2.悠久なるソル=ダート

 もはや思い出でしかない意識の彼方で、心底愛した人々のやさしい声を聞きながら、飛鳥はとろとろとまどろんでいた。
 その心地よさ、穏やかに満ち足りた様は千金にも値しようかというほどで、もしかしたら母の胎内とはこんなものなのかもしれない。
 しかし忙しない人間の常で、同じ時間、同じ感覚にずっと留まってはいられない。まぶしい、朝独特の光がまぶたを刺した辺りで飛鳥は目覚めた。
 ゆっくりとした覚醒が訪れ、ゆるゆると目を開くまで、愛しい――そして二度と元には戻らない平穏な日々の記憶を無限再生する飛鳥の脳裏には、ずっとあの歌が流れていた。やさしくどこか哀しげなその歌は、飛鳥の胸を静かに満たしていた。
 今までにない清々しい目覚めに、飛鳥はやわらかく温かな土から身体を起こして伸びをし、肩や首を軽く揉んで欠伸をした。身体中の疲れが綺麗に取れ、活力がみなぎっているのがよく判る。
 空気は澄み切って瑞々しく、外気は暑くも寒くもなくちょうどいい。
 今何時だ、と手首に目をやれば、一月ほど前、実力もないのに自分に挑んできた頭の悪いガキどもから彼らを見逃す代わりに分捕った、多機能でごつい腕時計の針は、午前九時という時間を示している。
 ただし、この時計が正常に作動しているかどうかは飛鳥にも判らない。
「……よく寝たな。久しぶりだ、こんな気持ちのいい朝は」
 こんなに遅い時間までゆっくりと眠った朝は十歳より以前にしかなく、彼にとってそれはちょっとした驚きだった。
 天涯孤独のひとり住まいの常で、自分に言ったつもりでつぶやいた飛鳥だったが、
「図太すぎるよ、ニイさん……」
 傍らから途方にくれた声が響いたので、そちらへ顔を向けると、ひどく顔色の悪い金村と、ちょっと泣きそうな表情をした圓東が、大きな岩に腰かけて飛鳥を見ていた。
 ぐるりと首を回して周囲を見渡せば、どこを見ても鮮やかな緑という景色の中、金村を襲撃した近藤組の刺客たちがあちこちに伸びている。数を数えてみると十人全員いた。全員、眠っているのか気絶しているのか判然としない様子だった。
「……ふむ」
 呟き、特に何でもない様子で状況の確認と把握に務める。
 といっても、明るい緑に胸の奥が爽やかになるばかりで、ちょっとしたレーダーばりの精度を誇る飛鳥の感覚を持ってしても、今のところ差し迫った危険を感じ取ることは出来ないのだが。
 飛鳥たちがいるのは、森林と森林の間にできた天然の広場といった趣の草原だ。
 珍しいかたちの葉の、エメラルドグリーンと言うのが相応しい鮮やかな木々に囲まれた草原で、何という種と言い当てることも難しそうな、どこにでもあるような――これといった特徴のない雑草にくまなく覆われたそこは、ひどくやわらかく温かかった。天然のベッドといっても過言ではないだろう。
 事実、これらの草のお陰で飛鳥の安眠は素晴らしく守られ、これまでにない爽やかかつ健やかな目覚めを迎えることが出来たのだから、なかなか優秀な天然素材である。
 緑の少ない場所で生きてきた飛鳥には、ここがどこなのかという疑問よりもまず、このどこまでも続くかのような草の絨毯があまりにまぶしく、彼はやわらかな雑草をそっと撫でた。瑞々しい手触りは、これが確かな現実であるということを伝えてくれる。
 これが現実なのだということをしっかり認識してから、
「……で、どこだここ」
 ようやくもっとも基本的な疑問を口にすると、圓東が途方にくれた溜め息をついた。
「いやあの、ものすごく正しい質問だとは思うけどおれに言われても。おれの方が訊きたいよ、何でおれたちこんなとこにいるわけ? 確か昨日は歌舞伎町にいたよな?」
「あれから一日しか経っていないかどうかはさておき、確かに記憶の最後は歌舞伎町だ。しかし、一体どんな力が働いたらこんなところまで運ばれるような事態が起きるんだろうな。物理的になんか色々と変じゃないか?」
「ブツリ的にとかガクジュツ的なこと言われてもおれ判んないし」
「『物理的』のどこが学術的だ馬鹿。……しかし、迎えがあるのかと思ったらそういうものでもないみたいだな。自分で出向いて行って探さないと駄目なのか、なかなか甘やかしてはもらえないというわけか? しかし……さて、これからどうしようか……?」
「お、お迎え? って、え、もしかしておれたち死んだとかっ!? じゃあここって天国!? こんな質素な天国イヤだ、テレビもバイクもパソコンもゲーセンもないなんてっ!」
 招き手の声ならぬ声、あの祈りの含まれた呼び声を反芻しながらつぶやいた飛鳥の言葉に過敏に反応し、圓東がいきなり取り乱す。
 明らかに染めたものと判る、半端に伸びた灰金色の髪を振り乱し、小動物か仔犬さながらに飛び上がると転がるように――滑り込むように飛鳥の元へ来て、必死の形相と言うのが相応しいような表情で服の裾にすがりつく。小さな子供がやれば愛嬌もあるが、同年代程度のしかも同性では鬱陶しい以外のなにものでもない。
「ニイさんニイさん、なあっ、なあなあっ! おれまだ死んでないよな!? ちゃんと生きてるよなっ!?」
「うるさい」
 飛鳥は端的に言うと圓東を無造作に張り倒して立ち上がった。
 張り倒された方は、二十年くらい昔の昼の連続ドラマに出て来たような、薄幸のヒロインを彷彿とさせる姿勢で地面にへたり込んで抗議の声を上げたが、飛鳥はそれを完全に黙殺する。取り乱した人間の相手を真面目にしても無駄だと判断したためだ。
「いいい、痛い……っ! ひどい、ひどいよニイさんっ。おれが何をしたっていうんだ……っ!」
 圓東の恨みがましい声を、まるで何ひとつとして聴こえていないかのように無視して周囲を見渡す。
 ここがどこなのかを見極めようと、少しでも情報を集めようと思ったのだが、目に入るのは鮮やかで活き活きとした森林の緑と目が痛くなりそうなほど青い空、耳に入るのは風の囁きと鳥のさえずりのみだった。あまりにも深い空の青は、断じて今の日本の色ではありえず、空気から現代の匂いはしない。
 精神を研ぎ澄ませば、ここにたくさんの命が満ち溢れ、獣たちの野生の営みが繰り返されているのだろうことを感じることは出来たが、飛鳥にとってもっとも近しく親しい生き物、すなわち人間とかいう名前の忙しない連中が生活のために立てる忙しない音はどこからも聞こえてこなかった。
 これだけ深い森林なら、近隣にまとまった人家などがないのは当然かもしれないが、右も左も判らない上に行く当てすらないという状況にある彼らにはあまりありがたくない事態だ。
 ただ、常人よりも優秀な飛鳥の目は、鬱蒼と繁る森林の更に向こう側、ここから南側へまっすぐに1qほど進んだ先に、どうやら人為的なものであるらしい道が存在するのを見出していた。
 草を除き、大きな石を取り除いて地面を平らにならすという行為を人間以外の種族が行うというのなら『人為的』とは言い難いが、どちらにせよそれは明らかに何者かの手が加えられたものだった。
「……あそこで待てば、誰か通りかかるか……。問題は言葉が通じるかどうか、だな……」
 独語とともに再度周囲を見渡すと、まだどこか顔色の悪いままの金村と目が合った。
 圓東のように取り乱すことはなかったが、彼もまた相当混乱しているのだろう。
 仁侠の道に生きる大の大人であり、武人としての覚悟があったとしても、こんなよく判らないところに放り出されれば混乱するのは当然だ。圓東はそれを全身で表現しているだけのことで、途方にくれているという点では金村と圓東の間に大した違いはないように思えた。
 しかし、この先どうしようかというリアルの問題を思案していても、得体の知れない場所に来てしまったということに関してはまったく緊張も混乱もしていない、むしろこの状況を楽しんですらいる飛鳥は、かすかに首を傾げて声をかける。気遣うというよりは、からかうような風情で。
「どうした、元気がないじゃないか。昨日はあんなに活躍したくせに」
 どこか挑発的なそれに返ったのは溜め息のような苦笑だった。
「そういうお前がおかしいんだ。よく冷静でいられるな、あんなよく判らない目に遭って」
「まぁ、取り乱して何か得になることがあるならそうするけどな。今一番大事なのは現状を正しく把握することだろ。……あー、うん、明らかにここ日本じゃないな……」
「何故そう言い切れる?」
「日本にあんな木はない。見てみろ、あの葉っぱ。葉身が細かい金網みたいになってるうえ、葉っぱそのものが透き通ってるんだ。ほら、色ガラスみたいだ、向こう側が透けて見えるぞ、面白いな」
「……どう面白いのかはともかく、だ。いや、面白くねぇとも言わねぇがな。ここが、そんな奇妙な樹木が存在する、どこか、俺たちが知らねェような奥地の日本だって可能性は?」
「その可能性が皆無とは言わないけどな、俺たちが知らないほど未開の奥地なんて、今の日本にそれほどたくさんあるのか?」
「……それは……」
「大体にしてこんな時代だ、どんな奥地であってももうすでに国に管理されてるんじゃないか? 仮にあったとしても、そういうところにある樹木の種類は限られてるだろ。こんな突拍子もなく珍しい樹が大量に自生してるような未開の地、今まで聴いたこともないぞ」
「……なら、ここはどこなんだ?」
「それが判ったら苦労しないっつの。まぁ、そう焦っても仕方ないだろ、のんびりやるのが一番だ。あーでもやばい、腹減ってきたな。育ち盛りが朝飯抜きなんて、身体によくないな……」
「何て図太い坊主だ……」
 何の緊迫感もなく言った飛鳥が、そろそろ空腹を訴え始めた正直な胃袋について嘆息すると、金村は額を押さえて呻くようにつぶやいた。
 否定する気もない飛鳥はかすかに肩をすくめた。幼い頃から生き死にのかかった修羅場で生きていれば必然的にこうなる。むしろ、こうでなければ今まで生きてこられなかったというだけのことだ。
 飛鳥が図太いのは、結局のところ今まで生きてきた十七年があまりにも凄惨で痛みに満ちていた所為だ。彼にしてみれば、幼い頃に比べれば今のような状況など何の苦痛でもない。
 むしろこの鮮やかな緑、生命の息吹そのものといったこの風景は、彼に今までにない活力を与えていた。飛鳥はすでに、ここがどこであれ、この場所をひどく気に入っていたのだ。
「……ああ、そうだ」
 空を飛んでいる見慣れない鳥を見遣り、アレは小さすぎるから食えないか、いやあの程度で充分なんだろうが他の連中の分としては少ないよな、などと生々しい思考を展開しながら朝食に思いをはせていた飛鳥だったが、不意に金村が声を上げたので首を傾げて彼を振り返った。
「ん、どうかしたか」
「いや、昨日の礼を言ってなかったな。助かった、恩に着る」
「勘違いするな、あんたのためにやったわけじゃない。俺はヤクザなんて生き物はこの世から即刻消滅すればいいと思ってるクチだからな」
 飛鳥の歯に衣着せぬ物言いに金村が苦笑する。
「……なら、何故助けた?」
「違う、別に、あんたを助けようと思ったんじゃない。あいつの持ってたあの不細工な代物が大嫌いなだけだ。あんなものを自慢げに持ってるようなヤツは頭の足りない証拠だ、生きていても可哀相だから今すぐ彼岸にでも旅立った方がいい」
「は、なるほど。だが、そのお陰で結果的に助けられたことに違いはない。助かった、ありがとう」
「……ヤクザのくせにえらく素直で律儀な男だな」
「そうか? 恩を感じたら礼を言うのは、ヤクザ者も堅気も関係なく普通のことだと思うがな。ああ、俺は金村勇仁(ゆうじん)という。まぁ、これも何かの縁だ、よろしく頼む」
「ヤクザによろしくするもされるもない、と言いたいところだが、どうも俺はあんたが嫌いじゃないらしい。仕方ないからよろしく頼まれてやろう。俺は飛鳥、雪城飛鳥だ。姓でも名でも好きに呼べ」
 自分の倍くらいは生きていそうな金村に向かってどこまでも偉そうに飛鳥が言うと、苦笑した金村はかすかに頷いてから小さく首を傾げた。
「雪城、飛鳥か。悪くない名だな。だが、お前のその名字、どこかで聞いたことがあるような、気がするんだがな……?」
「そう珍しくもない姓だ、どこかで耳にしたこともあるだろうさ。もしくはあんたの気の所為だろう」
「……そうか」
 どことなく釈然としない風情で、しかしそれ以上言い募るほどではないのか金村が再度頷くと、
「あっ、じゃあおれも! おれにも自己紹介させてっ! おれは圓東鏡介(きょうすけ)っていうんだ、顔とかを映す『鏡』に介助犬の『介』で鏡介。カッコイイ名前だろ?」
 張り倒された衝撃からようやく立ち直ったらしい圓東が、騒がしく名乗りながら小動物もしくは仔犬のように飛鳥にまとわりつく。これといった特徴はないが癖もない顔立ちといい、この『構って』オーラを全身から発散させた様子といい、日本の誇る人類の友・柴犬を彷彿とさせる。
 しかしながら、飛鳥は小さい子供は好きだし無条件で可愛がるが、これは少々育ちすぎだった。まとわりつかれてもあまり嬉しくない。