「う、うぅ……」
 男が呻いた。
 青緑の双眸が畏れをはらんで揺れる。――怯えている。

 ――思い出ってお喋りだね。

 小鳥が囀るような可憐な声。
 やはり、あの時、フィアナ大通りで聞いたのと同じ声だ。
 あの時、神霊魔法とかいう代物で、飛鳥と圓東を、危険な――実際には危険ではなかったが――『猛獣』の囚われた檻の中に吹っ飛ばしてくれた、恐らく、黄の御使いたる少年の。

 ――これ以上余計な情報を与えないうちに、やっぱり……始末するしかない、かな。

 声は可憐だったが、落とされる呟きは冷淡だった。
 ざわざわざわざわ。
 周囲の空間が『ざわめく』。
 何がどうなったというわけでもないのに、そうとしか表現出来ない現象だった。
「や……やめてくれ、私は何も喋らない、このまま殺してくれていい、だから……あの方だけは……!」
 必死の形相と言うに相応しい表情で、男が、天井を見上げて叫ぶ。
 彼の叫びだけで、クエズで今何が起きているかの幾許かが判る。
 くすり、と、誰かが笑った。
 否、それは恐らく、嗤い、だった。

 ――心配は要らない。彼を殺す気はないよ。殺してしまったら、君みたいな人たちを利用できなくなるでしょ。

 ぶるん、と、部屋全体が震える。
 部屋の四方に、幾つもの闇がわだかまるのが見えた。
「……使い魔か」
 レーヴェリヒトが呟き、剣を抜く。
 その間にも、闇は、六本の脚を持つ、鰐と狼を混ぜ合わせて凶暴さというエッセンスを滴らせたような、獰猛で不気味な生き物のかたちを取り、こちらに向かって唸り声を上げ始めている。
 数は、全部で七体。
 決して手狭な部屋ではなかったが、全長二メートル弱の怪物がそれだけ出現すると、息苦しさを感じる。
「……!」
 男が息を飲み、唇を引き結んだ。
 そして、そのまま、覚悟を決めたかのように目を閉じる。
 彼には彼の護るべきものがあるのだ。
 そのために命を捨てて悔いないほどの、大切なものが。
 それを目にしたからなのだろうか、

 ――ごめんね。

 その声だけ、どこか痛みを含んでいた。

 ――数多の涙と憎しみを、この大地に撒くことになろうとも、僕には、命の贄が必要だ。かの混沌なる方の、――な、……の、ために。

 最後の方だけノイズがかかったように聞こえず、飛鳥が眉をひそめるのと、使い魔と呼ばれた化け物たちが牙を剥いて一斉に襲いかかって来たのとはほぼ同時だった。
「アスカ、そのおっさんを頼む!」
 鋭く告げ、ヴァイスゲベートを手にしたレーヴェリヒトが飛び出していく。 飛鳥は小さくうなずき、男を背後に庇って化け物たちの動きを警戒していたが、 ふと思い立って界神晶を発動させ、浮遊型の『盾』を創り出すと、それで男をガードして自分もまたレーヴェリヒトに倣った。
「事情はよく知らねぇが、命を盾に言うことを聞かせようってのが気に食わねぇ!」
 繊細優美にして闊達な美貌を紛れもない怒りの色に染め、レーヴェリヒトが吼える。同時に揮われた剣が、化け物の一体を真っ二つに両断する。
 真っ二つにされた怪物は、びくびくと震え、粉のような闇を噴き出しながら崩れ落ち、やがてすぐ、空気の中に滲んで消えた。
「それは……俺も、同感だ」
 レーヴェリヒトが次の一体を一撃のもとに斬り倒す間に、飛鳥はゲミュートリヒ市領主夫妻からもらった星鋼の剣を抜き放ち、素早く無駄のない動きで怪物の一体の頭部を斬り飛ばした。
「妙な手応えだな……」
 言いつつ、次の一体と向かい合う。
 使い魔と言うのは施術者の命令の通りに動く人形のようなものらしく、怪物からは感情らしい感情は伝わってこない。
 しかし、

 ――君は、抗うの? この運命に、真っ向から?

 響く声の中には、驚きと嘲笑、哀しみと羨望が入り混じっている。
「運命なんてものは、俺には判らん」
 正確無比な剣の一閃で、使い魔の頭部を真っ二つにし、背後から襲いかかって来た一体のあぎとをかわしながら飛鳥が言うと、

 ――君は彼を護るつもりなんだろうけど、彼は死ぬべきなんだよ。彼の死が、この世界を動かす鐘の音になるんだ……世界は千々に乱れ、数多の血が流されて、――そして、結果的に、世界は護られる。どうして、それを受け入れないの?

 いっそ無垢なまでに不思議そうな問いが発せられ、飛鳥は鋭く嗤った。
 『彼』とは、クエズの将軍を指すのではない。
 四十日強この国に滞在して、飛鳥にも何となく判ってきている。
 純血の王ではないレーヴェリヒトの命を狙うものがいて、その黒幕はリィンクローヴァの中枢にも存在する。彼らは、レーヴェリヒトが喪われればリィンクローヴァという国そのものが危ういと知っていて、それをなそうとしている。だからこそ、たちが悪いのだ。
 そして、黄の御使いが言うことは、恐らく、誇張ではない。
 レーヴェリヒトが死ねば、資源と人材の豊かなリィンクローヴァを狙って各国が動き、三つ巴どころではない乱戦になって、結果乱世は深刻化する。世界の疲弊は深まり、数多の命が喪われるのだろう。
「知るか」
 飛鳥は低く吐き捨て、化け物の凶悪なあぎとを剣で止めた。
 同じ声が聞こえているだろうに、欠片ほども動揺を見せず、乱れひとつなく使い魔たちを斃して行く、レーヴェリヒトの銀髪が視界に入る。
「俺は、俺のやるべきことをやる。安易な流れに身を委ねるつもりはない」
 言い様、左の拳で、化け物の横っ面を殴りつけ、そいつが唸りながらよろめいたところをごついブーツで蹴り倒すと、間髪を入れずに剣の切っ先を突き入れた。
「お前の目的なんざ知らんが、お前が俺の立場だったとして、お前は、絶対に守ると誓った人間がなすすべもなく喪われるのを、黙って見ているしか能のない腰抜けなのか。――だったら、初めから、何の話にもならん」
 最初の理由は、妹とそっくりの笑顔を見たからだった。
 たったそれだけの、拙い理由だった。

 ――君に言われる筋合いはないよ。

 低い、何かを含んだ声に、薄く嗤う。
「だったら俺にも、お前に言われる筋合いはないな」
 今は、たくさんの理由が飛鳥を動かしている。
 彼の笑顔。
 彼を愛する人々の笑顔。
 彼が愛する国の未来、幸い。
 この国の人たちが飛鳥に向けてくれるたくさんの好意、友愛。
 飛鳥自身が離れ難く思う、この国への愛着。
 そして、無防備に飛鳥を信じる、お人好しのヘタレ王の、何の裏表もない、無邪気で朴訥で強い友情。
 そんなものが、飛鳥を縛る。
 それは、執着からはぐれて、孤独に生き孤独に朽ち果てるのだと思っていた飛鳥にとって、とてつもなく貴い熱だった。
「お前がお前の立場をまっとうするように、俺は俺の誓いをまっとうする。それだけのことだろう」
 言って飛鳥が揮った剣が、最後の一体となった怪物の頭部を斬り飛ばしたのと、レーヴェリヒトの剣が怪物の胴を両断するのとはほぼ同時だった。
「……やれやれ」
 ざらざらと空気に溶けて消えていく使い魔を見下ろし、レーヴェリヒトが息を吐く。彼の、真っ向から見据えられると呪縛されそうな深みを有したアメジストの双眸に、苦笑めいた色彩が揺れているのを見遣って、飛鳥は声をかけようとしたが、
「レイ、」

 ――ああもう、ムカつく。

 どろどろとした怒りを含んだ、小鳥の囀りのように可憐でありながらどこまでも冷ややかな声が聞こえると同時に、弾かれたように顔を上げ、窓の傍へ駆け寄っていた。
 彼に倣って窓から空を見上げたレーヴェリヒトが眉をひそめた。
 飛鳥もほとんど同じ表情をしていただろう。
「お前……!」
 窓の外、王城の上空には、黄金の髪に黄金の眼をした、傾城の美姫とでも称すべき美貌の、小柄な、しかし骨格上はどう見ても少年が、冷酷な怒りをたたえて浮かんでいる。
 身体が透けており、向こうの景色までが見えることから、実体ではないのは明らかだったが、実体を持たぬはずの彼の身体がまとうのは、背筋が冷えるほど強大な『力』だった。

 ――なんか、もう、面倒臭くなってきた。お前、ウザい。殺したい。どうせこの先邪魔になってくるんだから、うん、殺しちゃおう。

 わずかな口調の変化とともに、凶暴さ酷薄さが滲み出す。
 ぱりぱりぱりッ。
 彼の周囲にまとわりつく、プラズマめいた白光が、

 ――僕の邪魔をするなら、消えちゃえ。お前も、お前の大事なものも、全部。僕は、僕の役に立たないものは、要らない。

 そう言って目を細めた彼が、白い指で飛鳥たちを指差した瞬間、巨大な光球となった。

 ――じゃあね。

 少年の、赤く色づいた唇が、嘲笑とともに別れの言葉を紡ぐ。
 光球が、凶悪なエネルギーをはらんで突っ込んで来る。
「……!」
 飛鳥は目を見開き、――――そして。

 どおお……おお、おおおおおおおおおんんんん!

 大きな、爆発音。
 城が揺れ、どこかが崩れ落ち、――遠くで悲鳴が聞こえた。