夕方、もうじき七時になろうかという時間帯。
 この季節になると日没は早く、六時を過ぎると辺りはもう真っ暗と言って過言ではない。日中、太陽の照っている時間帯はちょうどよい気温で過ごしやすいが、日が暮れると肌寒く、どことなく心細い。
「うう、暗いよー怖いよー」
 そんな中を、びくびくおどおどしながら、圓東がひとり、歩いている。
 高い白壁が続く、住宅区の一角だ。
 区画と区画を分けるための白壁、もしくは高い塀とでも言うべきそれによって囲われた、巨大迷路のような道路だった。
 残念ながら電気がない世界なので、街灯などというものはなく、当然、周囲は暗い。白壁の向こう側、左右双方のそこかしこから民家の光が漏れては来るが、それも壁の向こう側の光なので、この道路を完全に照らすことなど不可能だ。
 圓東は光霊石のランプを持っていたが、それは自身の周囲をわずかに明るくするのみで、かえって周囲の闇を深くし、暗闇に対する恐怖心を煽る結果ともなっていた。
 ランプの光に照らされた圓東の影が白壁に映し出され、ゆらゆらと揺れる。
 圓東はその、自らの影にすらびくつきながら帰途を急いでいる。
「ずっと誰かと一緒に帰ってたもんなぁ……いまさらのよーに皆のありがたさがわかるよ……うう、ありがとう皆」
 ぼやきながらも礼を口にしているのが彼らしい。
 そこへヒュウ、と風が吹き、圓東は首を竦めた。
「寒ッ。こないだまであんなに過ごしやすかったのに……季節ってあっという間に過ぎるんだなぁ」
 呟いて、身体を小さくしながら、白い塀の続く道路を歩いていく。
 ――その彼の背後から、大きな、幾つもの足音が聞こえてきたのは、そこから三十秒後のことだった。
 静かな住宅街の一角、しかも夕方のことだけに、その音はやけに大きく、恐ろしく響いた。
「!」
 びくりと震えた圓東が立ち止まり、塀を背にして縮こまる。
 それと同時に、今度は前方からも幾つもの足音がして、
「ま、まさか……」
 圓東は顔を蒼白にした。
 彼の脳裏を過ぎるのは、まだバドの正式な弟子ではなかったころ、工房からの帰り道に襲撃され危うくものづくり生命を絶たれるところだったという記憶だろうか。
 ――逃げ道はない。
 前からも後ろからも足音は響いている。
 まだ年若いと判る男、少年たちの、残酷な喜悦に満ちた笑い声までが聞こえてくるようになり、圓東は絶望めいた色彩をその童顔に貼り付けて周囲を見遣ったが、無論、彼を救ってくれそうな人物や、身を隠せそうな場所も見当たらなかった。
 ここから少し行けば、塀の切れ目から住宅街に逃げ込むことは出来るが、それまでに捕まらない保証はなく、また、運よく王都を守護する騎士の誰かと行き逢うか、区画ごとに設けられている警備隊の詰め所に駆け込むかしなければ、恐らく、一般の人々は係わり合いを恐れて手を差し伸べてはくれまい。
「ど、どうしよう……!」
 泣きそうな顔で圓東が呻くものの、どうすることも出来ない。
 前にも後ろにも進めなくなった圓東が、どうにかして隠れられないかと白壁に背を押し付け、身体を縮こまらせる中、複数の足音は無慈悲に近づく。
 すぐに、十代後半から二十代前半と思しき少年や青年が、ざっと数えただけで二十人、下卑た笑みを浮かべながら圓東を取り囲み、そして、
「……よう、兄ちゃん。また会ったな」
 赤茶色の目と青みがかった灰色の髪の、顔立ちならばどこにでもいる青年だが、目つきを見れば『ホンモノ』の気配を滲ませた、圓東よりふたつ三つ年上と思しき男が、圓東に歩み寄りながら、彼に向かってニヤニヤと笑った。
 名前は確か、シュメルツ。
 痛み、という意味を持つ名だ。
 彼の姿を見て、圓東の顔色が紙のようになる。
「う、ぅあ、あ……!」
 以前の記憶が蘇ったのか、奥歯がかちかちと鳴り、脚が震える。
 青年はにやにやといういやらしい笑みを浮かべたまま、わざとらしく指を鳴らしてみせた。ぱきぱき、という音がするたび、圓東はびくりと震えて、小柄な身体をますます縮こまらせた。
「別に俺は、兄ちゃんに恨みがあるってわけじゃないんだぜ?」
 青年――シュメルツは猫撫で声で言い、それから、ネズミを飲み込む直前の蛇のような目で、萎縮する圓東を見下ろした。
「ただ……まぁ、たっぷり礼金もらっちまったしな、やることはやらねぇと」
 シュメルツの言葉に、仲間たちが楽しそうに――人を傷つけることをゲームのひとつとしか思っていない様子で――口々に身勝手なことを言い立てる。
「今回はどうなんだっけ? 殺していいのか?」
「殺さなきゃまた金がもらえるんなら、半殺しくらいでいいんじゃねぇの?」
「あ、オレ、指とかいっぺん切り落としてみてーな。どのくらい血が出んのかなぁ」
「じゃあオレ耳ー。鼻とか目は不味いよな、さすがに」
「どうせだからどっかの木にでも吊るさねぇ? 殴りやすくていいじゃん」
「勝手なことすんなよ、痛めつけんのは間違いねぇけど、身体のどっかを壊すのは禁止だぞ。こいつは五体満足で連れて来いって言われてんだ」
「連れてく? どこに? ――ああ、あそこか」
「そういうこった。こいつはすげー金になるものを創る細工師なんだとさ。お坊ちゃんは、こいつを盾にして、金と、ご自分に有利な立場ってもんをこしらえるつもりなんだそーだ」
「へえ。そのときはおれらもおこぼれに預かれるかな?」
「はっ、向こうが嫌だっつっても、毟り取ってやるさ。甘ったれのお坊ちゃんに、俺たちと関わるってのはそういうことだってことを教えてやる、いわば教育料ってやつだな」
「なるほど、さすがはシュメルツ」
 言って、若者たちがゲラゲラと笑う。
 圓東はもう身動きも出来ない。凍りついたような目で、何か別の生き物を見るような目で、呆然と、自分を痛めつけ拉致しようというシュメルツやその仲間たちを見ているだけだ。
「な、なんで……」
 ただ、それでも、口を開くだけの根性はあったらしく、歯の根も合わないほど震えながら、シュメルツに向かって問いを発する。
「ん、どした? 命乞いはしなくてもいいぜ、殺しはしねぇから」
「違う、なんでそんなひどいこと、簡単に出来るんだよ……」
 呆然と、しかし不思議で仕方ないといった風情で圓東が言うと、シュメルツたちは仲間同士で顔を見合わせ、それから吹き出した。暗い道路に若者たちの爆笑が響き、中には腹を抱え、または涙を流して笑っているものまでいる。
「兄ちゃんみてぇに弱っちい腰抜けには判んねぇかもな」
 笑いながら、妙にやさしい声音で――しかし目には獲物を甚振(いたぶ)る肉食獣の無邪気な残酷さを宿して――シュメルツが言う。
「な、なに、が……」
「弱い奴らを甚振って遊ぶのは、強ぇもんの特権だ。つまり、俺たちが兄ちゃんみてぇのを痛めつけんのは、当然の権利なんだよ」
「そ、そん、」
「――……なるほど」
 シュメルツの身勝手な持論に圓東が顔色をなくし、その絶望の表情にシュメルツが楽しくてたまらないといった風情の歪んだ笑みを浮かべた時、声は響いた。
 声の主は、無論、飛鳥だ。
「お前たちがその論理で行くのなら、俺もやりやすい」
 同時に、白い塀の上部、地上四メートル辺りのそこに松明が三つばかりともり、辺りをあかあかと照らし出す。松明は若者たちと圓東の姿を浮かび上がらせつつ、わずかな風によって揺らいでは、奇妙に幻想的な風景を創り上げていた。
「あっ、アニキ、それにノーヴァも……!?」
 塀の上に腰掛け、脚をぶらぶらと投げ出した飛鳥と、同じく白壁の上に設置された大きな松明の傍らに立つノーヴァを認め、圓東が驚愕に目を剥く。彼は今回の『計画』について何も知らされてなかったのだから当然だが。
「てめぇら……加護持ちと、守護騎士か……?」
 毒々しい不審を滲ませてシュメルツが問い、飛鳥は軽く肩を竦めて壁から飛び降りた。
「それと、あんたたちが痛めつけようとしたそいつのご主人様、というやつらしいな。工房の周辺をうろうろしていたようだから、そのくらいは知っているだろうが」
「……俺たちをつけてきたのか」
「まさか。誰がそんな面倒臭いことをするか。というか、この松明を抱えてそんなことしてたらアホだろ」
「だったら、」
「圓東にはこの道を通って帰れと指示をしてあったんだよ。人通りが少なくて、どこへも逃げ込めなくて、証拠を残しにくい場所としちゃ、この辺りは一番適してるからな。――まぁ、指示をしただけで事情は何も説明してなかったお陰でそいつはそれだけびくびくしていたわけだが」
「えっアニキ、それってもしかしなくてもおれ囮……!?」
「囮というか、餌だ」
「あっなんか更にランク下がった……!」
 驚愕の表情をしつつ、飛鳥が現れたことで元気を取り戻したらしい圓東が、男たちの一瞬の隙をついて包囲網を潜り抜け、飛鳥の背後に小動物さながらの動きで隠れる。
 そこへ、どす黒い怒りを押し殺したようなシュメルツの声が重なる。
「俺たちをはめたのか……?」
 飛鳥は肩を竦めた。
 背後から、いつの間に、と思うような気配の希薄さで現れた金村が、無言のままこちらを見遣るのへ小さく頷いてから、
「正確に言えば、はめられたのはあんたたちのご主人様だな」
 あっさりと言ってのけると、飛鳥は毒々しい笑みを浮かべた。
「俺は俺の身内に危害を加える連中を許さない。何故なら、それをしてもいいのは俺だけだからだ」
 圓東の、いや出来ればアニキにも危害なんて加えられたくないんですけど、という弱々しいツッコミを黙殺し――そして、俺はアスカになら危害を加えられるのも嬉しいけどなぁあっやばい想像しただけでちょっと興奮してきた、というノーヴァの声を聞かなかったことにして――、飛鳥は一歩踏み出した。
「……やるのか、てめぇ。二十三対三とか、勝てると思ってんのかよ?」
 じわりとした戦意を感じ取ってか、若者たちが色めき立つ。
 蛇のように目を細めたシュメルツの言葉に、飛鳥は薄く笑った。
「実際この場にいる人数で言えば二十三対四になるんだが、まぁ、そこはいい。二十三対一だ、あんたらを真っ平に伸ばすのは俺の仕事だからな」
 飛鳥が言うと、気配が希薄すぎて気づかれていなかった金村が動き、圓東を背後に護るようにして集団から少し離れる。
「――……若」
「ひとまずそのへなちょこを護れ。俺は俺のやるべきことをやる、あんたはあんたの仕事をしろ。ノーヴァもだ、いいな?」
「承知した」
「了解です!」
「――……馬鹿が。せめて全員でくりゃァ、逃げるくらいは出来ただろうによ!」
 シュメルツが嘲り、暴力的な発散の悦びに逸る若者たちに目配せをする。
 それが始まりの合図だった。
「ハッハァ!」
「みっともなく泣き喚けよな!」
 奇声と哄笑を響かせた少年たちが、何の考えもなく突っ込んで来る、ある意味屈託のない様子に笑い、飛鳥は地面を蹴る。
 飛鳥の百メートル走における記録は十歳の段階で10.06秒。
 今なら恐らく世界記録を軽々と超える。
 ――要するに、飛鳥は、見かけに関わらず、異様なまでに素早い。
「泣き喚くのは、お前らだ」
 あっという間に、少年たちがあまりの速さに面食らうほどの速度で彼らの懐に飛び込むと、飛鳥は、固めた拳で無造作にふたりを殴り倒した。ぎゃっ、という悲鳴が上がり、飛鳥の拳に横っ面を一撃されたふたりが引っ繰り返る。
「とりあえず」
 自分がどこをどのくらい力をこめてどう殴るとどれだけのダメージを与えられるかを熟知している飛鳥には、倒れたふたりが起き上がれないことなど見るまでもなく当然のことで、彼は、そちらには注意を払うこともなく次の標的に向かう。
 少年たちは、最初のふたりがあまりにも呆気なく倒されてぎょっとしたようだったが、すぐにそれもまぐれだと自己完結したらしく、口々に罵り嘲りながら飛鳥へと殺到する。
 中には、太い木の棒やナイフを手にしているものもあったが、
「……まずは、雑魚の掃除だな。いや、正直全部雑魚だが」
 飛鳥には、多少場慣れしているだけでそれ以上でもそれ以下でもない。
 少年の振り下ろす棍棒を無造作極まりない動きでひょいと掴み、それを奪い取ると同時に、驚愕する少年の顔面に拳を叩き込む。
 めきょっ、という嫌な音がして、少年は歯を何本か撒き散らしながら地面に引っ繰り返り、ごろごろ転がって泣き喚いた。
「精々、痛がれ。痛みを知るのはいいことだ」
 嘯くと、棍棒を投擲して、ナイフを振りかざした少年の手首を砕く。
 三人の青年が背後から同時に飛びかかろうとしていたのを軽く横に跳んで避け、着地と同時に別の方向へ踏み込んで跳ぶと、驚異の速さで少年の懐へ入り込み、素早く脚を払って相手を転倒させた。
「!?」
 何が起きたのか判らない、という表情の彼の、無防備に晒された鳩尾に踵を落とし、あっという間に無力化する。
 多勢に無勢という状況下に置いて、戦局は一瞬にして飛鳥に掌握された。
「な、なんだ、てめぇっ!?」
「この……クソッ、動き回るんじゃねぇ……!」
 ヒットアンドアウェーというにはあまりにも前進あるのみの、踏み込んでは脱落者を作っていくという戦い方で、飛鳥が大勢を相手取ることが出来る理由は、彼が界神晶の持ち主だからとか、黒という色を負っているからなどでは断じてない。
 これは飛鳥の鍛錬の結果であって、それ以外のものではありえない。
 飛鳥はただ、彼らより一秒早く動くことが出来るだけだ。
 彼は、少年たちの視線、身体の向き、服地の上からでも判る筋肉の動き、そんなものから彼らの次の動作を察知して、それを上回る一秒を使うことが出来る。そして飛鳥は、気配というもの、殺意の方向性を敏感に感じ取ることが出来ると言うだけなのだ。
 同じ理由で、飛鳥は、刃物を持った大勢に囲まれても、特に動じることなくその場面を切り抜けることが出来る。――もちろん、その『大勢』がレーヴェリヒト級の達人ばかりだったらちょっと難しいが。
「自分よりも強い人間と戦ったこともない腰抜けが、俺に勝てるとは思わないことだ」
 滑らかな回し蹴りでひとりを沈没させ、咄嗟に逃げようとした別のひとりの首筋を鷲掴みにして地面に引き摺り倒し、鳩尾を踏みつけて昏倒させる。
 無造作極まりない飛鳥の一挙手一投足で、二十三人からいたごろつきたちはあっという間に数を減らしていく。
 何人かは逃げ出そうとしたようだったが、運悪く金村が陣取る方向へ駆け出してしまい、その場で殴り倒されていた。多少のやんちゃは多目に見る傾向のある金村にしても、おいたが過ぎる、ということらしい。
「……ふむ」
 戦いというより一方的な暴力が始まって十分、すぐに、辺りは静けさを取り戻した。地面には二十二人の若者たちが折り重なるように倒れ、呻いている。
 後始末をするのが面倒臭かったのであまり痛めつけてはいないが、飛鳥の怪力で殴られたり蹴られたり踏ん付けられたりしたのだ、恐らくしばらくは日常的な動作にも苦労するだろう。
「てめぇ……」
 ひとりだけ残され、ぎりぎりと奥歯を噛み締めるのはシュメルツだ。
 火を噴きそうな彼の視線に堪えた様子もなく、飛鳥はにやりと嗤った。
「あんたには少しばかり余分に痛い目を見てもらわないとな。圓東のこともあるし、お坊ちゃんへの警告もある。――二度はないという意味をこめて、な」
「ふざけんな、誰がてめぇなんかに、」
「そういう台詞は、俺に一撃でも入れてから言え」
 言うと同時に、飛鳥はシュメルツの横っ面を殴り飛ばしていた。
 ガツン、という鈍い音がして、圓東が首をすくめるのが見えた。一瞬のことで、きっとシュメルツ自身、いつの間に飛鳥が間合いに入り込んでいたのか、いったいいつ殴られたのかも判らなかっただろう。
「ぐ……!?」
 ぐらりとよろめいたシュメルツの脚を払い、転倒させると、
「がっ」
 背中を強かに打った彼が呻くのもお構いなしに、飛鳥はその腹を思い切り踏ん付けた。がぼっ、という、空気が漏れる音とともに、シュメルツの目が大きく見開かれ、開かれた口から舌が零れ落ちそうなくらいはみ出る。
「まぁ、折ったり切り落としたり引き千切ったり潰したりはしないから、心配するな」
 シュメルツ的にはまったく安心できない台詞を吐きながら、飛鳥は、彼の腕に手をかける。
「クソ、てめぇは殺……ぎゃっ!?」
「骨と言うのは案外丈夫でな、わざわざ折るのは面倒臭い」
「だから、なんの……ッ!? や、やめろ、」
「その分、関節と言うのは便利だぞ、わりと簡単に外れるしな。血も出ないし、掃除の心配が要らなくていい」
「やめろ、やめ……――――ッ!!」
 ごきん、ぱきん、ぼりん。
 音にして表現すれば、そんなものだろうか。
 飛鳥の怪力で無造作かつ無慈悲に全身の関節を外されたシュメルツの絶叫の方が、音を文字にして表現するのは難しかっただろう。
「あっ……あ、が……ぐ……」
 手足を奇妙なほどだらりと投げ出して、白目を剥いて泡を吹くシュメルツ、その傍らでいっそ厳かなまでに佇む飛鳥。
 異様な光景に、飛鳥に打ち倒された少年青年たちは、痛みではない恐怖に息を飲み、声もない。
「……さて」
 飛鳥が、包帯を外した右手を空に掲げると、道路を照らし出す松明のあかりが揺れ、影がぐにゃり、とゆがんだ。
 飛鳥の指先に界神晶を認めて――どうやらこれに対する意識は、ソル=ダート人の遺伝子辺りに組み込まれているものらしく、初めて目にするものであるはずなのに、誰もがそれを界神晶として認識することが出来るようだ――、少年たちが目を見開くと同時に、大きな、黒々とした影が少年たちに覆いかぶさる。
「!?」
 誰かが息を飲んだ。
 白い塀に映し出されたそれは、
「り、竜……!?」
 漆黒の、凶悪な角と牙のある、巨大な竜の頭部のかたちをしていた。
 松明のひかりでゆらゆらと蠢く竜の影は、今にも襲い掛かってきそうな獰猛さをたたえて少年たちを睥睨している。
「――……次はない」
 天から降ってくるかのような、飛鳥の、外見を裏切る低さの声。
 竜の影が蠢き、若者たちが悲鳴を上げて頭を抱えた。
「俺は敵対者を決して許さないし、逃がさない。お前たちがこれからも馬鹿げた行為を続けて、街の人たちに迷惑をかけるようなら、その時は容赦なく細切れにして竜の餌にしてやる。――心しろ」
 飛鳥が言うと、這いつくばったままの若者たちがぐびりと咽喉を鳴らした。
 飛鳥は虫を見る目で彼らを見下ろし、蝿でも払うかのように手を振る。
「判ったら、消えろ。目障りだ」
 それは静かな物言いだったが、しかし言われた方はびくりと身体を震わせ、
「……それと、仲間は全部連れて帰れよ。見捨てて逃げるような奴はこの世の果てまで追い詰めて同じ目に遭わせるぞ?」
 薄く嗤った飛鳥の、漆黒の視線に見据えられると顔面を蒼白にした。
「早くしろ、鬱陶しい!」
 とどめとばかりに飛鳥が一括すると、少年たちは鞭で打たれたかのような勢いで飛び起き、意識を失っているものを何とか手分けして担ぎ上げて――もちろんその中にはシュメルツの姿もあった――、必死の形相で振り返りもせずに逃げて行った。
 後には、呆気に取られる圓東と、彼を護って立つ金村、塀の上のノーヴァ、そして肩を竦める飛鳥だけが残された。
「薬としてはまぁ、ひとまずこんなものか」
 連中の気配が遠ざかってゆくのを感じ取りながら飛鳥が言うと、竜の影が消え、塀の上から松明を消したノーヴァが降りてくる。彼の手には、飛鳥がバドに頼んでコッソリ創ってもらった幻和灯モドキがあった。
 竹を竜の頭部のかたちに透かし彫りした勇壮なもので、それを見た圓東が声を上げる。
「あっ、もしかしてさっきの竜って……」
「そうとも。まぁ、影絵の延長線だな。俺は界神晶を出して見せただけで、あとの演出は全部この影絵と松明がやってくれた」
「びっくりしたー、おれ、アニキってばいつの間に竜なんか操れるようになったんだろーって思ってたんだ」
「若ならいずれできるようになるんじゃねぇか、圓東」
「ああ、うん、それは何となく思う」
「竜を操るアスカか……想像するだけで心拍数が上がるなぁ」
「ノーヴァのアニキ大好きっぷりも正直すごいよな」
「そうかな? ツァールトハイト様には調教の成果だと言われたけど」
「あー、なんか心底納得」
「いいじゃねぇか、若が大好きだなんてのぁ、下僕としちゃ当然のことだろ」
「うん、そういう意味では金村のアニキも大概調教済みだよね……」
 緊迫感のない、しかも若干胡乱な内容の会話を黙殺しつつ、飛鳥はごろつきたちが消えて行った道路の向こう側を見遣り、目を細めた。
「若、次の手はどうする」
「護衛はしばらく続けるつもりだが、まぁ、明日のお坊ちゃんの様子を見てからでもいい。シュメルツたちが戻って来ず、明日圓東が何の変化もなく姿を現せば大抵は察するだろう。そこで諦めて真面目に働こうと思ってくれるような相手なら苦労はしないが、あいつも多少妥協はするんじゃないかと思ってる。他に手はないんだからな」
「なるほど」
「シュメルツの方も警戒はしておくが、あれだけ大人数で来ておきながら完璧に伸されてもまだ挑んでくるだけの根性があるかどうか、だろうな。無論、また来た時は更に平たく伸ばしてやる」
 飛鳥は淡々と言い、眷族と下僕騎士の顔を順に見遣った。
 それから、肩を竦めて告げる。
「まぁ、ひとまず、腹も減ったし帰るか」
 もちろん、それに反対の声など上がりはしなかった。