10.疵と誓い
あれは、いつのことだったか。
もう、ずいぶん昔のことのような気がする。
あの、彼の疵をかたちづくる過去のひとつは。
「嬢のお袋さんが死んだ」
老人の沈痛な面持ちを、彼は信じられないものを見るような目で見上げる。
「何故だ。病気はもう、かなりよくなって来てたんじゃないのか。外を出歩けるようになったと聞いていたぞ」
「そうだ」
「なら……」
「斉華会と藤正会のいざこざに巻き込まれた」
「!」
「腹に三発、胸に二発。後ろから撃たれた痕もあった」
「なら、外出したとき、抗争に巻き込まれた、か」
「そうだな……だが、何かに利用された可能性もある。嬢の話では、何かの用事で家を留守にすることが増えていたらしい」
「そう……なのか」
「ああ。最近、あちこちの国から似たような連中が入り込んで、この辺りも、あの街も物騒になった。密造拳銃の摘発も増えているようだしな、どこかで売人が暗躍しているのかもしれん」
「リコは。ひとりなのか」
「今はばあさんが行ってる。……落ち着いとるよ。父親の方が取り乱して大変なことになっているようだから、落ち着かざるを得なかったのかもしれんがな」
「そうか……」
彼は唇をきつく引き結んで、破れた窓の向こうに見える薄ら青い空を睨みすえた。
「ボウズ、なんぞ物騒なことを考えとりゃせんだろうな」
「物騒? そんなこと考えてないさ。ただ、どうやったらあの馬鹿どもを一掃出来るか思案しているだけだ」
「それを物騒というんだ、馬鹿者め」
老人は呆れたような息を吐き、大きくて武骨な手を伸ばして彼の頭をがしがしと掻き回した。子ども扱いするなと言いたいが、抗議して聞き入れられる相手でもないので――そしてそれが嫌ではないことも確かなので、彼は黙る。
老人はそれを静かな眼差しで見つめ、囁くように言った。
「……己が無力が無念か」
彼は小さくうなずいた。
この老人の前で己を取り繕ったところで無駄だと知っている。
彼と彼の伴侶である老婦人には、自分が妹を亡くして一番荒れていたときの―― 一番情けない様相を呈していた時期のことも知られているのだ、今更何を隠せというのだろうか。
同時に彼は、この、日常的に罵り合い、時に部屋を引っ繰り返すような喧嘩もする現在の養い親にならば、比較的素直に胸のうちの思いを吐き出すことが出来た。
きっと、老人が、彼の辿ってきた十数年を、すべてではなくとも理解してくれていること、そして老人もまた、人間の創りだした暗闇の中を歩いてここまで来たということを知っているからだろう。
「俺は、そのために生み出されたはずなのに……俺には、何も出来ないのか」
「生み出された、じゃあない、生まれた、だ。そのため、もクソもない。お前は兵器でも家畜でもロボットでもない、紛れもなく人間の子どもだ。そうやって簡単に自分の命を軽いものだと言うもんじゃない」
「だが、」
「それが“ディールークルム”チームの意義だったとしても、お前がこの世界で生きているという事実に何の代わりもない」
老人はキッパリとそう言い、彼がどう返すべきか思案するうちに、もう一度彼の頭をがしがしと乱暴に撫でてから、
「……斉華会と藤正会のことは俺が何とかする。お前はとりあえず、嬢とあの周辺の同行に気をつけておけ。たぶん……これで終わり、ということはないだろうからな」
そう言って、立て付けの悪い扉へ向かって大股に歩き出した。
彼は、広くてがっしりしたその背中に、
「爺さん」
思わず声をかけたあと、何を言えばいいのか判らないことに気づいて眉をひそめ、沈黙する。
振り向いた彼の、よく日焼けして艶のある、とても七十歳を幾つかすぎたとは思えない頑健さを有した、いつも通りの姿に、何故か妙な焦燥感が募る。咽喉がひりりと痛んだが、その理由が判らない彼に、明確な説明など出来るはずもなかった。
「どうした」
「いや……何でもない。俺もリコの家に行って来る」
「ああ、そうしてやれ」
かすかに笑い、老人が踵を返す。
何でもないと言い聞かせようとして、彼は、老人の背中がドアの向こう側に消えるのと同時に、それが悪い予感というものだと言うことに気づいていた。危ない、危ない、危ないと、彼の中の感覚が必死に叫んでいる。恐らく、それゆえの焦燥感だった。
「何の……ことだ」
――いかに偉大な目的で生み出されようとも、彼はまだたかだか十六年を生きただけの少年だ。
ましてや、本来二十年かけて行われるはずだった『調整』の真ん中で、あの研究室は火と血に沈み、唯一の完成品でありながら、彼は不完全なままで外界に放り出され、妹との逃亡生活を余儀なくされた。
彼は完成品でありながらひどい不具合を抱えてもいるのだ。
それを望んだのが誰なのか知っているから、そのことを恨みも嘆きも、厭いもしないけれど、だからこそ彼にも判らないことがある。知り得ないことがある。それは少し歯痒い。
否、突き詰めて考えれば、彼に出来ることなどたかが知れている、と言うべきなのかも知れない。
もちろん、彼などよりよほど壮絶な人生を過ごして来ながら、常に前向きで他者を愛する気持ちをなくさないあの老夫婦などは、だったら一生かけて学び、成し遂げればいい、と言うのだろうが。
「……」
老人の消えていった扉をしばし見つめ、ややあって彼は歩き出す。
「爺さんなら、放っておいてもむざむざ殺されはしないだろう」
首都の中心の、その中でも特に色濃い闇と隣接したこの辺りは、確かに危険が多い。彼がここの住人になった一年数ヶ月前からそうだった。
しかし、老人が言うとおり、最近のこの辺りは輪をかけて物騒だ。
やくざ、ギャング、イタリアンマフィアやチャイニーズマフィア、そういった連中が流れ込み、幅を利かせていて、彼が何でも屋をしている歌舞伎町の辺りも、夜の路地裏は一般人が迂闊に踏み込めない奈落のようになっている。
「俺は、俺に出来ることをやろう」
声変わりが始まったばかりの、まだどこか幼さを残した声で呟き、彼もまたドアをくぐった。
込み上げる不吉な予感に咽喉はひりついたままだったけれど、それに怯えて歩みを止めることは、彼には出来ない。