午前五時まであと少し、といったところだろう、身体の感覚からして。
 フイと意識が戻ったのは、その先を見たくないという無意識の拒絶だったのだろうか。
「……」
 目覚めは良好とは言えなかった。
 時間という意味ではそれほどの過去ではない、しかし意識の上では永遠すら隔てたような気すらする、ほんの少し昔の夢を見ていた。
 最期のあのシーンを見たわけでもないのに、心臓の片隅が痛い。
「久しぶりに、見たな……」
 ぼそりと呟くと、飛鳥はベッドの上に起き上がり、立てた片膝を抱いて座る。
 酷く懐かしい人の顔を見た。
 もう二度とは会えぬ人の顔だ。
 罵り合い、部屋を引っ繰り返すような喧嘩を頻繁にしながら、実を言うと、とてもとても好きで、とてつもなく信頼していて――護られていたことを知っていて、そしてその存在そのものに救われていた人の顔だ。
 彼を――彼らを喪って、飛鳥は今の飛鳥になった。
 孤独で鋭い、抜き身の刃のような、雪城飛鳥という人間は、あの喪失と別離によって、今の彼になったのだ。
 そう、それは恐らく、二度とは消えぬ、二度と癒されることのない疵だ。
 最近では、それもまた彼らの贈り物なのかもしれないと、その贈り物を受け取った自分はある意味幸せなのかもしれないと、漠然と思いもするけれど。
「だが……何故」
 長い前髪をくしゃりとかき上げ、訝しげに天井を見上げる。
 たかだか十七年と少ししか生きていないはずなのに、壮絶極まりない人生を歩んで来たがゆえに、疵もトラウマも山のように持っている飛鳥だが、現金なことにというか、薄情なことにというか、ソル=ダートに来てからの彼は、それらの過去を悪夢というかたちでリフレインされることがほとんどない。
 彼らが死んだ直後は、眠れば必ず彼らのみならず両親や研究所の人々、妹の死の場面までを夢に見て、何度も何度も叫びながら飛び起きた。毎日毎日彼らの死を――自分の無力さを見せ付けられ、いっそ発狂したいとすら思ったほどだ。
 肉体の傷も、自身が舐めた辛酸もどうでもいい。
 飛鳥にとってはただ、愛した人々が去ってしまったこと、愛する人々を護れず、自分だけがたったひとり残されたことのみが痛みであり苦しみであり懊悩だった。
 とはいえ、それでも飛鳥が悪夢に飲まれることなく自分を保ったのは、彼がそういう風に出来ているからだし、斃れた人々が自分に何を望んでいるのかを飛鳥自身が理解していたからでもある。
 償うべき何かがあるのなら生きて前を向く。
 なすべきことをすべて成し遂げて斃れる。
 それが、飛鳥が自分に課した命題であり覚悟だ。
「……今更、というほど昔のことでもない、が……」
 呟き、ベッドから降りる。
 未だ招き手の正体も意図もはっきりとはしていないものの、この世界にやってきたことが理由で、飛鳥が悪夢を見なくなったのは明白だ。
 それは例えば世界の美しさであったり、人々が黒の加護持ち及び御使いに――飛鳥に向ける友愛であったり、周囲の面々が色など抜きにしても変わらずに示す暑苦しいほどの親愛の情であったりしたが、一番の理由は、もちろん、誓いを果たすに足る、護るべき相手を見つけたからだ。
 過去の痛みを忘れたわけではない。
 忘れられるはずがない、それはすでに、飛鳥の血肉の一部なのだから。
 ただ、大きな目的、約束が、飛鳥の痛みを和らげているだけで。
「それなのに、何故だ?」
 だから、あの夢を見たことが、飛鳥には不思議だった。
「何故『俺』は、痛みを、誓いを再確認しようとしている?」
 飛鳥の記憶は優秀で、残酷だ。
 彼に過去を突き付け続け、それでも尚生きよと、前を向き先へ進めと強いる。
 飛鳥が夢というかたちで過去を見なくなったのは、レーヴェリヒトと出会い、彼を護って斃れること、彼の幸いと愛するものを護ることが『前を向いて生きる』ことだと自分自身で理解しているからだ。
 飛鳥の意識は、飛鳥を決して裏切らない。
 偽りも、誤魔化しもしない。
 ――だとすれば。
「これも、啓示……なのか?」
 飛鳥に、黒の御使いに、何かをさせたがっているものがいる。
 ソル=ダートしかり、天地に座す神々しかり、飛鳥たちを招いた何者かしかり。飛鳥は運命論者ではないが、それでも、これらの局面において『流れ』を感じ取れないほど鈍感ではない。
 自分は何かに導かれ、何かを求められている。
 特別自分が変わったという感覚はないが、祈りにも似た誰かの意図を感じ取ることは出来る。
 だからこそ、飛鳥とふたりの眷族は、このソル=ダートに受け入れられ、平坦ではなくとも幸い多き日々を享受することができるのだろう。
 飛鳥は、自分が何かをなすためにここに呼ばれたのだということを理解しつつある。それに応えることが、すなわちレーヴェリヒトとリィンクローヴァを護ることにつながるのだと。
「……」
 広いクローゼットをごそごそやって、黒ずくめの衣装に袖を通しながら、飛鳥は夜明け前の窓の外を見遣る。
「何かが起きる、か」
 それは確信に近かった。
 何故生きるのかと問われて、誓いを果たすためだと呼吸するより容易く答えられるのと同じくらい、飛鳥にとっては確定した未来だった。
「……用心するに越したことはないな」
 呟き、一切の気配を感じさせない無音のまま、階下へと降りていく。
 漆黒の視線の先には、徐々に明るさを増してゆく、あまりにも高く透明な風合いの空があった。