頭がくらくらする。
ひとつ咳き込んだら、目の前が開けた。
「……なんで」
周囲を見渡し、飛鳥は眉をひそめる。
そこは、光沢ある闇によって創られた部屋だった。
部屋の中央に、きらきら光る色とりどりの水晶を使って創った小さな箱庭が見える。たくさんの緑とたくさんの水と、大きな山と小さな町で彩られた箱庭のかたちは、前回と少し変わっていた。否、見つめるうちに、少しずつ変わってゆくのだ。
「何故俺はここに、……!」
つぶやきかけて壁を見遣り、息を飲む。
光る壁は確かに壁として存在しているのに、その向こう側に別の景色を伺うことが出来た。前回は、光の泡と星のように流れてゆく光の尻尾と、オーロラを思わせる七色の光のカーテンが競演する、幻想的な光景が繰り広げられていたはずだったが、今はまるで巨大なスクリーンのように、映像を映し出していた。
「じいさん、ばあさん……メイデ、アルディア」
反対側の壁には、メイデとアルディアの、兵士たちとの激戦の様子が浮かび上がっている。
無粋で恥知らずなならず者たちに囲まれた老夫婦と、甲冑で身を固めた屈強な兵士たちに囲まれた領主夫妻。
二組の、危機の場面に、呼吸が止まる。
『……来たのか、アスカ。来るだろうとは思っていたが』
いつの間にか、傍らにソル=ダートがいて、飛鳥を見上げている。
その髪が処女雪のような白銀に、双眸が最極上のアメジストのような紫に変わっているのを見ても、飛鳥はさほど不思議には思わなかった。そういうものだろう、と納得しただけだ。
「悪趣味な上映会だ……悪いが付き合っている暇はないんだ、行かせてくれ」
押し寄せた男たちが、老夫婦を完全に包囲している。
何十挺もの拳銃が、老夫婦を向いて威嚇している。
老夫婦がそう仕向けたのだろう、斉華会の会長と“紅龍”の香主とが、怒りと残虐性を滲ませながらふたりへ歩み寄る。
欲得ずくを装った取引に踊らされ、金を渡すふりをしてふたりを嬲り殺そうと思っていることなど最初からばれていると――それこそがふたりの狙いなのだと、彼らは知っているのだろうか。
声高に何ごとかを罵るならず者たちと、仲睦まじく寄り添って、恐怖の欠片すら見出せない静謐な眼差しで彼らを見ている老夫婦と。
飛鳥は恐らく、この時、あと数歩で中へ踏み込む程度の位置まで来ていた。
――結局何も出来なかったことに変わりはないが。
『まあ、待て。どうせ今の状態では無理だ』
「……どういうことだ」
『お前、今の自分の身体をどう思う』
「瀕死一歩手前から重傷程度まで回復した自覚はある」
『それに対する疑問は?』
「今更だろう、この世界に来た時点で」
『まあ、それは否定出来ないがな。だが、ひとつ教えてやる。今、お前の肉体は最終調整中だ。――お前は変質を恐れるか?』
「昔はな。今は、変わらないことの方が怖いんじゃないかと思い始めてる」
『いい答えだ。なら……もう少し待て、どちらにせよ、今のお前に出来ることなど何もない』
斬り捨てるような言葉だったが、事実ではあったので飛鳥は口を噤む。
口を噤むと、ふたつのスクリーンが嫌でも目に入る。
『あのふたりは、お前の家族か?』
「いや……ああ、どうなのかな。一年と少し世話になっただけだが……まあ、家族みたいなものだったんだろうな」
最期のシーンを思うと、こんなにも胸が痛いから。
今でも、出来ることならもう一度会いたいと思うから。
そういうものを家族と呼び、絆と呼ぶのだろうと、漠然と思う。
『だからせめて、あのふたりは助けたい、と?』
「……否定はしない。あの人たちを見ていると、じいさんとばあさんを思い出す……だから、今度こそと思ったのも否定しない。だが、一番大事なのは、それじゃない」
スクリーンの向こう側で、メイデが剣を揮う。
アルディアの魔法が、メイデを守り、また敵兵を吹き飛ばす。
ふたりの連携は完璧と言ってよかった。
メイデの動きは、五十歳を越えているなどとは到底思えないほど鋭く、速く、重い。彼女の揮った剣の一閃、一撃で、兵士たちの腕が、首が滑稽なほど容易く落ちていく。アルディアはメイデの動きを把握しながら、常にメイデの死角を補佐し、彼女がもっとも戦いやすい状態を創り出している。
ふたりがどうやって出会ったか、どうやって生きて来たのかを思わせる戦い方だった。
ふたりの周囲には骸を含めた戦闘不能者がごろごろと転がっていくが、やはり、数と言う意味で彼女らは不利だった。そう、強靭な肉体と攻撃力を持つ雀蜂だとて、蜜蜂たちの一斉攻撃には敵わないのだ。
『では、今のお前にとって一番大切なものとは、なんだ?』
徐々に包囲網が狭まり、ふたりの身体に傷が増えていく。
ふたりの表情に変化はなかったが、ぴりりとした空気が周囲を満たしていることは事実だ。
――たぶん、もう、間に合わない。
冷たく凍えた肚の底で思う。
あの人たちが自分を大切にしてくれたことを知っている。
それを愛と呼ぶのだろうとも知っている。
叫び出したいような焦燥があるのも事実だった。
しかし、飛鳥は、もう選択している。
「――……レイを護ること。それだけだ」
今の飛鳥が得たもののすべては、レーヴェリヒトが与えてくれた。
あの時レーヴェリヒトと出会って、彼が自分を信じたから、今の飛鳥はいる。
それに報いねばと思うのだ。
誓いを、約束をと叫ぶ魂の根幹が。
「あいつは馬鹿だから、あのふたりが自分のために死んだと知ったら苦しむだろう。俺は、俺の不甲斐なさのために、あのふたりを護ることは出来ない。それを悔やむ。――……だが、だからこそやるべきことがある。それを果たす。そう決めた」
飛鳥が言うと、ソル=ダートはくすくすと笑った。
『くそ真面目な奴だな、お前は。何もかもがお前の責任と言うわけでもないだろうに、つくづく背負い込むのが好きらしい』
「放っておいてくれ、そういう性格なんだ」
『……お前の救い主、レーヴェリヒトはな、あの一連の戦いで命を落とすはずだったんだ』
「は?」
唐突な話題の転換に訝りかけて、世間話でもするような、軽いソル=ダートの口調に、飛鳥は眉をひそめる。聞き捨てならない言葉を聴いた気がするのに、あまりにもあっさり言われた所為で一瞬何のことか判らなかった。
「なんだ、いきなり」
『ゲミュートリヒ市はハルノエンの侵攻によって陥落し、領主夫妻は死亡。国王は親代わりでもあった領主夫妻の死に激昂し――いや、絶望したのかな――、ゲミュートリヒ市奪還のために無謀ないくさを仕掛け、討ち取られる。その結果世界の混乱は更に激化し、乱世はこのあと数百年は続く。少なくとも、数ヶ月前までは、そういう流れのはずだった』
「……メイデたちが知ったレイの死ってのは、そういうことか」
だとしたら、むしろ、絶対に死んではならなかったのは領主夫妻だ。
半端に未来を覗き見た所為で先行きをややこしくしただけじゃないか、などとは、口が裂けても言えないが。
『だが、お前がこの世界に来た』
「俺?」
『お前は気づいていないだろう、これまでにこの世界で築き上げられてきた運命の流れが、お前の周囲ではかたちをなさないことに』
「そんな大それたものじゃない……と思うんだがな」
『無論自分では判らないだろうよ。お前の周囲では、運命は渦を巻く……何もかもが定まらず、常に移ろう。よい方向にも、悪い方向にも』
「何だそれ」
『お前がそれと望めば世界は平らかさを取り戻すはずだ、時間はかかるだろうがな。だが……反対に、お前が真に絶望した瞬間が、この世界の滅亡の時なのだろう、という気がしている』
「俺だって絶望くらいする。それで勝手に滅びられるとか、迷惑すぎるだろう」
スクリーンの向こう側で、金の入った大きなアタッシュケースが老夫婦に渡される。
引き渡されたコンテナの中身が――そこには不細工に黒光りする密造拳銃が入っているはずだ――確かめられると同時に、憎々しげな口調でならず者の親玉がふたりを罵り、無数の銃口がふたりに狙いを定める。
引鉄に指がかかるのが見えた。
その瞬間の、ふたりの満足げな微笑を、飛鳥は忘れない。
蹴破られた扉から飛鳥が飛び込んでくる――飛び込もうとした、ほんの一瞬前のことだ。
寄り添い、手をつないだ、無垢で穏やかで、幸せそうな笑みだった。
せめて一緒に死ねたらと、そんなことを思っていたのだろうか。
――そして、老人が、手の中のスイッチを、握り締める。
「やめろ、じいさん!」
届くはずもない過去の出来事だと知りながら、思わず叫んでいた。
無論、ただ虚しさが募っただけだったが。
閃光、爆音、突風、衝撃。
黒煙、炎、崩れ落ちていく建物と、断末魔の叫び。
飛鳥はあの時、爆風に吹き飛ばされて建物の外へ弾き出され、廃工場が老夫婦やならず者たちを飲み込んで崩れ落ちて行くのをなすすべもなく見ているしかなかったのだ。
沈黙にはほど遠い爆音の中、完膚なきまでに破壊され崩れ落ちた――老人がすべてを計算して仕掛けたのなら当然のことだ――廃工場の前で、たったひとつ動く影は、あの時の飛鳥だけだった。
結局、廃工場の中の人間、老夫婦を入れて六十数名、その誰ひとりとして、生き残りはしなかったのだ。ふたりの計算通り、極道を名乗るのもおこがましいごろつきたちはトップふたりを含めて全員が死亡し、大々的に警察が動き、藤正会も鳴りを潜めた。
結果的に、老夫婦の犠牲が、あの辺りに平和をもたらした。
判っている。そんなことは、判っていたけれど。
『……なるほど、これがお前を創る過去のひとつか』
静かなソル=ダートの声。
飛鳥は拳を握り締め、唇を引き結んでその光景を見据えていた。
瓦礫の山と化した工場の前で、炎の欠片にあちこちを炙られながら、固めた拳で地面を殴りつけて飛鳥が吼えている。
当時の飛鳥には、自分が叫んでいる自覚などなかったし、白状すれば記憶すら曖昧だ。怒りだったのか慟哭だったのか、意味をなさない絶叫だったのか、工場に向かって吼え続ける自分が、一体何を思っていたのか、今の飛鳥には判らない。
しかし、あの時、有害な物質の含まれた煙を吸い込みながら叫び続けたために、飛鳥の咽喉は傷ついて変質し、今のような、どこかしわがれた低い声になったのだ。
それもまた、彼らが遺してくれた贈り物なのかと思いもするけれど、やるせなさと憤りに変わりはなく、取り残された苦悩に終わりもない。
反対のスクリーンでは、屍の山を作り続けていた領主夫妻が、ついに追い詰められようとしているところだった。どれだけの刃を呑んだのか、身体のあちこちから血が噴き出て、ふたりの足元に血だまりを作っている。致命傷に近いのではないかというくらい深い傷が見えて、飛鳥は息を呑む。
それでもふたりは、戦意を失わず、寄り添い互いを補い合いながら戦い続ける。
兵士たちの数は、もう、最初の三分の一以下に減っている。
飛鳥は拳を握った。
「ソル=ダート! 何でもいいから行かせろ、これ以上見ているだけなんてのは、耐えられない!」
せめて。
その思いを否定しない。
しかし同時に、飛鳥はあのふたりが好きだ。
喪いたくない、何とかして引き止めたい、もう一度言葉を交わしたい、そう本気で思っている。
だからこその飛鳥の叫びに、ソル=ダートは慈愛を込めて微笑んだ。
『間に合わなかった。届かなかった。そう思うから、お前は苦しいんだな』
「ああ、そうだ。あの時ああすればなんて後悔を何度もする。これからも変わらずにするんだろう。だが、何かしようとしたのと、何もしなかったのじゃ、大違いなんだ。力及ばず届かなくたっていい、せめて手を伸ばすくらいしなくて、この先胸を張って歩くなんてことが出来るわけがない!」
『そうか――……判った』
疵も後悔も痛みも、いやというほど持っている。
きっとこれからも背負い続けるのだろう。
それでも飛鳥はもう、自分の運命を定めた。
行き着く先が死であっても悔いのない未来を決めた。
これは、その一環に過ぎない。
『お前の道はこれからもきっと苦しいぞ、アスカ』
「知るか。そんなもん、全部踏み台にしてやる」
『……頼もしいな。こちらとしても、界神晶を託した甲斐があるというものだ』
ソル=ダートがくすくすと笑い、壁に白い繊手を触れさせた。
途端、そこに、大きな扉が現れる。
それが意識の出口だと気づくのに時間はかからなかった。
『私は埒外の者、賢しく人々の運命に口を挟むことは許されない。……が、まァ、このくらいは許されてしかるべきだろう。運命をかき回すさだめを負った、他ならぬお前のことなのだし』
「褒められてるのか貶されてるのか判らんが、まあいい。――……感謝する」
扉の前に立つと、どこからかまたぴしぴしという音が聞こえてきた。
何故か身体に力が漲るような錯覚があって、飛鳥が首をかしげると、ソル=ダートがそれを見遣って目を細める。
『変質を受け入れろ、アスカ。それは紛れもなく、お前だけが得たお前のための力なのだから。――さあ……行け。幸運を』
「ああ」
言葉の意味は判らなかったが否定する理由も見つからず、飛鳥は小さな首肯でそれに応えた。
そして、扉に手をかけ、一息に開け放つ。
その瞬間、意識がまた、白く拡散した。
同時刻。
やはり黒の御使いの身を案じて――おこがましいとは思いつつ、心配でたまらなかったのだ――屋敷に戻ろうとしていた領主夫妻の側近、ビノー・ミットライトとルオーグ・エーアリヒカイトは見た。
三対六枚の翼を持つ巨大な漆黒の竜が、屋敷の一角を破壊して、轟音とともに空へ舞い上がる様を。
そして、黒く輝く鬣を翻した竜が、一声高らかに咆哮し、ゲミュートリヒとハルノエンの国境の方角へと飛び去って行ったのを。
「あれは……」
「判らん。だが、もしや、アスカが」
「!」
無論、議論したところで答えが出るはずもなく、一体何が起きたのかと、リィンクローヴァはこれからどうなってしまうのだろうかと、彼らは、恐ろしい速さで飛び去ってゆく黒竜を呆然と見送ったのだった。