0.神子姫(みこひめ)と東方の騎士

 灯りすらない暗い部屋の中。
 差し込むのは、新月の夜空に輝く淡い星光ばかりだ。
 しかし、部屋の主と騎士には、部屋の暗さなど大した問題ではなかった。それらを超越した感覚が、ふたりに周囲の様子を教えてくれるからだ。
 新月の、かすかなかすかな光の筋を風流がって喜ぶ趣味もなかった。
 お気楽な上流階級のお貴族さま辺りは、それらをありがたがって、涙など流しつつ詩のひとつやふたつ唸っているかもしれないが、ふたりにそんな軟弱な思考はない。
 立場や責務こそ違えど、ふたりの行動理念はほとんど同じだった。
 夜空は確かに美しかったが、それはふたりにとって当然の姿だったし、そもそもふたりの興味は、まったく別の方向を向いていた。
「そろそろ……かしらね?」
 ゆったりの寝そべっていた籐の長椅子から身体を起こし、ふっくらした唇を笑みのかたちに緩め、淡い光を宿した月長石の双眸を細めて言った銀髪の娘へ、騎士はにこりともせずに頷いた。
 わずかに差し込む光を受けて、騎士の漆黒の髪がそのときばかりは黄金のように輝く。
「気配がする」
「そう。いつ頃来るかしら?」
「遅くとも、一年以内には」
「……ずいぶん曖昧なのね」
「私は予知者ではない」
「並の予知者より優れた感覚を持つくせに」
「一部においてだけだ」
 詰るような口調だが、銀髪の娘は楽しげだ。
 騎士は淡々と、ただ事実だけを短く口にして、また黙った。
 銀髪の娘がくすくすと笑う。
 褐色の滑らかな手が騎士を手招きし、それからその細い指先が、素直にそれに従い隣に腰掛けた騎士の、白い頬にそっと触れる。
 騎士は微動だにしない。ただ、金にも琥珀にも見える艶やかな双眸を、ほんの少し細めただけだ。
「ねえ」
「どうした、姫」
「今は神子とも姫とも思う必要はないわ。ここにはわたしとあなたしかいないのに、誰を憚(はばか)ることがあるの?」
「だが、神子は神子だし姫は姫だ」
「東方人(とうほうびと)は融通が利かないわね。本当に、頑固なんだから」
「種の性(さが)だ、私に言うな」
「そう言うと思った」
 神子姫と呼ばれた銀髪の娘は、騎士の言にまた笑った。銀の鈴を震わせるような軽やかな声だ。
 騎士の眉根が寄る。
「……何か言いかけただろう」
「ああ、そうそう。忘れるところだった」
「年か?」
「呪うわよ」
「……すまん」
「まったく、本当に朴念仁なんだから。もう少し他人の心の機微に敏感になってもらわないと困るわ」
 楽しげに溜め息をついて見せた神子姫がそう言ったので、騎士はますます眉を寄せた。
「何故、困る」
「あなたに任せようと思うから」
「――――何を」
「当然、決まっているでしょう」
 彼女の、固有名詞を使わないその言い方でも、騎士はすべてを察することができた。何せ長いつきあいだ。
 察することは出来たが、だからといって納得できるわけではない。
 この神子姫は騎士にとって恩人に当たるので、彼女の言うことを無碍にするのは決して騎士の望むところではないのだが、責務から離れた、あまりにも不得手なことを押し付けられるのもまた望むところではない。
「私が、か?」
「そうよ。ほら、鈍感の判らずやでは勤まらないでしょう? 頑張ってね?」
「待て、私は、」
「だって、他のふたりは忙しそうなんですもの、気の毒だわ。かといって、腕に覚えのない輩においそれと任せるわけには行かないし。わたしたちの希望ですものね」
「その希望をあっさり丸投げか。本来は姫の仕事だろう」
「わたしだって忙しいのよ?」
「…………ものすごく嘘臭い」
「あら、そう?」
 しかし、残念ながら騎士には判っていたのだ。
 ここで騎士が是と言おうが否と言おうが、騎士の意志には関係なく、神子姫がそれを騎士に任せると決めてしまったことが。
 容貌は繊細で物腰はやわらかいが、神子姫はこうと決めたらてこでも動かない頑固さの持ち主だ。自分が正しいと思えば、どんな時でも我を通してしまう。騎士を頑固と言った本人の方がよほど頑固だ。
 その頑固者に、延々と楯突いたところで無意味以外のなにものでもない。
 だから、神子姫を含む一部の人間にはすこぶる弱い騎士が、そこでひとつ溜め息をついて折れたのは当然とも言えた。
「……仕方ない」
 騎士の言葉に神子姫がにっこりと笑う。
 騎士の仲間たちが憧れてやまない、輝くように美しい笑顔だ。
「ありがとう」
「……あまり期待はするな」
「ええ、期待しているわ」
 間髪入れずに返ったそれに、騎士はまた溜め息をつく。
 神子姫は神々しくすらある笑顔のまま、また褐色の指で騎士の頬に触れた。騎士の武骨な手が彼女の指を捕える。
 騎士が不器用な手つきで彼女の指先に軽く口づけると、神子姫はほんの少しくすぐったげに笑った。そして、静かに声を落とす。
「守ってあげてね」
 それは、静かだが強い意志のこもった言葉だった。
 世界の希望と呼ばれるものへの、深い慈愛を感じさせる。
 そう、『希望』の負うべきものが、あまりにも重いがゆえの。
「……私は守ることには向いていないぞ」
「ええ、判っているわ。あなたは――あなたの一族は、そういう風に出来ているのだものね。でも、信じているわ。ねえ?」
「そう求められて否と言えるほど恩知らずな一族でもない。業腹だが、精々励むさ」
 言って神子姫の手を解放し、騎士はその場にひざまずいた。
 胸に拳を当て、恭しく頭(こうべ)を垂れる。
「誇り高き東方人の裔(すえ)として、その名に恥じぬ働きをしよう。我が姫君の、不朽の栄光のために」
「ええ……期待しているわ、わたしの騎士。あなたに貴き御神(おんかみ)の加護と慈悲があるように」
 仰々しい誓いと返答を、まるで戯れるように交わし、神子姫と騎士はかすかに笑い合う。
 世界の行く末を見守る、縁辺(ふちべ)の者として。