――走った。
 これ以上ないというくらいに奔った。
 走っても奔っても、何故か一向に辿り着ける気がせず、嫌な予感が拭えず……むしろそれはいや増すばかりで、飛鳥は呼吸すら忘れて夜の街を――そしてくだんの廃工場へと至る薄汚れたビル群の隙間を疾走した。
「多分、この辺りだった……はずだ」
 ふたりが終焉の場所に選んだと思しき廃工場は、似たような、ぼろぼろになった工場が建ち並ぶ湾岸寄りの工業地帯の中にある。工業地帯と言っても今はもう稼働していない工場ばかりが集まっている場所だから、元工業地帯と表現すべきなのかもしれないが。
 不気味に静まり返った廃墟の、遠くの方から、殺気立った自動車の排気音が聞こえて来て、飛鳥は奥歯をぎしりと噛み締めた。
「くそ……肝腎なところで察しがいいというか、楽をさせてくれないというか……!」
 飛鳥が追いついてくることを想定してか、飛鳥に事情を理解させようと思っていても邪魔はさせないつもりだったのか、老夫婦は廃工場までの正確な地図を残していなかったのだ。そのため飛鳥は、見取り図の状態から想像出来る建物の形状などで場所を割り出すしかなく、ひどく手間取らされている。
 とはいえ、正直、自分の数倍上手のふたりが『そう』と決めたのだとしたら、自分に覆すことなど出来るはずがないと根っこの部分では理解している。
 理解していても、納得出来ないだけだ。
「連中を誘い込むに適していて、周囲に被害を及ぼし難く、遠くからの狙撃は難しく、取引を装いつつ大人数で一気に圧殺しようと思わせるような形状の建物……」
 ぶつぶつと思考を口にしながら、工場の墓場を走り抜ける。
 彼らの考えていることならこんなにもよく判るのに、彼らがそこまで覚悟を決めていたなんて思いもしなかった。
 それを思うたびにこみ上げるのは、どうしようもない孤独感だった。
「じいさん、ばあさん」
 ガラクタの山を跳び超え、奥へ奥へと進みながら呟く。
「俺はそんなに信用ならなかったのか。放り出してふたりだけで死んでも構わないと思うほど、俺はどうでもいい存在だったのか」
 生まれて……生み出されてたかだか十六年の間に、数え切れない命を背負い、喪って失って流れ着いたここであの老夫婦に拾われたことで、飛鳥がどれだけ救われていたか、どれだけ温められていたか、そんなことすら、ふたりにはどうでもいいことだったのかと思うと、身勝手な感情だと納得しようとしても虚しさが零れて止まらなくなる。
「……俺は」
 この思考は無意味だ。
 そう思いながら、止めることも出来ない。
 握り締めた拳の中で、爪が手の平の皮膚を食い破る。
 ――その時だった。
「!?」
 飛鳥の携帯電話が突然着信したのは。
 このくそ忙しい時に誰だ空気読め、と八つ当たり気味に発信者を見ると、画面には『くそじじい』とあった。
 その時の飛鳥の衝撃を何と表現すればいいだろうか。
「じいさん!?」
 なんで電話なんかかけてくるんだと飛鳥にしては珍しい狼狽ぶりで通話ボタンを押す。走り続けながらだが、絶妙のバランス感覚と空間把握能力を持つ飛鳥には別段大したことでもない。
「おいあんたら今どこにいるんだ、年寄りの冷や水はやめてとっとと帰って来いこのくそじじい!」
 心配だとか不安だとかそういう気持ちを言葉に出来るほど素直でもなくて――そしてそれらはすべて伝わっているのだろうという確信もあって――いつものように悪態をつくと、携帯電話の向こう側から豪快な笑い声とくすくすという笑い声とが聞こえてきた。
『相変わらずだな、ボウズ』
「あんたたちがそういうことばっかりするからだろうが! とりあえず迎えに行くから場所を教えろ、そんでじっとしてろ!」
 それでも無性にホッとして、まだ間に合う、と言を継ぐと、
『ボウズ、俺たちはな、四十年前、それぞれの伴侶を殺したんだ』
 唐突に、ごくごく普通のことのように、そんな告白をされる。
「は?」
 老人の声に、自動車が次々とブレーキをかける音が重なる。
 囲まれつつあるのだ、彼らは。
「罪の告白ならあとで幾らでも聞いてやる、今はとにかくその場を離れろよ! あんたたちが何もかも背負う必要なんかないだろうが!」
 近所の人々は、誰も、老夫婦を犠牲にしてでも周辺の平和を取り戻したいなどとは思っていない。むしろ、ここで老夫婦が我が身を犠牲に――ならず者たちを道連れにして死んだなどと聴けば、必ず哀しむだろう。
『所謂政略結婚って奴でな、望んで添うた相手じゃなかった。嫁さんが俺を嫌ってるのも知ってた。それでも夫婦だ、最後には気持ちも通い合うだろうって思ってた。信じたかったのかもな』
「だから、それは今する話じゃない!」
『ところが、だ。俺の嫁さんと、ばあさんの旦那の奴がな、どうも出来てたらしくてな。遺産だのなんだののために、俺とばあさんを亡き者にしようとしたんだ』
「そ、」
『俺とばあさんは命を狙われる過程で出会って、傷を舐めあうみたいに親しくなった。あとはお定まりの男女の関係ってやつだ』
 ――これは懺悔だ。
 全身の感覚を鋭敏に研ぎ澄ましながら飛鳥は察していた。
 すべてを覚悟した、最後の告白。
 それは恐らく、ずっとずっと、彼らの心にあって、彼らを縛り続けた『罪』だ。
『俺たちは別に、あのふたりを殺してやりたいくらい憎いなんて思っちゃいなかった。ただ……そうだな、俺は、ばあさんに死んでほしくなかった。ばあさんも、たぶん、同じことを考えてた。その結果、あれが起きた』
「じいさん、あんたは」
『何もかもが偶然の産物で、ふたりの死体は山が隠した。恐らく、今後も見つかることはないだろう。自首することも刑に服することも、その後の光の当たる日常も、そのどれにも嫌気が差して俺たちは地下に潜った。後はお前が知っているとおりだ。……思ってみれば、悪くはない人生だったが、だからといって執着するわけにもいかんだろう』
「……それであいつらを道連れに死のうっていうのか。それがあんたたちの罪の償い方だと?」
『悪いな、ボウズ。残り時間がはっきりしちまった今、俺に出来るのはこれくらいなんだ。……ばあさんには、出来れば残ってほしかったが』
「違う! それは単なる無責任と言うんだ! 俺や、あんたを必要とする人たちを放り捨てて自分たちだけ楽になろうって言うのか? ふざけるなよ!」
 死体が発見されず、事件にすらなっていないそれを、めでたしめでたしでは終わらせられなかった老夫婦が、四十年前の罪と苦悩をずっと引きずり続けてここまで来たのだということは判る。判るが、だからといって今彼らがしようとしているそれを認めることは飛鳥には出来ない。
 限られた時間も罪も苦悩も、飛鳥にはなじみのものばかりだ。
「俺たちを、あんたたちに都合のいい贖罪の道具にするな……!」
『……ボウズ』
 それでも前を向いて生きろと望む人々の顔を、声を覚えているから、飛鳥は立ち止まらない……立ち止まれないのだ。倒れた人々の願いを叶え、誓いを果たした後でしか、飛鳥が倒れることは許されない。
 そして、なによりも、
「死は罪を償うに一番ふさわしくない行為だって誰もあんたたちに教えなかったのか。時間の長さは問題じゃない、そんな馬鹿げたやり方じゃなく、もっとまっとうな方法を探せばいいだろうが!」
 飛鳥はふたりに死んでほしくなかったのだ。
 悪口雑言の限りを尽くしてでも、ふたりを引き留めたかった。
 死んでしまった人たちとは、もう二度と会えない。
 その哀しみを飛鳥は嫌と言うほど知っている。
 飛鳥は同じ痛みを、あの、底辺のごとき場所に住まう、純粋で偽らない、気のいい人々に味わわせたくなかった。彼らが、老夫婦を喪って泣く姿を飛鳥は見たくなかったのだ。
「今だってまだ間に合う、じいさんばあさん。これでなにもかもがおしまいだなんてことは、正直、そんなに多くないってのを俺は知ってる。――あんたたちが教えてくれたんだろうが」
 それはもう、飛鳥の思いの丈だった。
 ふたりに自分が救われたこと、今も救われていることをこのときばかりは素直に伝えた、それだけだった。
 気持ちが伝わったという確信もあった。
『……』
 携帯電話の向こう側で、老人が黙り込む。
 そのさらに向こう側で、くすくすという笑い声が聞こえた。
『まったく、お前には敵わんな、クソボウズめ』
 かすかで穏やかな笑い声、だって飛鳥ですもの、というやわらかな言葉。
 そのとき、ほんの少し期待した自分を飛鳥は否定しない。
 気持ちを変えてくれたのかと、生きることを選んでくれたのかと。そのくらい、聞こえてきた声は、言葉は、穏やかで安らいでいたのだ。
 ――しかし、
「だったら早く、」
『――……なら、まぁ、心配は要らないだろう』
 紡がれたのは、どこか晴れやかな、満足げな言葉だった。
 とたんに、腹の底に氷の固まりが落ちるような感覚が押し寄せる。
 がぁん、ごごん、という耳障りな音は、廃工場の扉が破られたせいだろう。
 同じ音が、携帯電話からではなくリアルに聞こえたような気がして、飛鳥は耳をそばだてる。すると、もう一度、ごぉん、という鈍い音が聞こえた。
 ――近い。
 飛鳥は携帯電話を耳に押しつけたまま、音のした方へ向かって更に走った。
 そして……黒光りするいくつもの自動車を、数百メートル先に見いだす。その向こう側には、ひときわ大きくひときわぼろぼろな廃工場が見える。
 あれだ。
「じいさん!」
『許せとも忘れろとも言わん。お前には酷な重石を乗せることになる……それを承知で、俺たちはこれを選ぶ』
「何故だ……何故、」
『安易と嘲れ、憤り憎めばいい』
「それが出来たら苦労しないから言ってるんだろうが!」
 飛鳥が怒鳴ると、微苦笑の空気が伝わって来た。
『ボウズ……飛鳥』
「ああもう、話していても埒が明かん。すぐそっちに行くから、ちょっと待ってろ。もう面倒だ、力ずくで止めてやる……!」
 視界に、物騒なものを手にして周囲を警戒する男たちの姿が入る。
 彼らがこちらに気づくより早く、通話状態のまま一気に距離を詰め、流れるような動きで一撃の下に男たちを蹴り倒し、あっという間に十人以上を無力化する。
『こんなことを言えばお前は更に苦しむんだろうが……それでも』
「あ? なんだって? ……いや、いい、後で聞く」
 破られた鋼鉄の扉が見えた。
 殺意を隠しもしていない、いくつもの気配を感じる。
 空に向けての銃声、硝煙の匂い、腹の底に響くような恫喝の声。非常に危険な状態だが、同時に、ようやくここまでたどり着けた。
 何とかなる、何とかする、と眉を厳しくした飛鳥の耳に飛び込んできた、
『お前の存在に、俺たちは救われてた』
 この上もなく喜ばしいのにこの上もなく不吉な言葉に、呼吸が一瞬止まった。
「な、」
『お前に感謝する』
『ありがとう、飛鳥。今更言っても信じてもらえないかもしれないけれど……』
『お前の幸せを、いつでも、ずっと祈ってる。――お前がいつか、重荷から解放されて自由になれるように』
『楽しかったわ。私たちは幸せになってはいけないのだと思って生きていたけれど……あなたがいてくれて、とても、幸せだった。どうか……元気で』
 睦まじく寄り添っているからだろう、老夫婦の言葉が重なる。
「待て、まだ話は……」
 ぶつり。
 飛鳥に最後まで言わせず、通話が途切れる。
 飛鳥はぎりりと奥歯を噛みしめ、地面を蹴った。
 扉の向こう、廃工場の中心部が目に入り、黒服の男たちと黒光りする拳銃が目に入り、そして真ん中に積み上げられた大きなケースの傍らに陣取る、いつもと変わらぬ表情の老夫婦が見えた。
 ひときわ危険な雰囲気を滲ませた壮年の男と、昇竜の縫い取りがされた黒い袍を身にまとった男とが、老夫婦に向かって吐いたお定まりの台詞を耳が拾った。
 ――中に踏み込むまで、あと、一歩。

 * * * * *

 一歩進む度に何かが身体から抜け落ちていくような錯覚に陥る。
 しかし、一歩進むごとに、気力が回復していくような感覚もある。
「やるべきことを、やるだけだ」
 重荷を更に背負うばかりなのではないかと、不吉につぶやく内心を無視して、飛鳥はゲミュートリヒの屋敷をひとり、進んでいた。
 領主夫妻の側近、ビノーとルオーグには、自分は何とでも出来るからほかの人たちを手伝えと言って防衛の準備へ向かわせた。
 これだけの満身創痍で何が出来る、と言い募りかけたふたりを、黒の御使いに子々孫々まで呪われたくなかったら早く行けと半ば脅して自由になり、飛鳥は屋敷の中心部を目指していた。
 そこには、魔法鏡と呼ばれる通信道具があるのだ。
「……あいつの、あの言葉……」
 壁を伝って進みながら、飛鳥が思い出していたのは、彼に瀕死の重傷を負わせたシュラハテンダーメと、彼女と一瞬なり相対したメイデの言葉だった。
 シュラハテンダーメは仕込みに時間がかかったと言った。
 メイデは刺客がハルノエンについて気になることを言っていたと言った。
 そしてその直後、ハルノエン兵は動いた。
 そこに関連性がないなどと、一体誰が言えるだろうか。
「僭王に操られるクエズと、数百年来の友好関係を無視して侵攻を始めるハルノエンと……」
 クエズの僭王についたのは、恐らく黄の御使いだ。
 ハルノエンも、また?
 だとすれば、シュラハテンダーメの言う『誰か』とは黄の御使いのことか。
「しかし……俺が黄の御使いに何をしたっていうんだ? どっちかっつーと、一方的に色々されてる側だと思うんだがな……」
 女刺客の殺意と憎悪は本物だった。
 飛鳥が今生きてここにいるのは運がよかったからで、一歩間違えば理由も判らぬまま死んでいた。
 それほどの憎悪を向けられるようなことを、あの黄金の少年に対してしたような覚えはまったくないのだが、怒りや憎しみなどという感情は、時に向けられる当人の思惑とは別の場所で発生したり動いたりあふれ出したりするものだから、致し方ないと言うべきなのかも知れない。
「まぁ、いい」
 思考を切り替え、出来る限り速足で魔法鏡の部屋へ向かう。
「メイデもアルディアも、報せるなと言ったが……」
 レーヴェリヒトを死なせないためだとふたりは言った。
 詳しいことはハイリヒトゥームに聞け、と。
「ハイル、な。……あいつ、もしかして……?」
 あの、謎めいた賢者の正体もしくは本質についても、飛鳥はある程度の予測を立てていたが、今は王都への連絡が先だ。
 ふたりはレーヴェリヒトをここへ呼ぶことは出来ないと言った。
 そのために――レーヴェリヒトを、ひいてはリィンクローヴァという国を守るために、自分たちが死ぬしかないのだと、そのために斃れてしかるべきだと、そう思っているのだろう、恐らく。
「違う、そうじゃない」
 前方を見据えつつ呟く。
 何の変哲もない――と言うには少々重厚すぎるが、この屋敷においてはどれも同じことだ――扉を開き、中へ踏み込む。
「黙って死なれた方がタチが悪いだろ、そんなの」
 ハルノエンの侵攻と言うシチュエーションで、このゲミュートリヒにおいてレーヴェリヒトが苦境に陥るようなヴィジョンがあって、領主夫妻は彼をここに来させまいとした。
 そしてその中に、自分たちの死があることを知っていた。
 しかし飛鳥は、だからレーヴェリヒトに報せるな、というのは、レーヴェリヒトに対する裏切りに等しいと思うのだ。
 ――自分があの時、そう思ったように。
 きっとふたりは、何も出来なかったことに対して、遺された人間がどれだけ苦しむか――絶望するかを、レーヴェリヒトが喪われることを恐れすぎて想像出来ていない。自分たちの死を当然と受け止め過ぎて、彼らが喪われることで起きる数々の変質に思いが至っていない。
 メイデは、ふたりの死後、レーヴェリヒトが苦しい道を進むのではないかと危惧していた。恐らく、それも、何らかのヴィジョンによってふたりが『知っていた』ことなのだろうが、
「未来がひとつしかないなんて、誰が決めるんだ?」
 知っていたがゆえに、それを回避するために取った行動が、知らなかったがゆえに起きた悲劇よりもマシな運命をもたらすなどと、一体誰が保障してくれるというのだろう。
「あんたたちが何も言わず勝手に死んだら、レイは怒るぞ、きっと。その所為で事態が悪い方向に向かわないなんて保障もどこにもない」
 鏡に手をかけ、以前習った通りのやり方で起動させながらごちる。――飛鳥は、メイデの言う、レーヴェリヒトの進む苦しい道がどんなものなのか、判る気がしている。
「あいつ、馬鹿だからな。自分のために黙って死なれたなんて知ったら、絶対、頭に血が上って馬鹿なことを仕出かすに決まってる」
 幼少時より自分を慈しんでくれた親にも等しい人々が、自分を生かすために何も言わず死んだなどと人伝に聞いた時の、レーヴェリヒトの悲嘆と慟哭と絶望は、飛鳥がほんの半年前に味わったものとよく似ているはずだ。
「要するに、あいつの進む『苦しい道』ってのは、そういうことじゃないのか」
 だとすれば、飛鳥は、それを回避するためにも行動しなくてはならない。
 間に合う間に合わないはこの際関係ないのだ。
「レイに報せる。飛んでくるって言うなら、俺が守る。それだけのことだ」
 大きく深呼吸をして、鏡を発動させる。
 ぴしり、と、身体のどこかがひび割れるような音がした。
「……?」
 とはいえ痛みはなく、不快でもなく、むしろ少し身体の痛みが引いたような気さえして、飛鳥は小首を傾げた後、魔法鏡を見つめた。
 ――どうやら、所謂『電波が悪い』状況らしく、画面は鮮明ではなく、一昔前のテレビのような砂嵐状態になっている。
「誰かいるか」
 しかし、通じていないわけではないようだ。
 飛鳥の呼びかけに、画面の前で誰かの影が揺れたのが判る。
 砂嵐がひどすぎて、誰なのかどころか、性別すら量れないが。
 ざ、ざっ、ざざざっ。

『――……、の? ……、ら、……ん、……かっ……』

 誰かが魔法鏡に近づいて何かを言っているのは判るが、残念ながらそれ以外のことは何ひとつ鮮明ではなく、向こうの鏡の前にいるのが誰なのかなどと言う基本的なことさえ判然とはしない。
 しかし、領主夫妻からの伝令を受け取るための鏡だ、何も話が判らない人間はいないだろう、と、飛鳥はひとまず伝えたいことを口にする。
「ハルノエンが三百の兵をゲミュートリヒに差し向けた。背後には七千の兵が控えていて、こちら側の兵を差し向けることも出来ないようだ。その、三百の兵を足止めするためメイデとアルディアがふたりだけで向かっている。死を覚悟している様子だった」
 向こう側の通信状態がどんなものなのかは判らないが、卑怯なことを言えば、伝わるか伝わらないかは大きな問題ではないのだ。ここで飛鳥が、今、伝えようとした、飛鳥は確かに伝えたという事実が大切なのだ。

『……、に、? ……、……わ、――……の?』

 どうも、向こうもあまり状態はよくないらしい。
 鏡から、不思議そうな、訝しげな空気が漂ってくる。
 語調から、受け手は女性ではないかと思われた。
「あんたが誰なのか、こっちからは確認出来ないが、伝言を頼む。黄の御使いがダルフェと、恐らくハルノエンにも何か仕掛けている。この通信不能状態も、もしかしたら連中の仕業なのかもしれない」
 もともと、自分で何とかするしかないと思っていた飛鳥だ、きちんと伝えられないことに対するもどかしさはあるが、落胆はない。
 飛鳥はただ、領主夫妻が喪われた時、悲嘆に暮れ苦悩するであろうレーヴェリヒトに、『伝えたが巧く行かなかった』という逃げ道を与えるためにこれをしているだけなのだ。つまりこれは、レーヴェリヒトの無力感に、悪いのはお前じゃないと言うための予防線に過ぎない。
 俺も充分に冷酷だし残酷だ、などと思いつつ今更行動を改めるつもりもなく、
「俺は今からふたりを手伝いに行って来る。すまないがこのことをレイに……レーヴェリヒトに伝えてくれ」
 飛鳥がそう言うと、

『! ……、……! ――じゃ……わ、……に!』

 唐突に画面の向こう側が大きくぶれ、そして、同じく唐突に通信が切れた。
 恐らく、受け手が切ったのだ。
「……?」
 飛鳥はしばらく鏡を見ていたが、
「事態の深刻さに驚いて大急ぎで伝えに行ってくれた……とかだったらいいんだけどな。まあ、さすがにそこまで都合よくは行かないか」
 小さく肩を竦め、鏡の部屋を後にする。
 ぴしぴしぴし。
 また、身体のどこかから音が聞こえて来て、飛鳥は首を傾げた。
「……少し、痛いのがマシになったな。界神晶の力なのか、これは?」
 原理も理由もよく判らないが、動きやすくなるという意味で痛みが緩和されるのはありがたい。
「よし、まずは剣だ。あとは、ロープと、胡椒と布袋……」
 ひとまず一刻も早く領主夫妻の元へ辿り着こう、と、今の肉体状況がつい数時間前まで瀕死だった人間のものではあり得ないことには一切頓着せず――ここまで来ると何であれ受け入れてやると言う気持ちになってくる――敵兵を撹乱するための道具を脳裏に思い描きながら倉庫に向かおうと踵を返した時、それは起こった。
 ぶわっ、とでも表現すればいいのだろうか、この場合。
「……!?」
 界神晶を発動させる時、いつも傍らにあるあの光沢ある闇が、唐突に噴き上がり、飛鳥を包み込んだのだ。
 一体何なんだ、と言おうとした瞬間、意識がふっと遠くなり、
「ちょ、待て、ここで気絶とかどこの病弱なヒロインだ俺は……!?」
 それどころじゃない、と誰かを罵るより早く、飛鳥の視界は――思考は、暗闇に飲み込まれた。
 ちゃぽん。
 そんな軽い水音を脳裏に聴いたような気がしたが、定かではない。

 * * * * *

「どうした、エヴァ。何かあったのかね」
 父、グランドレルの言葉に、たった今機能を停止させた魔法鏡から離れながら、エーヴァンジェリーンは首を横に振った。
「いいえ、お父様。魔法鏡の様子が少しおかしかっただけよ、何でもないわ」
「そうか。放っておきなさい、そのようなことは下々の者にまかせておけばよい。お前にこのような場所を見せるつもりはなかったのだがな、お前が訪ねて来てくれたことは嬉しく思う」
 鷹揚に笑うグランドレルに、エーヴァンジェリーンは曖昧な笑みを浮かべて頷く。
 国家間の防衛を司る階層の、主に国境防衛に携わる都市からの連絡を受け取るための魔法鏡がある部屋に、何故まつりごととは無縁な巫女姫がいるのかと言われそうだが、エーヴァンジェリーンは巫女姫であると同時に大公家の貴い姫君だ。彼女が王城内にいることは、別段奇異な出来事ではない。
 有り体に言えばレーヴェリヒトに会いに来たのだが、リィンクローヴァの祭祀を司る大臣である父・グランドレルが、戦死者の慰霊に関することで前線の将軍たちと会合を持つと言う話を聴いて、先に父と会っておこうと思い、こちらへ来たのだ。
 そして、父が高官たちと話をしている間に、『あれ』を受けた。
「ええ、お父様のお仕事を見ることが出来て、とても誇らしい気持ちになったわ」
「エヴァはいつも嬉しいことを言ってくれる。私もまだまだ頑張らねばなるまいな」
「そうね、わたくし、応援しているわ」
 彼女の笑みが少し強張っていたことに、父は気づいただろうか。
 稀有な漆黒の目が、どこか泳いでいたことにも。
「……お父様」
「どうしたね、エヴァ」
「いえ……そうね、黒の御使いのことなのだけれど」
「お前を侮辱したという輩か。加護持ちであろうと御使いであろうと、必ず報いは受けさせる、お前は気にしなくていい。捨て置きなさい」
「……ええ、そうね、そうだわ」
 父の言葉に、自らを納得させるように頷く。
 ――そうだ、きっと気の所為だ。
 アスカから通信が入っていたことも、その多くは聞き取れなかったものの、言葉の端々に緊迫した何かが感じられたことも。
 そして、レーヴェリヒトに伝えてくれ、と言った、アスカの言葉も。
 驚きと憤りで魔法鏡を切ってしまったのと同じく、全部気の所為、アスカが嫌いで仕方がないエーヴァンジェリーンの気の迷いだ。
 ――だから、エーヴァンジェリーンには、何も関係がない。
 そう言い聞かせているのに、胸の奥が鉛でも詰め込まれたように重いのは、何故だろうか。