飛鳥が目覚めたのはその二時間後だった。
 ――虫の知らせと言うしかなかった。
 メイデのあたたかさに護られてか、眠りはとても穏やかだったが、覚醒してみれば身体は当然のことながらひどく疲弊していて鉛のように重く、身動きするだけで全身が軋むような激痛が走ったが、それに倍する危機感、焦燥めいた何かに衝き動かされて飛鳥は目覚めたのだった。
 窓の外では、まだ眩しさを失わない太陽が、ほんの少しずつ傾いていこうとしている。日の入りまであと二三時間といったところだろうか。
「何だ、この、空気……」
 ベッドの中で、重苦しい何かを感じ取り、このまま寝転がってはいられない、と身体を起こす。
 無論、自分の痛みに無頓着な飛鳥ですら思わず呻き声が漏れたくらい痛い。
 が、それよりも恐ろしい何かが迫っているという確信めいた――デジャ・ヴュを彷彿とさせる危機感があって、飛鳥はほとんど決死の覚悟でベッドから降りた。
 一体どれだけダメージを受けているというのか、足が地面に着いただけで身体がバラバラになりそうな錯覚に陥るが、今はそれどころではないと肉体の悲鳴を無視する。
 眷族や下僕騎士たちがいればもう少し便利だったかもしれないと思いはしたものの、圓東はバドの工房での仕事が忙しいし、金村には念のため圓東の護衛を任せてあるし、ノーヴァとイスフェニアは自分が留守の間の雑事をこなしているのでどうしようもない。
 どちらにせよ、今ここにいないものをアテにするほど無為なことはない、と、
「メイデ、アルディア、どこだ……?」
 全身包帯まみれのまま、壁を伝うように部屋から出て、怪我をした箇所を庇いながら廊下を進む。書斎にも居間にも、厨房にも顔を出し、いつもふたりがいる場所を回ったが、どちらも見いだせず、おまけに、誰かに出会ったら彼らの居場所を尋ねようと思ったのに、誰とも行き会わない。
 そのことにも危機感が募った。
 屋敷全体を包む、重苦しい空気に押し潰されそうだ。
「くそ、呼吸、が……」
 圧迫感すら覚えるこれには、記憶がある。
 先ほど夢に見たばかりだ。
 誰かが去ってゆく、誰かが喪われる、あのなすすべのない絶望感。
 それが、足下まで迫っている、そんな感覚がある。
 ――否、もしかしたらそれは、それもまた、啓示だったのかもしれない。
 飛鳥をこの世界に呼び、何かをさせようとしている誰かが飛鳥に突きつける、激烈にして悲壮なる運命の分かれ道。
 この感覚が正しいとしたら――実際には、それが疑いようのない確信だと、頭のどこかですでに認めてしまっている――、危機が迫っているのは、あの領主夫妻だ。
「……そうだ、執務室に」
 本来なら真っ先に思い浮かべるべきなのだが、普段ほとんど姿を見ることがないからと意識から除外していた場所を思い浮かべ、あの時老人の部屋を引っかき回して手がかりを探したことを思い出しながら方向転換する。
 これが杞憂であってほしい、心配性の慌てものだとふたりに笑ってほしい、そんな祈るような思いで、自由にならない身体を叱咤して歩く。
 普段なら大股で一分二分のうちにたどり着くような場所なのに、今は永遠に到着しないんじゃないかと思うほど遠く感じられ、飛鳥は唇を引き結び無力感に耐えた。
 足を引きずり、何度も立ち止まっては呼吸を整えながら歩いて、ようやく執務室にたどり着いた時、飛鳥は自分の中にある凶兆が杞憂ではなかったことに気づかされた。
「皆、何を……」
 執務室の前に、屋敷の人々が集まっている。
 彼らは皆、一様に悲壮な表情で、中にはすでに涙を流しているものもいた。それなのに、何も言葉がなくて、誰も一言も喋らず、異様な重苦しさだけが周囲を満たしている。
「――……アスカ」
 誰かのつぶやきが、やけに大きく、妙に虚しく響いた。
 ざっ、と、波間が割れるように人垣が半分になり、救いを求めるような視線が飛鳥に集中する。
 それは、雪城飛鳥という人間に対するものではなく、界神晶を持つ黒の御使いへの祈りにも似た感情で、飛鳥はこの時ほど『出来損ないの御使い』である自分を恨めしく思ったことはなかった。
 ――そんなにも偉大で不思議な力を本当に自分が持っているのなら、喪わずに済むものも多いだろうに、と。
 普段の飛鳥らしくない、後ろ向きに過ぎる思考は、生まれて初めてといっていいダメージと、身体に残った毒の影響もあっただろうし、何より啓示めいたあの夢も多分に影響していただろう。
 ――自分はどうしようもなく無力だ。
 こんなことで、レーヴェリヒトを護り、リィンクローヴァを守るなんてことが出来るのか、約束を果たすなんて不可能なんじゃないのか、と、自身の根幹にすら関わる問いが根ざし、思わず息を詰めた飛鳥の耳を、
「……まあ、目覚めてしまったのね、あのまま避難所へ運び込もうと思っていたのに。アスカったら、本当にせっかちさんなんだから」
 いつも通りの、いかなる変化も感じ取れない美しい声が、何ともおかしそうな響きを伴って打った。
「メイデ……」
 飛鳥はその声が聞けたことにホッとしつつ、人垣の向こうから現れた領主夫妻の姿に目を見開いた。
「その格好は一体。……アルディアも」
 ふたりはいつも、豪奢ではないが優美で華やかな、貴族としての衣装を身にまとっていた。自分が着飾りたいからではなく、ただゲミュートリヒ市の顔として。美しい出で立ちの領主夫妻を見ることで、ゲミュートリヒ市民たちが誇らしい気持ちになるから。
 それが、今、メイデは優美だがどこか鋭利な印象の甲冑を、アルディアは魔導師が戦闘の際身につけるローブをまとい、メイデは腰に剣を――アルディアは手に杖を、携えている。
「アスカには眠っていてほしかったんだけど……仕方ないな。これも黒き双ツなる神のお導きなのかもしれない」
 アルディアの微笑もまた、いつも通りだった。
 本当は何も困ったことなど起きていないのではないか、先程の焦燥は何かの間違いだったのではないかと錯覚しそうになるほど、いつもと同じ穏やかさだったが、彼のまとうどこか厳めしいローブが、その錯覚を許してくれない。
「何が……あったんだ」
 加えて、屋敷の人々の様子を見れば、このふたりの身に関する何かが起きたと思わざるを得ず、飛鳥が尋ねると、夫妻は顔を見合わせて微笑んだ。
 微笑のあまりの静かさに、大したことなのか大したことではないのか判別がつかず、飛鳥がふたりの言葉を待っていると、
「ハルノエンの軍が攻め入ってくるわ」
 メイデが何でもない様子でそう言った。
「な、」
 一瞬納得しかけて、飛鳥は眉をひそめる。
「第一陣の数は三百。“目眩まし”をかけて来ているから……尖兵と言ったところかな」
「偵察・探索兼邪魔者の排除、というところでしょうね。ゲミュートリヒ市だけなら、偵察や探索に三百も要らないもの」
「夜陰に乗じて指揮系統を潰し、一気に押さえようということだろうね。そして、支配下に置いたゲミュートリヒ市を足掛りに中央へ侵攻して行こうとか、そんなところだろう」
「待て、ハルノエンは親戚のような国だと前に言っていただろう」
「ええ。だから……何かがあったのだわ。友好的に何かをしようという兵士たちが武器を携えた上“目眩まし”をかけてくるはずがないし、何よりリィンクローヴァとハルノエンの間には、国境を互いの兵に越えさせないという約束事があったの。何の連絡もなくあれが行われたという時点で、もう、疑いの余地はないのよ」
「……なら、こちらも兵を動かすのか」
「いいえ」
「?」
「征くのは、わたしとアルだけよ」
「は!?」
「三百の兵の後ろには、七千の兵士が控えている。これは確認済みよ」
「ゲミュートリヒ市の、職業的に訓練されている私兵は……一万五千、だったか」
「ええ。だけど、そう簡単に彼らを動かすわけにも行かないわ。ゲミュートリヒ市とハルノエンが交戦状態に入ったという報が流れれば、ダルフェとクエズも黙ってはいないでしょう」
「現在、一万の兵力が別都市の防衛に派遣されているから、実際に動けるのは五千だね。だけど、彼らを全員出してしまうと、七千のあとに恐らく控えているだろう本陣と戦う兵力がまったくなくなってしまう」
「……だが、だからあんたたちがふたりだけで三百の兵隊とやりあわなきゃいけないって道理にはつながらないだろう」
 七千の第二陣を控えた、三百の尖兵。
 三百の彼らをたったふたりで相手取るために領主夫妻は出て行こうとしていて、屋敷の人々はそれを当然のことのように受け止め、すでに悲嘆の涙に暮れている。
 理不尽過ぎる流れだ、と飛鳥は思ったが、
「そうするしかないんだよ」
 アルディアはどこか無邪気ですらある風情でそう言って、笑った。
「三百の尖兵に私兵軍を差し向ければ、すぐに七千の第二陣が来るだろう。今、極秘裏に――大急ぎで、住民の避難とハルノエン兵が侵攻してきた際の防戦の準備を整えさせてはいるけれど、多分それでは間に合わない」
「ゲミュートリヒ市の私兵軍は優秀よ、五千で七千を相手取るくらいはわけもないことだけれど……」
「七千のあとに、それに倍する兵力が投入されたら、持ち堪えられない、か」
「そう。だから、わたしたちは、時間稼ぎをするの。足止めをするだけよ」
「……あんたたちには、それが出来るだけの実力がある、と?」
「ええ。茨姫と呼ばれたのはもう二十年も三十年も昔のことだけれど、腕を落としたつもりはないわ。わたしたちリィンクローヴァの将は、ひとりで大人数と渡り合うすべを幼い頃から訓練されてきているのだもの」
「それに、私もいるよ。私は武器を使った戦闘には向かないけれど、メイデの補助や、攻撃のための魔法には長けているからね」
「その間に、ザーデバルクやエルンテ、パロスに救援を要請しているわ。ゲミュートリヒ市に何かあった場合でも、三都市がハルノエンの侵攻を止めるでしょう」
 甲冑の武骨さを感じさせない、少女のように邪気のない様子でアルディアと笑いあい、メイデは執務室の大きな窓から緑あふれる景色を見遣った。――その眼差しが、すでに覚悟を決めた人間のそれであることに気づいて、飛鳥の呼吸は途絶する。
 ふたりの目は、あの時、老夫婦がしていたのと、まったく同じ光を宿していた。
 足止めをするだけだと言いながら、ふたりはもう、生きて帰るつもりはないのだ。そこで斃れて当然だと思っている。そして、そのことを恐怖も、絶望もしていない。
 ――この目をした人間を止められないということを、飛鳥は本能的に知っている。
 苦いいたみが咽喉の奥から込み上げてくる。
「だが……俺は、解せない」
 最後の足掻きのように疑問を口にする。
「ハルノエンとの関係を保つことで国境を護ってきたのがゲミュートリヒだからといって、あんたたちがすべて背負う必要はないだろう。夜まではまだ時間がある、レイに……王城に連絡するなり何なりして、別の手段を講じるべきじゃないのか」
「駄目よ、それは駄目なの、絶対に」
 返ったのは、思いのほか強い言葉だった。
「それは、どういう……」
「詳しいことは、後日ハイルに尋ねて。だけど……駄目なのよ、この、今日の戦いに、レヴィ陛下を関わらせるわけには行かないの。アスカ、あなたがここにいることが、黒き双ツなる神のお導きだというのなら、尚更」
「……?」
「ここでわたしたちが死んで、たとえゲミュートリヒ市が滅ぼうとも、あの方を今この場に呼び寄せることは出来ないのよ。きっと危機を伝えればレヴィ陛下はここへおいでになるでしょう。でも、それだけは出来ないの」
「レイがこの国にとってとてつもなく大切な人間だってのは判る。だが、そのために都市をひとつ潰しても構わないっていうのは、あいつの信条にも反するんじゃないのか」
「そうね、きっと彼は哀しまれるでしょう、憤られるでしょう。でもね、比喩ではなく、レヴィ陛下は世界の行く末を担うべき方よ。彼が喪われれば、数多の血が無益に流れ、この乱世は収まることなく続くでしょう。黒の御使いとしてのあなたがここに来た意味が、レヴィ陛下を護り導くことなのだとしたら、どうか、判って」
「……判らない。どういう意味だ、もっとちゃんと、詳しく説明してくれ」
「わたしたちは知っていたのよ、この日がいずれ来ることを。わたしたちはそれを恐れはしないけれど、ただ、レヴィ陛下の背負う運命だけが心配だった。あの方は、この日を境にとてもとても苦しい道をたどってしまわれるのではないかと、それだけが心配で――……だけど、あなたが来てくれた。だから、わたしたちは、吹っ切ることが出来るわ」
 謎かけのような、言葉遊びのような、しかしひどく真摯で、どこか慈愛めいた喜びを含んだそれに、飛鳥は眉をひそめるしかない。確信的なことはなにひとつ理解できないものの、ただ、迫る別れと、領主夫妻がそれでも何も恐れず、悔やまず、むしろ何かを喜んですらいることだけが判る。
「……」
 飛鳥は唇を引き結んだ。
 二対三百の荒唐無稽な戦い。
 ならばせめて自分も、と思っても、身動きすらままならないこの状態では、足手まといになるのが関の山だ。万全の体調なら――それは界神晶が自由に使えれば、という意味ではなく――、なんとでも出来ただろうが、こんな調子では、かえってふたりに不利を招くだけだろう。
 ――夫妻はこの国の、そしてレーヴェリヒトのために命をかけるつもりでいる。それなのに、自分は何も出来ない。
 寒々しい無力感が足元から這い上がる。
 そんな飛鳥の感情のすべてを、きっとふたりは理解しているだろう。
 それすらきっと、慈しんでくれているだろう。
 そのことが判るから、尚更苦悩が募る。
「ビノー、ルオーグ、アスカを避難所へお連れして。せっかちで意地っ張りな子だから、きっとしばらくは怒ると思うけれど、丁重に、ね?」
 いつものように明るく――朗らかに、どこか悪戯っぽく笑ったメイデが、側近たちにそう声をかけ、名を呼ばれたふたりが沈痛な面持ちで頷く中、アルディアはこの場に集った人々を一望して、微笑んだ。
「君たちと一緒にゲミュートリヒ市のために、ひいてはリィンクローヴァのために尽くせた日々はなにものにも変え難い宝だ。私たちとともに歩んでくれた君たちに、とてもとても感謝しているよ……ありがとう」
 その言葉に、人々がまた新しい涙を流す。
 メイデはそれを見守りつつ、ひとつ大きな呼吸をし、
「さあ、では、各々の仕事をしましょう。市民を避難させる人たちは、西出口から。防衛戦の準備をする人たちは、東出口から。各都市と連絡を取る役割の者は、神殿へ。――通信用の魔法鏡はここにもあるけれど、ここは恐らく危険だわ、屋敷には誰も残らないようにね」
 そう、静かに、同時に断固とした――反論を許さぬ調子で指示を下した。
 屋敷の人々は、項垂れ、唇を噛み、涙をこぼし……別れを惜しみながら、夫妻とともに在れた時間を神に感謝しながら、それでも、最後のオーダーを果たすべく、三々五々、立ち去って行った。
 最後に残ったのは、メイデとアルディア、側近の男ふたりと、唇を引き結んで立ち尽くす飛鳥だけだった。
「アスカ、あなたも、さあ」
 メイデの、武骨なガントレットに覆われた、しかしあたたかさを感じる手が飛鳥の肩に置かれ、手袋に覆われた指先が、飛鳥の頬をそっと撫でた。背後からはアルディアの手が伸ばされて、飛鳥の背を優しく叩く。
「どうか自分を責めないでね。あなたに苦しい道を押し付けてごめんなさい」
「だけど、私たちは満足しているし、安心しているんだ。アスカ、君のお陰で、レヴィ陛下が国王としてではなくレーヴェリヒトという人間としての笑い方を思い出してくれたから」
「わたしたちは幸せ者だわ、あなたがここに来てくれたもの。最後のこの時に、見送ってくれるのだもの」
「君と一緒に過ごせて、本当に楽しかったよ。覚悟を決めたあとのことだっただけに、尚更ね。――だから、私たちは、本当に何の後悔もないんだ。そのことを、レヴィ陛下に伝えてもらえるかな」
 別れの、暇乞いの言葉。
 残酷と知りながら投げかけられる、飛鳥を二重にも三重にも縛る言葉だ。
 だが、それをそのまま受け入れることは耐え難い、と、飛鳥は思った。
 自分がここにいる意味が何もない、と。
「……絶対に、」
 ぎりりと奥歯を噛み締め、拳を握り締めてから、飛鳥はぼそりと呟いた。
「どうしたの、アスカ?」
 訝しげなメイデを前に、右手人差し指にほとんど必死で意識を集中させ、エネルギーの循環を思い描く。強大なエネルギーが弱った身体の中を駆け巡り、その場で崩れ落ちそうになったが、意地とプライドで耐えた。
「……アスカ?」
 飛鳥の周囲で、ごくごく小規模に、いつもの光沢ある闇が揺らめく。
 頭がガンガン痛んで、ものすごい嘔吐感が込み上げたが、やはり意地で振り切って、
「このまま終わらせるなんて、絶対にしない」
 界神晶を発動させ、祝福だか加護だか防御だか幸運だか増幅だか上昇だか自分でもよく判らない、飛鳥の感情そのままのような、祈りのような『力』の塊を夫妻に被せる。
 ぱしん、という軽い破裂音。
 傍目からは何も変わったようには見えないだろうが、今ので、ふたりの防御力や攻撃力、身体能力、持久力などは、1.5倍程度に底上げされたはずだ。――本当は二倍にも三倍にも上げたかったのだが、1.5倍が限度だった。
「……これは」
「アスカ、あなたは……本当に、無茶ばかりして」
 両手を見下ろしたあと、夫妻が苦笑して飛鳥を抱き締めた。
 飛鳥は、その場で昏倒しそうな意識をプライドだけで保ちながら、
「……絶対に、追いつく。このまま、ハイサヨナラなんて、絶対に……認めない」
 喘ぐように、譫言のように、しかし断固たる意志をこめて告げる。
 目の奥がびりびり痺れて、全身を太い針で刺されているような激痛を訴える身体からは、砂時計のように力が抜けて行く。
 あれだけ疲弊して、回復もしていないのに無理やり界神晶を使えばこうなるのは自明の理だ。
 とはいえ、絶対に無理だろうと思っていたが、人間、必死になればなんとかなるもんだな、と、奇妙に冷静な思考の端っこが思う。もちろん、これ以上はどう逆立ちしても何も出来そうにないが。
 しかし、飛鳥には判っていた。
 飛鳥もまた覚悟を決めた。
 己が無力に歯噛みし、避け得ない運命を悲嘆とともに予感しつつも、それに抗うと――わずかであれ足掻くと決めた。
 そのことに、身体が、追いつこうとしている。
 この世界に来て様々な出来事を経て、おどろくほどたくさんの変化を見せる肉体が、今この時に際して、飛鳥の意志を受け止めようとしている。それが判る。
「……そうね」
 それゆえの、飛鳥の物言いに、アルディアと顔を見合わせてメイデが微笑んだ。
「じゃあ……待っているわ。だから、早く来て、ね?」
 どこまで本気だと思っているのかは判らないが、メイデもアルディアも、どこか嬉しそうだった。
 飛鳥はそれに満足して小さく頷く。
 気が抜けたか、力尽きたと言うべきか、同時にがくりと折れた膝を支えるように、ビノーとルオーグという名の側近たちが飛鳥を両脇から抱えた。
 男たちは、丁寧な手つきで飛鳥を支えながら、領主夫妻に向かい、敬意を込めて一礼した。
「どうぞご武運を、メイデ様、アルディア様。今生の別れと覚悟してお見送りしますが……それでも、わたくしどもは、おふたりのお帰りをお待ちしておりますので……!」
「ええ、判っているわ……ありがとう」
「じゃあ、行って来るよ。アスカと、レヴィ陛下と、うちの子どもたちを、よろしく頼むね」
「……御意」
 再度、男たちが恭しく一礼する。
 それを見つめてから、ふたりはもう一度深く……朗らかに笑い、そして踵を返した。
 飛鳥は、ともすれば途切れそうになる意識と呼吸をどうにかこうにかつないで、その背を見送る。
(絶対に)
 自分に何が出来るのか。
 なすすべもなく喪って、苦しみを背負うだけではないのか。
 また置いて行かれる、また間に合わない、また。
 そんな思いは無論、未だ心の奥にわだかまり、飛鳥を脅かす、けれど。
(……このままで終わらせてなんて、やるか、くそ)
 依怙地で強情な、激烈で獰猛な、それもまた確かに自分だと飛鳥が思う部分が、理不尽で冷酷な運命とやらに対して、猛々しい怒りの咆哮を上げているのもまた、事実だ。