葬儀が終わった翌日、アインマールへ帰還すると同時に、『煩雑なあれこれ』がどっと押し寄せてきた。
 黒の御使いとしての力を発揮し始めた飛鳥へのプラスマイナス両方からのアプローチと、その主となった――無論伝説上、便宜上のことで、飛鳥が『ご主人様』などと呼べば本人は本気で怯えるだろうが――レーヴェリヒトへの期待と賞賛の声である。
 ゲミュートリヒ市防衛戦と葬儀で開けたこの数日で、執務室に書類の山が形成されてしまったというレーヴェリヒトは渋々というか戦々恐々というかぐったりしながら仕事に戻ったため、黒の御使いにまつわる煩雑なあれこれからは逃れられたようだったが、飛鳥はそうも行かなかった。
 王城内を一歩行くごとに数人の貴族に囲まれ見え見えのお世辞に晒される、という背筋の痒くなるような苦行に身を置くこと数時間。
「……やれやれ」
 揉み手せんばかりの勢いで近づいて来る下級・中級貴族たちの輪から抜け出し、鬱陶しいと張り倒さなかっただけマシだ、と自分の忍耐力を褒め称えながら、飛鳥は大きな息を吐いた。
 呆れと疲労の含まれた息だ。
「ついこの前まで、俺のことを、家柄がとか得体が知れないとか蛮族が国王陛下に巧く取り入ったとか言ってた連中ばっかりだったな……」
 同じような貴族でも、飛鳥とレーヴェリヒトの関係に好意的な人々とは、加護持ちが御使いに変わってからも特に変化のない付き合いを続けており、彼らからは穏やかな祝福と、どうかこの国と国王陛下を頼みます、という旨を伝えられたのみだったが、『地位も財もない蛮族が国王陛下に巧く取り入った』などと陰口を叩いていた人々から、『黒の御使いに取り入って自分の立場をよくしよう』という態度を取られると正直萎える。
「……まあ、そういうのを使える人材にするのも、ある意味仕事か……」
 ゲミュートリヒ市での一件が功績として認められ、後日執り行われる御使い降臨のお披露目式典で――想像するだけで微妙な半笑いが込み上げるものの、仕方ない――大々的に紹介された後、近衛騎士団長リーノエンヴェ・カイエと並ぶレーヴェリヒトの側近兼護衛として、国王陛下の傍らに立つことが決まっている飛鳥だが、美味しい何かを期待して近づいて来る連中を引っ捕えて、レーヴェリヒトの治世に役立つ人材をつくるのも自分の役目かもしれない、などと思う。
 ちなみに、飛鳥に与えられる地位、役職の正式名称はまだ決まっていない。
 黒の御使いが膝を折った国王陛下の傍らに侍ることは当然だが、それは立場や存在であって役職ではないため、便宜上、何らかの上級職が与えられるそうなのだが、無論飛鳥にとってはどうでもいい話だ。
 そんなことを考えながら、側近としての仕事用にと与えられた部屋、どうもただの書庫になりそうな予感のするそこを整理整頓すべく王城の廊下を歩いていると、前方から見慣れた顔がやってくるのが見えた。
「!」
 向こうの方でも飛鳥に気づいたようで、人形のように整った美貌をわずかに強張らせる。
「エーヴァンジェリーン・ララナディア・エーポスか」
 リィンクローヴァでもっとも力を持つ、中央黒華神殿を統べる姫君である。
 国を霊的に護る貴い巫女姫であり、十大公のひとりである祭務大臣を父親に持つ生粋の貴族でもある彼女が、王城の上階層に足を運ぶことは別段奇妙でもない。
 しばらく前、祭務大臣である父親につまらないちょっかいをかけられたことはさておき、飛鳥はこの、自分への敵意を隠そうともしない高慢な巫女姫に対して特別な感情は持っていない。好感も特に持っていないが、悪感情も抱いてはいない。
 彼女が、少々間違ってはいてもレーヴェリヒトのことを大切に思うあまり飛鳥に敵意を抱いているというのなら、呆れつつ面倒臭がりつつも、飛鳥にエーヴァンジェリーンを嫌ったり憎んだりするような感情は生じない。
 もしかしたら自分はちょっと損をしているのかもしれない、とは思うし、その感情も、邪魔さえしてこなければ、という条件つきではあるのだが。
 しかし、彼女は、飛鳥に対して何らかの含みがあるらしく、白い肌をさっと紅潮させて後ずさった。
「姫様?」
 従者だろうか、傍らの、知的な美女が訝しげに彼女を伺うのへ、エーヴァンジェリーンは首を何度も横に振って、
「穢らわしい蛮族の分際で、わたくしの視界に入らないで!」
 飛鳥を漆黒の双眸で見据え、激しい口調で言い捨てた。
 飛鳥は基本的な反応だろうと肩を竦めたのみだったが、女性はそうも行かなかったようで、巫女姫と飛鳥を見比べ、困ったような顔をする。
「姫様、どうなさったんです?」
「どうもこうもないわ。お優しいレヴィ陛下に取り入って好き勝手をした挙げ句、今度は彼の側近に抜擢ですって? いったいどんな汚い手を使ったの?」
「姫様、それは、」
「イマー、あなたは黙っていて」
 駄々を捏ねる童女のような頑是なさで、責め立てられずにはいられないとでも言うように、性急に言葉を重ねるエーヴァンジェリーンに、飛鳥は小首を傾げて目を細めた。
「……あんた、何かあったのか?」
 飛鳥が静かに問うと、エーヴァンジェリーンはびくりと震えた。
 ほんの一瞬、強気な瞳の奥に見えた弱い光を見逃す飛鳥ではない。
 だが、その光は刹那の間に消え、エーヴァンジェリーンは眦を釣り上げた。
「あなたに何を言われる覚えもないわ」
「そうか、それはすまん」
 正直なところ、飛鳥にとってはどうでもいいことなので、殊更言い募るようなつもりもなく、そのまま通り過ぎようとすると、エーヴァンジェリーンは手にした扇子のようなものをきつく、壊れるほどに握り締めて叫んだ。
「何故そんな風に安穏としていられるの! あなたの所為で、ゲミュートリヒ市領主ご夫妻は亡くなったのに!」
「エヴァ様!」
 さすがに血相を変える女性の焦りとは裏腹に、飛鳥は緩い微苦笑を浮かべただけだった。御使いへの無礼は国王への反逆も同等だと、本心では思ってもいないようなことを出汁にして皮肉に返すことも出来たが、そんな気にもならなかった。
 それを見て、エーヴァンジェリーンが、女性が息を呑み、黙り込む。
「俺は俺の無力を否定しない。だからこそ約束を果たす。それだけだ」
 あの時、あれが、どれだけ、ああであれば、こう出来れば。
 それを思わないわけではない。
 もっとよい方法があったのではないかと、記憶を掘り起こしては考えてしまうこともある。
 しかし、それと同じくらい、あの最後の時にメイデとアルディアが見せた安らかな表情と、ふたりが自分に託して逝ったものの重さが、飛鳥にその無意味と、それよりも大切なことを常に指し示すのだ。
「責めたいなら責めればいい、好きなように。それで、あんたの気が晴れるんならな」
 ふたりは誰も責めていなかった。
 飛鳥を責めはしなかった。
 ただ、飛鳥に願い、飛鳥の幸いをも祈って逝った。
 だから、他の誰に何を言われても、それは痛みにすらならない。
「その言い草……反省すらしていないのね!」
「反省? 後悔? 今更だ。あの時のことを、俺とあの人たち以上に判る奴なんか、いやしない。俺とあの人たちのことを賢しく言う権利や道理が、あんたに何ひとつないってのと同じで」
 薄く笑ってきっぱり言うと、エーヴァンジェリーンは怯んだ。
 紅もささないのに赤く色づいた唇を引き結び、黙り込む。
 その瞳の奥に、また、不可解に弱い光が揺れて、
(……やっぱり、何かおかしいな)
 どうでもいいことだと思いつつ、飛鳥は胸中に首を傾げていた。
 エーヴァンジェリーンとは、初見での散々なやり取りの後、何度か顔を合わせているが、彼女がここまでの激しさを見せたことは、初対面のアレ以外なかった。ゲミュートリヒ市領主夫妻のことで飛鳥を責めてはいるが、彼らとエーポス家にそこまでの交流やつながりもなかったと聞いている。
 恐らく、エーヴァンジェリーンが飛鳥に絡む本当の理由は、彼女の言うようなものではない。
 エーヴァンジェリーンの、この反応からは、飛鳥がレーヴェリヒトの近くにいるからという嫉妬や憤りとは別の、
(感情を叩きつけずにはいられない、とでもいうような?)
 怯えにも似た何かを感じる。
 それが一体なんであるのか、彼女に何があったのか、飛鳥に知るすべもないし、知りたいとも別段思わないが、要するに八つ当たりのはけ口にされているのだろうと思えば納得も出来る。
「……まあ、好きにしてくれ。俺は俺の思うようにやる。あんたの思惑なんぞ知らん」
 ざっくりと会話を切って捨て、困惑顔のままで、宥めるようにエーヴァンジェリーンの背を撫でている女性にだけ軽く会釈をして、ふたりの脇を通り過ぎる。
 女性からは申し訳ないという表情を含んだ会釈が返ったが、エーヴァンジェリーンは両手で扇子のような何かを握り締め、少し俯いて黙り込んだまま、何も言わず、身動きひとつしなかった。
 ただ、飛鳥が完全に通り過ぎた後、背中に、何か言いたいこと、言わなければならないことがあるような、しかし躊躇うような、そんな、睨みつけるようでいてどこか縋るようでもある、視線の彷徨を感じたから、やはり何かがあるのだろう。
 飛鳥はそのことに対して特に何も思わなかったし、自分からは何もしないだろうと確信していたが、――まさかそれが、彼女の命に関わることにつながろうとは、その時は思ってもいなかった。