ガタンッ!
 隣室、彼女らが食事を摂ったり話し合いをしたりするのに使っている部屋で、何か大きなものが転がり落ちるような音がして、本のページをめくっていたシュラハテンダーメはハッと顔を上げ、傍らに立てかけてあった剣を掴んで部屋から飛び出した。
「クゥ!」
 隣室へ飛び込むと、案の定、クヴァール・ゴルトアイトが床に倒れている。
 大慌てで華奢な身体を抱き上げ、上体を起こすと、手や指、顔や首筋に、幾つもの裂傷が走っていて、滲んだ血の赤さに心臓を鷲掴みにされるような錯覚に、シュラハテンダーメは息を飲む。
「どうしたのですか、一体……!?」
 クヴァールは武人ではなく、武器を取って戦うことはないが、神霊魔法を使っての戦闘には慣れているし、魔法を駆使した彼に勝てる人間はそうそういない。そのはずだ。
「うう、う……」
 それが、今の彼は、どうだ。
 あちこちから血を流し、唇にも血を滲ませて、咳き込みながら虚ろな目で天井を見ている。
 彼の、稀有な黄金の目が、いったい何を映しているのか、シュラハテンダーメには判らなかったが、クヴァールに何かが起きたことは理解出来た。それが、彼に少なからぬダメージを与えたのだ、ということも。
 こんな彼を見るのは、正直、初めてだった。
「クゥ、しっかりしてください!」
 虚ろに見開かれた目の前で、片手を右へ左へと動かしながら声をかけるが、クヴァールは喘ぐような声を漏らすばかりで、シュラハテンダーメの言葉に反応する様子もなかった。
「クゥ、何があったんですか、クゥ!」
 他になすすべもないので、ひとまず正気を取り戻させるべく尚も呼びかけていると、
「う、ぅあ、あ……」
 クヴァールは恐れの含まれた低い呻き声を上げ、両手を伸ばして何もない虚空を掻き毟るような仕草をした。
「ぼ、僕は……」
 ひくり、と咽喉が震え、かすれた声が漏れる。
「クゥ?」
 訝しげなシュラハテンダーメの言葉など、欠片も届いてはいない様子だった。
「僕は、全力だった。『遊魂』とはいえ、ほぼ全力であれを撃った。それなのに、それなのに……あいつは生きてた! あいつを、あいつらを殺せなかった……死ななかった! 何故、どうして……どうして!」
 天井を、空虚を見つめる目には恐怖と絶望があった。
 クヴァールの持つ力は、この世界でも最強に近い。
 特に、十年に渡って御使いとしての力と、破界神晶の力の使い方を研鑽してきたクヴァールに、純粋な破壊力で勝ることなど、リィンクローヴァに籍を置く最高峰の賢者ですら不可能だ。
 その力を持ってしても、黒の御使いを殺せなかったからこそ、クヴァールは激しいショックを受けているのだろう。
「目覚めたばかりのあいつを殺せないのなら、今の僕に、これ以上何が出来る。あいつがいる限り、僕の目的は、望みは、使命は果たされない。これ以上僕に、どうしろと言うんだ……!」
 空へ伸ばされていた白い手が、今度はクヴァール自身の咽喉へと向かう。
「クゥ、いけません!」
 シュラハテンダーメは、苦しげに咽喉を掻き毟るクヴァールの手を押さえようとしたが、日ごろは非力ですらある少年の、白く美しい華奢な手は、このときばかりは万力のような強さで、シュラハテンダーメの力を持ってしても、彼の咽喉元から引き剥がすことが出来なかった。
 少年の手が、爪先が、彼の白い、綺麗な、すっとした咽喉を傷つけ、血を流させていく。
 シュラハテンダーメは、それをなすすべもなく見つめるしかなく、ただ唇を噛み、彼をこんな目にあわせた――彼にこんな苦しみを与える黒の御使いが心底憎い、と思った。
 彼女には、世界の平穏も、覇権も、人々の幸いもどうでもいいのだ。
 ただ、彼女を彼女たらしめる、クヴァール・ゴルトアイトさえ笑っていられれば、そして彼がシュラハテンダーメの傍らにいてくれれば、それだけで彼女の世界は完結するのだ。
 それゆえに、シュラハテンダーメは、心の底から黒の御使いを憎悪した。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい」
 気づけば、クヴァールは見開かれた目から涙をこぼしていた。
 涙をこぼして、誰かに謝っていた。
「クゥ、」
「父さん、母さん、ごめんなさい。やっぱり僕には無理だったんだ……」
 クヴァールの父と母のことを、シュラハテンダーメはわずかに聴き知っている。
 ふたりは、元は混沌の徒と呼ばれる神の下僕の一員だったが、クヴァールを授かったのち神託を得て組織を離脱し、追われる身となり、最終的にはクヴァールの目の前で惨殺されたのだと言う。
 それが、クヴァールが六歳のことで、いたいけな少年だった彼は、両親を殺された衝撃で破界神晶を発動させ、追っ手をすべて葬り去ったのだ。
 そこから彼が歩んで来た道のりの険しさは、今のクヴァールを見ていればおのずと理解出来るし、死の直前に、両親がクヴァールに何を言い、何を望んだのかも――クヴァールが未だ何に縛られているのかも、わずかなりと慮ることが出来る。
「ごめんなさい……ごめんなさい、父さん母さん。僕には出来ない。出来ないんだ……!」
 血を吐くような言葉に、シュラハテンダーメは沈黙し、クヴァールの美しい、しかし今は痛々しく血を滲ませる顔を見つめた。
 伸ばされた手が、また、虚しく宙を掻き毟る。
「僕に世界を救うなんて、無理なんだよ……!」
 悲痛な叫び声に、胸が引き裂かれそうだ。
 ――クヴァールの背負った重い宿命を知っている。
 彼女だけが、クヴァールが果たさなくてはならない責務を知っている。
 本当のことを言えば、世界がどうなっても、シュラハテンダーメの心は動かない。それで自分が死ぬことになっても、彼女に後悔はないし、恐怖もない。きっと苦しみもないだろうと思う。
 けれど、クヴァールが苦しむのだけは、哀しむのだけは、嫌だった。
 シュラハテンダーメにとって、クヴァールは、世界そのものなのだから。
「……」
 シュラハテンダーメは双眸を決意の色に染めると、唇を引き結び、クヴァールの華奢な身体を抱いて立ち上がった。力尽きたのか、クヴァールはぐったりと彼女の腕に身を預け、いつの間にか気を失ったようだった。
「クゥ。クヴァール。……私の、救い主」
 彼を寝室へと運びながら、どこか熱っぽく囁く。
「あなたこそが、私の世界。私のすべて。……ならば、私がなすべきことは、決まっていますね」
 ここからリィンクローヴァまでの距離を脳裏に思い描き、うっすらと微笑む。
 幸い、今の雇い主が巨鳥を用立ててくれている。
 行って戻ってくるのに、それほどの時間は必要ないだろう。
「あなたを残して行くのは、少し気懸かりですが……」
 温かな寝室の、やわらかなベッドに彼を横たえ、塗らした布で傷口を拭って消毒し、傷の痛みを和らげる塗り薬を塗ってから膏薬を貼る。
「大丈夫……心配しないで。すぐに、戻ります」
 慈母のごとき微笑を浮かべ、彼の額に親愛の念をこめて口づけたのち、シュラハテンダーメは寝室を出た。テーブルに、簡単なメモだけ残し、手早く準備を整える。
 そして侍従を呼びつけ、クヴァールの世話を命じると、あとはもう立ち止まることも、振り返ることもなく、眼差しを厳しい決意の色彩に染めて、速足に居宅を後にしたのだった。