仕掛け用の資材置き場で鏡介とともに作業をしていた勇仁は、気配もなく現れた飛鳥に気づいて手を止めた。
「……若」
「アニキ、大丈夫? 何か、すっごい怪我したって聴いたけど」
 作業を中断させて歩み寄るふたりに肩を竦める仕草で応え、飛鳥もまた準備に加わる。
 勇仁は、飛鳥が、シュメルツたちがせっせと木材や水桶を運び込んでいるのを横目に見つつナイフで木材を削り出してゆく手つきを無言で見つめ、しばらく経ってから作業を再開した。
 量こそ多いが、ナイフを手に木材を人間のシルエットに削るだけのことで、別にそれほど精巧である必要はない。ジンジャーマンクッキーの頭身を少し間延びさせた程度だ。
 ――サイズは成人男性くらいあるが。
「えーと、この分だとそれほどかからず五十体準備出来そうだね。これをどうするんだっけ?」
「森の中の適当な場所に配置する。偵察部隊の報告だと、ハルノエン軍が移動を始めるまであと五時間ってところらしいから、今のうちにやってしまうぞ」
「あ、うん。でもこれどうやって使うの? ただ置いとくだけじゃすぐバレるよな?」
「そのためのあの水だ。まあ、心配するな、巧くやる」
 言ってかすかに笑う飛鳥はいつも通りだ。
 勇仁たちがいない間に――その場にいられなかったことを思うだけで何とも表現出来ない感情が去来する――受けたという傷も毒も、いたみも、その淡々とした面からは何も伺うことが出来ない。
 伺うことが出来ないからこそ、勇仁は穏やかではいられない。
 何ごとにも淡々とした自分にこんな感情が残っていたのかと驚くくらい、もやもやとした気分だ。
 しかし、そのもやもやが何なのかよく判らず、自分でもきちんと表現できないまま、黙って作業に精を出した勇仁は、
「若」
 完成した特大ジンジャーマン人形を、鏡介がシュメルツたちに手伝ってもらって運び出し始めた頃、それを見守る飛鳥の背に小さく声をかけた。
「なんだ」
 振り向く飛鳥に、昨夜の名残は何も感じられない。
 この激烈な少年が、だからといって領主夫妻の死に苦しんでいないとは思えないのに、巧く隠しているとか、表面に表れないだけだとか、そういうものではなく、今の飛鳥は透徹して見えた。
「……いや」
 首を横に振り、何でもないと首を横に振る。
「何だ、それは。気になるじゃないか」
 小首を傾げる様などは、ただの線の細い少年にしか見えないのだが。
 勇仁はかぶりを振ってすまんと謝った。
「昨夜のことを聴きてぇとか、若は大丈夫なのかとか、色々思ったんだが……どうも、何て言やいいのか判らねぇ」
「は、なるほど。詳しいことはこの戦いが終わったら話してやる。俺は……まあ、大丈夫だ。概ね問題ない」
「だが」
「何せ、レイがいるからな」
「……」
「あのヘタレを何とか出来るのは俺だけだとふたりに頼まれた。なら……まっとうするしかないだろう」
「……そうか」
 どこか楽しげに目を細める飛鳥は、確かに何かを吹っ切っていた。
 それを吹っ切らせたのが、領主夫妻でありレーヴェリヒトでもあるのだと察したところで、勇仁は、
(ああ、なるほど)
 自分が彼らに嫉妬めいた感情を抱いているのだと気づき、苦笑した。
(なんて、てめぇ勝手な――……)
 要するに、自分は、『その時』に、飛鳥の深くに関われなかったことに対して残念だと感じているのだ。飛鳥の慕う領主夫妻が喪われ、そのことで彼が苦しんだだろうことを理解しながら、そう感じているのだ。
 それは飛鳥への裏切りにも均しいのではないかと生真面目に思い、いったい自分はどうすべきなのかと勇仁が自問自答していると、
「おい、金村」
 飛鳥が勇仁を呼んだ。
「どうした、ぼうっとしてるぞ」
「ん、ああ……すまねぇ、ちょっと考え事をしていた。それで、何だって?」
「今後のことだ」
「今後? ああ、この準備が終わった後、か? 若はどうするんだ」
「俺は霍乱作業だな」
「そうか、なら俺も、」
 自分も当然のように飛鳥に同行するものと思っていた勇仁は、
「金村、あんたは居残りだ。都市の防衛を手伝え」
 飛鳥のその言葉に思わず固まった。
「……若は」
「俺はひとりでいい。森の中を行き来するから、慣れていない人間を連れて行っても意味がないし、何よりあんたにはこっちの方が合ってるだろ。俺も一定の成果を上げたらこっちに戻ってきて戦いに加わる」
「だが……若の身の安全はどうなる」
「誰かを連れて行くより、俺ひとりの方が数倍安全だ。だが……そうだな、いざとなったらレイでも引っ張っていくか」
 全然真実味のない口調で言って笑う飛鳥に、勇仁は唇を引き結んだ。
 そこでレーヴェリヒトの名が出ることを苦しく思うのは、もうきっと自分は末期なんだろうと自己完結する。
「若らしくもねぇ、そんな冗談を言ってる場合じゃ、」
 場合じゃねぇ、と言いかけた瞬間、飛鳥は勇仁が目視できなかったほどの速度で彼の間合いに入り込み、勇仁の顔面の前に右手の平を突きつけた。
「何、……!?」
 勇仁の言葉が途切れ、彼が驚愕に目を見開いたのは、
「俺は強い。……いや、違うな、俺は必要な力を得た。揮うべき時に揮える力だ。だから、俺はひとりでいい」
 淡々と言う飛鳥の右腕が、輝くような漆黒の鱗に覆われ、手が猛禽の脚を思わせる鋭さを帯び、更に腕全体を覆うように、蝙蝠の羽を百倍凶悪にしたような翼が広がっていたからだ。
「若、それは……」
「おぞましいと思うか、金村」
「……何を、だ」
「人間以外のものになった俺を」
「思うわけがねぇ」
 ほぼ脊髄反射の勢いで即答した金村に、飛鳥がきょとんとした、年相応の表情をして、それからくくっと笑って腕を元のかたちに戻した。
「あんたって、馬鹿だな」
「……俺はいつでも真面目だ」
「なるほど」
 飛鳥は勇仁の言葉に肩を竦め、それから真正面から彼を見据えた。
「同じような馬鹿をやっている身としてあんたに訊くぞ」
「……? ああ」
「あんたが、俺の後ろに見ているのは誰だ」
「!」
 唐突な、己が内面に深く踏み込む問いに、勇仁は目を瞠った。

(勇仁、お前は俺を裏切らないと思っていたのに。お前だけは味方だと信じていたのに)
(違う、若。俺はいつだってあなたの)
(こんなひどいかたちで、まさか)
(話を聴いてくれ、若!)
(――……本当は、俺が憎かったのか。だから、こんな)
(そうじゃねぇ、違う、違うんだ。話をしよう、あの人とも、あなたとも。そうすれば)
(もういい。もう……いい。俺のことは放っておいてくれ、もう二度と俺をぬか喜びさせるな)
(若! 待ってくれ、若、頼む!)
(消えろ、勇仁! もうお前は要らない!)

 脳裏を、もうずいぶん昔に味わった喪失感が過ぎる。
 十年も昔のことだと思おうとしたが巧くいかず、咽喉元に鉛を詰め込まれたような気分になる。
 どこまで察しているのか、飛鳥の眼差しが鋭くなった。
「気づいていないと思っていたのか? 俺が? ――だとしたら見くびられたものだ」
「若、俺は……」
「同じ滑稽を俺も犯している。だからこそ、身代わりの忠誠なら要らない」
 斬りつけるような言葉だった。
 しかし、飛鳥は勇仁を嘲っても勇仁に憤ってもいない。
 たかだか二ヶ月の付き合いなのに、それだけは判る。
 それが間違っていないと確信出来たのは、言葉を失う勇仁に向かって、飛鳥が微苦笑したからだ。飛鳥は、自分が認めない相手にあんな表情は見せない。いつもの無表情を貫くだろう。
 ――そんなことも、たかだか二ヶ月で勇仁は覚えていた。
「あんたは馬鹿だ」
「……?」
「あんたが本当に護りたかった、忠義を尽くしたかったのは俺じゃないだろ。あんたの本当の『若』は俺じゃない」
「違う、若。俺は」
「金村、俺はレイのために死ぬんだ」
 そうきっぱりと言う飛鳥はどこか嬉しそうで、勇仁には継ぐ二の句がない。
「レイはきっと怒るだろうし、哀しむだろうな。だけど……もう決めた。約束したし、覚悟した。この命の使い道はあいつの傍にだけある。だから金村、俺はきっと、あんたにとっての十全の『若』にはなれない」
 誇らしげですらあるその言葉に、勇仁が焦燥めいた不安を覚えたのは、きっと杞憂ではないはずだ。
 この人は本当に、死を見つめている。
 そう思ったら背筋が寒くなった。
「若、頼む、そんな簡単に死ぬとか言うのはやめてくれ」
 珍しく懇願口調になった勇仁を、飛鳥は静かな漆黒で見つめ、言った。
「金村、あんたにだけ教えておく」
「何を……だ」
「……俺は多分、あと十年も生きない」
「な、」
「生まれた時からそう決まってるんだ」
 淡々としているからこそ真実と判る、飛鳥の言葉。
「別に死にたいわけじゃないし、自殺願望があるわけでもない。この世界で、この国で、寿命で死ねたら……なんて空想をすることもある。ただ、俺にはリミットを恐れる気持ちがないだけだ。単純に、自分のやるべきことを全部やってから斃れるしかないんだって知ってるだけだ」
 勇仁は今度こそ理解せざるを得なかった。
 『その時』が来れば、飛鳥は何の躊躇いもなくレーヴェリヒトのために我が身を投げ出すだろう。
 そのことがレーヴェリヒト本人を哀しませ、苦しませるのだと知っていて、それでも託すしかないのだと、疵を残してでも『そう』するしかないのだと、飛鳥自身が一番理解している。
 この人は、自分の半分以下の生の中でいったい何を見てきたのか、何を経験してきたのかと思うと、勇仁は寂しいような切ないような気持ちに囚われる。
 そして思うのだ。
 ああ、やはり俺が護りたいのはこの人なのだ、と。
 彼の背後に、もうひとりの『若』を見つつも、今の自分が働きたいのはこの人のためなのだ、と。
 今の飛鳥に言ったところで信じてはもらえないだろうが。
「若、俺は」
「あんたを責めてるわけじゃない。むしろ、あんたが俺に向けてくれる感情を嬉しく思う。それは本当だ」
 ほんの少し穏やかさを加味した声が、静かに言葉を紡ぐ。
 同じく静かに凪いだ目からは、もうあと数時間もすれば戦争が始まるのだなどという事実はとても伺えない。
「だからこそ、あんたには俺と同じでいてもらっちゃ困る」
 俺はわがままなんだ、悪いな、と悪戯っぽく笑ってみせ、飛鳥は勇仁の肩を叩いた。
「考えろよ、金村。あんたの一番深いところにある理由とか、意義ってやつを。そこにある本当を見つけたら、また俺に教えてくれ」
 言って、そのまま踵を返す飛鳥を、勇仁は黙って見送った。
 ――自分の根っこの意味、意義。
 飛鳥の部下、下僕でありたいという思いだけでは不完全だと彼は言う。
 しかし、
「確固たるそれを……見つけられたら、俺は、あなたの傍にいることも許されるのか」
 ならばそういうことなのだろう、と、勇仁は空を仰ぐ。
 無論、簡単に出る答えではないのだろうけれど。