熱気と喧騒と血臭が周囲を満たしている。
「しかしまぁ……急だったな」
 剣から血を払い、レーヴェリヒトは小さくつぶやいた。
 そして、紫貴水晶の双眸を細め、平原の向こう側を見遣る。
 そこでは――平原中では、甲冑の肩当ての部分に黒で意匠化された鈴蘭の描かれた兵士たちと、革鎧の胸当ての部分に翼を広げた岩隼の描かれた兵士たちとが、剣や槍や斧を揮って殺し合いを繰り広げている。
 翼を広げた岩隼は、リィンクローヴァの東に位置する隣国、クエズの国章だ。
 リィンクローヴァとクエズは、数十年に渡って敵対関係にあり、これまでにも小競り合いを繰り返してきたし、昨年の冬には、双方に大きな被害の出る大規模な戦争があったので、これもまたその一環なのだ、今は乱世なのだから、と言えばそれまでだ。
「……妙だと思わねぇか、ヴィル」
 しかしレーヴェリヒトは、今回の、クエズの急な出兵に不審を覚えていた。
 その疑念を口にすると、
「妙、とは」
 黒に銀で繊細な紋様の入れられた、勇壮でありながら優美な甲冑を身にまとい、バーディア・クロムの手になる星鋼の剣を提げた青年の、白銀の、静かで理知的だが鋭い双眸がレーヴェリヒトを見遣る。
 レーヴェリヒトは自国の兵士たちの働きを目で追いつつ、敵陣の奥で指示を飛ばす将の姿を捉え、また目を細めた。
「連中、何を焦ってやがるんだ? 確かに、うちとクエズは長年敵対してきたが……こんなに性急に攻めてくることは未だかつてなかった」
「確かに。無論、本腰を入れてこの国を攻略にかかっているだけかもしれないが……今までにない猛攻振りではあるな」
「本腰ってのは、ありがたくはねぇがまぁ、おかしかねぇんだろうけどな。ただ……時期が時期だろ。アスカ……っつか黒の御使いの噂がものすげぇ尾鰭つきで広まってる今の状況で、いきなり本腰入れて侵攻しようと思い立つってのがちょっと納得いかねぇんだよな」
「ふむ……それも、理解は出来る。私がクエズ国王なら、もう少しはっきりした情報を掴んでから動くだろうな。御使いとはそのくらいの椿事だ。……そういえば、アスカの調子はどうなんだ、レヴィ陛下。最近、王都にも戻っていないから、向こうの様子も今ひとつ判らない」
「あー、元気にやってるぜ。勉強も鍛錬も順調みてぇだ。手合わせしたら十本のうち二本は取られるようになってきたしな。なんか、部下が一気に十人以上増えて、忙しそうにもしてた」
「……嬉しそうだな、陛下」
「そうかな。まぁ……うん、確かに嬉しいかな」
「なるほど。そうやって活き活きした、楽しそうな陛下を見ると、彼がリィンクローヴァに来てくれてよかったと思う。国を護る第一天軍将軍としてではなく、レヴィ、あなたの幼馴染として」
「……うん」
 母を亡くし、異端の王子としてリィンクローヴァ王城へ上がった八歳の頃、純血ではない自分を侮ることも嘲ることもなく、初めからやさしかった幼馴染の言葉にレーヴェリヒトははにかみ、小さく頷く。
 ヴァールハイト・クロウ・ロベルタ。
 赤茶色の髪と、加護色である白銀の目を有した、背の高い、鋭い印象を滲ませるこの青年は、リィンクローヴァの中核に座す十大公家の一員で、レーヴェリヒトの幼馴染でもあり、リィンクローヴァの正規軍、第一天軍の将軍たる人物だ。
 アスカが黒の御使いと判ってなお、彼を口さがなく言うものは多いが、アスカが周囲の嘴など欠片ほども気にはしないとしても、ヴァールハイトのような理解者がいてくれるのは心強い。
「さておき……いちどきに一万五千の兵士など、今の時勢で言えばずいぶん張り込んだと言うしかない。特にクエズはダルフェとも仲が悪い、あまりこちらにばかり戦力を割いていては、ダルフェにその隙を突かれかねない、か」
「ああ。一気に攻め込むにしちゃ、うちに不利だって情報があるわけでもねぇ。つぅか今攻め込まれても負ける気はしねぇしな」
「そうだな。第一から第五までの、五色(ごしき)の天軍も、双殿下の指揮される上下天軍も、リィンクローヴァ五百年の歴史の中で最強と言ってもいい錬度だ。今ここで攻め込む利点とはなんだ? むしろこの侵攻が、クエズにとって悪く作用する可能性の方が高いんじゃないのか?」
「だよな……そのくせ、兵士たちも後がねぇみてぇな顔してやがる。それに、ダルフェと言や、トゥーセんとこも、なんか“隙間”がきな臭ぇって言ってたよな。フェアリィアルも、どうもざわついてるみてぇだし……メイデの話じゃ、ハルノエンも妙らしい。……何か、あったのか」
「判らん。判らないなら、私は、私の全力でロベルタを、引いてはリィンクローヴァを護るだけだ」
「……そうだな」
 レーヴェリヒトが頷くと、ヴァールハイトは戦況を報告しに来た兵士に二言三言指示を出し、それからレーヴェリヒトの甲冑を見遣って唇の端にわずかな笑みを浮かべた。
「陛下こそ、忙しかったんじゃないのか。兵を寄越してくれるだけでも充分助かったが」
「あー、うん、帰ったらたぶん書類がエラいことになってると思う。俺、正直、戦場で死ぬ確率より書類に埋もれて死ぬ確率の方が高いんじゃねぇかって思うもんな……」
「それは、ご愁傷様……と言うしかないな」
「まぁ、それが俺の仕事だしな。ヴィルたちだって身体を張ってここを護ってくれてるわけだし、っつぅか皆そうやって自分の仕事をしてるんだ、俺だけ文句言うわけにゃいかねぇだろ。まぁ……もちろん、書類にサインするペンより、甲冑の方が軽く感じることも多いけどな」
 竜の鱗を鋳込んで造った甲冑、黒銀に青で意匠化された鈴蘭と狼の描かれたそれを見下ろし、軽く肩を竦める。
 レーヴェリヒトの言うように、ロベルタ市はクエズと隣接しているため、必然的に、ここの護りはヴァールハイトが跡を継ぐべきロベルタ家の、引いてはロベルタ市民の責務となる。
 リィンクローヴァは四方を海と丈高い山脈に囲まれている天然の要塞のごとき国だが、ハルノエンとゲミュートリヒ市、フェアリィアルとメスサ市、ダルフェの一角とリィンクローヴァを守護する四大山脈のひとつエーアスト山脈の中央の切れ目“隙間”に位置するシシン市、そしてクエズとロベルタ市は一部が各国の集落とも近く、特にこの乱世においては警戒が必要となっている。
 今回のこのクエズ戦も、クエズ側がエーアスト山脈の一角でも特に守りの薄い森林を秘密裏に通って侵攻して来たため、一時は非常に危険な状況に陥ったようだが、賢者ハイリヒトゥームが各市の国境中に張り巡らせておいた警戒魔法のお陰で早期に王城へ報告が来たため、レーヴェリヒトも王領サーナーン市の兵を率いて駆けつけることが出来た。
 そのため、現在の戦況は、九割方リィンクローヴァ側の勝利へと傾いている。
 ハイリヒトゥームがいなかったら敗北したとは言わないが、少なくとも、犠牲は今の比ではなかっただろう。
「ハイルには感謝しねぇとな。いつもいつも、面倒ばっかりかけてる」
「そうだな、あの方の稀有な力には助けられてばかりだ。――それもきっと、あなたの人徳というものなのだろう」
「はは、そうだといいな。まぁ、少なくとも、俺はすげぇ周囲に恵まれてる、ってのだけは確かだ。そういう巡り合せの中にある自分は、本当に幸運なんだろうと思う」
「……ああ、そうだな」
 頷き合い、それからふたりはまた、剣を手に戦場へ戻っていく。
 要である王や将が最前線に出てどうする、と、他国の――特に大国の連中は言うかもしれないが、この小国においては、王も貴族も平民も奴隷も、誰もが出来ることをやるしかないのだ。
 ロベルタ市民で現在この戦場に投入されている兵は五千。
 レーヴェリヒトがサーナーン市から率いてきた兵は三千。
 ひとりひとりの錬度が非常に高いリィンクローヴァの軍において、一万五千の兵を相手取るに不足とは言わないが、犠牲は少ないに越したことはない。戦えるもの、強いものが剣を揮い、犠牲を減らせるのなら、そうするに越したことはないのだ。
 同時に、王や将が剣を揮って戦うことで士気は上がる。
 ともに戦うのだという絆が、彼らを更に強くする。
 そして、レーヴェリヒトもヴァールハイトも、兵を率いる将であるのと同じく、手練れの武人だ。
 己が強いことを知りながら、自分の剣が同胞を救えることを知りながら、戦場の片隅でただ戦いの様子を見ているだけなどということは、例えそれが大国の論理からは外れるのだとしても、彼らには出来ない。
「ひとまず、将は生け捕りにしてぇとこだな。どこまで口を割るかはさておき、情報はほしい」
「……では、そのように」
 レーヴェリヒトの物言いに、ヴァールハイトが何でもないことのように頷く。 ヴァールハイトは、こういう時、難しいとも出来ないとも言わない。
 彼は、肉体機能や剣の腕ではグローエンデに一歩劣るが、その分、様々な特殊技能を持っている。ヴァールハイトが『そうする』と言えば、それは本当にそうなるのだ。
 レーヴェリヒトが、優秀極まりない幼馴染がいる幸運を天と地におわす黒双神に感謝していると、不意に、クエズ軍を指揮する将軍が何ごとかを叫び、それと同時にクエズ軍にぴりりとした緊張が走った。
 クエズ軍の兵士たちの表情が、更に切羽詰ったのが判る。
「やっぱり……妙だ。連中、何かに怯えてやがる……?」
 一体、クエズに……リィンクローヴァを取り巻く国々に何があったのか。
 無論神ならぬレーヴェリヒトにそれが判るはずもなく、彼は、ひとまずこの戦いを収束させるべく――リィンクローヴァを護るべく、愛剣ヴァイスゲベートを握り直し、戦いのただ中へと斬り込んで行った。
 帰る場所があり、護るべきものがあり、会いたい人がいる。
 だから、レーヴェリヒトに、負けるつもりはない。