松明に照らされた戦場の片隅で、金村勇仁は無言のまま佇んでいた。
 それは、敵味方が入り乱れた今のこの時においては異様なほどの静謐さで、まるで誰も彼に気づいていないかのように、兵士たちは勇仁の傍を擦り抜けてゆくばかりだった。
 彼の剣、名匠バーディア・クロムによって生み出された意志を持つ刃“聖閃”は、初め、しきりと戦いを主張していたが、主人が何かを考えていることを感じ取ったのか、しばらくすると口を噤んだ。
 いくら名匠の手になるものとはいえ、剣に意志があり、気遣いの心と噤む口があると言うのも不思議な話だ、と他人事のように思う。
 そんな思考の合間にも、戦いは――死は、途切れることなく続いている。
 ハルノエン兵の剣がゲミュートリヒ私兵を貫き、紅い血を溢れさせる。
 致命傷と判る傷を負った彼は、血を吐きながらも最後の力で剣を揮い、ハルノエン兵の首を跳ね飛ばした。
 命を喪ったふたつの肉体が、もつれ合うように地面へと倒れて行く。
 ――そんな惨状が、あちこちで繰り広げられている。
 あの漆黒の少年が何かしたようで、初め五千対七千と言われていた兵士の数は五分になった。
 リィンクローヴァ側の士気も上々。
 とはいえ、やはり、何かの理由のために必死なハルノエン軍と、隣人から攻められる衝撃を隠せないゲミュートリヒ私兵軍では、ハルノエン軍に若干の分があるようだった。ハルノエン国民ともっとも近しく、親しく接しているのがゲミュートリヒ市民だと言うから、中には、ハルノエン兵士の中に見知った顔を見い出したものもいるかもしれない。
 血臭と怒号、苦痛の声が響く戦場の端々に、やりきれない哀しみが満ちているのが判る。
 やりきれない思いを顔に浮かべたまま、倒れてゆく兵士の姿が見える。
 この場の誰が望んだ戦いでもなかった。
 この場の誰もが、どうして、と問い続けているだろう戦いだった。
 そんな戦場の片隅で佇んだまま、勇仁は動かなかった。
 動けなかった、の、かもしれない。
 自分も戦わなくてはと、わずかなりと戦力になり、ひとりでも多くを生かさなくてはと思いながら――そうしなくてはたったひとりで二千もの兵を蹴散らした飛鳥に申し訳が立たないと思いながらも――、彼は影に磔にでもなったかのように、その場に縫い止められていた。
 それは、己が死への恐れではなかった。
 同時に、人を殺すことへの畏れでもなかった。
 ただ、何も懼れていないのではなかった。
 何かに対する恐怖感が、勇仁の脚を止め、沈黙させているのだった。
 その恐怖感は、つい数時間前、飛鳥が言ったことに起因していた。
 あの時の飛鳥が口にした言葉のひとつひとつが、勇仁の細胞に染み入ったかのように、彼にものを考えることを強い、彼を沈黙させている。
 視界の端々に、刃のきらめきが踊る。
 敵も味方も変わりなく、血を零して斃れてゆく。
 ――このままここでじっとしていてなんになる、と、自分を叱咤する声がする。
 彼の若の、稀有なほどに輝く漆黒が、真っ直ぐに自分を見つめている……そんな錯覚があって、ふと顔を上げる。

 ――怖い?
 ――怖い?
 ――何が、怖い?
 ――苦しい、かなしい?
 ――何故?
 ――怖い?
 ――ユージン、何が、怖い?
 ――どうして?

 楽しげに、親しげにさんざめきながら、ヒトとケモノの中間のような姿をした精霊たちが勇仁を取り囲む。松明に惹かれて来たのか、火を感じさせる精霊が多いようだった。
(怖い、か……)
 精霊たちの言うことは正しい。
 このスピリチュアルな存在は、勇仁の揺らぎを敏感に感じ取っている。
(……そうだな)
 明確な答えもないまま頷くと、返事のあったことを喜んで、精霊たちがくるくると踊る。
 思わず苦笑した勇仁だったが、

 ――あのひとが、死んでしまう?
 ――あのひとが、行ってしまう?
 ――あのひとが、届かなくなる?
 ――ユージン、それが、怖い?
 ――あのひとより弱い、自分が怖い?
 ――置いて行かれる、自分が怖い?

 精霊たちの、その囁きに眼を見開いた。
 瞬間、脳裏に閃くのは、振り返りもせず駆けて行く飛鳥の背中だ。
 人間ではなくなることすら受け入れて、ただ目的と誓いのために走り抜けてゆく飛鳥の、強靭で静かな眼差しだ。
 きっと彼は行ってしまうだろう、真っ直ぐに、迷いも躊躇もなく、たったひとりと決めた友人のために。自分の身がどうなろうとも――肉体が粉々に砕けて朽ちようとも、気にも留めず、怖れず、悔やまずに。
 そして、彼が行ってしまうその時、勇仁になすすべなどないのだ。
(ああ……そうかもな)
 苦笑が漏れた。
 勇仁は、その時、かの漆黒の少年とともに、もうひとりの、護りたかったけれど、ずっと支えていたかったけれど叶わなかった、結局誰よりも傷つけてしまった『若』を思い出していた。
 本当に、『彼』を裏切ろうなどと思ってはいなかったのだ、勇仁は。
 一番近い場所で、『彼』が健やかに長じていくのを見ていたかった、それだけだったのだ。
 ――勇仁は探し始めている。
 飛鳥が言うように、戦う意味だとか、生きる意義だとか、自分が彼の傍に在るための理由だとか、そんなものを。
 恐らく、だからこそ生じた躊躇いで、恐怖感だった。

 ――だけど

 朴訥で真摯な精霊たちの呟き。

 ――護れる
 ――追いつける
 ――手なら、届く
 ――強くなれる
 ――辿り着ける

 勇仁を力づけるような、励ますような。

 ――大丈夫、心配要らない

 無償の、無限の、深い労わりをそこに感じ、勇仁はまた苦笑する。
 精霊たちに、そこまで気にかけてもらえるようなことをした覚えもないのだが。
 と、
(あなたにならばそれが出来る、精霊の寵を得た者よ)
 唐突にどこからか声が響き、
(あなたの主の選ぶ行く末が、このソル=ダートの未来になる……)
 振り向いてもいないのに、勇仁には、自分の背後に、長い黒髪と漆黒の目、透き通るような白皙をした、この世のものとも思えない、神々しい美貌の男女が佇んでいることが理解出来た。
 否、それが本当に背後だったのかどうかは判らない。
 何故なら、明らかに異様な光景であるはずなのに、誰ひとりとしてそれに言及することはなかったから。――戦場の混乱、人々の狂乱がどうこうという理由ではなく。
(だから、どうか、彼を護って。彼が、彼の王を護るのと同じく)
(彼は何も望みはしないだろうが、だからこそ)
(そのための力ならば、与えましょう。あなたが望むのなら、いくらでも)
(ソル=ダートを、そして我らが主を、どうか、頼む)
 漆黒の男女の紡ぐ、歌うように優雅でありながら切々とした言葉。
 すべてを理解は出来ずとも、思いをめぐらせることは出来た。
(私たち精霊の王は、あなたがたにすべてを託しましょう)
(精霊はあなたを、あなたの主を助け、いつも護るだろう……我らの願いのままに)
 彼は、飛鳥は、求められているのだ。
 黒の御使いとして、人間たちのみならず、人ならぬ貴種にまで。
 そして、飛鳥の選択が、このソル=ダートの未来を創る。
 本人に面と向かってそんなことを言えば、きっと飛鳥は、大仰過ぎると顔をしかめるだろうが、勇仁には、彼らの言うそれが真実で、抗いようのない流れなのだということが判った。
 飛鳥が辿る、辿らざるを得ない、険しく厳しい道のりも。
 ――無論彼は、そんな道など、何でもないような顔で歩いて行ってしまうのだろうが。
(そうか……)
 それと同時に、躊躇いが解れ、恐怖感も和らいだ。
 迷いは――得られない答えは、まだ、彼の中にあったが、それは、これから時間をかけて、勇仁が自分自身で納得し見い出してゆくしかないものなのだろう。彼の若が、いくつもの重苦しいものを背負ってなお、決して折れようとも、曲がろうともしないように、勇仁も、また。
(だとしたら、惚けてる場合じゃ、ねえだろ)
 唇を引き結び、前を見遣る。
 いつしか、漆黒の男女は消えていた。
 彼らがなんだったのかを云々するよりも大事なことが勇仁にはあった。
 ――視界に、イスフェニア・ティトラの姿が映り込む。
 彼は、無言で、無表情のまま、時折押されている兵士を手助けしながら、ハルノエン兵と渡り合っている。静かな光を宿した彼の双眸には、いかなる焦りも浮かんではおらず、ただ今、この場所で己が責務を果たすのだという強い意志だけが感じられた。
 その背後に、剣を振りかぶったハルノエン兵の姿が見えた、そう思った瞬間、勇仁は走り出していた。
 イスフェニアの背後へ走り込むと同時に流れるような動作で剣を抜き、振り下ろされた剣を受け止める。
 がちん、という重く鈍い手応え。
 この重さに意味を見い出すのも悪くはない、と、思いながら力を込めて剣を――ハルノエン兵を弾き飛ばし、よろめいてたたらを踏んだ彼の間合いに踏み込むと、“聖閃”の切っ先を兵士の咽喉へ突き入れるとともに、刃を勢いよく横へ薙いだ。
 肉を断ち命を絶つ重苦しい感触が、剣の柄を通じて伝わって来る。
「……! !! !」
 咽喉を貫かれ、首を半ばまで切断された兵士が驚愕と絶望の表情で崩れ落ちてゆく。
 極道の世界に十年以上身を置いていながら、これまで他者を殺めたことはなかった勇仁だが、今、『その時』に際しても、大きな動揺はなかった。それを罪だと知りつつ、後悔することも後退することも許されないと、決めたからには進むだけだと、そう思うだけだった。
「……無事だったか、ユージン」
 前方の敵を葬り、ぼそりとイスフェニアが言うのへ、背中合わせで別の兵と対峙しつつ頷いてみせる。
「悪ぃ、ちっと惚けてた」
「そうか……気にするな、無理もするな。お前が無事であったなら、それでいい。少なくとも、アスカはそう仰るだろう」
「……そうだな」
 戦況は未だ五分五分。
 死者は恐らく、双方ですでに千を軽く超えた。
 何者の思惑がリィンクローヴァとハルノエンを諍いに騒がせるのであれ、今、彼らに出来ることはそう多くない。
 精霊たちに好意を持たれているとはいえ、勇仁に剣を揮う以外のことは出来ない。
 しかし、言い換えれば、剣を持って戦うことが勇仁には出来る。
 大それた、大々的なことは、飛鳥やレーヴェリヒトに任せておけばいい。
 勇仁は勇仁に出来る、小さな責務を果たすだけだ。
「まあ……ひとつ、踏ん張ってみるか」
 イスフェニアの息遣いを背に感じつつ勇仁が言うと、かすかに背後で笑みの気配がして、
「我々がここで持ち堪えられねば、たったひとりで戦っておられるアスカに顔向け出来ないというものだ」
 勇仁にも笑みを浮かべさせる。
「ああ、奇遇だな、俺も同じことを考えてた」
「……つまり、そういうことだ、ユージン」
「まったくだ」
 真面目くさって頷きあい、背中合わせで互いを補いつつ、戦いを続行する。
 ――街は、戦場は、完全な日没を迎えようとしていた。
 迫ってくる暗闇に、しかし危機感を覚えることがないのは、その深い色にあの少年を思い出すから、なのかもしれない。


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