これまでの飛鳥にとって、世界とは決して敵と味方のふたつのみに分け切れるものではなかった。
 敵対はしていてもある一点において共犯者であったり、味方ではあってもある一点において決して相容れなかったり、味方ではなくとも敵対者でもなかったりと、彼を包む人間関係は常に複雑だった。
 だからこそ彼は敵意や好意を読むすべに長けていたし、敏感でもあった。
 飛鳥は常に周囲の状況を読み、流れを読み、思惑を読んで行動した。何もかもを力任せにやってのけるほど彼は愚かではなかったし、自分の力を過信してもいなかった。自分が所詮はひとりの人間であり、一個の存在でしかないことを飛鳥は深く実感していた。
 自分の力を客観的に理解しつつ周到に立ち回ること、それらは、寄る辺を何も持たない彼が、何よりも大切な存在を守って社会の底辺で生き抜くために必要不可欠な行為であり感覚だったのだ。
 それがほんの少しの変化を見せ始めたのは、あのゲミュートリヒと呼ばれる町で、純朴で善良な人々とともにしばらくの時間を過ごしてからだった。
 ――この世界において、黒とは重要な意味を持つ色であるらしい。
 他のどの色よりも貴い、強い力を持った色であるらしい。
 それを言えば金村も圓東もだろうと思いはするのだが、レーヴェリヒトやその周囲の面々の言を聞くに、飛鳥の黒はふたりの眷族のそれを超越した黒であるのだという。
 確かに飛鳥の目と髪は、黒目黒髪を基本とする日本人たちの中でも特に黒い。黒目黒髪と言いつつ、どこか茶色がかっていたり灰色がかっていたりする日本人の色彩の中でも、特異なほどに闇の色そのものだ。
 そう言われてみると金村の目はどことなく緑っぽいし、圓東の目は少し灰色がかっている。黒であることに間違いはないのだが、――完全な黒そのものではない。
 それが、飛鳥と『眷族』ふたりとの違いなのだという。
 そうと望んでこの色を持って生まれてきたわけでなし、飛鳥にはそれがどうしたと言うしかないことだが、ゲミュートリヒの人々は純粋な黒を宿した飛鳥を、敬意と友愛とを持って扱った。
 飛鳥は、市場や道を通るたび、人々のやわらかい笑顔と様々な言葉に行き会い、花や菓子や果物や綺麗な布を捧げられ、周囲にまとわり着く子どもたちの、好奇とちょっとした英雄を観るような視線に苦笑させられた。
 言葉の通じないころでさえ、飛鳥にはそれが感じられたし、無条件で与えられるその友愛に戸惑いすらしたものだが、十日滞在すれば愛着も湧くし、自分の存在が彼らを安堵させ彼らの営みの平穏を守るというのなら、その立ち位置を全うしようとも思った。
 ゲミュートリヒの人々は、飛鳥に打算のない友愛のあり方を示した。
 彼がそこにいることで平和が保たれることへの期待だけでなく、ひとりの旅人、ひとりの客人へのあたたかな視線は、飛鳥に今までの自分をほんの一時忘れさせたほどだった。
 ――――しかし。
 どうやら、ここは、少し違うらしい。
「レヴィ陛下、アスカとはどのようなお知り合いなのですか」
 濃紺の眼に濃い茶色の髪の青年――レーヴェリヒトよりもひとつかふたつ年上といったところだろうか――、第三天軍将軍シュバルツヴィントが、飛鳥を睨みつけたままレーヴェリヒトに問う。
 よほど嫌われたらしく、視線だけで人のひとりやふたり射殺せそうな強さだったが、飛鳥は肩をすくめてさらりと視線を外し、また窓の外に目をやっただけだった。シュバルツヴィントの怒りの気配が更に強くなるのが感じられたが、そんなものは飛鳥にはどうでもいいことだ。
 どんなに見目がよくとも相手は自分より長身で年上の男だ、そんなむさ苦しいものを見ているより窓の向こうに広がる奇跡のような光景を目に焼き付けているほうがずっといい。
 シュバルツヴィントが殺気立っていることは理解しているのか、飛鳥の視界の端でレーヴェリヒトが小さく首を傾げた。
「シェルは何を怒ってんだ? 何か不味いことでもあったか?」
「いえ……何でもありません、陛下。お気に障ったならお詫びします」
「いや、別にいいけどな。怒ってばっかりだと身体に悪ィぞ?」
「は……」
「軍族は身体が財産だしな、若ぇうちからそこそこ気を使ってやらねぇと」
「…………御意」
 どうやらレーヴェリヒトという青年は、素晴らしく話を脱線させる才能に恵まれているようだ。従順に頷くシュバルツヴィントの眉間に、やるせないと表現するしかないような皺ができたので、飛鳥は何で俺がと思いつつも助け舟を出した。
「……レイ、話がずれたぞ。そこの将軍閣下は俺とお前の関係を問うておられるんじゃなかったか?」
 敬語もクソもない、タメ口満開の飛鳥の言い様に、またしても軍族の一部が殺気立ったが、飛鳥同様レーヴェリヒトはまったくそれに頓着せず、ぽんと手を打ってうなずいた。
「ん、そうだったな。アスカとはゲミュートリヒで会ったんだ、眷族ともども異形に襲われてるとこに出くわしてな。で、あんまり見事な戦いぶりだったもんで、そのまま放っておくのももったいない気がしてウチの客分になってもらったんだ」
「では、誰ぞの紹介などではなく……?」
「なんで友達作るのに誰かの紹介が必要なんだ。いくら幼馴染みだからってそこまで子ども扱いすんなっつの。まぁ、それで、《死片》を受けた関係できちんとした浄化が必要ってのもあって王都に来てもらったってわけだな」
「陛下、しかしそれでは……」
 飛鳥にはシュバルツヴィントの言わんとするべきところがよく判った。
 ゲミュートリヒ領主宅の世話になっておよそ十日間、特に言葉が理解できるようになってからは様々な人々の様々な会話に耳を傾けてきたが、今この世界は乱世のただ中にあり、リィンクローヴァという国は現在大陸のみならず世界の覇権を狙う国々に脅かされているらしい。
 規模こそ小さいものの、よく訓練された軍隊を有し、肥沃な土地と豊富な鉱脈を有し、絹や紙や鋼といった重要な特産品にも恵まれた豊かなこの国を、自国に組み込みたいと思う為政者は少なくないのだろう。世界の覇者を目指すなら、国力を充実させるための手段を選んではいられないだろう。
 世界に民主主義という考え方が芽生えておらず、絶対的な王権によって国が統べられているのなら、国王の存在こそが国の要となるだろうし、王なしに国の存続は不可能となる。
 ゲミュートリヒでのレーヴェリヒトを見るに、彼は国民たちから絶対的な信頼と愛情を寄せられているようだから、万が一彼が喪われるようなことがあれば、この国は混乱の一途を辿ることになるだろう。
 そういう意味で、シュバルツヴィントの――そして軍族の面々の不安は当然とも言えた。戦場の最前線に立って戦う彼らにとって、その彼らを統べるべき国王の存在は絶対的なものだろうからだ。
 しかしながら、わずか十日のつきあいにして、レーヴェリヒトの鈍さ及び自分に関することへの無頓着さを理解している飛鳥には、白銀の髪の国王陛下がまったく判っていない風情で首を傾げ、
「……しかし、どうした?」
 そう返すであろうことも理解出来てしまった。
 主君にそう返されて更に言い募れるほど強心臓ではないのか、それともレーヴェリヒトに絶対服従の類いなのか、シュバルツヴィントは口ごもり、
「いえ、ですから、その……」
 どう説明するべきかを算段するように視線を泳がせた。
 敵意を向けてくる相手に親切にしてやる謂(いわ)れもないと思いつつ、何となく憐れになって飛鳥は口を開く。
 ――そのことが、余計に彼らの神経を逆なでするのだということも理解していたが。
「おそらくは、だ」
「ん、どした、アスカ」
「そちらの将軍閣下は……というか軍族の方々は、俺がどこかの国の間者か何かで、お前に害なすために遣わされたんじゃないかと危惧しておられるんだろう。ぱっと見た限りじゃ、お前が死んだらガタガタになりそうだからな、この国」
「――――は?」
 返った声は美しかったが驚くほど間が抜けていて、飛鳥は思わず笑いをこらえる。
「いやまぁなんというか、お前が鈍いってことは心の底から理解したつもりだったが、そこでそういう反応が返ると更に納得せざるを得ないな。あのな、お前王様だろ、レイ。臣下の連中の気苦労も理解してやれよ」
「とか言われても。え、それってつまり、お前が俺を殺してリィンクローヴァをどうにかしようとか思われてるってことか?」
「まぁ、そういうことだろ」
「…………お前、俺を殺してなんか得なことってあるのか?」
「まったくないな。完全に路頭に迷うことになるうえ、反逆者の烙印を押されて追われる身になるだけだ。せっかくこんな綺麗な国に来たのにそれでは楽しくないし、お前に関しては、どうせなら生きてるとこをいじる方が面白い。お前もそう思うだろ?」
「……いや、うん、大まかなとこはそれでいいと思うけどな。最後のはあんまり嬉しくねぇんだが……」
 携帯電話のことを思い出したのか、額を押さえてレーヴェリヒトが呻く。
 気にするべきところが思い切りずれているが、これがレーヴェリヒトという人間なのだろう。
 飛鳥は小さく肩をすくめた。
「ともかく、そういう心配をされてるってことだ。その心配は多分、間違いじゃないし過剰なわけでもないと思う。特に、お前に仕えてる連中にとっては。国を支えるってのはそういうことなんだろ? だったら、その憂いを晴らしてやるのも王様の勤めだ、精々励め」
 飛鳥の言い様はとても一国の主に対するものではなかった。
 飛鳥がレーヴェリヒトを王として観ていないのだから当然だが。
 彼の言に、シュバルツヴィントを始めとした面々の表情に更なる怒りの色が差したが、グローエンデを始めとした軍族の何人かは理解に似た光を宿した目を飛鳥に向けていた。軍族も一枚岩ではないということだろう。
 レーヴェリヒトはちょっとだけ肩をすくめ、溜め息をつくと、渋々といった風情で頷く。
「判ったよ。なら、誰かにお前の身元保証を引き受けてもらうことにしよう。多少の気休めにゃなるだろ? ……つってもなぁ、ことお前に関しちゃ、そんな回りくどいことが必要とも思えねぇんだよなぁ」
「その判断をくだすのは俺でもお前でもない。お前の周囲の人間だ」
「あーはいはい、判った判った、肝に銘じる。まぁそういうわけだから、お前らもあんま心配すんなよな。それにアスカは、ハイルが全面的に認めた加護持ちだぞ。これ以上の保証が他にあるか?」
 ハイリヒトゥームの名が挙がると、敵意満載だったシュバルツヴィントたちにわずかな動揺が走った。彼らは陣の隅に、まるで彫像のように無言で佇む美貌の賢者を見遣り、そして再び飛鳥を見遣った。
 視線を受けたハイリヒトゥームがゆるりと微笑む。
「賢者殿……それは、本当ですか」
「はい、第三天軍将軍閣下。アスカに邪なものは感じられません。彼は正当にして稀有なる黒の申し子、この国にある限り、このリィンクローヴァに平和と安寧をもたらしてくれることでしょう」
「……そうですか」
 飛鳥が思わずむず痒くなるような褒め言葉とともにハイリヒトゥームが断じると、シュバルツヴィントは静かにそう返した。彼の眼差しは、厳しく――殺意すら含んで飛鳥を睨んだままだったが、濃紺の眼の将軍はそれ以上言い募らず、そこでその話は途切れた。
 シュバルツヴィントが納得したと思ったのか、それとも最初から大して深刻な問題とも思っていないのか――多分どちらともだろう――、
「忙しいのにわざわざ戻って来てくれてありがとうな、急かして悪ィが、とりあえず各自の状況を聞かせてくれ。辺境の警備状況が知りてぇ。あー……そうだな、第三会議室で、十五分後に。いけるか?」
 さっさと話題を変えると、あっさり違う問題に移ってしまった。それはそれで重要そうな響きがあったが、シュバルツヴィントを始めとする面々は、言いたかったことの半分も言えてはいないだろう。
 主君がここまで鈍いと臣下の面々はなかなかに苦労してそうだ、と飛鳥は胸中に同情する。
 しかし、レーヴェリヒトに異議を申し立てる者はなく――グローエンデなどは明らかに楽しそうな表情でシュバルツヴィントを見ていたが――、全員が恭しく一礼して頷いた。
 一同を代表してエーレが口を開く。
「御意。では、そのように取り計らいましょう。――それでレヴィ陛下、アスカのことはどうなさいますか?」
 飛鳥を見遣る彼女の新緑色の目は、面白いものを見つけたという楽しげな光を含んでいた。
「ん、あぁ、そうだな。もう少ししたら双子が部屋の段取りを整えてくれると思うんだけどな。まぁ、そこで寛いでてくれてもいいし、王城をぶらぶらしててくれてもいいし、暇なら町まで行っててもいいぞ。何か必要なものがあったら用意させるからな。アスカ、お前はどうしたい?」
 問われた飛鳥はというと、特に何も考えていなかったのだが、もうしばらくこの景色を見ていたいという意識が強かったので、それに従うことにした。いつ見納めになっても悔いないようにという、前向きなのか後ろ向きなのか判らない意識だ。
「この場所が、俺がいても不味くない場所なら、もう少しここで外の風景を観ていたいんだが」
「そっか、判った。別に不味いってことはねぇと思うぞ、好きなだけ眺めてくれ。じゃあ、部屋が準備できたら呼びに来るよう言っとく。まぁ、好きなように寛いでくれな」
「ああ」
「ならちっと着替えてくるわ、俺。またあとでな」
「判った、またあとでな」
 子どもっぽく開けっ広げに笑ったレーヴェリヒトが、長衣の裾を翻して歩き出すと、軍族の面々が次々にその背に続いた。
 レーヴェリヒトの隣にエーレとリーノエンヴェが並び、その背後にはハイリヒトゥームが続く。美男美女揃いなのでなんとも絵になる光景だ。
 去り際、飛鳥に冷ややかな殺意のこもった視線を寄越したのは第四天軍将軍トゥーセだ。第一天軍将軍ヴァールハイトはその内心を読ませない完璧な無表情で一礼し、それに続いて第二天軍将軍カチェラが花の綻ぶようなやわらかな微笑とともに飛鳥を一瞥する。油断の出来ない微笑だ、とはそのときの飛鳥の偽らざる心境だった。
 次に、楽しげな笑みとともに飛鳥を見遣ったグローエンデが部屋から退室し、副将軍たちが自分たちの上司を追って出て行く中、その間を縫うようにして、細々とした片づけを黙々とこなしていた四人の男たちが戻ってくる。
 金村はイスフェニアと、圓東はノーヴァと意気投合したようで、双方にはすでに十年来の友人のような信頼が見て取れた。
 彼らが他愛ない会話を交わすのを一瞥し、再度窓の外へ視線を向けようとした飛鳥だったが、部屋にまだシュバルツヴィントが残っていることに気づいてかすかに眉をひそめた。彼の姿を認めた金村たちが、お互いに顔を見合わせている。
 濃紺の眼の将軍は、その双眸に複雑な――様々な負の光を宿して飛鳥を見据えていた。
「……何か用か?」
 淡々と飛鳥が問うと、シュバルツヴィントは濃茶の眉を撥ね上げ、
「いったいどうやってレヴィ陛下に取り入った」
 吐き捨てるようにそう言った。
 言葉の意味が一瞬理解できず、飛鳥は更に眉をひそめる。
「――あ?」
「陛下はとてもお優しい方だ。貴様のような得体の知れぬ下賎の者であれ、それを打ち捨ててはおけない方だ。その陛下のお優しさにつけこんで、貴様はいったい何を企んでいる」
 語気は荒く、そしてそこには、今にも腰の剣に手を伸ばしそうな、怒りと嫉妬と疑念とがあった。
 飛鳥はそれを鼻で笑ってやろうとして、結局のところ、彼の言動のすべてがレーヴェリヒトを大切に思うゆえなのだとうっかり気づいてしまい、胸中に溜め息をついた。
「何を企んでいると言ってやれば、あんたは満足して俺を斬り殺すんだ?」
「はぐらかすな! レヴィ陛下は確かに人の好い方だが、加護持ちというだけでああまで懐に入ることを許される方ではない。レヴィ陛下に何をした?」
「何をしたつもりもないが?」
「何もせず、俺たちよりも傍に在ることを許されるものか。色以外、血筋も地位も顔も強さも、取り立てて優れたところもないくせに」
「シュバルツヴィント将軍! 我が主君へのその侮辱、聞き捨てなりません!」
 子どもっぽさ全開で言い募るシュバルツヴィントに、ああこれは長い時間を傍にあった幼馴染みゆえの嫉妬というヤツかと妙に納得していた飛鳥は、彼の前に立ちはだかり、コバルトブルーの双眸に怒りを載せたノーヴァがシュバルツヴィントに噛み付くに至って大きな溜め息を吐いた。ちらりと見てみれば、イスフェニアも無言で飛鳥の前に歩を進めている。
 金村は冷静に双方を観察していたが、圓東はすでに腰が引けていて、ほとんど金村の背後に隠れてしまっている。喧嘩が性に合わないということなのだろうが、この先ずっとこうではやっていけまい。
 ――――ノーヴァの手が今にも腰の剣に伸びそうになっているのを観てしまい、リィンクローヴァのヤツらは馬鹿ばっかりだ、と非情な断じ方をして飛鳥はまた溜め息をついた。
 どうして人間というヤツは、自分が誰かの一番だとか誰かより自分の方が愛されているとか大事にされているとか、自分こそが誰かを一番よく判っていて愛しているとか、そういうことの証明に心を砕きたがるのだろうか。そんなものは、自分が自分の心の中で理解し銘じておけばいいことなのに。
 今にも臨戦態勢に入りそうなノーヴァの姿に、シュバルツヴィントが侮蔑の表情を浮かべた。
「末端の騎士ごときが俺に意見か。もろともに斬られたくなければそこを退け、俺の用があるのはそいつだけだ」
「そう言われて退くとお思いですか」
「――――犬が!」
 吐き捨てたシュバルツヴィントが腰の剣に手をやる。
 光が走るような速さだった。
 ノーヴァもまた手練れの雰囲気を覗かせた青年ではあったが、シュバルツヴィントはその更に上を行く手練れだった。それこそ芸術的なまでの流麗さでそれを抜き放ち、立ちはだかるノーヴァに向けて剣を一閃させた。
 しかし、話半ばにして剣を抜くのだから、驚くほど短気な男だ。
 剣閃は十分すぎるほどの敵意を含んでいたから、そのまま斬り払われればノーヴァはただではすまなかっただろうし、寸止めで済ますつもりだったにせよ、あまりに攻撃的な脅し方だ。
 が。
 剣はノーヴァに届きもせず、シュバルツヴィント本人がその手を止めることもなかった。
 ただ、がつんという鈍い音がしただけだ。
「わがき……じゃなくて、アスカ?」
 ノーヴァが驚きの声を上げる。
 ――――何故なら。
「その、剣は……!」
 シュバルツヴィントが目を見開く。
 ……ぎちり、と鋼が鳴いた。
「星鋼の剣と聞いているが?」
 そもそも、シュバルツヴィントが本気ではなかったというのもあるだろう。いくらなんでも、そこで一気に本気モードに入るような単細胞がレーヴェリヒトの幼馴染みでは先行きが不安すぎる。
 だから、それは決して飛鳥の手柄ではないのだろう。
 しかし、将軍という、武人の頂点たる責務にある人間の剣の一撃が、飛鳥の手にした剣の鞘であっさりと受け止められていたのもまた事実だった。
「その意匠……バーディア・クロムの業物か……!」
「銘なぞ知らん。使えさえすればどうでもいいことだ。領主夫妻が持たせてくれたものだが……早速役に立ったな」
 片手に掲げた星鋼の剣で――その鞘でシュバルツヴィントの刃を受け止めたまま、飛鳥は涼しげにうそぶく。剣そのものの重量に加えて、シュバルツヴィントの打ち込みは達人級と判る重さを伴っていたが、今回はどうやら飛鳥の膂力に凱歌が上がったようだった。
 シュバルツヴィントが忌々しげに剣を引き、腰に戻す。
 剣での戦い方などまったく知らない飛鳥としては、更に踏み込んで来られたら拳に物を言わせるしかないと思っていたところだったので、その潔い引き方にちょっとホッとする。さすがに、レーヴェリヒトの幼馴染みを徹底的にやり込めるのは気が引けるからだ。
 ――そこで自分が負けるとは欠片ほども思っていないところが飛鳥の飛鳥たる由縁である。
「ゲミュートリヒの領主ご夫妻が……それをお前に持たせたのか。その、星鋼の剣を」
「そのようだな」
「十大公家の一員たる俺が、そうと望んで手に入れるまで三年要した鋼だぞ。それを……お前のような、何の後ろ盾もないような子どもが……?」
「なら、それはつまり、あの領主夫妻こそが俺の後ろ盾ということになるんだろう」
 同じ十大公家の一員とはいえ、田舎都市と称されるゲミュートリヒの為政者に、十大公家の……貴族の中の貴族と言って間違いないような血筋のシュバルツヴィントが「ご夫妻」という敬語を使ったのは、あの都市の真の姿が、平和なだけの田舎ではないからなのだろう。
 それを理解しての、飛鳥の打算的な言は、どうやらシュバルツヴィントの威勢を削いだようだった。
 飛鳥は、昔世話になった老夫婦を思い出すから、あの穏やかでちょっと感覚のずれた領主夫妻が好きだ。だが、あの夫妻が自分の後ろ盾などとは欠片も思っていない。ただ、国王の客分ということで親切にしてもらっているだけだと思っている。
 しかし星鋼の剣というのは相当なインパクトのあるものだったらしく、シュバルツヴィントは飛鳥の物言いを信じたようだった。彼は濃紺の眼に鋭い光を宿したままで低く舌打ちをし、それから深緑のマントをばさりと翻した。
「……お前を信用したわけじゃない。その剣に免じて今は退く。だが……もしも、レヴィ陛下に何かがあったら、躊躇いなく肉片にしてやるからそのつもりでいろ」
「は、肝に銘じるさ」
 声はその流麗さを裏切って底冷えのするような本気を含んでいたが、飛鳥は動じることなく肩をすくめ、淡々とそう返した。シュバルツヴィントがまた忌々しげな舌打ちをする。
 舌打ちはしたが、それ以上何かを言うこともなく、シュバルツヴィントが部屋を出て行くのを、飛鳥は黙って見送った。
 その長身が入り口の向こう側に消え、気配が遠ざかると、
「うあー、び、びっくりしたー」
 大きな息を吐いた圓東が金村の背後から姿を現す。
 飛鳥は圓東のそれとは違ったニュアンスの息を吐いて前髪をかき混ぜた。
 ぼんやりと、ほんの少し、頭が熱いような気がする。一度にいろいろなことが起きた所為で、思考が知恵熱でも出しているのかもしれない。
 ――――飛鳥は荒事が大好きだ。
 どうしようもないところまでこじれて、力で解決せざるを得なくなったような類いの案件は、飛鳥の本領がもっとも発揮されるところだったし、飛鳥の得意とするところでもあった。
 ねちねちとした肚の探り合い、騙し合いや駆け引きが苦手とも嫌いだとも言わないが、拳同士でものを言う、あの単純極まりない『最後の手段』ほどの爽快感は感じない。
 ……そして、どうやらこの王城には、飛鳥を嫌う面々が決して少なくはないらしい。
 理由は判らなくもないし、あえてそれらの誤解や怒りを解こうと思うほど親切でもない。飛鳥に飛鳥の揺るぎない――譲れない考え方があるとして、彼らには彼らの考え方、信念や行動理念があるのだ。自分が責任を持ってそれらの理念を果たしてゆくのなら、たとえ敵対する関係となるのだとしても、飛鳥はそのことを責めはしない。
 だからきっと、これからここで暮らしていくならば、飛鳥を亡き者にしてしまおうとする連中や、彼らをここから追い出そうと画策する連中とも行き逢うことになるのだろう。
 飛鳥の存在は、王権が絶対とされるこの世界においては明らかに異端だった。他者に膝を折ることをよしとはしない飛鳥の性質は、拾われた相手がレーヴェリヒトでなかったら、もっと不味いことになっていたかもしれない。
 それでも、今の飛鳥の行動を支配するといって過言ではないレーヴェリヒトが、飛鳥がそうあることを望み喜ぶから、彼の立ち位置は揺るぎなく変わらないのだ。
 そのことが、更なる怒りと排除の力を生むと知っていても、だ。
 それで負けて泣き言を垂れてやれるほど飛鳥はやわではないし、返り討ちにしてやると誓える程度には彼の意志は強靭だ。それを真実にするだけの力も持っている。
 だから、今の飛鳥の心には、荒事への期待が根差している。すべてのしがらみから解き放たれて大暴れしてやろうという、性の悪い期待で心が沸き立っている。
 ――けれどそれと同時に、その醜悪極まりない争いを、レーヴェリヒトには見せたくないという心理も働いていた。
 それゆえの複雑な溜め息だった。
「ん、どしたのアニキ。やっぱアニキはすごいよな、あんなおっかない剣の一撃もあっさりとめちゃうんだから。ノーヴァ、怪我とかないか?」
「ああ……わが……じゃなくてアスカのお陰で大事ない。ありがとうございました、まさかあそこで抜かれるとは思ってもみませんでした。第三天軍のシュバルツヴィント将軍といえば短気なことで知られるお方ですが、まさかあそこまでとは……」
「ふむ、確かに軍を統べる人間としてはちょっと不味いような短気さだったな。お前があそこであいつに噛み付かなきゃもうちょっと穏便に済んだような気もするが、まぁ無事でよかった。ちなみに頼みもしないのにまた同じようなことをした場合はもう助けないからそのつもりでいろ」
「うわっ、全然よかったと思ってないでしょうそれ! いや、そりゃ確かにちょっと出すぎたかとは思いましたけど! 仕える主君を侮辱されて黙っているようでは直属騎士の名折れですよ!?」
「名前なんぞ折れようが砕けようがどうでもいい。名より実だ」
「それは確かにそうですが……」
 更に何か言い募ろうとするノーヴァを片手で制し、飛鳥はまた息を吐いた。
 頭が痛い、と胸中に愚痴ってから、それが猪突猛進型の下僕騎士の今後を真剣に憂慮するゆえではないことに気づいた。
 物理的に……というか身体的に、頭痛がしているのだ。
 頭が熱いと思ったのも、心理的な要因だけではないらしい。
 背筋を滑り降りるのは寒気とかいうものだろうか。
 肉体の構造上、風邪などというものを引いたことのない飛鳥には、生まれて初めて経験する感覚だった。はっきりいってあまり気持ちのよいものではないし、嬉しいものでもない。
「……若? どうした、顔色がよくねぇぞ?」
「ん、いや、ああ。何だろうな……」
 気遣うような金村の声に、飛鳥は首を傾げた。
 風邪を引いたときは早く寝るに限る、という、近所の人々の言葉を脳裏に思い起こし、素直にそれに従うことにする。
 まったく、ここにきてから色々なことが経験できるな、とは、そのときの飛鳥の偽らざる胸中だった。