朝日がゆっくりと昇ってくるのを、飛鳥は岩棚の上から静かに見上げていた。
 眼下に広がる酸鼻な光景になど、気づいてもいないかのような表情だった。
 眩しい陽光が、森の鮮やかな緑を、清浄な空気を照らし出す。
 ひどい悲愴とともにありながら、ひどく穏やかな気分だ。
「――……アスカ」
 聴き慣れた呼び声に、振り返りもせず頷く。
 気配も何もなかったが、何となく予測はしていたので驚きもしなかった。
 彼が隣に立つことも、当然だと思っていたからだ。
「来たのか」
「ん」
「連絡は……行ったか?」
「匿名でな、投げ文があった。遅くなってすまねぇ」
「いや……構うな。俺も、間に合ったとは言い難い」
「そうか? 皆、感謝してたぞ」
「……メイデとアルディアには」
「ん、会って来た。……あっけないもんだな」
「ああ」
「でも……」
「でも?」
「眠ってるみてぇに安らかだったから、ちょっとだけ安心した」
「そうだな、俺もだ」
「なあ、アスカ」
「ん?」
「ありがとうな」
「どこにかかる礼なのか判らん」
「ふたりを看取ってくれて」
「……ああ」
「それと、あの人たちと、それから俺のためにふたりのところに行ってくれて」
「何のことだ」
「大体の事情は聴いたよ。何が正しくて何が間違ってるのかなんて俺には判らねぇけど、でも、アスカ、お前は、あの人たちが俺のために死んだなんて俺が知ったら滅茶苦茶するんじゃねぇかと思ったんじゃねぇかって」
「ずいぶん自意識過剰だな、レイのくせに」
「俺のくせにっておま……まあいいや。そりゃ、お前に関することだし」
「……まったく」
 飛鳥は大袈裟な溜め息とともに傍らに立つレーヴェリヒトを見上げた。
 鈍いのか鋭いのか、この青年は本当によく判らない。
「で、今の気分は?」
「哀しい」
「端的だな。まあ、相応しい言葉ではあるが。……あとは? 復讐してやろうとか、憎いとか、殺してやるとか、そういうのは」
「薄情な話だけどな、不思議とねぇんだわ。何のためにふたりが無茶をやったのか、聴いたからかな」
「……なら、いい」
「それに」
「うん?」
「……今はお前がいてくれるから」
「そうか」
 飛鳥は苦笑し、眼下を見遣った。
 そこには、三百の兵士たちの骸が、折り重なるように倒れている。
 斬り散らかされた人体の『部品』やはみ出した臓物、流れ出した血などで緑多い森は汚れ、その一角だけが禍々しいほどどす黒く染まっている。虫も鳥も、あの周囲では声を潜めているのか、妙に静かだ。
 飛鳥がメイデとアルディアの死を看取ってから十数時間が経ち、そろそろ夜が明けようとしていた。
 領主夫妻と飛鳥を心配して、決死の覚悟で様子を見に来たビノーとルオーグによって状況が把握され、人員が割かれて夫妻の遺骸はまちへと運ばれた。今は、傷口を清められ、衣装を調えられて、たくさんの薔薇とともに静かな眠りに就いていることだろう。
 飛鳥はそれを確認することもなく、殺戮現場が一望出来る位置の岩棚に陣取って『その時』を待っていた。
 そこへ、レーヴェリヒトが来たのだった。
「ゲミュートリヒの様子は?」
「防衛戦の準備は半分ってとこかな」
「人員は」
「今はどこの都市も厳しいのが現状だ、潤ってるってほどじゃねぇが……何とかして手の空いた連中を何人か引っ張ってきたから、行ける。私兵軍の連中も、弔い合戦とかじゃなく、メイデとアルディアが望んだようにゲミュートリヒを守るんだって気概でいっぱいだ、士気は高ぇ」
「……そうか」
 レーヴェリヒトの言葉に頷き、飛鳥がまた眼下を見遣ると、ちょうど、ハルノエンの甲冑を着込んだ人々が数名、気配や足音を忍ばせながらやってきたところだった。
 彼らは三百の兵が皆死んでいるのを目の当たりにして驚愕している。
 「全滅しているのか」「何故、誰が」「兵が動いたと言う報告は受けていない」
「では誰が」「わずかな戦力で犠牲も出さずに三百の兵を殲滅したと言うのか」
「まさか、黒の御使いが」「馬鹿な、あれは都合よく脚色された流言の類だと、魔導師殿が」「では、一体何故」「それが判ればこんなに驚くはずがない」
 驚くほど性能を増した耳に、本陣からの斥候兵たちの狼狽振りがつぶさに伝わって来る。
 彼らの予想では、偵察部隊は指揮系統を寸断し私兵軍を混乱させたあとでここに戻り、斥候兵に作戦の成功を報告したあとで本陣と合流するはずだったのだろう。それが全員斬殺されていたとなれば、動揺しないはずもない。
「さて、ではもう少し、時間稼ぎをしようかな」
 飛鳥は斥候兵たちの様子を見下ろしながら右手を掲げた。
 周囲に浮かび上がる光る文字のひとつを弾くと、それはくるくると数度回転したあと光の粒になって、斥候兵たちの周囲をたゆたってから消えた。
「……?」
 それを、不思議そうにレーヴェリヒトが見ている。
 ややあって、
「……戻ろう」
 兵士のひとりが重々しく言い、斥候兵たちが頷き合う。
「将軍にご報告を。戦局を引っ繰り返されかねない要素があると指示を仰ごう。――どちらにせよ、我々に、他の方法などないのだから」
「「「すべては、かの清らかなる『小鳩の乙女』のために」」」
 祈りのような言葉が唱和され、兵士たちが足早に去ってゆく。
 その言葉にも、何か、重苦しい事情が感じ取れたが、余裕のないこちらとしては斟酌するわけにも行かない。
「アスカ、さっきのあれは何なんだ」
「ただの方向感覚を狂わせる魔法だ。本陣が痺れを切らして腰を上げるぎりぎりまで迷ってもらおう」
「……なるほど」
 苦笑するレーヴェリヒトを見上げ、飛鳥は疑問を口にする。
「レイ、小鳩の乙女って何だ」
「ハルノエン王を選定するハルノエン第一王女のことだ。ハルノエンは、第一王女が選んだ男が王になる国だからな。しかし……うーん……?」
「……どうした」
「いや……今代の『小鳩の乙女』ヴュセルエリンデ・タニア・ルシュカ・ハルノエンはどうしてるんだろう、と思ってな。まさかあの姫が、リィンクローヴァ攻略を指示するはずも支持するはずもなし」
「ふむ、その辺りに答えがあるのかもしれないな」
 斥候兵たちの去った森の奥を見遣って目を細めた後、飛鳥はレーヴェリヒトの肩を叩く。
「行こう、レイ。俺たちも準備に加わらないと」
「ん、ああ。でも、大丈夫か、アスカ」
「なにがだ」
「そこでなにがって訊かれても困るんだが。――……吹っ切ったわけじゃ、ねぇだろ」
 気遣うように問われ、飛鳥はごくごく小さな、付き合いの浅いものには判らないくらいかすかな微苦笑を唇に浮かべた。
 領主夫妻の死を看取ってから、まだわずかに十数時間。
 一日も経っていない。
「お前さ、あの人たちにすごく懐いてたみてぇだし」
「お前だってそうだろう」
「いや、そうだけどな。でも、俺はたぶん、お前に苦しいのをかなり肩代わりしてもらってる。――辛くねぇか。っつーか、辛いだろ」
 飛鳥は唇を引き結び、首を横に振った。
 無論、瞼の裏側には、今もまだあのふたりの最後の笑顔がある。
 それは絶大な救いであると同時に呼吸が止まりそうなほど激烈な痛みで、迂闊に立ち止まれば身動きが取れなくなりそうな気がする。
「なあアスカ、ちょっとくらい休んだ方が――……」
「言うな」
「アスカ?」
「そういうのは、これを終わらせてからでいい」
 今、ここで感傷に浸っているわけには行かない、と、頑なな口調で言い捨てると、レーヴェリヒトが大袈裟な溜め息をつき、飛鳥の頭から自分のマントをばさりと被せた。
 やはりどこか動顛したままなのか、予想もしておらず、飛鳥は顔をしかめてマントを振り払おうとしたが、
「! レイ、ふざけてる場合じゃ、」
「アスカ、俺はお前のお陰で、自分の気持ちに正直に笑うってのがどういうことなのか思い出したような気がするんだ」
「……?」
「要するに、だ。お前が同じように、正直じゃいけねぇなんて、誰も言わねぇし、俺だって誰にも言わせねぇんだぞ、ってことさ」
「……」
 驚くほど静かで気遣いに満ちたレーヴェリヒトの言葉に、手触りのいいマントの下で飛鳥は黙り込む。
 飛鳥は、領主夫妻の側近たちの前でも、ふたりの遺骸を運びに来た私兵たちの前でも、涙ひとつ見せなかったし、哀しみを表面に出すことすらしていなかった。事実、飛鳥はまだ泣けていなかった。
 泣くことはむしろ、浄化という意味で重要だ。それは判る。
 泣くことで感情を整理して、次に向かう、それを今の飛鳥は出来ていない。
 それどころではないと自分で自分にストップをかけながら、まだ領主夫妻の死を自分の奥底が受け入れ切れていないのかもしれない。だからこそ、かえって苦しいのかもしれない。
 それらの諸々を、飛鳥は言葉にも態度にも表していなかったが、このお人好しでヘタレな国王陛下は、敏感に感じ取ったらしかった。
「レイのくせに生意気だぞ、お前」
「あのな、だから俺のくせにってお前……」
「――……なあ、レイ」
「ん?」
「お前の、名前の意味って、何なんだ?」
 何故そこでそれを尋ねようと思ったのかは、自分でもよく判らない。
 古代神聖語を学んで、自分で調べてやる、と思っていたことだったが、何となく、尋ねてみようという気になったのだ。
 後になって思えば、それも流れというものだったのかもしれないが。
「俺の名前の意味? ああ、古代語のか?」
「ああ。ずっと、調べよう調べようと思ってて、忘れてた。急に、気になってな」
「はは、そうか」
 レーヴェリヒトがかすかに笑った。
「言ったよな、春の生まれだって」
「ああ」
「昔はさ、ちょっと穏やか過ぎる名前なんじゃねぇかって周囲に言われたこともあったんだけどな」
「そうなのか……それで」
「ん、――レーヴェリヒトは、麗らかな日々、っていう意味なんだ。そういう、心地よく満ち足りた生であるように、って両親がつけてくれた」
 ――その時の、飛鳥の胸中を察することが出来たものは、いただろうか。
「麗らかな、日々……」
 それは、春に生まれた妹が、両親からもらった名前と同じ意味を持っていた。
 麗日(れいか)。
 身体の色素をほとんど持たずに生まれ、長くは生きられないと言われながらも皆に愛されて育ち、飛鳥が自分のすべてをもって生かそうとし、――それも叶わず十二歳の冬に死んだ、死なせてしまった、飛鳥の最愛の、たったひとりの、妹だった。
 飛鳥はたぶん、おそらく、今でも彼女に縛られている。
 誰が、それは飛鳥の所為ではないと言ってくれたとしても、彼女を護り切れず喪わせた自分を許せずにいるし、別れの悲嘆を忘れられずにいる。
 その妹とそっくりな笑顔をしただけだと思っていた青年は、彼女と同じ意味の名前を持っているのだと言う。
 それは、奇跡と言うべきなのか、皮肉と言うべきなのか。
「じゃあ、やっぱりお前は、俺の、……ッ」
 言いかけたら、不意に咽喉の奥が詰まって、飛鳥は口元を覆った。
「アスカ? どうした?」
 胸の奥を吹き荒れるこれが、なんという名をつけて呼ぶべき感情なのか、判らない。希望と呼ぶべきなのか、歓喜と表現すればいいのか、――むしろ絶望と称するべきなのか。
「何でも、ない……」
 理解出来ないまま、目元が熱く濡れて行く。
 領主夫妻の最期を看取った悼みが、その衝撃で一気にあふれだしたかたちだった。
 平静を保ったつもりだったが、レーヴェリヒトにはばれていたらしく、
「何かよく判らねぇけど、俺は、泣いてるお前だって、好きだぜ」
 労わるような言葉とともに、肩を抱かれる。
 マントを通して、レーヴェリヒトの手のぬくもりが伝わって来る。
 そこで我を忘れて泣き喚けるほど素直でもなく、マントの下で声を殺して涙しながら――肩が震えるのだけはどうしようもなかったが――、飛鳥はたったひとつのことを思い続けていた。

(俺は、レイのために死ぬんだろう――……今度こそ)
(こいつを取り巻く不吉な運命を斬り払って、すべての祝福された未来を約束してから斃れるんだろう)
(そうだ、これは誓いだ……判ってる、メイデ、アルディア)
(俺は、そのためにここに来たんだ)
(お前は俺の死そのもので、だからこそ希望なんだろう、レイ)

 残り時間の少なさを、物心ついた時から意識しているのと同時に、今は界神晶が自分を削っていくことも知っている。戦いが続けば続くほど、飛鳥は更に人間ではない何かになっていくだろう。
 しかし、もう、自分に降りかかる何を恐れることもするまい、と思う。
 ここにレーヴェリヒトがいて、レーヴェリヒトを愛し、彼を愛する人々がいて、同じような幸運で飛鳥を大切にしてくれる人たちがいる。
 それ以外の、何を選べというのか、飛鳥には判らない。
「――……今だけだ、レイ」
「ん?」
「あと十分したら、いつもの俺に戻る。だから……」
 その先は口にしなかったが、軽やかに笑ったレーヴェリヒトが背中を叩いてくれたから、きっと伝わったのだろう。
 マントの下で、音もなく涙しながら、飛鳥はどこか満ち足りて、晴れやかな気分だった。

 ――そう、これから起きる激しい戦いなど、どうにでもしてやろうと思える程度には。