『なんだ……また来たのか』
 ふと気づくと、そこは光沢のある闇に満ちた部屋だった。
 ガラスのように透き通ったと表現するしかない漆黒で満たされた、それなのに暗さを感じることのない不思議な部屋だった。
「……ソル=ダート? なんで……」
 聞き慣れた――懐かしい声がかかってようやく我に返った飛鳥は、自分が部屋の中央に立ち尽くしていることに気づき、周囲をぐるりと見渡して首を傾げた。
 部屋の中央、つまり自分のすぐ傍に、きらきら光る色とりどりの水晶を使って創った小さな箱庭がある。
 前には確かなかったと思うのだが、それは、たくさんの緑とたくさんの水と、大きな山と小さな町で彩られた箱庭だった。箱庭は精緻で、色鮮やかで、活き活きと輝いていた。――まるで、本当に生きているかのように。
 その細工の美しさに見惚れた飛鳥は、次に壁と思しき辺りがちらちらと光っていることに気づいてそちらを見遣り、また見惚れた。
 壁は確かに壁として存在していることが判るのに、その向こう側の景色を伺うことが出来た。壁の向こう側では、光の泡と星のように流れてゆく光の尻尾と、オーロラを思わせる七色の光のカーテンが競演する、幻想的な光景が繰り広げられていた。
『なんでもなにも、お前が勝手に来ただけだろう。少なくとも私は招いていない。しかし……こんな僻地へ、導きもないのに迷わずやって来るとは、相当な変わり者だなお前は』
 地上では望むべくもない、光と彩りの競演に見惚れていた飛鳥だったが、まだどこか幼さを残した声が楽しげにそう言ったので、顔をしかめて声の主へ振り返った。
 そこには飛鳥の予想通り、白い簡素なワンピースをまとって、愛しい少女そっくりの顔をした人物が立っていた。手足の細さは痛々しいほどだが、飛鳥が失って久しい少女とは違い、ソル=ダートの名を持つこの人物は、身体の華奢さが弱々しさにつながらない奇妙な力強さをまとっていた。
 見つめた赤っぽい薄茶色の双眸に、ここ数日でずいぶん見慣れた紫の光がよぎったような気がして――白に近い茶色だったはずの髪に銀色の筋が見えたような気がして飛鳥は眉をひそめたが、もう一度目を凝らすとそれらはまるで幻のように消え失せた。
「なんで俺はここにいるんだ?」
 これが純粋な夢ではないことを、飛鳥はすでに事実として受け入れていたが、自分が何故今ここにいるのかが判らず、記憶を探る。
「確か、どうも風邪気味だからと、薬をもらってさっさと寝たはずなんだけどな……?」
 本来、風邪など引くはずのない飛鳥なのだが。
 色々なことがあった所為で身体が疲れているのかもしれない。
 あてがわれた部屋で、飛鳥の額に手を当てた圓東が、四十度近くあると驚き慌て、それを聞きつけて大仰に心配したレーヴェリヒトが氷だの薬だの果物だのを大量に持って現れ(花がなかっただけましかもしれない)、その後肝心のものを用意しない主君に呆れつつもエーレが医師を連れてきてくれたが、それがいったい何の症状なのかは結局判らなかった。
 一晩様子を観ようということで、熱さましの薬湯を口にして早々に眠りについたはずなのだが、――肉体が眠りに就いているのは確かなのだが、何故飛鳥の精神は、このよく判らない場所にまた来ているのだろうか。
 夢ではなくとも現実でもないだけに、ここでは身体のだるさや熱っぽさ、割れ鐘が鳴り響くような頭の痛み、内臓が裏返るような気分の悪さ、骨が髄から痛むほどの寒気と関節の痛み、手や足の震えはない。が、生まれて初めて病というものを経験してみて、人間というのはつくづく面倒な生き物だとしみじみ思った飛鳥である。
 あれならまだ、切り傷や擦り傷、打撲や骨折の苦しみの方がましだ。
 ――案外自分が打たれ弱いことを飛鳥は実感していた。
 外部からの苦痛より、内部の苦痛の方が辛いのだということを知るのと同時に。
 目覚めたらちょっとは改善されているといいな、などと、珍しく願望形でものを考えていた飛鳥だったが、
『ああ……何だ、そういうことか。これはまた見事に取り込んだな。それでは当然苦しいだろうとも』
 ソル=ダートが感心したようにそう言ったので眉をひそめた。
 そこに含まれる感心の意味が判らず、それ以前に何を言われたのかさっぱり理解できず、飛鳥は説明を求めて少女の姿をしたその人物を見遣ったが、『彼女』ははぐらかすような笑みをそのやわらかな唇に浮かべ、
『まぁ、そう遠くなく判るだろうさ、私が説明するまでもなく。お前自身が帯びた使命のゆえにな』
 それ以上のことは何も言わなかった。
 使命とかいうご大層な言葉の意味も気になるが、問い詰めて答えてくれるようなタイプにも見えず、飛鳥は追求を断念する。そもそも、あの少女の姿をしたモノに勝てる気はしない。
 さてではどうしようか、と、ここで目覚めるべきなのかそれともしばらく寛いでゆくべきなのかを迷った飛鳥だったが、ふと思い立って右手をソル=ダートの前に差し出した。
「あんた、これが何なのか知ってるか?」
 このよく判らない漆黒の指輪、誰も追及してこないのではなくこの世界の誰にも見えていないのだと最近ようやく気づいたそれについて、ソル=ダートなら何か知っているのではないかと思ったのだ。
 思い返してみれば、この指輪が現れたのはソル=ダートと初めて会ったあとに目覚めてからだ。『彼女』とこの指輪が何か関係していると考えるのはそう突飛でもないと思う。
 案の定ソル=ダートはにんまりと含みのある笑みを浮かべ、飛鳥のごつごつした硬い手を取った。それから白くて細い指先で漆黒の指輪を撫で、
『お前、字は読めるようになったのか』
 ――しかし、飛鳥の期待とはまったく違うことを口にした。
 しかも、質問に対する答えが質問である。
 飛鳥は顔をしかめたが、ここで逆らっても益はないと判断して首を縦に振る。
「表音文字の方はそこそこな。でも、じきに表意文字の方も読めるようになってやる」
『そうか……それは頼もしいな。なら、暇なときにでも界神晶という言葉を調べてみろ。どんなちゃちな百科事典にでも載っているはずだから、文字さえ読めれば何とかなるだろう』
「界神晶? それで出来ているということか?」
『読めば判る』
「……というか、あんたが今ここで教えてくれれば何の問題もない気がするんだが?」
『それでは面白くない。可愛い子には旅をさせよと言うだろう?』
「……俺はあんたの子じゃないぞ。あんたから生まれた覚えもあんたに育てられた覚えもない」
『私にも、お前を生んだ覚えもお前を育てた覚えもないな。だが、この世界に生きる存在のすべては私の子どものようなものだ。そこに暮らせば、お前だって子どもということになるだろう?』
「……そういうものか? どうも釈然としないんだが……まぁ、あんたの言わんとするところは判る。つまるところここでその界神晶とやらがなんなのかを教えてくれるつもりはまったくないということだな」
『ま、そういうことだな。精々学べ、世界にはとんでもなく面白いものやことがたくさんある。使命も義務も、責務も運命も今はまだどうでもいい。――ひたすら遊べ、世界を知るために』
 歌うように軽やかに、小鳥のさえずりのように楽しげに言葉を紡ぎ、白いワンピースを翻したソル=ダートが飛鳥の隣でくるりとまわる。それは、無邪気な子どもがする遊戯のように他愛なく、そして可愛らしかった。
 まるであいつが生き返ったようだ、と益体もない感傷にひたりかけた飛鳥は、何を今更と苦笑する。
 少女が死んだのは自分の力が至らなかった所為、自分に他者を守るだけの力がなかった所為だ。
 今ではもう自分の無力を呪うことも自分の不甲斐なさに憤ることもやめたけれど、唯一にして随一の完成品などと呼ばれ、歪んだ希望と期待を負って生きた十年と、ただひとりの少女のために死力を尽くした五年、あの心臓を鷲掴みにされるような日々を感傷に紛らわせてしまうことは出来ない。
 それはまるで楔(くさび)のように、飛鳥の魂を縫いとめまた律するのだ。
 孤独であれと……抜き身の剣であれと。
 もっとも、レーヴェリヒトという人間と出会ったことで、今の飛鳥はもう孤独ではなくなってしまったが。
 まるで飛鳥の心を読んだように、ソル=ダートの静かな声がかかる。
 きらきらと輝く箱庭が、そして色鮮やかな光に満ち溢れた暗闇が、『彼女』の声に呼応するように光を放ち、ざわざわとさんざめいた。
『――お前の救い手は常にお前を守るだろう。あの子は誰よりもお前を必要とし、愛し、決してお前を裏切らないだろう。お前を疎むことも、置いて逝くこともないだろう。……お前がその傍に在って守るのなら、お前があの子を喪うことはないだろう』
 確信めいた、静かなのにひどく強い口調に、飛鳥の眉根が寄る。
「待て、その言い方だと俺が守らなければ喪われてしまうように聞こえるぞ。あいつがそんな簡単にやられるはずが、」
 やられるはずがない。そう言い募ろうとして、自分を見つめるソル=ダートの双眸に浮かぶ不可解な光に気づき、思わず口を噤む。
「……それとも、何かが、起きるのか? あいつの安全や将来に関わるような、何かが……?」
 自分でも驚くほど動揺したらしく、声は少しかすれた。
 生粋の武人であり、稀代の手練れであり、何よりも生き残る強い意志を感じさせるレーヴェリヒト。
 飛鳥にはない、よいものをたくさん持ち、決して穏やかな日々ばかりではなくとも、最後には幸いと平和を手にするべきあの青年に、今後恐るべき災厄が降りかかるというのだろうか。
『私は埒外の者、本来ならば亡き者だ。生きた世界の営みに、賢しく口をはさむことは許されていない。だが……そうだな、私はお前が好きだよ、アスカ。世界がお前を愛し、必要としているのと同じように。お前の魂はとても孤独で、綺麗で、ガラス細工のように危ういから』
「なんだ、それ……?」
『この世界は美しいだろう、アスカ。とても美しいだろう? ここは私が創った世界、私が私のすべてをかけて守った世界だ。私はこの世界を愛しているし、喪われてほしくはない』
「待て、出来ればちゃんと、俺にも判るように言ってくれ。俺はこの世界の事情には詳しくないんだ」
『……だから、お前の救い手には生きていてもらわないと困る。あの子の命の行く末が、この世界の運命を決めるのだから。ならば私はお前に鍵を託そう、この遠い遠い世界の果てから、ほんの少しの力を貸すために。世界が救われるのと同等に、お前もまた救われることが出来るように』
 飛鳥の困惑をよそに、淡々と言ったソル=ダートが、再び彼の右手を取る。そして、その人差し指に輝く漆黒の指輪に、やわらかな唇で軽く口づけた。
 その瞬間、自分の身体に起きたそれを何と表現すればいいのか飛鳥には判らない。
 鈴の音のごとく風が吹き抜けるような、穏やかな光に照らされるような、涼しい清流のただ中にいるような、大地の温もりに抱かれているような、やわらかな炎に温められているような、静謐な無音の闇に安らいでいるような、小鳥たちのさえずりを一身に受けるような、獣たちの願いを両手に受け止めるような、木々の慈しみを全身に浴びるような、人々の営みのすべてを見つめているような、――自分と世界とが近づき、あたかも同じものであるかのように重なったような、そんな不思議な感覚が飛鳥の全身を包み込んだのだ。
 それは決していやな感覚ではなかった。
 それはひどく静謐だったが、歓喜ともいうべき、肌の粟立つような激しい感情を飛鳥にもたらした。
『世界の愛がお前とともにあるように、アスカ。そしてお前の愛する者たちが、同じく世界の愛とともにあるように』
 言ったソル=ダートがそっと手を離す。
 飛鳥は何を言えばいいのか判らず、眉をひそめて『彼女』を見つめるしかなかった。
 ソル=ダートは慈しみの微笑を浮かべ、
『世界と、生命と、ヒトの営みに幸いのあるように。そして願わくは世界がこれからも存続し、ルエン=サーラ、かの輪廻の黄金が、均しく幸いを見出せるように』
 ひどく重要な気がしてたまらないのに、胸に差し迫る感覚すらあるのにまったく意味の判らないことを口にして、その華奢な両手の平を胸に当てた。また、きらきらと箱庭が輝き、壁の向こうの闇が光を舞い躍らせる。
 飛鳥は何も言えずに立ち尽くしていた。
 身体の感覚がひどく曖昧だった。
 暑いのか寒いのか、軽いのか重いのか、目覚めようとしているのか眠ろうとしているのかの境界線が判らなくなる。
「……俺は何のために、誰に、ここへ……この世界へ招かれたんだ? 言っておくが、俺は、世界を救えと言われておいそれと応じられるほどご大層な人間じゃあないぞ……」
 ぐらりとぶれる視界が鬱陶しく、顔をしかめる。
 ソル=ダートが笑った気配がしたが、もうあまり周囲が見えない。
『招き手の主とは、もう出会っているはずだがな。片割れではあるが』
「……誰だ、それ……?」
 なおも問いを口にした飛鳥だったが、耳鳴りまで始まってはどうしようもなかった。また、ソル=ダートの笑う気配がする。
『もういい、もう眠れ。――……が……ために、……――しようとしてお前の身体が――……を起こしているんだ。ゆっくり休んで身体を整えろ、そうすれば――――』
 その先はもう聞こえなかった。
 意識はゆっくりと――ゆるやかに闇に飲み込まれ、唐突にふつりと途切れた。
 ソル=ダートの笑い声の、やわらかな余韻を脳裏に残しながら。


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