あれから、一週間ほど、過ぎただろうか。
事態は一向に改善されず、むしろ悪くなるばかりだった。
「じいさん、ハナとユウタが!」
滅多に見せない、焦りの滲む声とともに部屋に飛び込む。
老夫婦は難しい顔をして何ごとかを囁きあっていたが、飛鳥に気づいて話をやめ、彼を真っ直ぐに見つめた。
「どうした、ボウズ」
「いなくなった。いや、黒服の連中にさらわれた」
「さらわれた?」
「車の中にふたり一緒に押し込まれるのをエリが見てたらしい」
「ハナとユウタ……ああ、高校生と中学生の姉弟だったか。前にも、声をかけられたと言っていたな」
「……あの子たち、亡くなったお父さんが働いていたから、湾岸工業地帯に詳しかったわ」
「『取引』はこの一週間以内という噂だ、囮としては最善、ということか。姉弟でさらったのは、互いが逃げ出さないよう、命を盾にするためか。これで……何人死んだ。まだ、どれだけ死ぬ」
「リコの母親から数えて、十二人になる。……いや、ハナとユウタは生きてる。絶対にそうだ。早く、助けに行かないと」
「待てボウズ、先走るな」
「悠長なことを言ってる場合じゃないだろうが!」
警察の手も、司法の護りも、この辺りまでは届かない。
夜の街で何でも屋を営む飛鳥だ、警察内には、頼めば動いてくれる友人もいるが、多分、この規模だと巻き込むだけだ。
足元から這い上がる悪い予感を振り払えず、飛鳥が声を荒らげると、老人は口をへの字に結んだまま、大きな、ごつごつした手を伸ばして、飛鳥の頭をがしがしとかき回した。
「じいさん、何の、」
面食らい、毒気を抜かれて眉根を寄せると、老人は飛鳥を安心させるように笑ってみせた。
「何ごとも準備が肝心ということだ」
「……?」
「『取引』が近い今、一刻の猶予もならんことは承知している。藤正会の妨害が入れば、――いや、間違いなく入るだろうな、そうなればこの辺りが激しい争いに巻き込まれることは必至だ」
「ああ」
「ボウズ、お前はここの連中を一時的に避難させろ。あの、何とか言う社長がいただろう、お前が前に世話をしてやった」
「曾根崎さんか」
「ああ。確かお前に恩義を感じて、困ったことがあったらどんなことでも助けると約束してくれたんだろう。彼に頼んで、どこか滞在場所を提供してもらえ。連中にとって大事なのはこの辺りの『安全』の確保だ、ここにいなければ、わざわざ追いかけてまで囮にしようとは思わないだろう」
「……だが」
「仕込みはしてある。斉華会と“紅龍”のことは俺たちに任せろ」
「俺たち? 待て、じいさんはともかく、ばあさんが何をどうするつもりだ。どう考えても危なすぎるだろ。そっちの役目を俺がするから、ばあさんが避難をさせればいい。曾根崎さんにはちゃんと話を通しておく」
老人が『俺たち』と言ったことに妙な胸騒ぎと不安とを覚え、飛鳥が言うと、彼はユーモラスな仕草で肩を竦め、それから太く逞しい腕で、傍らの老婦人の肩を抱き寄せた。
老婦人がくすぐったげに、屈託なく笑う。
こんな緊迫した場面なのに、それは、童子と童女の戯れのようにも見え、どこか無邪気で、そして幸せそうだった。
「おまえみたいな小僧より、ばあさんと一緒の方がやる気も起きるし、効率も上がる。――なあ、ばあさん?」
老人の言葉に、老婦人はくすくすと笑って頷いた。
「ええ、おじいさん。飛鳥には申し訳ないけれど、私はこう見えてもヴェテランなのよ。おじいさんと一緒なら、飛鳥にだって出来ないことをたくさんしてのけるわ。だから、心配しないで」
「……」
飛鳥がふたりから感じ取ったのは、何かしらの強い決意だった。
「ハナちゃんもユウタくんも、絶対に助け出すわ。私たちが今まで飛鳥に嘘をついたことがあった?」
「いや……」
「ね、そうでしょう? 大丈夫よ、ここは私たちにとっても故郷なのだもの。何とかしてみせるわ……だから飛鳥も、皆の避難をお願い。皆で協力して、ここに平穏を取り戻しましょう?」
明るい笑顔で老婦人が言い、飛鳥はそれ以上の言葉を封じられる。
いつも老人と部屋を引っ繰り返すような喧嘩を繰り広げてきた飛鳥だが、本当に厄介なのは老婦人の方だったと今更のように思わされる。明るく面倒見がよく、優しく親切な彼女だが、実は、老人よりも頑固で、こうと決めたらてこでも動かないのだ。
つまり、こう言っている彼女を心変わりさせることは、誰にも出来ない。
そうなると、飛鳥に出来るのは、これ以上この辺りの住民に被害が出ないよう、一刻も早く彼らを安全圏まで避難させることだけだ。
「……判った。だが、頼むから無理はするなよ。俺はもう、誰にもいなくなってほしくないんだ」
珍しく気弱な、不安げな言葉を漏らした飛鳥に、老夫婦は顔を見合わせ、それから穏やかに、静かに微笑んだ。
そして、ふたり同時に腕を伸ばして、ふたり一緒に飛鳥を抱き締める。
「大丈夫だ、心配するな、護るべきものは全部護る。お前も、あいつらも、何も心配は要らん」
「……ああ」
力強い言葉に励まされ、胸騒ぎと不安を気の所為だと腹の奥に押し込めて、飛鳥は頷く。
老人はそれを満足げに見遣り、腕を解くと、
「よし、なら……始めよう。何ごとも、迅速かつ精確に。冷静、冷徹であることが肝要だ、常に己を、針のように研ぎ澄ませておけ」
そう言って飛鳥を促した。
飛鳥は頷き、携帯電話を取り出しながら、また、外へと出て行く。
この、薄汚い、底辺のごとき区画に住み付いて一年と半年、まだまだ住人としては日の浅い飛鳥だが、ここの住民たちは、そんな彼にも、分け隔てなく、屈託なく接してくれる。飛鳥の抱える重苦しい過去、疵など知りはしないだろうが、いつでも親しく気遣ってくれる。
これまで何も護れずに来た自分が、護れなかった人たちへの償いと、彼らと再会するための手土産として持っていくとしたら、『何かを護り切った』という事実だろうと思うから、飛鳥はひたすら、自分に出来る最善を尽くすのだ。
「――ああ、曾根崎さん? そうなんだ、実は、頼みたいことが……」
電話口の向こうの、柔和な声に応えながら、飛鳥は、もっとも効率的で安全な移動方法を模索し始めていた。
だから、飛鳥はついぞ気づかなかった。
飛鳥の背を見送る老夫婦の、愛情と慈しみに満ちた視線に。
そこに、別れの哀しみが含まれていたことに。
――その時の飛鳥には判らなかったが、実を言うと彼らのそれは覚悟だった。
我が身を安全圏の外に放り出した、凄絶な覚悟だったのだ。
今でも、そのことを思い出すと、飛鳥は、心臓を鷲掴みにされるような強い後悔と孤独に苛まれる。
* * * * *
すぐ目の前に、白銀の刃が迫っていた。
刃の後方に、シュラハテンダーメの、宝石のように美しいのに憎悪にぎらぎらと輝く双眸があり、気の弱い人間なら視線だけで射殺されそうだ。
「……ッ」
もちろんそんな弱い心臓はしていない飛鳥だが、刃の脅威は無視できるはずもなく、低く鋭く息を飲んだ。すぐに、火事場の馬鹿力とでも言うべき速さと身のこなしでそれを避けると、激しい熱と痛みを訴える傷口にはまったく頓着せず、その場から離れる。
毒の所為か、出血の所為か、ほんの一瞬、意識が飛んでいたようだった。
(じいさん)
脳の天辺あたりが熱っぽくぼんやりする。
零れ出た記憶が、保護者であった老人の、磊落な笑顔を映し出す。
(あんたは、あんたたちは、それでよかったのか)
老人に寄り添う、上品な老婦人の、明るく温かい、強い芯のある笑顔を思い出す。
――ふたりは、戸籍の上では、実の夫婦ではないのだと、いつか聞いたことがある。
互いに将来を嘱望される学者であったふたりは、互いに苦しい結婚をして、それが縁で出会い、許されない罪を犯して、日の当たる場所には出られなくなったのだと、表舞台から姿を消さざるを得なかったのだと、いつか、珍しく酒に酔った老人が、ぽつりぽつりと話してくれたのを覚えている。
(それでも幸せだったと――悔いはないと、あんたたちは、そう言うのか)
何が正しかったのか、十全の答えはあったのか、誰を憎めばよかったのか、どう嘆けばよかったのか、それでも護られたものを喜べばよかったのか、今でも辿り着けない問いが、飛鳥の中にはいくつも残されている。
取り残された、置いて行かれた、放り出された、そんな、身勝手な思いが、どうしても消せないのと同じく。
無論、それでも生きるしかないのだと、ここで死ぬわけには行かないのだと、先に逝った人たちに胸を張って会わなくてはならないのだと、そう魂が叫ぶから、自分に背を向けることは出来ないのだ。
「……やるべきことをやるだけだ。終わりの瞬間まで」
つぶやき、ひとつ、深呼吸をする。
身体に空いた幾つもの穴から、血が流れ出していく。
生温かいそれに不快を感じているような余裕は、もちろんない。
しかし、同時に、負けるつもりも死ぬつもりも、飛鳥にはない。
「……しかし」
じわじわと重苦しい熱が浸透してくるのが判る。
自分が何か異質なものに侵されて行くのが感じられる。
「満身創痍ってのは、こういうことか」
妙な冷静さでしみじみと思っていると、
「命の危機に晒されているのに余所見とは、酔狂な人ですね」
半ば感心したような、嘲るような声とともに、恐るべき速度で踏み込んだシュラハテンダーメの剣が飛鳥のわき腹目がけて突き込まれる。それは雷光を思わせる速さを伴っており、下手をすれば一撃で串刺しになってもおかしくはなかったが、
「余所見というか、視界がおかしいというか、微妙なところだな」
飛鳥はやれやれという溜め息とともに、その一撃を紙一重で避け、力の入らない脚でバランスを取りながらシュラハテンダーメから距離を取った。
「……これを避けますか。その、毒に侵された身体で」
避けられるとは思っていなかったのか、不思議そうな顔でシュラハテンダーメが自分の手元と飛鳥とを交互に見ている。
「ちょっと慣れてきた」
飛鳥は端的に言い、呼吸を整えて身構えた。
出血と毒、双方の影響による、脳髄が熱く痺れるような感覚が身体を重くしているが、そういうものだと割り切れば、出来ることなど幾らでもある。
「あんたの事情は判らんが、俺には俺のやるべきことがある。それを阻むと言うのなら、全力で潰してやる」
視界の隅に、折れた薔薇の木が入る。
濃い緑が黒々と繁る、常緑低木の茂みが目に入る。
いかなる危機的状況に陥ったとしても、焦燥も恐怖も絶望も、今の飛鳥からは遠い。
「……よくぞ言いました」
霞む視界でシュラハテンダーメを見据えると、彼女は滴るような怒りと殺意に満ちた、凄艶な笑みを浮かべていた。剣の柄を握る手が青白くなっているのは、相当な力が入っているからだろう。
「自らを省みて詫びることもないというのなら、私にあなたを許す道理はありません。あなたのその増上慢、粉々に打ち砕いて差し上げましょう。私程度を前になすすべもない、あなたごときに何が出来るのか、私に見せ付けてご覧なさい」
言葉だけは淡々と、しかし憎悪と殺意に満ち満ちて、シュラハテンダーメが軽やかに地を蹴る。
メイデやツァールトハイト、レーヴェリヒトの周囲を固める女将軍たちを見ていると、この世界において性別などというものが大した差異にはならないのだと心底思うが、シュラハテンダーメもまた、女性だからどうこう、という、ハンデ的なものは感じられない。
一体いかなる立場の人間なのか、男であろうと女であろうと、並の兵士どころか、並の騎士程度では、数を頼みに束になってかかっても、彼女を打ち倒すことは難しいだろう。
ひとりであることが何の不利にもなっていない、恐るべき刺客と言うべきしかない。
案の定、一瞬のうちに間合いを詰められ、懐への侵入を許してしまう。
鋭い呼気、空気を斬る一閃。
それは、精確に飛鳥の脚を狙って来ており、下手をすれば一息のもとに切断されているところだっただろうが、
「……やはり、そう来たか」
『殺さず痛めつける』というやり方で来るだろうと踏んでいた飛鳥は、冷静なままわずかに身を捻り、シュラハテンダーメの一撃を避けると、そのまま身体に回転を加えながら踏み込み、ごくごく小さな動作で、しかし速く、シュラハテンダーメに脚払いをかけた。
「小癪なことを……」
もちろん避けられてしまったが、シュラハテンダーメに飛鳥を警戒する気持ちを起こさせることには成功したようで、女剣士は顔をしかめて彼から距離を取った。
飛鳥はその間合いを保ちながら園内を少しずつ移動する。
立ち居振る舞いからして熟練の剣士だと判る彼女が、飛鳥の思惑に気づくかどうかはさておき、なるべく何をしているのか疑われないよう、『目的を持って移動している』のではなく『敵との距離を保つためにじりじりと動いている』ように見えるような動き方を心がける。
「苦しみが長引くだけだとは思わないのですか? 抗うだけ無駄なことです。今のあなたに出来るのは、跪いて許しを乞い、せめて楽に殺してもらえるよう祈ることだけなのですよ」
忌々しげなシュラハテンダーメに、飛鳥は小さく肩を竦めた。
「馬鹿を言え、苦しいとは生きているのと同義だ。自分の命に執着はないが、俺の誓いは命よりも絶対だ、そのためにあんたやあんたの大事な人間を蹴散らすことに否やはない」
物心ついたときから、死は飛鳥の親しき隣人だった。
飛鳥自身が人間の命を奪ったことはまだないが――実際には、異形を殺した時点で奪ったと言うべきなのか、本人も判別がつけられずにいる――、飛鳥にとって人の死は遠いものではなかったし、生き死には儚いものだった。
否、今でもそう思っている。
そうでなければ、両親や研究所の人たち、妹や老夫婦、あの路地裏で懸命に生きていた人たちが、何故あんなにも容易く、無慈悲に喪われなければならなかったのか、説明がつかない。
飛鳥の命は飛鳥にとって軽い。
それはいつでも、目的のために振り捨てられるだろう。
けれど、そんな命であっても、彼が斃れることが許されるのは、誓いを果たした時だけだ。
ならば、今は、戦うべき時だった。
不利も苦痛も、勝利することに対しての、何の障害にもならない。
それが、負けることへの理由にも、言い訳にもならないのと同じく。
「出来もしないことを、偉そうに!」
激昂し、吼えたシュラハテンダーメが飛鳥目がけて突っ込んで来る。
ぎらぎらと、目が、剣が、凶悪な光を放っている。
「もういい……あなたの戯言を聞くのにも飽きました、死になさい!」
――そして揮われる、恐るべき一閃。
斜め下段に向かって跳ね上げられた剣が、飛鳥の身体を捕らえ、
「ッ!!」
飛鳥はなすすべもなく吹っ飛んで、薔薇の木々を巻き込みながら黒い茂みへと突っ込む。
パッ、と、血の匂いが立ち昇った。
「手応えあり……ですね。まだ生きていますか? ――生きているようですね。といっても、今の手応えからすれば、もう、動けはしないでしょうが」
満足げな笑みとともに、剣を提げたままでシュラハテンダーメが近づいてくる。
「ほら、出ておいでなさい、そんなところに隠れていないで」
茂みに突っ込んだままの飛鳥を、残虐性を秘めた猫撫で声で言いながら、ゆっくりと歩み寄って来た彼女が、茂みの前で立ち止まり、
「悔いて、絶望して、己が無力を呪いながら死になさい」
殊更恐怖を煽るような緩やかな動作で剣を掲げ、飛鳥目がけて振り下ろした。
それは、己が勝利を確信しているがゆえに、ほんの少し遅く、また、シュラハテンダーメ自身、ほんの少しの油断があったのだろう――彼女の、剣士としての名誉のために言うならば、普通は死んだと錯覚しても間違いのない一撃だったことは事実だ――。
――しかし、飛鳥は、それを待っていた。
飛鳥は、シュラハテンダーメが剣を振り下ろした瞬間、力を振り絞って跳ね起き、刃を避けながら彼女目がけて突っ込んだ。
「な!?」
ここまで動けるとは思っていなかったのだろう、驚愕の声を上げつつも防御の体勢を取ろうとする女剣士の懐に飛び込むと、飛鳥は、手にした何本もの薔薇の枝を鞭のようにしならせて、彼女の首筋を――肌が露出する場所を狙ったのだ――強かに打ち据えた。
薔薇の枝には、無論、棘がある。
大きな棘も小さな棘も、サイズは様々だったが、当たれば痛いことに変わりはないし、同時に、シュラハテンダーメがこの程度の痛みでどうこうなると思っていたわけではない。これであっさり戦意を喪失して逃げ帰るような人間なら、そもそも飛鳥を殺すために単身でここまで踏み込んでは来ないだろう。
ただ、人体と言うのは、予測もしない痛みには無意識の反応を見せてしまうものなのだ。
「ッ!」
薔薇の棘が首筋を裂く、その衝撃に、シュラハテンダーメの身体が怯み、動きが鈍った、その一瞬を見逃さず、そろそろ危うくなってきた意識を叱咤して、彼女の背後に回り込む。
それと同時に、手にした薔薇の枝を、シュラハテンダーメの首に巻きつけ、背後から締め上げる。
「ぐ……!」
飛鳥の膂力は、蓄積されたダメージに本人が朦朧としていて尚、人体の硬さを凌駕しており、咽喉元に食い込む鋭い茨に呼吸を奪われ、血の道を圧迫されて、シュラハテンダーメの美貌が苦しげに歪んだ。
茨を引き剥がし、飛鳥を振り払おうともがく女剣士の抵抗を、力の抜けそうになる手で必死に抑えつつ、呼吸を整える。
「くそ、肩の骨も折れたな……」
シュラハテンダーメの最後の一撃で、彼女に致命傷を与えたと錯覚させるため、飛鳥は、あの一撃を半ば甘んじて喰らっていた。そして、彼女が剣を引く一瞬前に、衝撃で吹っ飛んだように見せかけて跳び、斬られることを回避していたのだ。
そして、薔薇の枝という『武器』を吹っ飛んで巻き込まれたと見せかけて手にし、茂みに突っ込んで身動き出来なくなったように装いながら機を伺っていた。
巧い策ではなかったが、この場においては上出来と自分を褒めてやるべきだろう。
「さすがに、効いた……」
咳き込み、ごちる。
彼女の最後の一撃で飛鳥が受けたダメージは、裂傷ではなく、打撲によるものだった。あそこでばっさり斬られていたら、さすがの飛鳥も死んでいただろう。
もちろん、急激に出血しないだけで、それが激痛であることに変わりはないのだが。
「悪いがこっちもなりふり構っていられないんだ、このまま落とさせてもらうぞ……!」
薔薇の棘が自分の手指を傷つけるのにも頓着せず、残った力を振り絞ってシュラハテンダーメの首を締め上げる。もがく女剣士の首に薔薇の棘が食い込み、赤い血の珠を浮かべさせているのが見えた。
「ぁ、ぐ……か、は……ッ」
シュラハテンダーメの、かすかな、掠れた呻き声。
空気を求めて、彼女の長く武骨な指が、咽喉の辺りを掻き毟る。
動き回ったお陰で血の巡りが速くなり、毒の回りも速くなったか、意識がますます朦朧としてくる。身体はもう、泥のように重く、これで彼女を退けられなかったら、恐らく飛鳥に立つ力は――事態を切り抜けるだけの勝機は、残ることはないだろう。
しかし、
「う……」
あと一歩、というところで全身から決定的に力が抜け、意識が暗闇にずぶずぶと沈んでいく。ぎりぎりで解放されたシュラハテンダーメが、咳き込みながらその場に倒れ込む。
なすすべもなく崩れ落ちながら……やっとのことで身を起こす女剣士を横目に見ながらも、飛鳥が、恐怖や焦り、絶望を感じなかったのは、
「――――アスカ!!」
自分が今一番慕っているという自覚のある、領主夫妻の声と気配とを、途切れかけた意識の片隅に感じ取っていたからだった。