来客があったのは、その日の正午前だった。
 飛鳥たちがソル=ダートへやってきておよそ一ヶ月が経とうとしていた。
 月日は“黒の六”月、日本でいえば八月の辺りから、“白の七”月、日本で言うところの九月頃へと移り、季節は少しずつ秋めいてきている。
 日本ほど湿度が多くもなく、寒暖差が大きいわけでもないソル=ダートだが、朝夕の気温、空気の匂い、空の質感、市(いち)に出回る食材、そんなものの端々に、季節の変化が見て取れ、見知らぬ異世界にそれだけの時間を滞在しているのだと言う、奇妙な感慨を飛鳥に与える。
 無論、飛鳥の生活の質感を変えた人々が多く住まうこの世界に生きることは、飛鳥にくすぐったさを与えるのみだが。
「……客? 俺にか?」
 その時飛鳥は、眷族と下僕騎士ふたりとともに細工師バドの工房に来ていた。
 本来ならば今日は、一日中古代語の勉強漬けの予定だったのだが、教師役の博士がぎっくり腰で急遽欠席となったため、散歩がてら外へ出てきたのだった。
 古代語を教えてくれている古代言語学の権威、シュプラーヘ・ブラウマン博士は、今年で八十二歳になるとはとても思えない矍鑠(かくしゃく)とした人物だが、寄る年並みには勝てなかったのか、どうも辞書を三冊抱えて立ち上がろうとしたところで腰をごきりといわせたらしく、現在ベッドで呻いているのだという。
 腰痛と言うのはなかなか侮れないものらしいので、この分だと、正式に勉強が再開されるまで一週間はかかりそうだ。
 それで飛鳥は、彼の補佐を務める女性から『宿題』を山のように預かって、圓東の護衛も兼ねてここに詰めているのだ。といっても金村も下僕騎士たちもいる現状で、たとえ何かがあったとして飛鳥が出しゃばる必要はない気もするが。
 『宿題』をこなしながら、圓東とバドとラムペ家から派遣されてきた銀灯職人たち――今は幻和灯職人と化しているが――が、ひどく活き活きとした楽しげな表情で、竹と和紙モドキを巧みに組み合わせて美しい灯りを作って行くのを見るともなしに眺めていた飛鳥は、素晴らしく困惑した表情のノーヴァことノートヴェンディヒカイト・ゼオラが自分を呼びに来たため、小首を傾げて立ち上がった。
「何か、誰かと約束をしていたかな……?」
 来客があるなどとは聴いておらず、また親しく付き合っている人々と会うような約束もしておらず、それとも自分の記憶違いだっただろうかなどとあり得ないことを考えながら、しかし馬のいななきが聞こえたから誰か来たのは確かなのだろう、と工房の外へ出る。
 ――外へ出た途端、
「おおお、逢いたかったぞ息子よー!」
 よく判らない雄叫びを上げながら、背の高い、甲冑姿の壮年男性がいきなり抱きついて来て、飛鳥は彼らしくなく思わず固まった。
「……!?」
 飛鳥の反射神経からいって、抱きつかれる前に避けるなり張り倒すなり、抱きつかれたあとでも引き剥がしてぶん投げるなり、やろうと思えば出来たのかもしれないが、色々と不意をつかれたのもあって、抱きつかれるがままという状況に甘んじてしまったのだった。
 男は、
「話に聞いてた通りだなぁ。それほど大きいわけじゃないし細いしちょっと女の子みたいな雰囲気もあるのに、滅茶苦茶固くて鍛えられてる。この年でこれって何か末恐ろしいな。いやあ、でも、お父さん感無量だよホント」
 とかなんとか言いながら、無精髭の目立つ頬だの顎だのを、飛鳥を抱き締めたままで彼の額や頬にぐりぐりと擦りつけてくる。
 幼い頃、父親が似たようなことをしていたので、それが愛情表現だと気づくのに時間はかからなかったが、何故自分がこの男にそれをされるのかが判らず、思わず沈思黙考に入りかけた飛鳥の耳を、
「いやあの、息子じゃねぇしお父さんでもねぇだろ。つぅかあとが怖ぇからその辺りでやめといた方が……」
 大変聴き慣れた、譬えようもなく美しい声が打ち、それでようやく彼は我に返った。視界の隅に、処女雪のような白銀が揺れ、レーヴェリヒトの存在を教える。
 彼のことなら気配だけで判るのに、今回気づけなかったのは、この男の行動があまりに突飛だったからだ。
「えー?」
 男は不思議で仕方がない、と言った風情でぐりぐりを続けていたが、わけの判らぬスキンシップを見知らぬ人間に許すほど飛鳥は開けっ広げではないし、それらに慣れてもいない。
「とりあえず、」
 無表情のまま呟き、
「ん、どうした、ただいまのキスをした方がいいか?」
 男がわずかに抱擁を解いた隙に彼の脚を払い、
「ぅおわっ!?」
「そういうことは全体的に事情を説明してからにしろ!」
 低く怒鳴り様、腕を掴んで男を放り投げる。
 一分の隙もない、流れるように滑らかな動きだった。
「ぎゃーっ!?」
 甲冑を身につけているからには武人なのだろうし、事実飛鳥が彼に感じたのは手練れの気配だったが、まったく武人らしからぬ悲鳴とともに男は吹っ飛び、 ――しかし、危なげなく身体を捻って、ふわり、と優雅に……滑らかに着地してみせた。
「あーあー、だから言わんこっちゃねぇ……」
 レーヴェリヒトが呆れる傍で、
「ツヴァイは馬鹿だから仕方ないわ」
「……その物言い、返しに困るからやめてくれ」
「あら、そう? わたしは事実を口にしただけなのだけれど」
 背の高い、こちらも甲冑に身を包んだ女性が肩を竦めている。
 年の頃は四十代前半から半ばと言ったところだろうか、飛鳥にぶん投げられた男性と同年代のように見える。……というか、ふたりともほとんど同じ顔をしているのは、双子か何かだからか。
「き、聞いてた通りの暴れん坊さんだな……まぁ、そんなとこも可愛いけどな!」
 まったく懲りていないし堪えてもいない男が、隙のない動作で立ち上がるのを無表情に――実際には額を押さえて盛大な溜め息をつきたい気分だ――見遣ったあと、飛鳥はレーヴェリヒトに向き合った。
「で、レイ?」
 急なことだったので、声に冷ややかなものが混じったのは致し方ない。
 たぶん諸悪の根源はコイツだ、という意識があったのも事実だ。
 飛鳥の声質から彼の機嫌を察したのか、レーヴェリヒトが思わずといった風情で身構える。
「な、なんだよ?」
「その変態は何者だ? いや、大体判るが、何故それがわざわざ俺のところに来て人を息子呼ばわりした挙げ句変態行為に及ぶ?」
「あふれんばかりの愛情を素直に表現しただけなのに変態とか!?」
「一切の面識がない相手にいきなり抱きついたら普通は変態と呼ばれても仕方ないと思うわよ」
「アディは黙ってなさい!? ちょ、息子君ったら、お父さんは哀しいぞ!?」
「息子でもなければお父さんとやらでもないな」
 飛鳥はひとつ息を吐き、何となく事情を察しつつ男女を観察した。
 と言っても、艶やかな黒髪に最高級のアメジストを髣髴とさせる紫眼、優美と勇猛、しなやかさと頑健さを宿した顔立ちや肢体を見ていれば、それが誰であるかなどは一目瞭然と言うしかないのだが。
 そして、それゆえに、飛鳥は彼の抱擁を無下に出来なかったのだが。
「それで、リィンクローヴァ王家の方々が何の用だ」
 飛鳥が言うと、レーヴェリヒトががしがしと銀髪を掻き回し、
「あー……なんかどう紹介したらいいのか判らなくなって来たんだが。えーと、とりあえず……ツヴァイクロイツ・イオラ・ザード・リィンクローヴァと、アディリア・レエン・クェス・リィンクローヴァだ。俺の親父さんの弟と妹だから、叔父上と叔母上ってことになる。前線から久々に帰還したもんで、お前に紹介しとこうと思って」
 一週間ほど前、ギイの夢を共有したとき耳にした名前を溜め息混じりに吐き出した。
「双子か?」
「いいえ、わたしの方がひとつ年下よ。といっても、このお馬鹿さんを兄上と呼ぶ気にはなれないけれど」
「誰がお馬鹿さんだ!」
「今のこの場で、あなた以外の誰にその表現が相応しいと? ――まぁ、そんなことはさておき、初めまして。レヴィから紹介された通り、わたしはアディリア・レエン・クェス。アディと呼んでもらって構わないわよ。リィンクローヴァの上天軍を率いる将軍を務めているわ、どうぞよろしく」
 ツヴァイクロイツの抗議を一刀両断にしたあと、きびきびとした口調でアディリアが言い、心臓の位置に拳を当てて優美に一礼してみせた。
 飛鳥も同じ動作をして一礼し――これはどうやら、ソル=ダートにおける武人同士の挨拶であるらしい――、ほんの少しだけ唇の端に笑みを浮かべた。アディリアに彼が笑ったことが伝わったかどうかは謎だが。
「俺は飛鳥だ。こちら風に言えばアスカ・ユキシロとなるのかな。まぁ、よろしく頼む。しかし、前にリーノエンヴェが言っていたが、リィンクローヴァ王家の女性と言うのは勇猛なんだな」
 飛鳥が言うと、アディリアは艶然と笑った。
 ゲミュートリヒ市の領主、メイデ・ルクスと同じような、年を重ねたがゆえの美しさを持つ、二十代の若造には出せない魅力の持ち主だった。甲冑が、腰に佩いた剣が、ドレスとアクセサリよりも馴染み、様になっているのは、彼女が武人として長い時間を戦ってきたがゆえなのだろう。
「リィンクローヴァの民のために生きることがわたしたち王家の人間の務め、そして喜び。残念ながらわたしもツヴァイもまつりごとは得意ではなかったから、こうして武力を持って国を護る責務を負ったのよ」
「なるほど。人の上に立つ人間の、そういう覚悟と潔さは心地いい。あんたたちが護ってくれるから、この国は健やかに在れるんだな。――俺が言うことでもないが、ありがとう」
 飛鳥が言うと、アディリアはにっこりと微笑み、飛鳥の肩を抱いてその額に触れるだけのキスをした。何のことなのか判らず飛鳥がぱちぱちと瞬きをすると、彼女はくすくすと笑った。
「黒の加護持ち……いえ、黒の御使いにそう言ってもらえるのは嬉しいわ。同時に、リィンクローヴァを愛する一個人、ただのアスカとしてのあなたにそう言われることは、もっともっと誇らしく、幸せなことね」
 レーヴェリヒトの眼より少し淡い色合いのアメジストをきらきらと輝かせたその様子は、童女のような無邪気さをも含んでいて、飛鳥は、レーヴェリヒトの持つ朗らかさが、彼が市井育ちだからというだけでなく、そもそもリィンクローヴァ王家が全体的に開けっ広げな性質だからなのだろうと結論付ける。
「……で」
 そのあと飛鳥は、道の端にしゃがみ込み、お馬鹿さんで悪かったな、などとぶちぶち愚痴っているツヴァイクロイツへ呆れの含まれた視線を向けた。
「なんで俺はあんたに息子呼ばわりされたんだ?」
 初対面がアレでは王族への敬意もくそもなく、ぞんざい極まりない口調で飛鳥が言うと、話題を振ってもらえたことが嬉しかったのかパッと笑顔になったツヴァイクロイツが――子どもかこいつは、というのが、この場で一番子どもであるはずの飛鳥の胸中だった――立ち上がる。
「よくぞ聞いてくれた! お父さんは嬉しいぞ!」
「あんたみたいな父親を持った覚えはない」
 そのまま抱きついてこようとしたのを冷淡にかわし、ずばりと言い切ったが、
「またまた、照れちゃって。息子君は恥ずかしがり屋さんだな」
 ツヴァイクロイツは晴れやかかつ朗らかに笑うのみで堪えた様子もない。
「……レイ、殴っていいか、こいつ」
「ものすげぇ返し辛いからその質問は聞かなかったことにしてぇな」
 思わず半眼になった飛鳥がぼそりと言うと、レーヴェリヒトは溜め息をついてあさっての方向を見遣った。
「レヴィから紹介されたが、私はツヴァイクロイツ・イオラ・ザードだ。リィンクローヴァの下天軍を率いる将軍を務めている。親しみをこめてパパと呼んでくれると嬉し……痛い!?」
 言葉の最後が悲鳴になったのは、眉間に皺を寄せた飛鳥が彼の頬をつまんで思い切り引っ張ったからだ。指先の力でくるみの殻を割る飛鳥にそんなことをされれば痛いに決まっている。
 ちなみに、余談だが、『パパ』というのは飛鳥の脳内における意訳であって、ツヴァイクロイツが発した実際の音としてはまったく別物であることを付け加えておく。
「何をするんだこの恥ずかしがり屋さんは!? いや、でもそんな過剰な愛情表現も嬉しいけどな、ははは!」
 やはりまったく堪えていないツヴァイクロイツに、思わず彼を殴り倒して何もかもなかったことにしたい、という欲求が根差すものの、さすがに不味いだろうという飛鳥にしては穏便な意識が根差し、ぐっと拳を握り締めて耐える。
「そうそう、何故きみが息子なのかという話だったかな」
「ああ」
「レヴィは私の息子だからだ」
「……は?」
「叔父上、俺の親父さんは確か、ジークウルム・ローア・ビルケ・リィンクローヴァって名前だったと思うんだが」
「実の父親はそんな名前だったな、確か。まあそれはどうでもいい」
「いやいやどうでもよくねぇし」
「さておき、レヴィが城に上がってから、忙しい兄上に代わって色々と世話をしたのは私……と、アディとリーエだったわけだ」
「べたべたし過ぎて迷惑がられていたくせに」
「ちょ、そこでそういう暴露話をしない、アディ! だって仕方ないだろう、可愛くて仕方なかったんだから!」
「だってもくそもないわよお馬鹿ツヴァイ」
「くそとか言わない! アディは本当に乱暴者だな、そんなんだから伴侶に逃げられ……いえっ何でもありませんアディ様!」
「アディ、一応事情を知りたいから、変態を〆るのはもう少し待ってくれ。そのあとなら、塩漬けにしようが酢漬けにしようが構わないから」
「そう? 仕方ない、アスカが言うなら少しだけ待つわ」
「そこは止めた方がいいんじゃないかな、息子君!?」
「いやもう何か色々とどうでもいい気がしてきたが、レイがあんたにとって息子同然の存在であると言うことはなんとなく判った。だからって俺までが息子になる意味が判らんのだが」
 思わず額を押さえつつ飛鳥が言うと、ツヴァイクロイツは心底不思議そうな顔をした。
「レヴィにとってのきみが、エストの名を分かち合いたいと思うほどの友であるのなら、それはもう私にとって身内だ。つまり、きみもまた私の息子だということになる。前線できみの話を聞いて、ずっと逢いたいと思っていたんだ……アスカ。想像通りで、本当に嬉しい」
 言って晴れやかに笑ったツヴァイクロイツの表情が、顔立ちの美醜云々ではなく美しく、真摯で、レーヴェリヒトによく似ていたもので、飛鳥は溜め息をついてそうか、と返すしかなかった。
「黒の御使いとか、そういうのは正直どうでもいい。私たちは私たちの全力でこの国を護るし、レヴィを支える。そういうものだと思ってる。だけど、兄上のわがままで無理やり国王の座に据えられたのに文句も言わずに頑張ってきたレヴィが、ただのレーヴェリヒトとしてきみと一緒に生きたいと言うのなら、それは私たちにとって、絶対に叶えるべきわがままなんだよ」
「いや叔父上、俺は別に……」
「判っているよ、レヴィ。だけど、そんなお前の人生に彩りを加えてくれたのがアスカであるのなら、私たちはそれを歓迎するしかないだろう」
「……うん」
 ツヴァイクロイツの言葉に、レーヴェリヒトが、少年のような無邪気さで、はにかんだような、幸せそうな笑みを浮かべる。
 飛鳥は肩を竦め、なるほど、と返した。
「息子云々はともかく、あんたたちがレイを大事に思ってるってことは判った。――心配しなくても、あんたたちの宝物は俺が護る。そう決めた」
 どこか厳かに言って、右手人差し指に鎮座する界神晶を掲げてみせる。
 それを目にして、ふたりはちいさく息を飲み、それから微笑んで頷いた。
「頼りにしているわ。この可愛い甘ったれさんを、どうか護ってね。レヴィが幸せであること、それだけが、わたしたちの願いなの」
「きみがレヴィに与えてくれるすべてに感謝する。同時にアスカ、きみの、このリィンクローヴァでの日々が幸いであるように祈るよ」
 一国を統べる王の身内などという雲上の存在の、しかし家族愛に満ちた真摯な言葉は、彼らもまた人間であり、なにものにも替え難い大切なものがあるのだという事実を飛鳥に気づかせる。
 がっかりするような、愚かで傲慢な貴族の振る舞いをこの一ヶ月で多く見てきた飛鳥だが、ツヴァイクロイツとアディリアの立ち位置、覚悟、愛情のあり方は、ほんの少し、飛鳥を安堵させた。
 そして、飛鳥に、自分のなすべきことを再確認させるのだ。
 二度と違えるつもりのない、遠い約束とともに。