撹乱用の木偶を緑の深い森のあちこちに設置してまわり、水の入った大きな樽を一定の間隔で配置して、それらを木の枝や草でカムフラージュしてから、渋る眷族や下僕たちを追い払い、飛鳥はひとり、森の奥へ――ハルノエン軍が息を潜める国境付近へと近づいていた。
「……いる、な」
 七千という人間がひしめき、息を殺しているのが判る。
「くそ重たい甲冑なんぞ着込んで、ご苦労なことだ」
 普通の人間がハルノエンからゲミュートリヒ市へ至るには、森の一本道を延々と下るしかなく――ハルノエン兵全員がレーヴェリヒトやグローエンデ級の手練れなら森の険しい場所を降りてゆくことも出来ただろうが――、そのため部隊は数十人から百名規模で一定の編成をなされつつも、今はまだ『人間の塊』として待機しているに過ぎない。
 ゲミュートリヒの攻めにくい立地を思えば、突っ込んでくるにしても正面から質量で押し潰しに来るか、なるべく迅速に全部隊を集結させ、まちを取り囲んで疲弊を待つかになるだろう。
 といっても、すでに近隣の都市に協力要請が行っている現在、ゲミュートリヒ市を取り囲んで攻撃を続ければ背後から急襲されかねないので、一気に勝負をかけてくる可能性の方が高い。
「俺ひとりで何とか出来ないわけじゃないみたいだが……」
 界神晶の機能を脳内でクリックしつつ思案する。
 思考の内側を、様々な『力』がくるくると明滅しては消える。
「ん、大軍に有効なのもある、な」
 飛鳥が手に入れた力、界神晶と竜化を使えば、七千の兵士を完膚なきまでに蹴散らすことは決して不可能ではないようだが、
「……でもまぁ、ここで終わり、ってことじゃないからな」
 それらはやはり、さすがに、飛鳥自身の疲弊を招くだろう。
 黄の御使い、ハルノエン本国、クエズ、そして大国アルバトロウム=シェトラン。リィンクローヴァを危険に晒す案件が幾重にも重なっている現状では、今すべての力を使って強引にことを解決するのは得策ではないと判る。
 そして、あまりにも強大な力を使って大々的に勝利することで、他の脅威を招くようでも困るのだ。
 この戦いは、あくまでも人間同士のものでなくてはならないし、撤退したハルノエン軍がこちらの『堅さ』や得体の知れなさを警戒してしばし手を引くように仕向ける必要もある。
 勿論、その間にハルノエンの心変わりを調査するためだ。
 それゆえに、今回、飛鳥は、黒の御使いの存在を盛大にアピールしつつも、攻撃という意味ではあまり派手に『力』を行使するつもりはなかった。
 竜化に関しては、最後の切り札として考えてはいるが。
「地道に削ろう。少しでもリィンクローヴァの被害が少なくて済むように」
 森の奥をじっと見つめたあと、そう呟いて飛鳥は樹から飛び降りた。
 樹齢二百年を超えそうな、全長が二十メートルばかりあるそれの、天辺から。
「……はは」
 頬を打つ風の感触に低く笑い、大した気負いもなく軽やかに着地する。
 常人ならば受身どころの話ではなく大地に叩きつけられて全身を砕かれているレベルだが、今の飛鳥にとってはちょっとした段差程度の認識でしかない。この天辺に登るのだとて、飛鳥が行ったのは地面と幹への一蹴りずつだったのだ。
「人間じゃないっていうのも、まあ、悪くはないな」
 自分は自分だという認識が常にある限り、それが飛鳥を脅かすことはない。
 使えるものは使う、それだけのことだ。
「……よし、帰るか」
 強引に帰らせたから、下僕の皆さんは大層やきもきしているだろう。
 戻ったら周囲を取り囲まれてなんやかや言われるのが目に見えるようで、正直、それはそれで鬱陶しい、とごちて踵を返そうとしたら、上空で大きなはばたきの音が聞こえた。
 それから、
「何だお前……今のは。いつの間に軽業師に転職した?」
 聞き覚えのある、しかし出来ればあまり聞きたくなかった声がして、飛鳥がうんざりした次の瞬間には、濃灰色の鱗と翼、血の色の双眸と凶悪な鉤爪を持った四トントラックサイズの竜が目の前に舞い降りていた。
 それほどの巨体であるのに、着地は軽やかでほとんど音もない。
 相変わらず美しい生き物だ、と、飛鳥は思った。
「……まあ、再会したかったわけじゃないけどな……」
 飛竜と、その背に乗った男を交互に見遣ってぼそりと呟く。
 飛竜の名はシザム。
 背に乗る男は混沌の徒なる狂信者のひとりで、通称をオージ、本名をゼルトザームロストと言う。暗殺を生業とし、レーヴェリヒト及び飛鳥の命を狙って王城に侵入しアルヴェスティオンに怪我を負わせた男だ。
 要するに一悶着あった相手だが、何故彼らがここにいるのかは判らない。
「何故この立て込んでる時に湧いて出る、この空気読み人知らずめ」
 思わずよく判らない名称で罵ると、オージことゼルトザームロストは――暗殺者のくせに今日は顔すら隠していない――快活に笑ってシザムの背から飛び降りた。
「そう嫌うな、別に戦いに来たわけではない」
「そりゃよかった。俺としてもゼルト大先生を完膚なきまでに打ち砕いてこの辺に埋めるのは手間だからな」
「ずいぶん大口を叩く――……」
 言いかけたゼルトザームロストが口を噤み、飛鳥をまじまじと見つめた。
 飛鳥はにやりと挑発的に笑って彼を真っ向から見据え、
「やりたいなら、いつでも受けて立つぞ? あんたの身の安全は、正直保障しないがな」
 そう、肩を竦める。
 ゼルトザームロストはしばらく沈黙していたが、ややあって小さく息を吐き、傍らのシザムの前脚辺りをぽんぽんと叩いた。それに応えるようにシザムが低く唸り――それは妙に楽しげだった――、ゼルトザームロストも頷く。
「なるほど、黒の加護持ちかと思っていたら、黒の御使い、しかも界神晶の持ち主とは。今にして思えば納得するしかないが、まあ、それでは俺たちに勝てる道理はないな」
 しみじみとした口調に、飛鳥はまた肩を竦め、
「迅速にご理解いただけたようで恐縮だ。まあ、そういうわけだから、早めにここを立ち去ってもらえると助かるんだが。この辺りはもうじき戦場になる、あんたにちょろちょろされるのは正直ありがたくない」
 露骨にお帰りください感を滲ませながらしっしっとばかりに手を振ってみせた。
 あまりにもあまりな反応だが、第一印象がアレで別れ際の印象がアレでは、自然、態度も乱暴になるというものだ。
 しかし、ゼルトザームロストは堪えた様子もない。
「そう言うな、俺は人探しに来ただけだ。お前の邪魔をする気はないし、お前がかの混沌の君の対なる方からそれを預かったというのならば、我々はお前にも敬意を払わざるを得まい」
「はあ? そういうもんなのか? じゃあいいからとっとと帰れ」
「端的だな、お前は……」
「相手があんただからに決まってる」
「褒め言葉と受け取っておこう」
「そこで褒め言葉って受け取れるとかどんだけ楽観主義なんだあんた。ゲマインデって確か、破壊神ルエン=サーラを主神とする終末思想の持ち主の集まりなんだろ」
「いかにもルエン=サーラは我が御祖、あの方の望む世を招くことが我が使命。……だが、それは別に俺の性格とは関係ないだろう」
「いや、関係ないことはないと思うんだが」
「さておき、心配せずとも長居する気はない。どうも、この辺りにはいないようだからな」
「流すなよ。いや、まあ、ならいいんだが……誰を探してるんだ?」
「クヴァール・ゴルトアイト。黄の御使いだ」
 さらりと。
 何気なく出されたその名前に、飛鳥の片眉が跳ね上がる。
 クヴァール・ゴルトアイト。
 今の飛鳥にとって最大の敵とでも言うべき黄金の少年は、ひどく哀しげな響きの名を持っていた。
 クヴァール。
 ドイツ語で、苦悩、だ。
 それが何を啓示しているのかはまだ判らないが。
「何故探す?」
「あれは裏切り者だ。十年前、我らの秘儀を盗んで逃げた。両親は殺したが、その時覚醒したあれに追っ手を全滅させられた」
「なるほど」
「――心当たりがあるようだな?」
「まあな。……ふむ、あんたたちと黄の御使いが勝手に潰し合ってくれるのなら助かるんだけどな。実物と会ったことはないが、その配下の女に襲われて死に掛けた。そいつらが何か仕掛けたお陰で、ハルノエンは数百年来の約定を違えてリィンクローヴァに攻め込み、クエズは僭王ののさばる国になった」
 世界を混沌に戻すために活動するゲマインデから秘儀を盗んで逃げた両親を殺された少年が、復讐のためや反対に世界を平和にするために行動するなら判るが、そこであちこちに争いをばら撒く意味や意図は図り難い。
 そのくらい世界に絶望しているということなのだろうか。
「いや……あれは、絶望とは違ったな」
 幻のクヴァールと見えた時のことを思い起こしつつ呟く。
「何か言ったか」
「なんでもない。とりあえず邪魔だ、帰れ」
「つれないやつだな……あの時の、俺の熱烈な告白は無視か?」
「耳と脳が腐るから忘れたことにする」
 にべもない飛鳥に、ゼルトザームロストがシザムと顔を見合わせ、大袈裟に溜め息をついてみせる。
「お前と似た竜気をまといながら、お前とは大違いだな、シザム」
 大違いも何もそもそも俺は竜に変化できるだけで竜じゃないっつのと飛鳥が言うよりも早く、シザムが大きく翼を広げて高い声で鳴き、その鳴き声を聞いてゼルトザームロストが驚きの表情を見せた。
「何と……このように強い男子(おのこ)ならば婿にしてもいいと言うか、シザムよ」
 主人の問いかけに、また一声。
 血の色の鮮やかな双眸が、妙な艶を含んでこちらを見たような気がするが、きっと目の錯覚だ。
「そうか……ああ、俺としても否やはない。では早急に婚姻の支度をせねばならんな」
「待て待て、何か色々おかしいぞ」
 今はそれどころじゃないはずだ、と額を押さえつつ声を上げる。
「ん、どうした、婿殿」
「ものすごい一足飛びぶりだなおい。あー、まあ、なんでもいいからとりあえず俺は忙しい、嫁とか婿とかそういうのは後にしてくれ。やるべきことが山積みなんだ」
 正直、ここでボケとツッコミ合戦を繰り広げている時間はないのだ。
 溜め息混じりに言うと――これで駄目ならどこかに強制転移でもさせてやろう、などと思っていると――、意外にもゼルトザームロストは素直に頷いた。軽やかな身のこなしでシザムの背に飛び乗り、手綱を引いて空に舞い上がる。
「判った、では、少しばかり息を潜めていよう」
「そうしてくれ、絶対に余計なことはするなよ。一緒に捻り潰すことになっても責任は取れないからな。というかこのままくにに帰ってくれると一番ありがたい」
 最後の方で本音を漏らしつつ追い払う仕草をすると、シザムが楽しげに――やはりどこか艶っぽく――鳴き、ゼルトザームロストは目を細めて飛竜の首筋を撫でた。
「そうだな、婿殿の活躍、楽しみだ」
「……全然ヒトの話聞いてないだろ、あんた……」
 戦争開始数時間前とは思えない脱力感を味わいつつこぼすものの、当のひとりと一匹はすでに風を巻き起こしながら飛び去ったあとだった。この微妙極まりない心持ちをどうしてくれる、と思いはしたが、得たものもあったので致し方ないと思い直し、飛鳥は再度踵を返した。
 ――混沌の君と呼ばれる神の元を飛び出した黄の御使いが、飛鳥やレーヴェリヒト、リィンクローヴァの敵なのだ。その彼が招いた何かによってハルノエンは動き、『今』がある。
 どうやら、戦いが終わったあとの仕事も多そうだ。
「まあ、まずはアレを何とかするしかないからな」
 森の奥に感じる仄暗い熱気は今でも感じられる。
 否、それは先刻よりいや増していると言うべきだろう。
「悪いが……」
 歩き出しながら、振り返らず、呟く。
「あんたたちの思う通りには、させてやれない。何ひとつとして」
 断固たる、依怙地なまでの決意を秘めたその言葉を聞くのは、森の木々や小動物たちばかりだったが。