あともう少し。
 そう思ったところで、手から剣が落ちた。
 血で滑ったのもあるだろうが、最たる理由は、先ほど、右手首の腱を傷つけられた所為だろう。ガントレットが壊れた辺りでいずれこうなるだろうと予測はしていたが、長く持った方だ。
「……潮時、かしらね」
 何とか剣を拾い上げて再度身構えつつ、メイデは、唇に滲む血を拭い、微笑んだ。
 実を言うと、もう、脚に力が入らない。視界が妙に暗いのは、夕暮れが迫っているからではないだろう。
 恐らく、アルディアも同じような状態のはずだが、同時に、メイデと同じく、アルディアも恐怖など感じてはいまい。
「アル、聞こえる?」
 すぐ背後にいると知って声をかけたのは、お互い血を流しすぎて身体の感覚がおかしくなっているからだ。目も耳も鼻も、もうあまり利かないし、手指などの末端部分は冷え切って痛覚もほとんどなく、ひどく寒い。
「聞こえているよ、メイ。ずいぶん遠くのように感じるけれどね。――もう少し頑張りたかったけれど……まあ、こんなものかな」
 背後からは、いつもと何も変わりのない伴侶の声が聞こえてくる。
 メイデの笑みは、それだけで、アルディアと青春を過ごした少女時代のような無垢さを――それは、この戦場には不釣合いなほど幸せそうに見えるだろうと思う――孕む。
 彼女らは、生まれた瞬間からすでに、高位の貴族には当然ともいうべき許婚という関係だったが、愛を育む道のりは険しく、双方大公家の一員でありながら順風満帆の人生でもなかった。
 だからこそ、ここまで強く結びついたのだろうと思っているし、今は、この時に至る過去のすべてに感謝している。
「これで……どのくらいの時間稼ぎになる、かしらね」
「夜が明けて、向こうの斥候が状況を確認しに来るまで、と言ったところだろうね。それなら、防戦態勢を整えるのに何とか間に合うのじゃないかな。非戦闘員をザーデバルクに避難させる時間も合わせて」
「そう、なら……悪くないわ」
「そうだね、身体を張る甲斐はある」
 残った兵士は八十ほど。
 たったふたりで二百以上の同胞を倒した彼女らを完全に包囲しながら、兵士たちの目には紛れもない畏怖がある。もちろん、ここまで出来たのは、アスカが与えてくれた加護の力のお陰だったが、事情を知らぬハルノエン兵には予想外の悪夢としか思えなかっただろう。
 そして、ハルノエン兵たちが迂回も出来ずにたったふたりを全員で相手取らなくてはならなかったのは、アルディアがこの周辺に濃密に張り巡らせた目眩ましと閉塞の魔法のお陰に他ならない。
 要するに、ハルノエン兵たちは、先へ進みたければふたりを斃すしかなかったのだ。
「くそッ……相手は手負いだ、一気に畳み掛けるぞ!」
 兵士の誰かが金切り声で叫ぶと、狂おしく血走った百ばかりの目玉が一斉にふたりを見据えた。恐怖や緊張のためだろうか、荒い息を吐き、肩を上下させながら、震える手が、めいめいの武器をきつく握る。
 ――それでも彼らが執拗に向かってくるのは、恐らくしくじればあとがないと言う恐怖のゆえだ。兵士たちがそういう恐怖を抱かざるを得ない相手が、今のハルノエンにはいるのだ。
 何故ハルノエンがリィンクローヴァを攻めたのかは判らない。
 ただ、あの時、女刺客は、外交師ゼフィルト・ミュイ・クロバルが『ゼフィでなくなって』どれだけ経つと思っているのかと言った。どれだけ経つ、という表現は、それが決して最近ではないことを物語る。
 つまるところ、それは、外交師の身に何かがあって――無論天災などではないはずだ――、彼は彼の体裁を保ちつつ、知らせるべき諸々をリィンクローヴァに送ることは出来ていなかった。
 そして、『今』がある。
 メイデたちがハルノエンに違和感を覚え始めたのが一月ほど前のことだから、恐らく、その辺りから何かが起きていた。
 それらは、残る人々に託すしかない。
 そう思う時、脳裏に浮かぶのは、漆黒の髪と目をした少年の姿だ。
「……全部、アスカに押し付けることになってしまうかもしれないわね」
 兵士たちがじりじりと包囲網を狭めてくる。
 鋭い剣の切っ先が、今度こそという暗い気迫を込めてふたりを向く。
「そうだね……アスカは、怒るかな」
 しかし、メイデの心は凪いでいた。
 アルディアも同じだろうという確信がある。
「いいえ、きっと、黙って背負ってくれるわ」
「私も同じことを思ったよ」
 メイデが言うと、アルディアはくすりと笑った。
 稀有なる漆黒を宿したあの少年を庇護したのは、その力を利用しようと思ったからではなかった。
 単純に、彼女らにとっては実の息子同様の――我が身よりも貴く大切な――レーヴェリヒトが、国王という重い座に就いてから初めて、自分のことでわがままを押し通そうとしたからだったし、アスカ自身が彼女らを慕ってくれたからでもあった。
 先代国王、つまり父親の強い希望で、十五歳という若さで王冠を頂いたレーヴェリヒトは、血筋云々を影で囁かれながら、時に命すら狙われながらも国と民のために尽くしてきた。我が身を削り、自分自身の願望を捨て置いてまで、王冠の重さに耐えてきた。
 そんなレーヴェリヒトが、アスカのことになると、少年のような瑞々しさを取り戻す。アスカと一緒にいる時のレーヴェリヒトを見ていると、メイデはわけもなく安堵する。
 だから、メイデはアスカに感謝するし、何か深い疵を感じさせる彼に、慈しみと労わりで接しもする。
 ――無論、こんな重い荷物を背負わせたかったわけでは、なかった。
「ねえ、アル」
「なんだい、メイ」
「私はこの終わり方に満足しているの。あとのことはきっと、子どもたちや大公家の若君たち、そしてアスカたちが何とかしてくれるでしょう」
「ああ、そうだね……私もそう思うよ。アスカがいてくれたら、レヴィは大丈夫だ。私たちがいなくなっても、間違いはしないだろう」
「ええ。――……だけど、アル」
「ああ?」
「せめて最後に、謝りたかった」
「アスカに?」
「ええ」
「――……そうだね」
「言い訳にしかならないけれど、望んで負わせようとした痛みではなかったと」
 出会って、たかだか二ヶ月弱。
 その、一生のうちのわずかな時間で、アスカという少年は、レーヴェリヒトだけでなく、メイデたちにとっても大きな存在となっていた。
 界神晶を持つ黒の御使い、という大いなる力に何も期待しないと言えば嘘になるが、それよりも何よりも、自分を殺して生きていたレーヴェリヒトに、少年のような笑顔を取り戻してくれたアスカの、孤独で自由な魂にメイデは祈るのだ。
 彼の行く道に、光があるようにと。
「さあ……では、アル」
 包囲網が狭まる。
 メイデが身構えると、兵士たちの腰が引けた。
「私が彼らを引きつけるから、アルは最後の仕掛けをお願い」
「ああ」
「ねえ……アル?」
「なんだい?」
「私、最期までアルと一緒で、とても幸せだわ」
「……私もだよ」
 微笑を交わし、触れるだけのキスを交わして、メイデは最後の力で剣を握った。
「リィンクローヴァが一刃、メイデ・ルクス・ゲミュートリヒ、お相手いたします」
 静かに、常人ならばもう身動きも出来なくなっているような傷を負っているとはとても思えないしっかりとした足取りと口調で宣言すると、兵士たちの間にざわめきが広がった。
 およそ三十年前、茨姫と呼ばれ近隣諸国から恐れられたいくさ上手の名を知らぬものは、少なくともハルノエンにはいるまい。
「怯むな……後がないのは我々も同じことだ!」
 誰かが士気を鼓舞するように叫ぶと、兵士たちがそれに口々に呼応し、剣を振り上げた。
 そして、喚きながら突っ込んで来る。
「アル、少し離れて」
「ああ」
 メイデは呼吸を整え、突き入れられる剣の切っ先を、熟練の手つきで流し、いなし、勢いを相殺して相手のバランスを崩すと、非情なまでの正確さで剣を突き入れ、また斬り払って、兵士たちを次々と戦闘不能に陥れていく。
 その背後では、アルディアが最後の力を振り絞って魔力をかき集め、呪文を紡いでいる。
 目眩ましの魔法も閉塞の魔法も、術者を中心に広がる拡散形式のため、施術者が内部にいなくては発動しない。
 ふたりが死を覚悟したのはその所為だったし、同時に、最終的には『最後の手段』を使おうと決めていたのもそのためだった。
 生きて帰ることは重要事項ではなかった。
「この国とこのまちが私たちを生かした……なら、私はそれに報いましょう。あの、世界で一番貴い方を護ることで」
 自分たちが死ねば、きっとレーヴェリヒトは哀しむだろう。
 哀しみ、憤るだろう。
 しかし、今、彼の傍にはアスカがいる。
 アスカはレーヴェリヒトを護ると誓ってくれた。
 アスカならその約束を必ず果たしてくれるという確信もある。
 だから、メイデに後悔はない。
「あなたたちにも大切なものがあって、帰りたい場所があるのだろうけど」
 言いつつ揮った剣が兵士の首を刎ね飛ばす。
 甲冑の隙間から胸の奥へ切っ先を突き入れると、驚愕と絶望の表情で膝を折った兵士は、誰かの名前を呼びながら――泣きながらゆっくりと倒れ、動かなくなった。
「うわあああああああッ!」
 それと同時に、背後から突進してきた兵士の剣がメイデの背を貫く。
「!」
 もはや痛みも感じず、メイデは剣に貫かれたまま腕を一振りしてその兵士を斬り倒した。ただ、呼吸だけが荒くなる。
 ふと見遣った――とはいえもうほとんど視力も残ってはいなかったが――視線の先で、アルディアが血を吐きながらがくりと崩れ落ちるのが見えた。
 魔法の発動が近いのだ。
 同時に自分も立っていられなくなり、その場に膝をつく。
 アルディアと目が合って、メイデは満足げに微笑み、頷いた。
 アルディアの最期の魔法は、この近辺をすべて吹き飛ばすという荒業だ。無論、本陣に斥候部隊の全滅を勘付かれないよう、音も光もすべて調製してあるし、範囲もなるべく抑えてある。
 それゆえに、人数がそこそこ減るまで使うことが出来なかったのだが、終わり方としては悪くない、と思う。
「……アル」
 ふたりが力尽きたのを知って、兵士たちが勢いづく。
 剣を振り上げた兵士たちが殺到しようとする中、メイデはゆっくりとアルディアの元へ這い寄った。
 色濃い死相を浮かべたアルディアの手を握り、頬にキスをする。
 最期のキスは、血の味がした。
「メイ……」
「愛しているわ、アル。今までも、これからも、誰よりも」
「ああ……私もだよ、美しいメイ」
 最後まで変わらないアルディアの言葉に、微笑が深くなる。
 振り仰いだ夕暮れ前の空の中、兵士たちの剣が白々と輝く。
 ――地面が熱気を孕んで振動していることに、兵士たちは気づいただろうか。
 振り下ろされた剣がふたりを斬り刻み、アルディアの自爆魔法が周囲を完膚なきまでに打ち砕く――……

 その、一瞬前に。

 大きな羽ばたきの音がした。
 それと同時に、目も開けていられないような突風、
「う、わ、あああああっ!?」
 吹き飛ばされた兵士の悲鳴。
「あれは……」
 メイデは見た。
 空から、三対六翼を持つ漆黒の巨竜が舞い降りてくるのを。
 漆黒の鬣と鱗、翼、双眸。
 一枚一枚が精緻な彫刻のような鱗が、沈み行く太陽の朱光を浴びて、静謐に、神秘的に輝いている。
「メイ、あれは」
 かすれたアルディアの声。
 地鳴りが止んだのは、アルディアが魔法を収束させたからではない。
 あの竜の風に魔法までが掻き消されただけだ。
 メイデは何も答えられず――答えられるはずもなく――、アルディアの手を握ったままで、巨大な、とてつもなく強大な力を感じさせつつとてつもなく美しい竜が羽ばたくのを観ていた。
 そして彼女は、その竜が、あまりの風の強さに目を閉じ、開いた次の瞬間には、あの漆黒の少年へと転じていたのもまた、目の当たりにしたのだった。
「アスカ……」
 呟きに、少年が静かな――どこか茫洋とした眼差しをメイデに向ける。
 身体のあちこちに黒い鱗が浮かび上がっていたような気がしたが、それもすぐ、溶けるように消えた。
「三対六翼の竜は、守護者にして調停者……」
 古代の文献をうたうように諳んじるアルディアの声。
 ああ。
 メイデは自分が安堵の息を吐いていたことにも気づかなかった。
 ただ、もう何も心配することはないのだ、と。
 それだけを思っていた。