身体を、思考を、茫洋とした熱気が満たしている。
 自分が剣を手にしてそこに降り立ったことも、飛鳥はしばらく気づかなかった。
 否、白状すれば、自分がどうやってここに来たのかも曖昧で、何となく、たぶんそうなのだろうという非常に心許ない認識しかないものの、ただ、身体中から傷が消え、痛みが消え、すべての感覚が復活していることだけが判っていた。
 飛鳥は、自分が『新しく』なったことだけを認識していた。
 それが人間という在り方から遠ざかるのだとしても、後悔も恐怖も、哀しみも遠い。
「な……何だ、今のは……」
 ハルノエン兵だろうか、武骨な甲冑に身を包んだ男たちが、何か得体の知れないものを見る目で飛鳥を見ている。
 そこに畏怖が含まれていることに、飛鳥は気づいていなかったが。
「メイデ、アルディア」
 呟き、こうべを巡らす。
 寄り添うように倒れ伏すふたりの姿が目に入る。
 一目見るだけで、致命傷だと判る。
 ――だが、息がある。
 血塗れのふたりが、こちらを見て微笑んだのも判る。
 それゆえに、わずかであれ間に合った、という感慨は抜けない。
 看取るだけしか出来ずとも、せめて見送ることが許されるのだから。
 あの老夫婦の時とは違って。
「なんだ……何なんだ、貴様は!」
 兵士のひとりが金切り声を上げて剣を構えた。
 風に吹き飛ばされ引っ繰り返っていた兵士たちが、狂気を伴った殺意をほとばしらせながら、口々に喚きつつこちらへ殺到する。
 飛鳥は唇を引き結び、剣を腰に佩いたまま身構えた。
「……」
 未だ人の――人間という体裁を保った存在の命を奪ったことはない手だった。
 しかし、もう、覚悟は決めた。
「死ねっ、死ね、死ねよ、くそおおおおおおおおおッ!」
 口の端から泡を飛ばしながら、ハルノエン兵が肉薄する。
 まだ若い。
 きっと、レーヴェリヒトと同い年くらいだろう。
 そのことに心が痛まないわけではなかったけれど、迷いはなかった。
「――……ッ」
 低い呼気。
 それと同時に、剣を抜き放つ。
 空を裂く刃の一閃、重い、肉と骨が断たれる手応え。
 ――命の重みだ。
「あ……あ……」
 甲冑ごと上半身と下半身を断たれた兵士の身体が、ゆっくりと地面に崩れ落ちていく。
「嫌だ……死にたくない……」
 まだ息のある彼は、絶望の表情で地面を掻き毟り、
「嫌だ、助けて……父さん、母さん……助けて……!」
 血を吐き、啜り泣きながら事切れた。
 飛鳥はそれを、静かな眼差しで見つめていた。
 これで自分は紛れもない人殺しだと冷ややかに思いつつ、飛鳥に後悔はなかったのだ。血に濡れる手を恐れ厭うよりも大切なことが今の飛鳥にはある。そして、きっとこれからも汚し続けるのだろうという確信もある。
 ――だから何だ、と、斬りつけるように思う自分もいる。
 それを恐れることで喪う方が、ずっと怖い。
 残りの兵士たちへと視線を移すと、飛鳥の人間離れした膂力と技量に、ハルノエン兵たちがざわざわとざわめいているのが見えた。その表情には、明らかな恐怖の感情があった。
「……投降するか?」
 飛鳥の言葉に兵士たちはまたざわめき、中にはこちらへ向かって踏み出そうとする者もいたが、誰かが切羽詰った表情で早口に何かを言い、首を横に振ると、皆がぐびりと咽喉を鳴らし、唇を噛み締めて再度剣を構えた。
 ――やはり、裏切りの背景には何かあるのだ。
 退くことも、降参することも許されない何かが。
「なら……仕方がない。あんたたちに、本陣に情報を持ち帰られるのは困るんだ……時間を、稼がないと」
 飛鳥は星鋼の剣を手に、一歩踏み出した。
 悲鳴じみた呻き声を上げて、兵士たちがばらばらと向かってくる。
「許せとは、言わん」
 低く呟き、地面を蹴る。
 命を奪うことは、奪われた人間の周囲に哀しみを振り撒くことだ。
 飛鳥はそれを嫌と言うほど知っている。
「くそっ、くそくそくそっ、頼む、頼むから死んでくれ、なあ、お願いだ!」
 混乱を極めた風情の兵士が、上段から振り下ろした剣を弾き、あまりの勢いにたたらを踏んだ彼の首筋を薙ぐ。
「あああああああああッ!?」
 絶叫とともに噴き出す鮮血を避け、飛鳥は次々と兵士たちに斬りかかった。
 周囲には、すぐに断末魔の悲鳴と血の臭いが満ちた。
「あんたたちを全員葬ることで、あんたたちの家族や恋人や友人たちを失意のどん底に陥れて、どうしようもない憎しみと哀しみの連鎖を永遠に繰り返すんだとしても……もう、決めた」
 自らを呪縛するかのような独白とともに、剣を習って数ヶ月とは到底思えぬ鋭さで揮われる刃が、わずか一閃、一撃で兵士たちの命を奪っていく。首が、腕が、臓物が、甲冑ごと切り取られ、無造作に地面に転がる。
 あっという間に、兵士の数は一桁に近づいてゆく。
「何なんだお前、なんなんだよ……ッ! そんなの、ば……化け物じゃないか……!」
 誰かが叫んだ。
 言い得て妙だ、と、飛鳥は笑う。
 そう、今の飛鳥は化け物だ。
 もう、人間とは違う何かに変質しているのだから。
 異形との戦いの後、熱を出して寝込んだ時にソル=ダートが言った言葉を思い出す。
 ソル=ダートは、見事に取り込んだな、と言った。
 それは、今にして思えば、異形の《死片》から受けた毒だった。
 身体が、異形の毒を取り込み、自らのものとするために熱が出たのだとソル=ダートは言ったのだ。
 今、実感を伴ってそれが判る。
 科学的な検査を受ければ、きっと今の飛鳥の細胞が――塩基配列が、この世のものとも思えぬ形状になっていることが判るだろう。
「化け物でも何でもいい、そのために出来ることがあるのなら」
 そう、毒は消えたのではなく、飛鳥の中で根を張っていたのだ。
 毒を毒にせず、力に変えたのは、界神晶のお陰なのか、それとも飛鳥の体質だったのか。
 たぶん両方だろうと飛鳥は思う。
 思いながら、防御しようと掲げられた剣ごと、兵士の身体を縦に斬り下ろす。
 剣を剣で断つという非常識さに、驚愕の表情を浮かべたまま、叫び声すら上げられず絶命した兵士の――その傍に静謐に佇む飛鳥の姿に、他の兵士が剣を取り落とし、尻餅をついた。
「く……来るな、来ないでくれ……ッ!」
 顔中の穴という穴から液体を零しながら、必死の形相で、尻でいざって逃げようとする彼を無言のまま斬り倒す。
 絶望の悲鳴があちこちで上がった。
 逃れられぬ理由でここにいる彼らを憐れとは思うが、こちらに猶予がない分、手加減は出来ない。
 恐らく、どんなに遅くとも明日の夜には七千の本陣が動く。
 時間との戦いだ。
 憐れみと感傷によって彼らの命を残すことで、いかなる不備をゲミュートリヒに……リィンクローヴァに与えることも許されない。
 ハルノエンの裏切りの理由は知らないが、いかなる事情が向こうにあるのだとしても――ハルノエンの民を苦しめることになるのだとしても、飛鳥にはここで生きると決めた瞬間からリィンクローヴァのために働き戦う義務があるし、何より彼はこの国をすでに別れ難く愛している。
 覚悟を決め、自分の進む道を選択した瞬間から、飛鳥は非情に徹することも決めていた。
 無論、せめてもう少し余裕があればと思う気持ちも否定は出来ないが。
「あんたたちの命も、絶望も憎しみも、全部背負う」
 いつか世界に平和が訪れた時、殺戮者めと責められ、追われることになっても構わない。すべてが終わり、リィンクローヴァが幸いによって統治され、レーヴェリヒトが護られたあとならば、死という断罪さえ受け入れる。
 命には命の贖いを。
 それでいいと思う。
「――……せめて、苦しみがないように」
 苦悩と喪失の多い十七年の中で、この二ヶ月は飛鳥にとって一生分の幸いですらあった。
 初めはただ妹に笑顔が似ていたというだけの友達が、今は飛鳥の生きる意味に、そして死ぬ意味になりつつある。その意味を護るために、他者の命と血に穢れるのなら悪くない、と思うのだ。
 静かに、しかし容赦も躊躇もない断固たる表情で飛鳥が踏み出すと、破れかぶれと言った絶叫が残り数人となった兵士たちの口からほとばしり、彼らはまるで飛鳥に斬られるためとでも言うような無防備さで突進してきた。
 もう、自分が何をしているかも判っていなかったかもしれない。
 飛鳥は無言のまま剣を揮った。
 鈍い、重い手応えに、もう戻れないことを知る。
 胸が痛むのは、必要なことだと受け止める。
 ――この痛みを失った瞬間、飛鳥はただの快楽殺人鬼に成り下がるのだ。
 どさどさと音を立てて、命を失った兵士たちの身体が倒れていく。
 あっという間に、そこには静寂が満ちた。
 飛鳥がここに現れて殺戮が終わるまで、たかだか数分しかかからなかった。
「……」
 飛鳥は幾許かの返り血を衣装の袖で拭い、兵士の生き残りがいないかを確かめてから剣を腰に戻した。
 腹の奥底が重苦しい何かに塞がれているのが判る。
 だからどうした、と弱い自分を叱咤して、飛鳥は踵を返し、倒れ伏す領主夫妻の元へ走り寄った。
「メイデ、アルディア」
 血と傷にまみれたふたりを、自分の身体を背もたれにするかたちで抱き起こす。吹き零れた血が飛鳥の衣装に沁み込んでゆくが、気にはならない。むしろ貴くすら思うほどだ。
 込み上げる、深い深い別離の哀しみ。
 もっともっともっともっと、という、我が身を抉るようないつもの後悔は変わらずにあるけれど、
「アスカ……」
 しかし、この最期の時に、飛鳥の腕の中で、互いに手をつないだまま、ふたりは微笑んだのだ。
「来て、くれたのね……」
 思いのほか力強い声が飛鳥の耳を打ち、肚の底が暖められる。
「約束したからな」
 極力感情を抑えながら言うと、アルディアが血塗れの手を伸ばし、指先で飛鳥の頬に触れた。
「あり、がとう」
「……礼なんて」
「嬉しい、よ……もう一度、君に、会えて」
「俺は……いや、そうだな、俺もだ」
 ふたりに合わせて笑おうとしたが、失敗した。
「何を言っても締まらないことにしかならないが、俺の不甲斐なさを許してくれ」
「あら……どうして、謝るの、アスカ」
「黒の御使いとかそんなものは、どうしようもなく無力だってことを、今更みたいに実感してる」
 そう、たとえ彼が完璧にすべての力を使いこなすことの出来る黒の御使いだったとしても、今のふたりに何かをしてやることは出来ない。喪われつつある命を、もとの、肉体という器に戻すことは、出来ないのだ。
 それは、賢者と呼ばれる当代一の魔導師ハイリヒトゥームにも、神にも魔王にも精霊王にも出来ないことなのだと、界神晶を通じて飛鳥は知った。
 命の流れは一定でしかないのだ。
 だからこそ、ふたりはレーヴェリヒトをわずかな危険にもさらすまいと思ったのだろう。
「いいの、よ」
 軽く咳き込み、メイデが笑う。
「あなたは、来てくれた……もの。約束どおり、ここ、に」
 血に染まった指先が、飛鳥の鼻先に触れる。
「ああ……でも、私たち、も、謝りたかった、から、おあいこ……かしら?」
「謝る? 何故」
「こんな……重い、荷物を、君に負わせたいわけでは、なかったと、それだけ」
「いや……ああ。それこそ、約束なんだから、当然だ」
 ふたりの言いたいことをすべて理解してきっぱりと言うと、メイデもアルディアも、安心したように身体の力を抜いた。
 ――鼓動が弱まっているのが判る。
 噴き出す血の流れも、もうすでに、弱い。
「じゃあ、お願いしても、いい、かしら? 私たちは、もう、逝かなくては、ならない、から」
「……ああ」
「あの方と、この国を、頼むよ」
「判ってる……約束だ、絶対に、違えたりしない」
「ありがとう……だけど」
「そうね、でも」
「……?」
 飛鳥を見上げるふたつの眼差しが、やわらかな慈愛を孕む。
「どうか……願わくは、アスカ、あなたも」
「どうか、幸せで。矛盾、していると……判って、祈る」
「…………ああ…………」
 飛鳥は唇を引き結び、そうしてようやく、何とか笑みのかたちをつくってみせた。それから、交互にふたりの額に自分の額を寄せ、血がつくのも構わずに触れ合わせて、
「あんたたちの宝物は、俺が護る。だから……心配しなくていい」
 静かに、しかしきっぱりと、宣言する。
 その瞬間の、ふたりの笑顔を、飛鳥は一生忘れないだろう。
「ありがとう……これで」
「安心して、眠れるわ……ありがとう」
 アルディアが、メイデが、飛鳥にもたれたまま目を閉じる。
 つなぎ合った手はそのままに。
 そして、まったく同時に、最期の一呼吸。
 ことり、と、首が、項垂れて、鼓動が、止まる。
 穏やかな、静かな最期だった。
 ただただ、深い安堵がふたりを満たしていると判ったから、哀しみを直接口にするのも憚られて、飛鳥はそれらを、息を詰めて見つめていた。
「――……お休み、メイデ、アルディア。どうか、安らかに」
 言葉尻が震えなかったかどうか、自信はない。
 微笑を浮かべたふたりは、まるで――陳腐な表現だが――ただ眠っているだけのように見える。
 血も傷も、ふたりの美しさ安らかさを損ねることはなかった。
 脳裏を、彼らと過ごしたたくさんの出来事がよぎり、飛鳥から言葉と表情を奪う。
「……」
 夕日の沈んでゆく森の中で、たったひとり、少しずつ冷えてゆくふたりの身体を抱き締める。
 這い上がる苦さに、名前はつけ難く、同時にすべての感情を含んでいた。
 覚悟した。
 選択した。
 すべてを受け入れて最後の瞬間まで生きると決めた。
 それでも。
 ――この痛みを鎮めることは、今は出来そうにもなかった。