眦を厳しくした飛鳥は、ペットボトルの中身がまだたっぷり入っているのを確認し、ボトルキャップをしっかり閉め直すと、
「遺言くらいは聞いてやるぜ、金村さん。あんたんとこの若に伝えてやるよ、あんたの死体を運ぶときにでも」
 などと、ことさらに余裕を誇示する男の方角に向かって思い切り踏み込み、渾身の力を込めてペットボトルを投じた。
 飛鳥から男までは二十メートルほどの距離があったが、非常識な腕力を誇る彼の手から放たれた500ml入りのペットボトルは恐ろしい速度で宙を飛び、ゆっくりと――恐怖心をあおるかのように――引き金に指をかけていた男の横っ面を見事に、非情なまでの正確さで直撃した。
 ごしゃっ、という鈍い音がして、
「ぐっ、が……ッ!?」
 こめかみの辺りを強打された男が、くぐもった悲鳴をあげて銃を取り落とす。拳銃が地面を転がる音と、ペットボトルがごとんと地面に落ちる音が同時に響く。男はたたらを踏んで何とか体勢を整えようとしたが結局踏みとどまれず――それでも昏倒しなかったのはさすがというべきか――、そのままがくりと膝をついた。
 ペットボトルを投じると同時に走り出していた飛鳥は、何が起きたのか理解できずにいる襲撃者たちを尻目に、無言で男の傍らに到着すると、流れるように自然な――見事な動作で、こめかみを押さえて呻いていた彼の横っ面、つまり先ほどペットボトルが直撃した部分を爪先で蹴り上げた。
「ぎゃあぁ……ッ!」
 死なない程度に加減はしていたが、それが痛くないはずもなく、聞き苦しい悲鳴をあげた男が薄汚いアスファルトを転がるのへ追い縋り、その脇腹へ靴先を叩き込む。頑丈なブーツを愛用している飛鳥の爪先に腹を強打されて、苦痛の声を漏らすと同時に男は白目を剥いて昏倒した。
 面構えのわりに手応えのないヤツだ、とは飛鳥の率直な感想だった。
「さ……坂崎さんっ!!」
「んな……ッな、なんなんだ、てめぇっ!?」
「俺たちを近藤組の人間と知って喧嘩売ってやがんのか!」
 男が昏倒するにあたってようやく事態を理解し、匕首を手にした襲撃者たちがオリジナリティの欠片もない、悲鳴混じりの怒声を上げるが、飛鳥はまったく訊く耳を持たずに体勢を変えるや、手近な場所にいたひとりの顔面に拳を叩き込んだ。
 人体の中でも鍛えようのない部分、すなわち鼻を強打されて、
「っぎゃ……ッ!」
 くぐもった苦鳴とともに匕首を取り落とした彼が、鼻血に染まった顔を庇うように、顔を両手で覆う。飛鳥は無防備になった脇腹に回し蹴りを食らわせ、その身体がよろめくのを見計らって足を払い、その場に転倒させた。
 予測もしない闖入者に、襲撃者たちの足並みが乱れる。
 信念もなく、他者の命令に唯々諾々と従うだけの兵隊などそんなものだろう。飛鳥にしてみれば、もっともやりやすい相手だ。
「何だ、何もんだお前っ! どこの鉄砲玉だ……!?」
「うるさい黙れクズども。俺の目の前に不ッ細工なもんさらしやがって。今すぐこの場で死んで詫びろ! いいから死ね!」
「な……なんの話、だ……っぎゃ、ぐふ……っや、やめろ……ッ!」
 一瞬呆気に取られ、次に抗議の声を上げた男の手を捻り上げ、匕首を落とさせたあとで、だらしなく突き出た腹を何度も蹴りつける。男は悲鳴とともに逃げようとしたが、
「……情けねェ連中だな……」
 いつの間にか彼の背後にいた金村が静かに嘆息し、彼の首筋に強烈な手刀を叩き込むと、あっという間に沈黙させた。まるで棒切れが倒れるかのように、男の身体が引っ繰り返る。
 飛鳥は金村には頓着せず、さっさともうひとりに向かって行った。飛鳥に狙いを定められた男は、すでに腰が引けている風情だったが、逃げられないと理解してか自棄気味の金切り声を上げて匕首を振りかぶった。
 無論のことへっぴり腰で扱われる刃物に威力などあろうはずもなく、飛鳥は両手で彼の腕をあっさりと封じ、がら空きになったその股間を勢いよく蹴り上げた。蒼白になり、叫ぶことも出来ずに悶絶している彼の足を払って転倒させ、固めた拳でこめかみを軽く一撃して昏倒させる。その動作に躊躇や容赦はなく、ひたすらに的確だった。
「な……なんなんだ、なんなんだお前っ! 何の恨みがあって、俺たちにこんな……!?」
 あっという間に残りふたりとなってしまった襲撃者たちが、狼狽を隠しきれない様子で飛鳥を詰る。言葉のところどころが震えるのは、数の優位を失ってしまったからだろう。もちろん、数だけがいたところで、飛鳥を狼狽させることは不可能だが。
 あまりにも情けない言い様に、飛鳥はうっすらと笑って、足元で伸びている男の頭を軽く蹴飛ばした。完全に失神しているらしく、呻き声ひとつ上がらない。軟弱なことだ、などと脳裏に思う。
「馬鹿だろお前ら。ヤクザとかいう不能者集団の、粗大ゴミ並に目障りなクズどもの分際で何の恨みとかほざくか、存在自体が不要無意味害悪そのもののくせに。いっそ今すぐ死んで償え、俺を不愉快にさせた罪をな!」
 居丈高に吐き捨てた飛鳥が一歩踏み出すと、彼の言動に完全に飲まれてしまったらしく、残ったふたりは情けなくも一歩下がった。
「馬鹿は馬鹿らしく、精々みっともなく泣き喚いてみせろよ? それが一番の弔いだ」
 そう言って獰猛な愉悦に笑った飛鳥が、獲物を狙う肉食獣そのものの表情で更に一歩踏み出したとき、――――唐突に、彼の耳を歌がかすめていった。かすかだがはっきりとした音だった。
 音は空から訪れた。
 聴いたことのない音楽だった。
 飛鳥は思わず、ビルの所為で狭くなり、ネオンサインのために星を失った天を振り仰いだ。無論、そこに何かを見出すことは出来なかったが、歌はどこからともなく嫋々と響いていた。
「…………?」
 どこか哀しげなメロディのそれは日本語ではなく、英語でもなかった。
 わけあっていくつもの言語を母国語と同等のレベルで習得している飛鳥だが、その言葉はあまりにも耳慣れない音韻を伴っていた。今までに聞いたどの言葉とも異なっていたのだ。
 異国情緒溢れる、とでも言えばいいのか、飛鳥には聴き慣れない旋律のそれは、しかしやさしく美しかった。
 それと同時に、誰かに呼ばれているような感覚を抱く。

 早くおいで。
 待っているから、早くここまでおいで。
 早く、早く、早く。
 世界が完膚なきまでに乱れてしまう前に。
 ――――のために、おまえが必要だ。

 誰かが手招きをしているような感覚が胸に迫ってくる。
 それは飛鳥が久しく忘れていた、自分を唯一絶対と呼び必要としてくれたやわらかな存在と、それを前にしたときに抱く、あの温かい感覚をも呼び起こした。二年前からどうしようもなく凍りついたままだった心の奥に、小さな火が灯るのが判る。

 誰かが自分を呼んでいる。
 魂の奥底から、自分は呼ばれている。

 今や飛鳥はそれをはっきりと自覚していた。
 その奇妙さを理解しつつも、飛鳥には『誰か』が自分を必要としているのだという事実を否定することがどうしても出来なかった。飛鳥はそれを必然と感じた。
 非現実的だと一笑に付すことなく、当然のこととして受け入れる。
 それが、生々しく残酷な現実こそが生そのものである、常の――これまでの飛鳥にしてみればどれだけ珍しいことか、このときの飛鳥自身は気づいていなかった。気にしてもいなかった。
「誰だ、お前……?」
 急に動きを止め、どこともない宙を見据えてつぶやいた飛鳥を、残った襲撃者のみならず、金村や少年までもが訝しげに見つめている。
 飛鳥は周囲の視線など気にせず、再度天を仰いだが、そこには見慣れた薄曇りの夜空があるばかりで、声の主を見出すことは出来なかった。
 ただひたすらに、必死の祈りすら感じるほどに、招かれていることが判るだけだ。招く相手も知れぬままに。
 それはひどくもどかしく、飛鳥は眉をひそめて周囲をうかがう。
「誰だ、俺を呼んだのは……?」
 不意に空気が変わったことを飛鳥は理解していた。何かが起ころうとしていることを、本能で感じていた。知らず知らず、未知の何かに備えて身体が身構える。
 金村と少年はなおも飛鳥を凝視していたが、襲撃者ふたりは急に動きの止まった彼の姿にそれを勝機と捉えたのか、顔を見合わせるや頷き合い、匕首を握り直した。
「てめぇから仕掛けたくせに、寝惚けてんじゃねぇぞッ!」
「死んで償うのはお前の方だ、覚悟しやがれ!」
 ふたりは、三下に相応しくオリジナリティの欠片もないありきたりな台詞を吐き、匕首を構えると、痛みを堪えるような表情で彫像のようにたたずんでいる飛鳥へ殺到する。そこに手加減という意志は存在しなかった。一撃で始末をつけようという殺意だけがあった。
 様子をうかがっていた少年が顔色を変え、
「あ、危ないって、ニイさん!」
 飛鳥に危機を伝えるが、飛鳥は身動きひとつしなかった。
 ――無論飛鳥にそれが見えていなかったわけではない。彼らと刃物が身近に迫っていることが判らなかったわけではないし、彼らの放つ不細工で仰々しい、まったく洗練されていない殺意を感じなかったわけでもない。
 ただ、それ以上に大きなものの存在を、全身で感じていただけだ。そのなにものかが、今まさにここへ迫っていることを。
 身体がすうっと冷たくなる。
 背筋が粟立つような、居心地の悪い感覚が全身を包む。
「……何か、来る……?」
 飛鳥がそうつぶやいた瞬間、彼の視界の中で世界が透き通った。
 地面が、建物が、空が、まるでガラスか水晶のように、向こう側の景色を透過させる。
 古びたアスファルトが透き通り、地下をまるで海のように映し出す。
 建物が幾重にも透けて見え、世界中のあちこちで忙しく歩き回る人々の姿を垣間見せる。
 夜空がひどく蒼く近くなり、星の営みが触れられるほど傍に感じられる。
 それらは非常に幻想的だったが、人間の視覚には荷の重い映像だった。あまりにもたくさんの視覚的情報を与えられたために、飛鳥はひどいめまいを感じて倒れそうになる。
「くそ、目が回る……」
 ――飛鳥は、これを自分だけが感じているものと思い込んでいたが、
「う、うわあぁぁッ!?」
「ななな、何だこれ……ッ!」
 どうやら、周囲の面々にも同じものが見えているらしい。
 情けないほど引っ繰り返った声で襲撃者ふたりが喚き、
「ぎゃーっ、落ちる落ちる落ちるッ! たたた助けて金村のアニキっ! おれまだ死にたくないっ!」
「……しがみつくな、痛い」
「だだだだってっ! 何なんだこれ!? 何がどうなったらこんなことが起きるんだ!?」
「俺に訊くな」
 泣き出しそうな声で圓東が金村にすがりつき、金村は冷静さを保っているようでいてわずかに声と表情を引き攣らせながらその場に硬直している。顔色もよくない。――いかに金村が百戦錬磨の手練れだとしても、戦いとは違う次元の脅威にまで慣れているというわけではないのだろう。
 彼らのちょっと間抜けな姿をひどく冷静に観察し、遠く遠くまで見晴るかせる世界がこんなにも広く、またその営みが忙しなくも美しいことを理解して、この世界で生きるのは悪くない、と飛鳥が笑ったのと同時に、――――足元から地面が消えた。
 いや、地面が消えたのか、それとも自分の身体が空に向かって引っ張り上げられたのか、飛鳥には判然としなかった。方向感覚は曖昧で、上下すらはっきりしない。ただ、身体が地上から離れてゆくことだけが判った。
「っぎゃ――――っ!! 死ぬ死ぬ死ぬっ、助けて神さま仏さまっ!!」
 盛大な悲鳴は圓東のものだ。
 あまりに情けない声に飛鳥は思わず笑った。
 透き通った視界はひどくぶれ、周囲の様子をうかがうことは出来なくなっていたが、圓東も金村も、そして襲撃者たちも同じような感覚を味わっているらしく、狼狽し恐怖している様子が伝わってきた。
 ――――世界が色を失ってゆく。
 十七年間、憎み怒ると同じくらい愛し親しんだ、彼の日常であった世界が遠ざかってゆくのが判る。感覚のすべてがそれを理解している。
 落ちてゆくのか昇ってゆくのかまったく判らない中、何故か恐怖を感じずにいた飛鳥の鼻腔を、鮮やかな緑の匂いがかすめた。

 早くおいで。
 ――――の、ために。

 再びあの声が――あの歌が聞こえた。
 それとともに、唐突に眠気が襲ってくる。
 あまり睡眠を必要としない、日頃から眠りの浅い飛鳥にすら抗うことの難しい、心地よく甘い睡魔だった。
 なるように、なる。
 これから起きることへ恐怖を覚えるよりは、訪れた非日常を――自分だけの招き手と出会うことを楽しむような風情でそうつぶやくと同時に、飛鳥の意識は暗闇の中に落ちた。
 甘くやわらかい眠りだった。
 まるで、誰かに守られているかのように。





 そこにあるのは一面の漆黒だった。
 どことなく艶めいた、滑らかさをうかがわせる黒い空間に、切り出した水晶を敷き詰めて造ったような広い広いフロアがある。
 どこまでも果てなく続く漆黒の天からは、絶え間なくいくつもの光の雫が滴り落ち、水晶フロアを取り囲む漆黒の湖に、無音のまま白い光の波紋を描いていた。漆黒の湖もまたどこまでも果てなく続き、白い波紋はどこまでも伸びてゆく。
 それはひどく静謐で幻想的で、そしてそれでいてどうしようもない孤独を含んだオブジェだった。
 永劫を思わせるその繰り返しの中、水晶フロアにはふたつの人影があった。ひとりは青年、ひとりは娘の姿をしている。ふたりとも星のように輝く漆黒の髪をしていた。長い長い髪は艶やかに美しく、光の雫がわずかに放つ白い輝きを反射してきらきらと光をまとった。
 ふたりは、水晶フロアの中央に座す、身の丈ほどもある漆黒の珠に手を添えて頭を垂れ、目を閉じて、何かを一心につぶやいていた。
 漆黒の大珠が内部に星の光を抱いてきらめく。
 そこから何分、何十分、何時間かが経過して、やがてふたりは顔を上げ、双眸を開いた。その双眸もまた、星のように輝く漆黒の色をしていた。
「――――御使い(みつかい)は招かれた」
 漆黒の青年がささやく。
 漆黒の娘は頷き、愛しげに大珠を撫でた。
「ようやく輪が回るのね、エルダーナ」
「そうとも、輪は世界のために回るだろう、エルシェーラ」
「エルディオラは、エルソーリアは何と? 他のフォウたちは、何を?」
「――――すべては、かの方々の願いのままに、と。いずれのフォウたちも、御使いを招くことを承知した。すべてはよい方向に進むだろう」
 漆黒の青年の言葉に、漆黒の娘が笑みを浮かべる。
 安堵と祈りを含んだ美しい笑みだった。
「では、わたくしたちは天に座す者として、」
「次を、地に座す者へ託そう」
「すべては愛しきかの世界のため、」
「そして愛しきかの方々のために」
「たとえ全土が耐え難く乱れようとも、」
「嵐なしには恵みも存在しないがゆえに」
 流れるように言葉を紡ぎながら、ふたりはまったく同じ動作で漆黒の大珠に額を当てた。ふたりに触れられたことを喜んで、内部の星光がきらきらとさんざめく。
「どうか強き御使いよ、」
「どうかこの世界に光明を」
「わたくしたちの愛するこの世界と、」
「我らの愛するかの方々に救いを」
「この愛しき世界の存続と、」
「かの愛しき方々の安寧を」
 ふたりはそう、まるで定められた物語を読み進めるかのような流麗さで、互いに言葉をかわすごとくに、星を抱いた大珠へ囁いた。ふたりが言葉を紡ぐごとに、漆黒の大珠は星光を舞わせ、何かを喜ぶように――はしゃぐかのようにきらきらと輝いた。
 ふたりはそのまま大珠に寄り添って、すべての真実を見届けるのだ。
 これから起きる、数々の嵐を。