終.そして、今、これから

 ふと気づいたら、王城一階の、超級討伐士たちがよく詰めている小部屋だった。
「……ふむ」
 ギイの髪に手を伸ばしたままの姿勢で、飛鳥はそこに佇んでいた。
「気分的には、ちょっとした時間旅行という感じだったが……ソル=ダートの言ったとおり、実際にはほんの一瞬のこと、か」
 姿勢を直し、手にしたブランケットを見遣りながら呟いた時、
「ぅあ、あ、ああ……」
 悲嘆と苦悩と絶望をごちゃ混ぜにした、苦しげな、それでいて空虚な表情でギイが呻いた。
「違……オレ、ごめ……、ゆる、し……」
 少女のように赤く色づく、かたちのよい唇から紡がれる、誰かに向けられた謝罪、許しを請う言葉。
 喪われた人々になのか、喪わせたものたちへなのか、それとも、傷つけてしまった友人へのものなのかは、飛鳥には判らない。ただ、それが、ひどい後悔と哀しみ、苦悩を含んでいることだけが感じ取れるのみだ。
 異形の大量発生から十年、ギイが、討伐士を引退して領主の座に着いたツァールトハイトがザーデバルク市のために手放した【哭艶】を取り戻す、という目標のためにその時間をひた走って来たのだとしても、苦悩と後悔が消えてなくなったわけではないのだろう。
 今もその絶望は彼の奥底で鎌首をもたげているのだろう。
「……実際には、許してくれと本人が願うほど強く思うような相手なら、もうとっくに許しているものなんだろうけどな」
 我が身にそれを置き換えて呟く。
 両親、研究者たち、彼らに賛同した一部の兵士たち、妹、あの路地裏の人々、老夫婦。直接に飛鳥が手を下したのではなくとも、護りたくて護れなかった、大切な人たち。
 そのために生み出されたも同然なのに、何も出来なかった自分を、飛鳥もまた責め、自分に絶望もした。
 けれど、飛鳥を思う人々が、ただ自分に生きろと、幸せになれと祈っていることが判ったから、そのことに気づけたから――そのために生きることが贖罪だと知ったから、ひとまず自分の行きつける最果てまで行こうと決めたのだ。
 ギイの愛した人々もまたそうだったのではないかと、ほとんど確信を持ってギイを見下ろす。
 と、
「――……ッ!!」
 唐突に、低く鋭い呼気とともにギイが飛び起きた。
 顔色が白を通り越して蒼白になっているのも、額にじっとりと汗が滲んでいるのも、頬が明らかに汗ではない雫に濡れているのも、ツァールトハイトの『教育』の夢の所為なのだろうか。――それとも、飛鳥の見ていたものを、彼もまた、リフレインされていたのだろうか。
 恐らく後者だろう、と飛鳥は思った。
 根拠はないが、確信だった。
 ギイはしばらくの間、右手で心臓を押さえながら荒い息を吐いていたが、ややあって飛鳥に気づいたようで、
「あ……」
 迷子が数時間ぶりに保護者と再会した時を思わせる、彼にはそぐわないほど頼りない、弱々しい表情になり、
「どうした?」
「……え、あ、その……なんか、夢、見てて、その。アンタがずっと傍にいたみてーな気が、して……」
 それからハッと我に返ったように眼をそらした。
 飛鳥はそれを見下ろして肩を竦めた。
 話したいことも、話したくないことも、自分の思うようにやればいい。
 それだけのことだと飛鳥は思う。
「ずいぶん魘(うな)されていたようだな」
「いや、オレは、」
「――……泣くほど『教育』の夢が怖かったのか?」
 にやり、と底意地の悪い笑みを浮かべて言うと、
「……!!」
 ギイは首まで真っ赤になった。
「ち、違、これは……!」
 乱暴に頬を拭い、涙のあとを隠そうとするが、今更だ。
 飛鳥はくっ、と唇の端を吊り上げるようにして笑い――我ながら悪人くさい笑い方だと思う――、
「心配するな、お前がツァールトハイトの『教育』が怖くて泣いていた、なんてことは誰にも言わずにおいてやる。誰にだって、泣きたいほど怖いものはあるだろうからな」
 そう言って、目を細めてギイを見下ろした。
「だ、だから……あ、」
 違う、と言い募ろうとしたところで、ギイは飛鳥の配慮とでも言うべきものに気づいたようだった。
 そう、飛鳥は、彼が泣いていたことを、何ひとつ否定はしていないのだ。
 『教育』の夢が怖かったと言う理由を無理やりこじつけて、ギイに、哀しければ泣いてもいいのだと、飛鳥はそれを嘲りも侮りもせず、ただ見守るだけだと、そう言外に告げているのだ。
「……!」
 いったいどういう十年間を過ごしてきたのか、どうにも人の好意に弱いらしく、飛鳥を見上げてぱくぱくと口を開閉させ、耳の先端まで赤くして黙り込むギイは、とてもではないが自分よりも年上だとは思えない。
 九歳の、あの頑是ない、無邪気で人懐こい『ギイ』は、完全には喪われていないのだろう、きっと。そして恐らく、これからその『ギイ』は、少しずつ戻って来るのだろう。
 何となくだが、そんな確信があり、飛鳥は、くすり、と笑って、手にしたブランケットをギイに投げつけた。
「ちょ、何……ぅわ!」
 不意打ちだったらしく、顔面でそれを受けてしまい、更に、ぶわっと広がったそれに顔を覆われて、ちゃちなお化けのような格好になってギイがもがく。飛鳥は、ギイに見えていないのをいいことに、そのブランケットに包まれた頭をわしわしと掻き回して、
「……それでもお前を大切に思う人たちの気持ちは、たぶん、俺にも判る」
「ッ、なんの、」
「お前が死ぬほど後悔したことも、お前が好きな女のために必死でやってきたことも、お前が愛する連中は、お前のことを愛しているがゆえに、ちゃんと気づいているだろうよ」
「……ッッ!!」
 そう言って、ツァールトハイトから預かってきた小箱を、ギイの頭の上にぽすんと置いた。
「だから、そういうのじゃねーって……」
 もごもごと口ごもりながら、ブランケットから顔を出したギイは、それでも、テメェの知ったこっちゃねぇ、と吐き捨てはしなかった。飛鳥が、彼の見ていた夢のことを知っていても、それを疑問に思っている風もなかった。
 ギイの魂を飛鳥が縛っているように、飛鳥の魂もまた、ギイに近しくなっているからなのかもしれない。
「あ、これ……姉様から、か?」
「ああ。今日は行けないから、と渡された」
「そっか……その、ありがとよ」
「気にするな、ついでだ」
 飛鳥が肩を竦めると、ギイはまだ赤い顔のまま、小包を開封し始めた。
 手持ち無沙汰の飛鳥が、中身への興味も手伝ってその作業を見守っていると、
「……なあ」
 視線は小包に向けたまま、ギイが口を開く。
「どうした」
「アンタが……さっき言ったこと」
「さっき? どれだ?」
「その……気づいてるとか、何とか」
「ああ」
「……本当に、そうなのかな」
「白の魔王のことか」
「…………うん。オレ、ホントにひでーこと、言っちまったから。ちゃんと謝りたくても、どこにいるのかすら判んねーし」
「まぁ……そうだな。あそこでアレはとどめもいいところだ」
 飛鳥が頷くと、ギイは少し身体を強張らせた。
 飛鳥はかすかに笑い、だが、と続けた。
「そのあと死ぬほど後悔して、悩んで苦しんで、全部まとめた罪滅ぼしのつもりで、ツァールトハイトの剣を取り戻そうと思ったんだろう」
「う……そ、そうだよ悪ィかよ」
「いいのか悪いのかは俺には判らんが。実際、ちょっとやりすぎて方向性を見失っていたような感もあるしな」
「うっ」
「……ただ、お前のそういう、どうしようもなく馬鹿で頑固で猪突猛進で真っ直ぐなところは、悪くないと思う」
「それ……褒め言葉、じゃねーよな……?」
「この上もなく褒めているつもりなんだがな。まぁ、さておき、お前との付き合いが浅い、お前に今すぐ死ねと笑顔で命じられる俺でもそう思うくらいだ。お前のことが大事でたまらない連中は、心の底から、ちゃんと判ってるだろうさ」
 そう、逆説的な根拠で締め括ると、小包を手にしたままのギイの顔や首筋、耳は茹蛸のような色になり――ちなみに、まったく関係はないが、この辺りでも蛸は食べるしポピュラーな魚介類の一種だ――、
「……うん」
 ちいさく頷いた。
 弄繰り回したくなるほど可愛いやつだな、というのが、その時の飛鳥の偽らざる心境だったが、たぶん、ギイがそれを聞いたら、全身全霊で遠慮させてくれ、と後ずさることだろう。
「その……アスカ」
「なんだ」
「……オレ」
「ああ」
 小首を傾げて飛鳥が次の言葉を待つと、ギイは、言うか言うまいか逡巡しているようだったが、ややあって意を決したらしく、色合いはあの時息子の幸せだけを望んで逝った女とまったく同じやわらかいムーンストーンの、しかし頑迷なまでの強い意志を宿した双眸で飛鳥を見つめ、
「負けたのが、アンタでよかった」
 それだけ言って、自分が言った言葉に照れたのかまたしても真っ赤になり、さっと眼をそらした。
 飛鳥はそうか、と返して、あとは声を殺して笑った。
 あのちいさい、人懐こい可愛らしい『ギイ』が傍にいるような気がして、年の離れた弟が出来たような気分になる。
 ならばきっと、総じて言えば、あの一連の流れ、死合いを含む諸々は、よい方向の運命だったのだろう、と、にわか運命論者になったつもりで胸中に呟き、ギイの手元へ目をやる。
 小さな箱は、ギイによってようやく開封されたようだったが、
「で、中身はなんだったんだ、ギイ」
 中を覗き込んだギイは表情を引き攣らせて固まっていた。
「……おい?」
「あ……」
「あ、どうした」
 飛鳥が首をかしげると同時に、
「明日までにこの量の鍛錬とか、アンタ鬼ですか姉様……!」
 泣きそうな顔でソファから飛び降り、傍らの剣を引っ掴む。
「……鍛錬?」
 問うたが答えはなかった。
「あああ駄目だ今すぐはじめねーとどう考えても間に合わねー……ッ! って、あ、そうだ、え……エルフを呼びに行ってこねーとアイツが姉様に殺される……ッ!?」
 真紅の髪をぐしゃぐしゃと掻き回して喚き、ギイが小部屋からものすごい勢いで駆け出していくのを見送ってから、飛鳥は、ソファに残された小箱、ツァールトハイトが寄越したそれを覗き込んだ。
 そして、生温かい笑みを浮かべてちいさく頷く。
 ――箱の中には、

『指令。
 明日の早朝五時にそちらへ行く。
 それまでに、
 ・―― ・―― ・―― ・――
 ・―― ・―― ・―― ・――
 ・―― ・―― ・―― ・――
 ――の、十二種類の鍛錬を終えておくこと。
 判っているだろうが、回数や時間を誤魔化すなどという姑息な手段は
 死を招くものと知れ。以上』

 と、書かれた、小さな紙片が一枚、入っているだけだった。
 どのメニューも相当骨が折れそうなものばかりなので、現在が午後四時頃という事実と照らし合わせて鑑みるに、今夜はきっと徹夜だろう。
「でも、まぁ」
 ギイとエルフェンバインの苦難を想像すると多少憐れには思うが、飛鳥はくくっと笑って箱を拾い上げ、傍にあった棚に載せただけだった。
「それも幸せってことなんだろ。――……たぶん」
 他人事のように――いや実際他人事だが――呟き、ギイの消えた先を見遣る。
 彼の中で喪われたものの重さ、痛みが飛鳥にも判る。
 けれど、今、ギイは、飛鳥との関わりの中で、ほんの少し、昔の自分を思い出した。彼はきっとこれから、金銭のためだけではなく――といってもすぐに生き方を変えることは難しいだろうが――、別の目的のために生きることが出来るだろう。
 そう、彼の母が、彼を愛する人々が望むように。
「なら……悪くない」
 ちいさく笑い、彼は小部屋をあとにする。
 ――飛鳥の進む道は、直線でこそないが一本だ。
 そこに数多ある障害も、飛鳥にとっては路傍の石ころに過ぎない。
 そのくらい、ギイの進むそれ以上に頑迷で依怙地な道なのだ。
 その道が誰かの人生と交錯し、誰かの運命をよい方向に変えることが出来たのなら、それは、飛鳥にとっても喜ばしいことだろうと思う。
「さて、レイでも弄ってくるか」
 そんな傍迷惑極まりないことをつぶやき、飛鳥もまた、自分の時間を有効に使うため、王城の長い廊下を進んでいく。