「ハルノエンの様子がおかしい?」
 飛鳥の問いに、メイデ・ルクスとアルディア・ミュレはちいさく頷いた。
「向こうに滞在している外交師からの連絡がね、何というか、ぎこちないのよ」
「ぎこちない……というのは」
「筆跡は間違いなく彼のものだし、文面にはおかしなこともないのだけどね。それに、有事の際の暗号も幾つか決めてあるから、何かあったら合図を寄越すはずなのだけれど……」
「けれど、どうした、アルディア」
「……私たちと彼の付き合いは二十年になる。彼の人となりは充分に理解しているつもりだ」
「ふむ」
「だけど……ううん、何と言ったらいいのかな。ここ数回の報告から、何かが欠落している気がしてね。どうにも、はっきりとは言えないのだけど」
「なるほど……そういうものか。だが、何故?」
「判らない。『遠見』も、王宮は基本的に魔法避けがしてあることが多いから、なかなか届かないしね」
「調査員を送る、とか、そういうのは出来ないんだったか」
「そうね、ゲミュートリヒ市は、リィンクローヴァとハルノエンの関係が堅固であることを示すための無手の砦よ。表立ってわたしたちが動いては、他国に付け入る隙を与えることになってしまうの。だから、わたしたちは、何も出来ずにいるわ」
「それで、やきもきしている……ってことか」
「ええ。せっかく遊びに来てくれたのに、ばたばたしていてごめんなさいね、アスカ」
「ん、ああ、いや、気にしないでくれ。俺も勝手に来ただけだからな」
 申し訳なさそうな領主夫妻に、飛鳥は首を横に振った。
 ――黄の御使いによる王城襲撃から十日が過ぎていた。
 十日前、急激に界神晶を使ったことでかかった負荷による不調は、まだ完全には回復しておらず、したがって体調はあまりよろしくない。身体のあちこちにまだ包帯や膏薬があるし、目の奥には鈍痛が居座り、頭の片隅に重苦しさが残っているほか、身体全体に痺れたような感覚がある。
 普通に戦うことは出来そうだが、レーヴェリヒト級の達人を相手にして立ち回ることは難しいだろう。巧く集中が出来ないからか、界神晶を発動させることも不可能だったし、発動させようという意欲も起こらないのが現状だ。身体が無意識に拒否しているのかもしれない。
 そんな飛鳥が今ここにいるのは、彼の体調不良を心配した周囲の人々が、しばらくゆっくりすればいい、と、飛鳥が気を許しているゲミュートリヒ市領主夫妻の元で過ごすように勧めてくれたからだった。
「こっちこそ、忙しいのに押しかけてすまない」
 ひやりとした緊張を感じ取り、飛鳥が言うと、メイデはまさに大輪の薔薇の如き微笑をみせ、首を横に振った。アルディアはメイデと笑みをかわし、キャビネットからティーセットを取り出す。
「王城でのことは聞いたよ。レヴィ陛下を護って怪我をしたんだね。……私たちの大切な陛下を護ってくれてありがとう、アスカ」
「ん? いや、俺はそのためにここに来たんだ、きっと。だから、当然のことだ」
「その言葉をとても頼もしく思うわ、アスカ。でも、わたしたちは、アスカのことも大切よ。どうか、あまり無理はしないで」
「……ああ」
 あたたかくやわらかい夫妻の言葉に、滅多に外では見せないようなはにかんだ笑みを浮かべ、飛鳥が頷くと――飛鳥がこんな笑みを見せるのは、今のところ夫妻かラムペ家当主くらいのものだ――、お互いに顔を見合わせたメイデとアルディアはくすくすと笑った。
「せっかくだから、グーテドゥフト庭園の温室でお茶にしましょう。今ね、梨のパイを焼いているのよ、その準備をしてくるから、アスカは先に行って待っていて」
「ああ、そうだね、今は温室咲きの薔薇が見事だからね。じゃあ、私はお茶の用意をしてから行くよ。アスカ、少し待っていてくれるかな」
「ん、ああ、判った」
 ゲミュートリヒ市の至宝とでも言うべき庭園の名を挙げながらメイデが言い、アルディアが同意したので、それに否やのない飛鳥はちいさく頷き、歩き出した。それだけ見れば不調など伺わせもしない足運びで領主邸のリビングから出て、まっすぐにグーテドゥフト庭園に――庭園の南側にある温室に向かう。
 庭園に足を踏み入れるとすぐに見えてくる温室は、貴重なガラスを惜しげもなく使った、芸術としての美と機能美の双方を兼ね添えた代物で、日本の近代的な植物園をもっと美しくしたイメージだ。
「花は花だろ、と思うのも事実だが……」
 真夏の熱気を未だ残した温室内に踏み込みつつ、つぶやく。
「花が美しく咲けてこその世の中でもある、か」
 魔法で微妙な調節がされているという温室内では、メイデの微笑を髣髴とさせる、色鮮やかな薔薇が、競い合うように咲き誇り、絢を誇っている。
 中近世の文化レベルにおいて、生活に直結しない花などというものは高価なアクセサリ的な扱いであって、時に高額で取引もされる代物なのだが、宝石ばりに見事な花を幾つも抱いたこの温室は、施錠もされておらず、誰でも入ることが出来るのだ。
 もちろん、何かあっても対処出来る、という自信の表れでもあるのだろうが、彼らのそういう、大らかな在り方を見るたびに、メイデとアルディアの懐の深さを思い知らされる飛鳥である。
 ゲミュートリヒ市民たちは、夫妻のそんな性質のお陰でのびのびしているようだから、金に困って花を盗み、売り払うなどという人間はいないのだろうし、また、金に困った人間が花を売ってその日の糧にしたからといって、夫妻が怒ることもないだろう。
「……いいところだな、本当に」
 故郷での、忙しなく慌しい、油断の出来ない人々とのやり取りを思い起こしつつ、ティータイムが楽しめる小さな東屋へと向かう。
「おや?」
 と、そこには先客がいた。
 近隣に住まう貴族か何かなのか、美しいドレスを身にまとった女だった。
 夕焼けのような朱金の髪と、夏の平原を彩る草海のような緑の目の、どこか高貴な印象を受ける美しい女だ。美貌といって差し支えないそれは、彼女が宮廷生活を楽しむ貴族であるのなら、周囲にたくさんの信奉者をつくっていることだろう。
 すらりとしなやかな、野生の、猫科の動物のような、若々しい躍動感を彼女からは感じる。
「ここの方ですか? 申し訳ありません、あまりにも見事なものですから、入ってきてしまいました。すぐに出て行きますので、どうぞお許しを」
 緩やかに微笑んだ女が、ドレスの裾をつまむようにして一礼し、そう言ったので、飛鳥は肩を竦めて首を横に振った。
「剛毅なことに、ここの出入りは自由らしい。あんたが見たいと言うなら、誰もそれを咎めはしないだろうさ」
「そうですか……ゲミュートリヒの領主様は懐の広いお方なのですね」
「そうだな、俺には到底真似出来なさそうだ」
 飛鳥が言うと、女はくすりと笑った。
 その時、彼女の目の奥に鋭い光が閃いたような気がしたが、飛鳥がそれを確かめるよりも、女が問いを発する方が早かった。
「そのお色から察するに、あなたは黒の加護持ち様ですか?」
「……ん? 世間一般では、そういうことになっているらしいな。俺にはよく判らないが」
 加護持ちも御使いも、この世界に一ヵ月半滞在した程度でしかない飛鳥にとっては、実感のない遠い世界の出来事のような感覚だ。胸を張って、自分は黒の御使いですと宣言するには、あまりにも現実味が薄すぎる。
 それゆえの飛鳥の物言いにまたくすりと笑った女の目の奥が、きらりと不可解な光を反射させた……ような気がして、飛鳥が眉をひそめるのと、
「ああ……申し遅れました」
 優雅な動作で一礼した女が、
「私はシュリ、シュラハテンダーメと申します」
 そう、笑顔で名乗りながら、驚くべき隙のなさで飛鳥の傍らに歩み寄るのとは、ほぼ同時だった。
 飛鳥はやはりどこかで疲弊していて、どこかに隙があったのだろう。
 彼女に、間合いを縮められた時、危険を察知するのが、ほんの少し遅れたのだ。
 彼女が身にまとっていたのがドレスだったのも、恐らくそれに拍車をかけた。
 この世界には、ドレスを着ていても恐ろしいほどの手練れが山のように存在すると、知っていたはずなのに。
「シュラハテンダーメ……?」
 それは啓示だ、と、魂の深いところが囁く。
 シュラハテンダーメ。
 ドイツ語で、戦いの貴婦人。
「あんたは、」
 飛鳥の問いと、
「あなたがいると幸せになれない人がいます。――消えてください」
 シュラハテンダーメと名乗った女が、冷ややかな殺意を迸らせながら、ドレスの生地の間から、見事な剣を引き抜いたのも、ほぼ同時だった。
「……ッ!」
 雷の如き一閃だった。
 飛鳥の不調を差し引いても、恐ろしい速度だと言うしかない、手練れと称するに差し支えのない一撃だ。恐らく、レーヴェリヒトと並んでも遜色はないだろう。
 最初からそういう風に細工してあったのだろう、シュラハテンダーメが剣を抜くと同時にドレスは布の群となって脱げ落ち、その下からは身体にぴたりと沿うような武装が姿を現していた。
 飛鳥は、咄嗟に後方へ跳んで避けた。
 ――そのつもりだった。
 しかし。
「……遅い」
 低い呟きと踏み込みのあと、左脇腹から右肩にかけてを、鋭い、重々しい衝撃が襲い、
「ぐ……ッ!?」
 飛鳥はなすすべもなく吹き飛ばされて、今を盛りと咲き誇る薔薇の中へと突っ込んでいた。
 メイデが丹精込めて育てた薔薇の木が折れる音が聞こえ、また棘が顔や身体のあちこちを傷つけたが、気にしている場合でもなく、心の中で詫びながら飛び起きて体勢を整える。
 脇腹から肩にかけての傷口が激しく出血し、痛みというよりも熱を伝えてくる。心臓の脈打つ音が、遠いような近いような、妙な位置から聞こえてくるのが判った。
「……両断するつもりでしたが、避けましたか。さすが、と言うべきでしょうか? 無論、苦しみが長引くだけのことですが」
 鮮やかな緑の目を細め、シュラハテンダーメが呟く。
 それと同時に、神速と称すべき踏み込みがあって、一足飛びに間合いを縮めたシュラハテンダーメの剣の切っ先が、飛鳥の左肩口に吸い込まれた。
「ッ!!」
 ざりり、と、切っ先が骨を抉る感触に低く呻く。
「思ったよりも時間がかかりました……」
 シュラハテンダーメが嘯き、剣を引き抜いた。
 そのまま彼女が切り払おうとするのを察して、転がるように後方へ避け、距離を取る。といっても、この程度の距離を稼いだくらいで何とかなるようにも思えないが。
 この無様さについて、自身の不調を理由にするつもりは飛鳥にはないが、何にせよ、今の、本調子ではない状態で切り抜けられる相手だとは思えなかった。飛鳥が今まで出会ってきた中で、間違いなくトップレベルの剣の腕の持ち主だった。
「アインマールまで一日。情報収集に三日。『仕込み』に三日。ここに辿り着くのに一日。機を伺うのに二日。……きっと、クゥは心配しているでしょうね。早く終わらせて、帰らなくては」
 飛鳥に聞かせようというのではない独白とともに、シュラハテンダーメが剣を握り直し、飛鳥を見据える。
 かねてからの疲弊に加えて、深い傷口からの激しい出血に意識が朦朧としてくるのを叱咤しつつ、眦を厳しくして身構えてから、飛鳥は身体の様子がおかしいことに気づいた。
 ――手に、足に、力が入らないのだ。
 そして、傷口が、じわじわと灼けつくような、もどかしいような痛みを訴え始める。
 同時に、傷口から、何かがじわりと浸透していく錯覚があって、
「毒か……!」
 飛鳥が忌々しげに舌打ちをすると、シュラハテンダーメは冷ややかに、そして猛々しく笑った。
「剣で斬るだけでは飽き足りない。私のクゥが味わった苦しみを、あなたも身を持って味わうといいのです」
 言葉の端々に、どろどろとした怨念が感じられ、飛鳥は眉をひそめる。
 見ず知らずの女にそこまでの憎悪を向けられるようなことをした覚えはないのだが。
 しかし、疑問を差し挟むべく口を開けば苦痛の声が漏れそうで、――その声を漏らしてしまえば、すべての意気地が挫けて倒れ込むしかなくなりそうで、飛鳥は唇を引き結んで堪えるしかない。
「黒の加護持ち。いや、御使いでしたか。あなたに護れるものなど何ひとつないのだと、思い知りなさい」
 断罪者の如きシュラハテンダーメの言葉。
 シンプルな長剣が、温室の天井から差し込む陽光を受けて凶悪に輝く。
 飛鳥は、ぐらぐら揺れる視界を何とか正常に保つべく努力しながら、歪んだ喜びに美貌を上気させるシュラハテンダーメを見据えた。
 痛みと毒に侵蝕されていても、飛鳥の信念は揺らがない。奥底にある意識は、常に磨きぬかれて透徹している。
 シュラハテンダーメが自身の思いに従って生き、ここに来たように、飛鳥にも譲ることのできない思いはある。――そう、彼女の憎しみの理由は何であれ、ここで殺されてやるわけには行かないのだ。
 レーヴェリヒトを護る人間が飛鳥しかいないとは思わない。
 単純に、その役目を誰にも譲りたくないと飛鳥自身が思うだけのことだ。
「意識のあるまま斬り刻んであげましょう……殺してくれと哀願したくなるまで」
 悪戯を思いついた少女のような無邪気さで、ひどく楽しげにシュラハテンダーメが告げる。
 残念ながら、彼女の思惑通りにさせてやるわけには行かない飛鳥は、それを、ともすれば途切れそうになる意識を叱咤しながら見据え、どう考えても不利なこの事態を打破すべく、恐るべき速度で模索を始めていたのだった。