黒と黄の御使いの邂逅より一時間ばかり前。

 ハルノエン兵がゲミュートリヒ市に辿り着いたのは、日没まであと一時間といった辺りのことだった。
 思ったよりも早い到着と、情報よりも少ない兵士の数に、国境沿いの森で何かがあったのだろうと、あの漆黒の少年が何かをしたのだろうとほぼ確信とともに思ったものの、それで自分のなすべきことが変わるわけでもない。
「あのふたりが護ろうとしたものを護る。――……それだけだ」
 大きな松明のもたらす明かりに、刃のきらめきが踊る。
 人々に踏み鳴らされ、大地が震える。
 刃の打ち鳴らされる金属音、怒号、荒い息遣い、苦痛の声。
 わずかな風に松明の炎が揺らぎ、影が舞う。
 風光明媚で長閑な田舎都市は、わずかな時間で濃厚な血臭の漂う戦場と化していた。
「しかし、何だ……あのツラ。これまでの友好国を侵略しようって感じじゃねぇな……」
 レーヴェリヒトは長い銀髪を翻して立ち回りながら、ハルノエン兵たちをつぶさに観察していた。
 あかい炎に照らされているにもかかわらず蒼白と判る、必死で悲壮な、まさに『後がない』といった表情は、レーヴェリヒトに、今のハルノエンで起きている非常事態の深刻さを思わせる。
 それが何なのか、レーヴェリヒトは、アスカとの会話でおぼろげながら理解していたが――恐らくアスカはもっと確証を持って事態を予測しているだろう――、今すぐにどうこう出来るような事柄でもない。
 今日の、この戦いを収束させてからでなくては、次の手は打てないのだ。
「ディー」
 兵士たちの間を擦り抜け、斬りかかって来る敵兵は容赦なく斬り倒しながら進んだ先に、ゲミュートリヒ市私兵軍の最高指揮官を見い出し、レーヴェリヒトはその背を守るかたちで彼の傍らに滑り込んだ。
 名を呼ぶと、冷静極まりない理知的な眼がレーヴェリヒトをチラリと見る。
「どうなさいましたか、陛下」
 とても最高指揮官とは思えない、簡素で地味な甲冑に身を包んだ壮年の男、ディーソウル・エヴェンナムは、灰髪に赤みの濃い茶色の目をした筋骨逞しい硬骨漢で、三十歳で最高指揮官となって十五年間、私兵の育成と水面下での防衛に尽くし、ゲミュートリヒの安全のために――といっても、その献身は決して表立って評価されることはなかったが、文句ひとつ言わず――働いてきた、メイデとアルディアの信頼も篤い武人だ。
 ゲミュートリヒ市領主邸に第二の我が家のように出入りしていた幼少時のレーヴェリヒトにとっては、『ちょっと顔は怖いけどたまにお菓子をくれたり頭を撫でてくれたりするやさしいおじさん』という認識の男だった。
 今はその男と並んで剣を揮っているのだから不思議なものだ、などと思いつつ、レーヴェリヒトは周囲をぐるりと見遣る。
「俺は適当に遊撃を行う。なんか必要なことがあったら言ってくれ」
「御意。……どうか、あまり無茶はされませぬよう。おふたりも陛下を案じておられましょう」
「ああ、気をつける」
「もっとも、過剰な心配をするつもりはありませんが。あなたは強くなられた」
「……そうか?」
「ええ。あの、黒の少年が来(きた)ってからは、なお」
 ディーソウルの言葉にかすかに笑い、レーヴェリヒトは頷いた。
 アスカの存在がレーヴェリヒトを強くしている。それは事実だ。
 だからこそ、レーヴェリヒトの身体は軽い。
 更に、自分の裁量で、自分の戦いに専念できるというのは、本来なら王ではなくただの武人として生きたかった、生きるつもりだったレーヴェリヒトにはある意味気楽な状況だ。
 とはいえこれには、今のレーヴェリヒトは国王であり兵でもあるし、皆の精神的な拠りどころでもあるものの総司令官ではない、という事情が関係している。ゲミュートリヒの兵はゲミュートリヒの将、指揮官が動かすものだからだ。
 それは、どの都市が中心となったいくさでも変わらない。
 各都市には各都市の最高指揮官がいて――これは大抵がその地を治める領主か、もしくはその直系の血族が務める――、それぞれが兵士を纏め上げ、他都市の最高指揮官と連携してリィンクローヴァの防衛に当たっている。
 都市間及び貴族間の力関係が微妙な防衛線では、天軍と呼ばれる国家所属の正規軍がまとめ役となり、上天軍、下天軍を初め、第一から第五までの天軍を治める、所謂将軍たちが総司令官を勤めることになる。
 レーヴェリヒトが総司令官を務めるいくさとなると、国家間の最終戦争くらいの規模になってくる。
 出来ればハルノエンとはそんな戦いをしなくても済めばいい、というのが、レーヴェリヒトの偽らざる心境だった。恐らく、今、ハルノエン兵と刃を交えているリィンクローヴァ人の大半がそう思っているだろう。
「……おかしなものですな」
 事実、ディーソウルもまた、何かが妙なことに気づいている。
「上層部に無理強いされてゲミュートリヒ市を襲った……という雰囲気でもない」
 恐らくハルノエン兵にとって有利な戦いではない。
 斥候部隊による撹乱が失敗に終わり、ゲミュートリヒ市は守りの構えに入り、リィンクローヴァ人たちの士気も高く、おまけに国王や黒の御使いまでいる、そんな現状で、何故ここまで必死に攻めてくるのか……国境沿いの森で何かがあったにもかかわらず、二千もの兵が脱落しているにも関わらず『何ごともなかった』かのように攻め込んで来る、その理由は何なのだろうか。
「こいつら、死ぬ気なのかな」
 レーヴェリヒトが呟くと、ディーソウルの赤茶眼が彼をちらりと見た。
「自分たちが生きて帰ることの方が、こいつらにとっちゃまずいのかな」
 だとしたら、憐れな話だ、と思う。
 ――手は、情け容赦なく襲い掛かってきた兵士を斬り倒しつつも。
「誰か、事情を話してくれるような奴がいりゃあいいんだが」
 ディーソウルと別れ、前へ前へと踏み込んで行きながら周囲を観察する。
 すでに、双方に少なくない死者が出ているのが判る。
 親しい隣人と思っていた人々に攻められた驚きと困惑という意味で、リィンクローヴァ側の死者の方が若干多いかもしれない。都市を、国を、家族や愛すべきものを守るという意識があってなお、何故、どうしてという疑念は人の中に容易く根を張り邪魔をするものだからだ。
「陛下」
 戦場を行き来する中、グローエンデが自分の引き連れてきた手勢百名ほどを指揮して戦っているのと行き逢った。
「グロウか。調子はどうだ」
「悪くはない。全体的に士気も高いようだからな」
「ん」
「……しかし、妙だな。レヴィ陛下も気づいておいでだろうが」
「ああ……連中の?」
「そうだ。何故、ハルノエンはリィンクローヴァを攻めた? 否、誰が攻めさせた?」
「お前も思ってるんだろ、ヴュセル姫じゃねえ、って」
「無論。あの乙女が、このようなことを望まれるはずもなかろう。――なら、誰だ? ハルノエンはそもそも、民の、王家への信頼と敬愛、忠誠も深い、堅固な国家のはずだ。その中の誰が、こんなことを?」
「それが判らねぇから、妙な気分なんだろ。これが終わったら調べなきゃならねぇだろうな……たぶんアスカも同じことを思ってる」
「アスカか。彼は今どうして……否、まあ、何かやらかしてくれたのだろうとは思うんだが。どう考えても山下りで二千の兵が減ったとは思えん」
「だな。頼もしいっつーか、末恐ろしいっつーか」
 何でもないような、まるで城の廊下で擦れ違っただけのような平静さで会話を交わしつつ、ふたりの剣は、喚き声を上げながら突っ込んで来る兵士たちを次々に――無造作に斬り捨て、足元に屍の山を築いている。
「ま、俺は気楽に遊撃でもしてるから、あとは頼むわ」
「ああ、そうするだろうと思った。気をつけて」
「ん、お前たちもな」
 短い言葉を交わしてグローエンデと別れ、また先へと進む。
 危機に陥っている兵士がいれば手助けし、声をかけて注意を促しつつ、現状の把握に務める。
「レヴィ陛下」
 その最中に行き逢ったのはシュバルツヴィントだ。
「おう、どうだ」
「問題ありません。皆、それぞれに信念を持って踏ん張っている」
「ならいい。この辺りのことは頼む」
「御意。陛下は遊撃ですか?」
「ん」
「どうぞお気をつけて。あなたにもしものことがあっては、ご夫妻に申し訳が立ちません」
「ああ、ちゃんと生きて帰るから心配すんな。メイデもアルディアもそう願ってくれてるだろうしな。それに」
「それに?」
「アスカが戻って来んの、ちゃんと待ってねぇと後で何されるか判ったもんじゃねぇし」
「……」
「それに、まあ、なんでかはよく判らねぇんだけどさ、あいつがいてくれりゃ何とかなるんじゃねぇかって思ってるんだよな、俺は。楽天的とかそんなんじゃなくて、妙な確信があるんだ」
「…………」
「ん? どうした、シェル?」
「……いえ、何でもありません。ともあれ陛下、お気をつけて」
「ああ、ありがとう」
 シュバルツヴィントの沈黙の理由が判らず、小首を傾げつつも彼と別れ、向かってくる敵兵を――もう百人は斬ったような気がするが、それ以上は面倒臭くて数えていない――蹴散らしながら進んだ先で、レーヴェリヒトは『彼』を見つけた。
 『彼』の姿を目にした瞬間、違和感は決定的なものとなった。
「エルンストライト・オーム・ベデッケン……何で、あんたがここに」
 ぽつりと呟き、歩を進める。
 エルンストライトは、ハルノエン王家の貴人たちの……“小鳩の乙女”と呼ばれるハルノエンの第一王女の傍らで彼女を護る、白鳩近衛騎士団の団長で、ハルノエンでも随一の剣士であり武人でもある男だ。
 彼は強い男だが、しかし、その強さはハルノエンを支える王家の人々を――特にハルノエンの鍵であるヴュセルエリンデ姫を護るために揮われるべきもので、レーヴェリヒトは、エルンストライトが今まで戦争に参加したなどという話を聴いたことがない。
 それが、何故。
 否、最初から答えなど決まっていると言うべきなのかもしれない。
「一体、ハルノエンに何があったって言うんだ……?」
 疑念、困惑は隙になる。
 その隙を突かれれば、レーヴェリヒトのような手練れであれ見習い兵士に斃されることもある。
 心を、意識を常に明晰に保ち理知とともにあること。
 それがレーヴェリヒトに剣を教えた師の、もっとも大切にしたことだった。
 しかし、その疑念を消すことも出来ないまま、レーヴェリヒトはまっすぐにエルンストライトの元へと進んだ。
 事実を確かめ、ハルノエンの状況を知ることもまた王としての責務のひとつだろうと思ったのもあるし、何より、今はこんなことになっているが、リィンクローヴァにとってのハルノエンは、やはり特別な、遠い親戚とでもいうべき国なのだ。
 出来ることなら何とかしてやりたい、と思うのも、リィンクローヴァ人としては当然のことだった。
 ――そして、同時に、たとえどんなことになったとしても、きっとアスカが何とかしてくれる、だから心配は要らないと、きっとすべてがいい方向に進むだろうと、そんな風に強く思っていたのもまた、事実だ。