気とともに、腹を押さえた若い男が地面にうずくまる。
 それが乱闘の始まりを告げる合図だった。男たちの戦意が一気に沸騰し、様々な造作の様々に不細工な顔が赤黒い殺意に染まる。
「圓東(えんどう)! 邪魔にならねェように隠れてろ!」
「はっ、はいぃっ!」
 奪い取った鉄棒を差し出して金村が放った鋭い声に、背後にいた少年、圓東という名前らしい彼が、それを受け取るやほうほうの態で輪から逃れ、壁際に張りつくようにして身を潜ませる。
 その一瞬の間に、金村は襲撃者をもうひとり沈めていた。
 流れるように正確な――無駄のない動作で男の間合いに入り込むと、先ほどと同じような重い拳を彼の鳩尾に突き入れたのだ。その一撃の正確さと込められた力の強さは、拳を入れられた男の身体が一瞬跳ね上がったところから見て取れるだろう。
「ぐぅ……っ」
 低く呻いた男が薄汚れた地面に膝をつき、盛大に咳き込む。よほど苦しいのだろう、涙をにじませている。吐きそうな顔をしていたが、不細工な男がやると真剣に見苦しい。
 しかし、その強烈に過ぎる容赦のない一撃が、彼から戦意を削いだであろうことは想像に難くない。男はうずくまったまま、再度金村にかかっていこうとはしなかった。
 ――出来なかった、が正しいかもしれない。
 暴力を生業とする者は、他者の痛みには頓着しないが、自分の痛みには存外弱いものだ。我が身の痛みに慣れない、一方的に与えてきたばかりの連中では、今のあの一撃を受けてもなお立ち向かっていこうとは思えないだろう。
「てめぇ……ッ!!」
 あまりにも簡単に仲間をやられて激昂したのか、野太い声に怒気をにじませた男が背後から飛びかかるが、金村はわずかに身体をひねっただけであっさりと彼の突進をかわし、更に男の脚を軽くひっかけて彼を引っ繰り返らせてしまった。顔面を強かに打ったらしく、鼻血をこぼしながら起き上がろうとした彼の脇腹を二度三度と蹴り上げ、沈黙させる。
 次に横から振り下ろされた鉄パイプを軽やかに避け、まったく気負わぬ風情で襲撃者の懐に踏み込むや、彼の襟首を掴んでひょいと投げ飛ばしてしまう。投げ飛ばされた方は、情けない悲鳴とともに生ゴミの詰まったポリバケツに突っ込み、ゴミまみれになって呻いている。
 一連の、流れるように鮮やかな動作に、飛鳥は思わず感嘆の口笛を吹きそうになった。
 物心ついたときから生々しい争いの最中にいた飛鳥にとって、戦いの何たるかを理解し実践できる者は素直な賛辞の対象なのだ。
 これなら助っ人に入る必要はなさそうだ、と、ますます面白いショウを見物している気分になっていた飛鳥だったが、更にふたりの男をのしてしまった金村に、襲撃の主犯であるらしい男が舌打ちをし、懐から拳銃を取り出した時点で表情を凍りつかせた。
 不細工な造作は、それが密造拳銃であるということを如実に物語る。
 ――飛鳥の脳裏に、半年前の忌まわしい出来事がフラッシュバックする。
 あの時の痛み、最後の言葉、日に二度三度と襲ってくる虚無感と、もはや二度と癒されることはないだろう孤独。
 胸の奥から、黒々とした憎悪が湧き上がってくる。
 爆発的な怒りを伴って。
 拳銃の視覚的威力というのはすさまじいもので、さすがに動きを止めた金村に、拳銃を構えた男がにやりと笑った。
 金村ひとりに翻弄されていた男たち、残っていた三人と何とか起き上がることが出来たひとりが、何事かを口汚く罵りながら、めいめいに刃物を取り出す。匕首(あいくち)と呼ばれる、この業界の人間たちが好んで使いたがる刃物の登場に、壁際に張りついていた少年が蒼白になった。
「後始末が大変だからな、こんなものぁ使いたかねぇんだが。あんたを殺らねぇと俺たちが親爺さんにどやされちまう。俺たちだって命は惜しいし、まだこの商売で食っていかなきゃならねぇしな」
「ふむ……なりふり構っていられねぇか、そっちも。因果な商売だな」
「まったくだ。だが……まぁ、運が悪かったと思って諦めてくれ。あんたが死ねば篠崎のひよっこも考えを改めるだろう。そしたらシマをうちの親爺さんがありがたくいただく」
「……どうだろうな。若は俺が死んだところでどうとも思うまい。若の意気地を削ぐつもりで俺を殺そうとしているんなら、お門違いもいいところだぞ。無意味以外のなにものでもねぇ」
「今更命乞いか、あんたらしくもねぇ。あんたがおとなしく殺されてくれるってんなら、そっちのボウズは逃がしてやってもいいぜ。俺たちだって鬼や悪魔じゃぁねぇ」
 やはりどことなく自嘲気味に言った金村に、拳銃を構えた男が余裕の笑みを見せる。
 拳銃ひとつで自分の優位を欠片も疑わないとは、極道にあるまじき頭の悪さだ。撃つだけで大変な代物を、モノを見せびらかしただけで勝利できたと勘違いする連中ほど救いがたいものはない。
 拳銃を突きつけられた金村はというと、別段、諦めたようにも恐怖しているようにも見えず、反対に死をどうやってでも回避しようと思っているようにも見えなかった。達観しているのか、それともすでに何かに絶望して、生きることそのものに執着をなくしてしまっているのか、飛鳥には計り知れなかったが、そんなものは今の彼にとってはどうでもよかった。
 飛鳥の思考は、自分に忌まわしい密造銃などを見せたあの男に、生まれてきたことを後悔するような目に遭わせてやらなくては気が済まないという、半ば逆ギレ的な怒りで一杯になっていたからだ。