すべてが完了するまでに丸一日かかった。
 住民の避難を終えて戻って来た頃には、もうすっかり夜になっていて、それなのに老夫婦の姿がねぐらになく、不審に思って外へ探しに出たら、知り合いと行き逢った。
 そこで飛鳥が聴いたのは、年かさの男女ふたり組が斉華会と“紅龍”の取引現場に乱入し、いかなる手段を用いてかならず者たちを行動不能に陥れ、密造拳銃二百挺を奪って逃走した、という、思わず耳を疑うような情報だった。
「……俺には、そんな馬鹿げたことを仕出かしてのける年かさの男女ってのの心当たりは、一組しかないんだがな」
 飛鳥にその話をもたらしたのは、斉華・藤正会とは敵対関係にある、古きよき任侠道を貫いていることで有名な組の若頭だった。東雲組の“不動明王”と言えば、近辺のチンピラなら震え上がる名だが、飛鳥には知り合い程度の認識でしかない。
「フェイ、お前なら何が起きているか知ってるんだろう」
 何でも屋としての飛鳥を呼ぶ彼に、内心の不安や混乱を押し隠し、完璧な無表情を保つ。
 男はしばし無言を保ったが、飛鳥が何も言わないことに小さな息を吐き、
「……斉華会や“紅龍”のみならず、漁夫の利を狙う藤正会までがふたりを血眼で捜してるって話だ。見つかればタダじゃ済まないだろうな。早いとこ、手を打った方がいいぞ」
 言って手を伸ばし、飛鳥の頭をわしゃっと撫でた。
 飛鳥は眉をひそめ、彼の手を振り払う。
「何の真似だ」
 険のある目で睨むと、男は肩を竦めた。
「いや、すまん。不安そうに見えたんでな、つい」
「勝手に人の気持ちを代弁した気になるな、という以前に、何がつい、だ。子ども扱いするな」
「子どもだろう、どう考えても。まだ声変わりも終わっていないくせに」
「……」
 男の、嘲るでもからかうでもない、ただ心の中の真実を言う口ぶりのそれに、反撃する要素も意味も見出せず――それらは、飛鳥自身どう頑張っても否定出来ない事実だったから――、飛鳥は口を噤むと踵を返した。
「どうする気だ」
「あんたには関係ない」
 巻き込めないという意味と、踏み込んできてほしくないというニュアンスを込めて言うと、それらを敏感に察したらしい男が、背後で苦笑する気配が伝わってきた。
 ――きっと、求めれば手を差し伸べてくれる人はたくさんいる。
 あの老夫婦にも、飛鳥にも。
 ただ、どうしても悪い予感が拭えなくて、助けを求めれば巻き込むだけだという恐ろしく後ろ向きな、しかし真実味のある予測しかなくて、飛鳥は、自分の意地っ張りぶりを超える硬さで口を噤んだのだ。
 そのまま足早に――というよりもほぼ全力疾走でねぐらへ駆け戻ると、ドアを蹴り開ける勢いで老人の部屋に入り込み、散乱した紙類を掻き分けて手がかりを探す。
 住民たちの避難が済んだ近辺からは、生活音も人々の声も絶えて、妙な寒々しさが足元から這い上がってくる。
「最初から……こうするつもりだったのか」
 住民たちの安全を確保した上で危険を排除する。
 その考え方に間違いはないだろうが、――彼らなら巧くやるだろうと信じたいという思いもあるが、嫌な予感が消えなくて、背骨が冷たい。
 気を抜けば全身が震え出しそうだ。
 じいさんのことだから詳細な資料を残しているはずだという確信の元、乱暴な手つきで紙束を繰っていく。
 五分もそれを続けた頃に、飛鳥の手は、取引現場の詳しい地図ともっとも速い逃走ルートに関する資料、大人数を行動不能にする麻酔煙の調合書を探り出していた。
 そして、逃走ルートから続く地図の先に、身を隠すためにしてはやけに大規模な廃工場の資料を見つけ、それから殺傷力は高いが爆発の規模自体はそれほど大きくない爆弾の設計図を見つけて、息を呑む。
 ――この廃工場には、入り口以外の出入り口がない。
 ここに逃げ込んで、追い詰められれば、逃げるすべはない。
 だが……そこに意図を感じるのは、飛鳥の思い過ごしではないはずだ。
「じいさんばあさん、まさか、――いや、そんなはずがない」
 この界隈でふたりを頼らず、必要としない人間などいない。
 様々な知識と技術を有し、人間の暗部を見つめてきたがゆえの懐の深さを持つ老夫婦を、誰もが慕い、頼りにしているのだ。
 だから、そんなにあっさり、我が身を危険に晒すような真似をするはずが、という祈るような思いは、次に探り当てた紙切れで霧散する。
 一枚だけ、妙に綺麗なその紙には、診断書、と書いてあった。
 患者名は遠野平頼(とおのたいら)。
 老人の名前だ。
「じいさん、なんで……」
 診断書に視線を走らせ、飛鳥は呻く。
 そこに書かれていたのは、お定まりの宣告だった。
 曰く、全身に転移した癌の。
 曰く、治療は不可能で。
 曰く、余命は長くても半年、と。
「……この、所為か」
 音を立てて血の気が引いていくのが自分でも判った。
 ――判った。
 すべて察した。
 老人は残り少ない命を賭してでも、この界隈の危険を排除するつもりでことを起こし、老婦人は最後までそれに付き合うと決めたのだ。老人は彼女を止めただろうが、恐らく彼女は、彼が死んだあと自分だけ生きているつもりはないと言ったのだ。
 だから飛鳥を外した。
 ふたりで――ふたりだけで、全部終わらせるつもりで。
「う……」
 飛鳥は小さく呻いて口元を手で覆った。
 激しい嘔吐感に息が出来ない。
 ――また置いて行かれる。
 這い上がった恐怖は、あまりにも身勝手で自分本位のものだった。
 後頭部の天辺あたりがぐるぐる回っている。
「くそッ」
 それでも、ここで打ちひしがれているわけにはいかない、という気持ちだけで、飛鳥はねぐらを飛び出す。
 周到な彼らのことだ、恐らく大量の兵隊を差し向けられることを承知で――むしろそれすら狙って――斉華会と“紅龍”、藤正会にまで取引を装った連絡を入れているはずだ。
 ならず者たちは無論、最初から殺して奪うつもりであの廃工場に来る。
 ――当然、武器を確保してから。
 恐らく、それが、老夫婦の狙いなのだ。
「そんな勝手を、許すはずがないだろう……!」
 言葉尻が震えなかったかどうか、自信はない。
 言葉にして、口にしなければ、何かが挫けてしまう、そんな気がして、自分を奮い立たせようとしただけのことだった。
 ここから廃工場まで、およそ一時間。
 間に合うのか間に合わないのか、『取引』がいつ始まるのか、何も判らない。
 何もかもが足元から崩れ落ちていくような焦燥に駆られつつ、それでも、飛鳥は奔る。

 * * * * *

(――……嫌だ)
(この先は見たくない……)
(もう、見たくない)
(俺は置いて行かれるんだ、また)
(俺は、無力だ)
(嫌だ、見せないでくれ!)

 断末魔のような呼吸のあと、いても立ってもいられず飛び起きると、
「アスカ、しっかりして!」
 やわらかな腕に抱き締められ、飛鳥は唐突に覚醒した。
「――……ッ!」
 途端に、息も出来ないほどの痛みが全身を襲い、飛鳥はその場で硬直するしかない。
「アスカ、しっかり。もう大丈夫、大丈夫よ」
 腕と同じ、やわらかな声が飛鳥を呼ぶ。
 温かい手が、背をゆっくりと撫でている。
「……メイ、デ……?」
 それでようやく、飛鳥は、自分が今いる世界と、置かれている状況とを思い出すことが出来た。
 自分が今いるのはソル=ダートなる麗しの異世界で、彼はふたりの眷族とともにリィンクローヴァという美しい国の厄介になっていて、守るべきものがあってやるべきことがあって、――そして激痛はシュラハテンダーメなる刺客に全身を刻まれたからだ。
 飛鳥は夢を見ていたのだった。
 もう二度と取り戻せない過去を映し出す夢だった。
「……魘されていたわ。傷は痛む?」
 抱擁の腕を解き、飛鳥をベッドに横たえながらメイデが問う。
 飛鳥は何とか呼吸を整え、小さく頷いた。
「あいつは、」
「逃げたわ。あの状態でわたしと戦うのは不利だと判断したようね。かなりダメージを受けていたようだったけれど……傷をものともしない身のこなしだった。相当な手練れだわ。それに……少し、気になることを言っていたわね」
「気になる、こと……?」
「ええ……ハルノエンについてのことで、少しね。今、アルが調べに行っているわ。無用な心配であることを祈るけれど」
「そうか、……ッ」
「今は、彼女のことは気にしなくてもいいわ、アスカ。本当に危なかった……間に合ってよかった」
 メイデが穏やかに微笑み、飛鳥の額に親愛のキスを落とす。
 その辺りで本当にようやく、飛鳥は、自分がいつもゲミュートリヒ市を訪れているときに使っている客室のベッドに横たえられていて、全身をくまなくといっていいほど包帯に覆われていることを客観的に認識出来るようになっていた。
 指一本動かすのも億劫なほどの痛みと倦怠感が全身を包んでいるのが判るし、 身体のあちこちを複雑骨折していて、あちこちを縫われている感覚がある。
 多分、本当に、メイデが来てくれなかったら死んでいた。
「不甲斐ない……」
「? どうしたの、アスカ?」
「もっともっと、やらなきゃいけないことが、あるはずなのに、俺は」
 ぽろぽろと零れる弱音めいたそれは、恐らく目の前にいるのがメイデだからだ。彼女とアルディアには、何故か、無条件で甘えてもいいのだという意識があって、飛鳥はほんの少し、年相応の顔になる。
 能力も、立場も、過去も、何もかも取り払ったあとの、雪城飛鳥というだけの、ただの少年の顔に。
 ――彼女を見ていると、あの時喪われてしまった老婦人を思い出す。
 朝見永久子(あさみとわこ)という名前の、優しい、しかし芯のしっかりした女性だった。
 飛鳥が抱えたままの疵を言葉なしに見い出し、疵と向き合い受け入れる方法を教えてくれた。記憶のリフレインに苦しむ飛鳥の傍らに、何も言わず何時間もいてくれた。強くてやさしい人だった。
「……ごめん。俺は今弱気になっているな。すぐに……すぐに、治すから」
 弱っているのは、傷の所為か、界神晶を使ったダメージが抜け切っていないからなのか。
 何にせよ不甲斐ない、情けない、と飛鳥が胸中に溜め息していると、
「あら……アスカが弱音を吐いてくれるなんて、嬉しいわ」
 メイデは、花が綻ぶように笑ったのだ。
 白くて美しい、しかし儚くはない指先で、飛鳥の、包帯と膏薬だらけの額を、頬をなぞり、
「あなたにとってのわたしが、弱音を吐くに値する存在であるのなら、わたしはとても嬉しい。……そうね、レヴィ陛下には、弱った姿を見せたくないということね。男の意地、と言うのかしら?」
 メイデはくすくすと笑った。
「心配しないで、アスカ。わたしたちと、アスカだけの秘密にしておくから。だから、思う存分、甘えてくれていいのよ?」
「……ッ」
 悪戯っぽい笑みに、言葉に、……そしてその中に含まれる蠱惑的なまでの許しに、飛鳥がどれだけ安堵させられ、更には赤面させられたか、きっとメイデは知らないだろう。
 物心ついた瞬間から自分の足で立つことを強いられてきた飛鳥にとって、また自分自身にそれを課して来た彼にとって、メイデのような大人は稀有だった。飛鳥の能力や出自を知ってなお、大らかに両腕を開いて受け入れてくれる、大人としての器の大きさを見せてくれる『大人』は少なかった。
 それゆえに免疫はなく、どう反応していいかも判らず、飛鳥は無言でブランケットの中に潜るという子どもっぽい手法で内心の混乱を表現するしかなかったのだった。
「あら、どうしたの、アスカ?」
 やわらかな笑い声を立て、メイデが飛鳥の頭を撫でる。
 メイデ相手に子ども扱いするな、と突っ張ってみせるだけの余裕もなく――最近、自分はまだ子どもなのだ、と思わされることが多いのも事実だ――、飛鳥は無言を貫いた。
 今ブランケットをめくったら、メイデは、飛鳥が首や耳まで赤くなっている様を堪能することが出来ただろう。
「……メイデたちには」
 恐らく十分ばかり、ブランケットの中で身動きひとつせず悶絶するという芸当をやってのけたあと、ようやく落ち着いてきたので首を出すと、メイデは慈母を思わせる眼差しでアスカを見つめていた。
「わたしたちには?」
「……敵わない」
 溜め息混じりにいうと、メイデは一際明るく笑った。
「それは、とても素敵なことね。嬉しいわ」
 そのあと、白い指が伸びて来て、飛鳥に瞼を閉じさせる。
「さあ、もう少し眠って。きっとあなたのことだから、王城に連絡はするなと言うでしょう。なら、お迎えが来るまでに、少しでも早く治してね」
 飛鳥の性質をすでに熟知していると言わざるを得ないメイデの言葉に苦笑して頷き、飛鳥は素直に身体から力を抜く。十七年の人生の中で最大規模とでもいうべきのダメージを受けた身体が、速やかな休息を必要としているのも事実のようで、あっという間に睡魔が襲ってくる。
 泥のようなそれに身を委ねることに不安はなかった。
 夢を見て魘されることがあっても、抱き締めてくれる腕があると判っているからだ。
「大丈夫よ、心配しないで。何があっても、わたしたちが護るから」
 髪を、額を撫でるメイデの手の温かさが、更に眠気を誘う。
「ゆっくり休んで、可愛い子」
 子守唄のようなそれを思考の端に聞き、そんないいものじゃない、と苦笑するより早く、飛鳥の意識は眠りの縁へ沈んだ。
 ――足早に部屋へ駆け込んでくる靴音を聞いたような気がしたが、定かではない。