本が山積みになったその部屋に踏み込んだ途端、猛烈な『発作』に襲われた。
「……!」
 レーヴェリヒトの側近になるのに付随してあてがわれた、執務室とかいうご大層な名目の部屋である。
 内部は、ゲミュートリヒ市の名産品であるレッヒェルン玉樹でしつらえた重厚な机やキャビネット、座り心地のよさそうなソファ、壁一面に設置された本棚などによって構成されている。
 自分がこの部屋で誰かをもてなしたり訪問者に応対したりするようになるとは到底思えなかったが、本棚がたくさんあるのは素直に嬉しいことだったので、読みかけの本や気に入りの本などを運び込んでもらっていたのだが、
「……なるほど、『これ』はなくならない、んだな……」
 苦痛のあまりよろめいて手をついた先が本の山で、勢い余ってそれへ突っ込むかたちになった飛鳥は、崩れ落ちる本とともに転倒し埋もれながら大きな息を吐く。分厚い本が背中に当たったり腹に乗っかったりして重いし痛いがどうしようもない。
 変質を遂げたことで、人間である飛鳥と人間ではないものになってしまった異形の毒・《死片》の要素が相反し合って起きる『発作』も消えるのではないかと漠然と思っていたのだが、予想に反してそれはしっかり居座っており、
「……さて、ここからどうするか」
 指一本動かせず、本の山に半分ばかり埋まったまま、飛鳥は天井を仰いだ。
 妙に冷静なのは仕様である。
 大体、多い時で週に一二回の割合で起きていたものなので、すでにそれ自体には慣れている。といっても、苦痛に対して身体が慣れるということはまだないし、恐らく慣れることはないのだろうという予感もあるが。
「まあ、一時間くらいすれば多少は動けるようになるだろ」
 焦っても仕方がないことをここ数ヶ月で理解しているため、著作者たちに申し訳なく思いつつしばし硬い本をベッド代わりに休息を取る。
 この『発作』がどういうものであるのか、病などとは無縁だった飛鳥には実存の病気と比べて巧く説明することは出来ないのだが、身体が押し潰されるような気味の悪い痛みと、内臓を雑巾絞りにでもされているような嘔吐感を伴った圧迫感、神経の一本一本を断ち切られているような不快な激痛があり、手足の感覚が希薄になって、自分が呼吸しているのかどうかも定かではなくなるという、苦痛の玉手箱のような代物だ。
 といっても、飛鳥にとっては、苦痛よりも、現実が曖昧になるような浮遊感の方が気持ち悪い。
 せめて手が動けばこのまま読書が出来るのに、などと暢気なことを思いつつ、一気に倍に跳ね上がった心拍数を自分で数え、呼吸を整えていると、
『それはお前がまだヒトであるというあかしだ。苦痛が己が内にあることを喜べ、アスカ』
 脳裏に聞き覚えのある声が響き、飛鳥は苦笑した。
「ソル=ダートか。いったいどこにいる?」
 どこにも気配を感じ取れないのに、何故かソル=ダートが傍らに寄り添っているような、不思議な感覚だけがある。
『どこにもいない。ただ、お前が変質したおかげで境界が曖昧になり、“つなげやすく”なっただけだ』
「なるほど。それで……何か用か? 見ての通り、取り込み中なんだが」
 飛鳥が、本当にお前は今発作中で苦しんでいるのかと首を傾げられそうな平静さで問うと、
『特に用と言うものはないが。お前の中ではまだ、人間としてのお前と、人外のお前の要素とがせめぎ合っている状態だ。……そのせめぎ合いはしかし、お前に更なる力を与えることになるだろう。『発作』はお前の中にまだ人間としての要素が残っている証明に他ならない』
 そんな言葉が返ってきて、飛鳥はなるほどと再度首肯した。
 ――ほんの少し首を動かしただけで、全身が引き攣れたが、この際なので気にしないことにする。
「なら、『発作』の数が減るというのは、俺の、界神晶による侵蝕度合いが高くなってきた証拠ということか」
『まあ、そうだな。見たところ、すでに《死片》の毒は完全にお前と融合しているようだ。そこに界神晶の要素が絡んで、お前と言う一個の存在をより複雑怪奇にしているようだな。まあ、『発作』が数ヶ月に一度も起きなくなったら、そろそろ界神晶の使いすぎを意識した方がいい』
「さよか。つーか、そんな危険なもの、説明もなしに何故寄越す……」
『この試練を乗り越えてこそ強くなるものもあるだろう? 獅子は千尋の谷に我が子を突き落とすと言うらしいじゃないか』
「この世界にもその表現があるのか。だがあれは正直なところ人間の勘違いだぞ。あいつら、家族単位で子育てをする生き物だしな。……って、そう言う問題じゃないだろ。前にも言ったような気がするが、俺はあんたの子どもになった覚えはない」
『私も生んだ覚えはないな。だがまあ、ひっくるめれば似たようなものだ』
「……えらく大雑把なひっくるめ方をしたな……」
 創世の神々などというのは、そもそも大らかな存在なのかもしれない。
 まあ今更こいつがあんまり几帳面な性格になっても驚くしな、などと、飛鳥が少々失礼な納得の仕方をしていると、
「どなたと話しておいでです、アスカ?」
 性別の判然としない、ただ艶麗な声が静かに響き、
『おや……賢者殿のお出ましか。あれも、不憫な子だな』
 くすり、と笑ったソル=ダートがそんな呟きを残して黙る。
 傍にいる感覚がなくなったから、チャンネルのようなものを断ったのかもしれない。
「アスカ? ……どうなさったんです? 大丈夫ですか?」
 ソル=ダートの言う通り、わずかな衣擦れの音とともに現れたのは、この世界きっての大魔法使い、ハイリヒトゥーム・ディシェイラだった。
 大丈夫ですか、と問いつつ、飛鳥を見下ろすその鮮やかな瑠璃色の双眸には、どこか事態を面白がるような光が揺れていて、飛鳥は、また面倒臭いやつが一番に現れたな、などと素直に思った。
「見ての通り、『発作』というやつだ。しばらくは身動き出来なさそうなんでな、そっとしておいてくれるとありがたいんだが」
「ああ、そうなんですか。といっても、見てもあまり判りませんけどね……アスカは、顔に出ない性質ですか?」
「まあ、表情豊かだと思ったことはないな」
 片方は本に埋もれたまま、片方は手を差し伸べるでもなく小首を傾げて覗き込んだまま、淡々とやりとりをしていると、ハイリヒトゥームがくすりと笑った。
「……こんなに無力なアスカを見るのは、初めてですね。今なら、何の苦労もなくあなたの息の根を止められそうです」
 物騒な言葉を吐く賢者氏に、飛鳥が無表情のままあーもうこいつ面倒臭いを胸中に連発しているうち、いつの間にか彼の白く華奢な手には鈍く光るナイフが握られている。
「……どういう筋書きだ?」
「そうですね、どうしましょうか。危険を感じたから排除した……では、レヴィ陛下は納得なさらないでしょうしねぇ」
 瑠璃の双眸を、悪戯っぽい、しかし確実に殺意を含んだ、そのくせ妖艶な光がかすめる。
 飛鳥は盛大に溜め息をついた。
 無論、まだ身体は動かない。
 ただし、何も出来ないわけではない。
 ヒトと人外のせめぎ合いの最中とはいえ、飛鳥はすでに『その力』を手にしているのだから。
「死にたくなければ、命乞いをしてみてもいいですよ? あなたの強情な口から、泣き言が漏れるのは、きっとぞくぞくするくらい楽しいでしょうし。……怖いですか?」
「……ああ、あんたがとんでもない変態だと言うことはとりあえず理解した」
「素敵な褒め言葉をありがとうございます。とっても興奮してきました」
 花が綻ぶような麗しい笑みで、碌でもないことを言ってみせるハイリヒトゥームに、ここは全身全霊で突っ込むべきなのかなどと無意味な思考をしつつ、飛鳥はもうひとつ溜め息をつく。
「本気にせよ冗談にせよ、やめてくれ。俺はあんたを返り討ちにしてレイを哀しませるなんてことはしたくないんだ」
「ずいぶん強気ですね。私が肉体的には無力だから、甘く見ておいでですか?」
「熟練の武人だって、ナイフ一本で容易く死ぬだろう。人間なんて、その程度の強度に過ぎない。俺はそれをよく知ってる」
「なら、何故? 助けが来るのを期待しているから? それとも、私が本気ではないと思っていらっしゃる?」
「残念ながら、運の悪い人生を送ってきたからな、そういう幸運を信じる気にはなれないな。……単純に、手加減できないっていうだけだ――こんな風に」
 飛鳥がそう言った瞬間、ハイリヒトゥームの首筋に、黒く光る鋭い何かが突きつけられる。
 神々しくも冷ややかな輝きに、ハイリヒトゥームの動きが止まり、彼は大きく目を見開いた。その一瞬を見逃さず、鞭のようにしなったそれがハイリヒトゥームの手からナイフを弾き飛ばした。
 それは、飛鳥の身体から伸びている。
「……これは、いったい。あなたですか、アスカ」
「まあ、有り体に言えば、尻尾だ」
「は?」
「いや、まあ、何でもない」
 言った辺りで、ようやく身体が動くようになって、飛鳥はよっこらしょなどと年寄りくさい掛け声とともに身を起こした。まだあちこち痛いというか重苦しいが、指一本動かせない状況さえ脱してしまえば何とでもなる。
 それとともに、黒い槍は――要するに、人間の部分が動かせないならこちらを、と竜化させた尾の部分を武器代わりにしたわけだが――、飛鳥の身体の中に吸い込まれるように消える。
「ページにしわが入らなかっただけマシか……」
 一冊一冊に内心で詫びを入れつつ、散らばった本を拾い集め、机の上に積み上げていると、
「あなたは……いったい、何者です?」
 いっそあどけなくすらある、彼らしくない朴訥な問いが発せられて、飛鳥は苦笑して首を横に振った。
「俺にも、よく判らん。ただ、俺だというだけで」
「それは、とてもあなたらしい答えだとは思いますが、」
「そういうあんたは」
「……え?」
「予知能力者、ってやつか?」
 言葉を遮り、ごくごく普通の口調で言うと、
「……!」
 ハイリヒトゥームの目が、大きく見開かれた。
「何故、それを」
「そりゃ、あんだけ材料があればな」
 飛鳥は最期の一冊を積み終えてから肩を竦めた。
「といっても、精度はあまり高くない。どちらかというと、人の死に関することのような、不吉なことばかりを一方的に受け止めるだけの能力で、あんたにはどうにも出来ないことの方が多い。――どうだ?」
 これまでにハイリヒトゥームが口にしてきた言葉と、実際に起きた事柄とを照らし合わせて行き着いた結論がそれだった。
「……」
 無言のままのハイリヒトゥームの唇が、アルカイックスマイルとでも言うべき奇妙な笑みをかたちどる。
 飛鳥はその様に、何故か、この行動の読めない不思議な青年の内部が、実は驚くほど感情豊かなのではないか、などと思った。


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