そこからたかだか四日。
 お坊ちゃんの駄目っぷりは熾烈を極めた。
 駄目っぷりに熾烈などという表現を使うのもどうかと思うが、そうとしか言えない惨状だったのだ。
「声が小さい」
「わ、判っている」
「背筋をもっとぴんと伸ばせ」
「判っている」
「笑顔で、丁寧に、誰に対しても分け隔てなく接するんだ」
「判っている」
「言っておくが、ここに来るお客は皆財民や兵民だ。彼らによってこの商売は成り立っている。貴族の生活を支えているのは彼らや奴隷たちだ、それを理解しろ」
「……わ、判っている」
「だが、彼らはくその役にも立たん貴族のおぼっちゃんの生活を支えるために税を納めたり労働力を提供したりするんじゃない。国の中枢にいる連中が、彼らの生活をよきものにしてくれるからこそ税金を支払うし、働くんだ。国の根本にいるのは王侯貴族じゃない、国民だと判れ」
「……判っ、」
「それと、相手の目をまっすぐに見て会話をしろ」
「判って、」
「あんたが接するのはお客だ。もてなすべき相手だ。それを念頭に置いて話せ。敬語で、感謝の気持ちをこめて、な。彼らが商品を買ってくれるから、お前は飯を食えるし、温かい寝床で寝られるんだ、それを忘れるな」
「判っ……」
「声が小さい! 腹から、気持ちと根性と感謝を混めて声を出せと言っているだろう」
「だから、判っていると言っただろうが!」
 延々と続く飛鳥の駄目出しに、額に青筋を立てたヴェーエトロースが怒鳴り返す。
 が、飛鳥は動じない。
 そして情けも容赦もない。
「判ってるならちゃんとやれ、役立たず」
 淡々と言い様、手にした柳の小枝でヴェーエトロースの額を弾く。
 柳の枝とは言え飛鳥の怪力では結構な衝撃だったようで、ヴェーエトロースは少し赤くなった額を押さえ、ちょっと涙目で飛鳥を睨んだ。
「ぐぬぬ、父上にすら手を挙げられたことのない私に、貴様如き下賎の者が……痛い!? ちょっ、待て、痛い痛い、割れる……痛い!」
「五月蝿いぞお坊ちゃん。貴族だ下賎だはここでは何の関係もないと言ったのに、まだそんな戯言を口にするか。そんなもの覚えの悪い頭のひとつやふたつ、割れて砕けても問題はないな?」
「頭はひとつしかないだろうが!? 問題ばかりに決まって……いたたたたたたたたたッ!」
「あんたの父上は、いっそ手を挙げておけばまた違った結果になっていたのかと悩んでおいでだ。だがまぁ、あんたにとっての父上がよき思い出によって成り立っているのなら、コーネさんに手を汚させるのも気の毒だ。俺が代わりにあんたを教育してやろう」
 口答えしかけたヴェーエトロースの後頭部を鷲掴みにし、ばたばたともがくお坊ちゃんの抵抗などものともせず、万力ばりの――肉体機能が飛躍的に上昇しつつある現在、握力は三百に迫っている気がする飛鳥である――怪力で締め上げながら飛鳥は仄暗く笑う。
「だが……俺の教育は手荒だぞ? もうすでに身に沁みているだろうが、な。覚悟しておけ?」
 邪悪で晴れやかな、どこからどう見ても正義の味方とは思ってもらえなさそうな表情で飛鳥が笑うと、彼にこの四日間で散々な目に遭わされているヴェーエトロースは怒りと憎悪と恐怖と畏れと諦観の入り混じった微妙な表情で顔を引き攣らせた。
「よし、なら続きだお坊ちゃん。ここ数日、ひとつも売れていないからな、せめて今日くらいは売り上げに貢献しろよ。まったくこのお坊ちゃんの駄目っぷりは見ていて清々しいほどだな、まだ圓東の方が接客能力も高いぞ」
「むぐぐ……」
「ああ、そうだ、ひとつ売れたら、今日は家に帰らせてやってもいい」
 他の企みもあって、飛鳥がそう言うと、この数日、工房の隅っこの板間で金村とイスフェニアに挟まれるようにして夜を越させられた――初日は緊張と身体の痛みで寝られなかったようだが、次の日からは疲労のためそれどころではなく眠りについたようだ――ヴェーエトロースがパッと顔を輝かせた。
「本当だな!?」
「ああ。俺は嘘は言わん」
 本当のことも言わないだけで、と胸中に嘯きつつ言うと、ヴェーエトロースは一瞬、何かを算段するような狡賢い表情になり――そこで表情を察せられてしまう辺りが乳母日傘のお坊ちゃんだ――、それから重々しく頷いた。
「判った、では励むとしよう」
「ああ、そうしろ。俺も正直、同じことを繰り返してあんたを小突き回すのも飽きてきた」
「……」
 飛鳥の物言いに眉根を寄せたヴェーエトロースだったが、さすがにそこで口答えをするほど馬鹿ではないらしく、唇を引き結び、傍らに置いてあった菜の花に紋白蝶の細工のされた幻和灯を手に取ると、貧弱な撫で肩を精いっぱい怒らせて店先へ出て行く。
 飛鳥がその背を追って外へ出ると、工房の周囲には、野次馬と思しき人々の姿があちこちに見て取れ、まだ昼前だろうにお前ら暇人か、と若干呆れる。
 もちろん、今をときめくラムペ家の、いい噂を聞かない三男坊が、貴族でありながら、黒の加護持ちもしくは黒の御使いの関わる(飛鳥を御使いと知っているものとまだ加護持ちと思っているものの割合は今のところ4:6くらいだ)、この近辺でも有名な工房で売り子をやると言うのだから、物見高い人間なら見物に来たくなっても仕方ないとは思うが。
 飛鳥が店先の傍らで見物していると―― 一般的にはそれを『目を光らせる』とも言う――、ヴェーエトロースは自分が珍獣扱いされていることに気づいているのかいないのか、手にした幻和灯を高く掲げて『いらっしゃいませ』を連呼し始めた。
 声は大きいとは言えないし震えているし時折引っ繰り返るし、へっぴり腰だし背筋は曲がっているし視線は泳ぎがちだしで、接客業としてはなっていないも同然だったが、初日の、萎縮して声も出せなかった惨状に比べればまだマシかもしれない。
「い、いいいいいいらっしゃいませえええええええ!」
 素晴らしく裏返った呼び込みに、周囲からどっと笑いが起きる。
 屈辱に首まで赤くなったヴェーエトロースがキッと睨みつけても、誰も悪びれない。
 本来ならば、下級であっても貴族の子弟と一般市民の間には決して越えられない壁が存在するのだが、何せ今この工房には国王陛下の覚えめでたき黒の加護持ちがいて、しかも初日に「この男は貴族だがわけあってウチに修行に出されたので貴族扱いする必要はない」という旨を公衆の面前でヴェーエトロースを小突きながら高らかに宣伝したもので、現在、ヴェーエトロースも飛鳥の下僕的な認識をされている。
 おまけにたかだか四日間で相当な使えなさ、駄目っぷりを披露し、客への態度がなっていないことを怒った飛鳥に小突き回されて半泣きで土下座させられると言う情けない場面まで見せてしまっているのだ。
 それで怖がれと言われても無理だろう。
「ここ、こ、これは幻和灯という世にもす、すすす素晴らしいあかりだ……です。ここここここここ、こ、ここ、こちら、」
「鶏か。もっとしゃきっとしろ」
 呆れた飛鳥のぼそりとした突っ込みにヴェーエトロースが泣きそうな顔になる。
 それでも家に帰れるという言葉が利いたのか、それともやるしかないという気概が出て来たのか――後者なら飛鳥としても多少褒めてやれるのだが――必死と表現するのが相応しい形相で、ものすごく上ずった声でどもりながら、ヴェーエトロースが宣伝を続ける。
「お、おひ、ひ、ひひ、おひとつ、ご、ごごごごごご五サラ(日本円にして五万円換算、物価的には五十万前後)! しょしょしょ少々値は張りますが、夜の、ひ、ひとときの、素晴らしい憩いを、ほほほほほ保障い、致します。い、いいいいいいいかがでしょうかッ!」
 整ってはいるが生白く貧相な顔を真っ赤に染め、ハンドボールばりに鷲掴みにした幻和灯を空に掲げて叫ぶヴェーエトロースの様子は必死で面白いが、正直なところ、これで購買意欲をそそられるものがいるのか微妙だ、というのが飛鳥の胸中だった。
 実際、野次馬たちはお坊ちゃんの駄目っぷりに腹を抱えて笑うばかりで、幻和灯を買い求めようという様子は見られない。
 そもそも、金貨五枚というのは一般市民がしばらく働かなくても生きていけるくらいの金額なのだ。幻和灯の出来、細工の美しさや材質のよさを考えれば決して高価すぎるわけではない……どころかラムペ家が販売しているものに比べれば破格の安さではあるのだが、平均的な財民たちがおいそれと手を出せるようなものでもなく、この調子で今日もひとつも売れなかったら家に帰してやることが出来ない、イコール次の仕込みが出来ないと言うことで、どちらにせよ何やかや理由をつけて帰宅させるしかないか、と飛鳥が思っていると、
「あのう……」
 年の頃は六十代後半と言った趣の、上質な衣装に身を包んだ老婦人がヴェーエトロースに声をかけたので、彼は小首を傾げて成り行きを見守る。
「む、幻和灯を買いに来たのか、……来られたのですか」
 初めてのお客さんに、さすがのヴェーエトロースも居住まいを正した。
 白髪の混じった茶色の髪に、灰色がかった緑の目の老婦人は、裕福な財民と言った風情の出で立ちで、立ち居振る舞いが洗練されている様子からして貴族と付き合いのある家柄なのかもしれないと推測された。
 彼女は、ヴェーエトロースを見遣って穏やかに微笑む。
 ヴェーエトロースよりよっぽど貴族的な、ゆったりとした微笑だった。
「はい、そちらの、その、綺麗なあかりを是非売っていただきたくて」
「そ、そうか……ですか。それは、その、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。孫がもうじき嫁ぎますもので、そのお守りにと思いまして」
 言って、おっとりと笑う。
 ヴェーエトロースは残念ながらそこで話題を膨らませることが出来るようなタチでもなく、そうですか、と返したきりだったので、飛鳥は溜め息をついて幻和灯を入れるための籠を手に取り、ふたりに歩み寄った。
 老婦人の視線が飛鳥に行き着くと、彼女の双眸に畏怖と喜びが浮かぶ。
 飛鳥は肩を竦めてヴェーエトロースから幻和灯を受け取り、籠に入れて、圓東が綺麗な布地を仕入れてきて作った真っ赤なリボンを巻いてから、
「ありがとう。あんたの孫が末永く幸いであるよう、あんたの孫の行く末をこのあかりが照らしてくれるよう、切に祈る」
 ヴェーエトロースには敬語を使えと言っておいて何だが、飛鳥自身はこの口調を改めるつもりもなく、ぞんざいな、しかし老婦人と彼女の大切な孫への敬意と幸いを祈る思いを込めて、籠を老婦人へと手渡した。
 老婦人の頬がわずかに紅潮する。
「ありがとうございます。黒の加護持ちに祝っていただけたのなら、きっとそれは真実になるのでしょう」
 彼女は幻和灯を押し頂くように受け取ると、
「お代は、こちらに。ああ……本当に素敵な細工ですね、あの子も喜ぶでしょう。ありがとうございます、本当に、どうもありがとう」
 金貨をヴェーエトロースに渡し、何度も何度もお辞儀をして、礼を言いながらその場を去っていった。
「……売れた」
 ヴェーエトロースは彼女の背中を見送るようにしばらく立ち尽くしていたが、ややあってぼそりと呟いた。飛鳥は肩を竦めて頷く。
「そうだな。気分はどうだ?」
「……判らん」
「そうか。まぁ……これからはこれがあんたの日課だ、そのうち判るだろうさ」
 そう言ってから、飛鳥は「そんなわけで」とヴェーエトロースの肩を叩いた。
「約束通りひとつ売れたから、今日は帰ってもいいぞ」
「む、そうか!」
「甘ったれのお坊ちゃんに過酷な労働を強いたからな、どうせかなり疲れているだろう、すぐに帰ってもいいが、どうする?」
「帰るに決まっている」
「即答だったな、まぁいい。明日の午前十時までに工房に戻って来いよ、遅れたら今度は逆立ちで接客をさせるぞ」
「逆立ち!? どこまで無茶苦茶を言う男だ貴様は……!」
「何か文句があるか? あんたが時間に遅れずに来ればいいだけのことだろう?」
「むぐぐ……」
 涼しい顔で飛鳥が言うと、ヴェーエトロースは怒りに拳を握り締めていたが、ややあってまたあの小狡い表情になり、かすかに笑みを浮かべて頷いた。
 飛鳥としては、企みというパズルが巧くはまった、という意識しかないが。
「どうした、お坊ちゃん」
「……いや、何でもない。遅れずに来ればいいのだな」
「ああ」
「ところでキース……ではなく旦那様の予定はどうなのだ」
「ん? 予定か。今日は六時まで幻和灯を作ったら終わりだな、他には特にすることもないからさっさと帰って来るように言ってある」
「そうか。なら、挨拶だけでもして帰るとしよう」
「何だ、ずいぶんしおらしいじゃないか?」
「……彼はラムペ家にとっても重要な人物だ。彼がいなくては幻和灯づくりに支障が出る。ということは、商売にも支障が出ると言うことだ、違うか?」
「ああ、そうだな」
「なら、特別丁重に扱うしかないだろう。そうか……六時には終わって帰るのだな、判った」
 飛鳥は、妙な部分を繰り返すヴェーエトロースに、なんて判りやすい奴だ、と呆れつつ、話は終わったとばかりに手をひらひらと振った。
「あとの店番は俺がやる、あんたは適当に帰れ。供がいなくても帰れるな? 迷子になるとかそういう寒い冗談はやめろよ?」
「失敬な……!」
 ヴェーエトロースは生白い頬に怒りの朱を上らせかけ、ハッと我に返って唇を引き結んだ。ここで口答えして帰宅をなかったことにされてはたまらないと思ったのだろう。
「なら、旦那様に挨拶をしてから帰る。……また明日」
「ああ。気をつけて帰れよ」
 飛鳥が頷くと、ヴェーエトロースは振り返ることなく店内に引っ込み、圓東たちがいる作業部屋へと入って行った。そのまま裏口から出て帰るつもりだろう。
「……若」
 それを見るともなく見送っていた飛鳥の隣には、いつの間にか金村勇仁の姿がある。
 つい先日散髪したと言う、真紅の髪を整髪料で立たせ、動きやすさと洗練とを両立させたサーコートをまとった彼は、腰に佩いた剣の馴染みようから言って、どこからどう見ても異界の騎士としか思えない。
 毎日の厳しい鍛錬の結果か、彼の立ち居振る舞いはさらに磨かれ、隙もなければ気配すら希薄になっていたが、彼がそこにいるもの、と認識している飛鳥は特に驚くでもなく、ちらりと視線をやっただけだった。
「金村か」
「ああ」
「……首尾はどうだ、と訊かないのか?」
「若のすることに間違いがあるのか?」
 お互い以外には聞こえないくらいの声で、悪戯っぽい問いに生真面目な問いを重ねられ、飛鳥は溜め息をついて遠くの方向を見遣る。俺の周りはおかしな奴らばっかりだ、と、自分のことは完全に棚上げして胸中にぶつぶつ呟いていると、
「なら……ひとまず、六時に圓東をひとりで帰せばいいんだな?」
「ああ、俺が設定したルートに沿って、な。なるべく人通りの少ない、薄暗い道を選んである、精々怖がれと言っておけ」
 金村が今後の予定を確認するように言ったので、飛鳥はにやりと笑って頷いた。
「先ほどのあの問いと、前回の行動の速さから言って、たぶんすぐに動く。手っ取り早くてありがたい話だ。単純とも言えるがな」
「そうか。なら俺は、計画通り、万が一のために隠れて圓東を追う」
「ああ。あと、灯りの準備も頼むぞ。しっかり見せ付けてやらんと目も醒めないだろうからな」
「承知した」
 無表情のまま、しかしどこか嬉しげに金村が頷く。
 飛鳥は肩を竦めて、こちらを見物している野次馬たちを見遣った。飛鳥の、無表情なのに何故か見据えられると足がすくむと評判の視線が行き着くと、いい年をした大人たちが居住まいを正していく。
「……やれやれ」
 この世界での『色』の持つ力に、そして乱世のさなかでありながら暢気な人々に呆れつつ、ひとまず飛鳥は、今晩執り行われるであろう『計画』の行く末に思いを馳せる。
 ――無論、それが失敗するとは微塵も思っていない飛鳥だが。