少しずつ、日が西へと傾いてゆく。
もうあと二時間もすれば黄昏時となり、そこから三十分もしないうちに戦いが始まるだろう。
街の中にはぴりりとした緊張が満ちている。
だが、そこに悲壮感はない。
単純に、護るべきものを護るのだという意志ばかりがたゆたっている。
飛鳥はそれを感じ、行き交う人々の表情を目にしながら静かな足取りで街中を歩き、指揮官たちの待機用に準備された家屋に踏み込んだ。
そこにはゲミュートリヒ市私兵軍の下士官の他、本来ならばこの都市にいるはずのない上級軍族の姿が見られ、様々な意匠の甲冑を見につけた人々がたむろする部屋は、まち全体的な物々しさを助長しているようだった。
二十数名の、色とりどりの髪や眼を持つ男女が、大きな円卓に陣取って、周辺地図を前にあれやこれやと自分たちの動きについて話し合っている。
「準備は済んだのか、アスカ」
最初に飛鳥が入ってきたことに気づいたのは、さすがというか当然というかグローエンデ・バイト・シュトゥルムだった。グローエンデの声でようやく飛鳥の存在に気づいたらしい指揮官たちが、彼の姿を目にしてざわめく。
その視線のほとんどが畏怖や期待、祈りを含んだ懇願だったが、そこに激烈な嫉妬があったり困惑があったりするのは致し方ないことだろう。
「仕上げをご覧じろ、だ」
「なるほど」
肩を竦める飛鳥にグローエンデが笑う。
と、盛大な舌打ちの音がして、ちらりと見遣れば、第三天軍将軍、簡素な椅子に腰掛けたシュバルツヴィント・フーリー・アイオスフレドが、忌々しげにそっぽを向くところだった。この非常時に、自分の感情に正直な男だ、というのが飛鳥の偽りのない感想である。
「海の果てから来た蛮族が巧くレヴィ陛下に取り入った、と思ったら黒の御使いとはな。椿事ではあるが、同時に、貴様のためにもよかったと思え。役に立たぬ輩なら、陛下のためにならんと斬り捨てているところだった」
「シュバルツヴィント様、今はこのような時ですから、その」
言っていることは物騒だが裏を返せば飛鳥を認めている――認めるしかなかった、というのが本音だろうが――、『ぶすっとしている』というのが相応しいシュバルツヴィントをもごもごと宥めている、鳶色の瞳に赤茶色の少年は、シュバルツヴィントの副官と言う位置づけになる副将軍だ。その隣で、シュバルツヴィントとグローエンデと飛鳥を順番に見ながら無言でオロオロしている、茜色の目に落ち葉色の髪の青年はグローエンデの副将軍。
ふたりは十八歳と十九歳ということだから、こうして見ると、レーヴェリヒトを筆頭に頂き、リィンクローヴァの平和と安寧のために戦う国軍を率いる長たちの年若さがよく判ると言うものだ。
聴いた話によると、レーヴェリヒトが国王の座に就いた際、前国王の命で軍部の大掛かりな刷新が行われたのだというが、それは恐らく、純血ではないがゆえの敵をつくるかもしれないレーヴェリヒトを護るための、父王なりの配慮だったのだろう。
レーヴェリヒト親衛隊とかファンクラブとか飛鳥が表現する人々は、彼のためならば命すら惜しまない程度には国王陛下に親愛を捧げているのだ。父王は、それらをすべて把握した上で、レーヴェリヒトの周囲を固めたのだろう。
そのため飛鳥は、五人の将軍、レーヴェリヒトの幼馴染たちには、向こうが自分をどう思っているかはさておき全幅の信頼を置いていて、正直なところ、悪感情からはほど遠いのだった。
今の発言だとて、嫉妬から来る悔し紛れのものだと思えば、いっそ可愛らしくすらある。
「気にしなくていいぞ、カーナシエーラ副将軍閣下、フライハイト副将軍閣下。何を言われようが、そこの将軍閣下が自分の仕事をまっとうしてくださる限り別にどうということはない」
飛鳥の言葉に、シュバルツヴィントの副官、カーナシエーラ・エルダ・ザイフェと、グローエンデの副官、フライハイト・ネスカ・グレイアーが驚いたような表情になり、互いに顔を見合わせた。
「……どうした?」
飛鳥が言うと、ふたりは背筋を伸ばして居住まいをただし、
「いえ、まさか黒の御使いに名を覚えていただいているとは思いませんでしたので、少し、驚きました」
「私もカニアと同じです。アスカとお会いしたのは一度きりでしたから」
そう、はにかんだように笑った。
飛鳥は肩を竦める。
「顔だの名前くらい、一度で覚えるだろ」
「あの、ほんのわずかな時間で、ですか?」
「ああ」
何をそんなに驚くことがあるとばかりに頷いてから、飛鳥はちょっと笑って付け足した。
「まあ、俺は天才だからな、その程度のことは出来て当然だ。そう思っておけばいい」
「はあ……」
カーナシエーラがきょとんとした表情で間の抜けた呼気を漏らす。
フライハイトも同じような顔をしていた。
その傍では、シュバルツヴィントがまた盛大に舌打ちをしている。
それを、ひどく面白そうにグローエンデが見ているという、緊迫感のない一瞬の後、飛鳥は円卓へと歩み寄り、周辺地図へ目をやった。
「ひとまず、あんたたちの全体的な動きが知りたいんだが」
飛鳥のそれで場の空気が引き締まる。
ゲミュートリヒ市私兵軍の部隊長という男が頷き、地図上を指し示すための長い指揮棒を手に取った。渋々といった面持ちでシュバルツヴィントが椅子から立ち上がり、円卓の輪へと加わる。
すぐに、非常に判りやすく整理された作戦と防衛部隊の動きが提示され、飛鳥はそれを徹底的に頭の中に叩き込んだ。
要するに、ゲミュートリヒ市は決して丈高く頑丈な防壁に囲まれているわけではなく――『暢気な田舎都市』をアピールするためにつくらなかった、もしくはつくれなかったのだろう――、長時間の篭城戦には向かないので、非常事態を想定して準備されていた防御盾などを活用して弓兵などが遠方からの攻撃を行いつつ、歩兵たちのぶつかり合いで勝敗を決することになる、ということだ。
多数を相手取ることを得意とする達人たちが何人もおり、錬度の高い兵士が集うリィンクローヴァとはいえ、今回の戦争に投入できる兵士は五千弱だというから、決して油断は出来ない。
「アスカ、お前はこのあとどうするつもりなんだ」
「さっき言った通りだ。連中がここに至るまでに撹乱を行い、数を減らしてから防衛に加わる」
「と、いうことは、開戦より先にここを出るんだな」
「そういうことになるな」
「判った。しかし、どうやって戻るつもりだ? 数を減らすといっても、相当残るだろう。激流に身を投じるようなものだぞ。……無論、中に入るつもりはないんだろうが」
「……まあ、その時のお楽しみ、というやつだ。あんたのその過剰な期待に応えてやるよ」
「そうか……では、楽しみにしていよう」
くすりと笑ったグローエンデが会合の終了を告げる。
指揮官たちが三々五々退散してゆく中、黙って彼らを見送っていた飛鳥だったが、中でも一際若い……というよりも幼い少女が、固い表情でフライハイトの元へ歩み寄ったので、邪魔をしないように一歩下がった。
フライハイトが気遣いと労わりの見える眼差しで何ごとかを彼女に囁き、少女も小さく頷く。
今の飛鳥なら、意識を凝らせば軽く聞き取れるのだろうが、なにやら深刻そうな、プライヴェートに踏み込んだ事柄を盗み聞きするような趣味はないし、そもそも興味もない。
「アスカ」
と思っていたら、当のフライハイトが飛鳥を呼び、少女が憧れと畏怖を宿した目で飛鳥を見つめた。
どこか華奢な印象の――といっても、立ち居振る舞いは鍛えられた戦士のそれだったが――、淡い金色の髪にすみれ色の目をした、まだ幼さは残るものの美しい顔立ちの少女だ。
「どうした」
「いえ……こんな非常時に、私事ですみません」
「……?」
飛鳥が首をかしげるうちに、少女は優美な動作で一礼し、部屋から出て行った。
その背を、何とも言えない表情でフライハイトが見送る。
「恋人を紹介したかったのか?」
あてずっぽうで言うと、フライハイトは苦笑して首を横に振った。
「いえ、恋人ではありません。彼女は幼馴染です。エーラァノ・シュテルンといいます」
「ふむ。貴族ではないのか」
「二年前まではそうだったのですが、お父上が家督争いに敗れたらしく、今は兵民です。エーラァノ自身はアインマールで騎士を勤めています」
「それで?」
「その、彼女は十六歳なのですが」
「ふむ」
「お父上に代わり、何とかしてもとの地位を取り戻そうと、少し頑張りすぎているようで。今回のこの戦いに志願したのも、恐らくそのためだと。実力的には、同じ階級の騎士たちにも、なかなか彼女に敵うものはいないのですが……あまりにも、気持ちが急いているように思えまして」
「なるほど、あんたはそれを心配しているということか」
「はい……すみません、こんな時にこんなお話をして。エーラァノが命を落とすこともですが、もうひとつ、逸りすぎた彼女が何か失敗をしては、と」
「ああ、まあ、ありえない話じゃないな。……初陣か?」
「はい、戦争と言う意味では」
「なるほど」
詳しいことは判らないが、大まかな話はつかめる。
飛鳥は肩を竦めてフライハイトの背を叩いた。
「無責任なことは言えないが、俺がその場にいて、何か必要なようなら手助けしよう。――これでいいか?」
飛鳥の言葉に、フライハイトはぎゅっと唇を引き結び、小さく頷いた。
茜色の双眸に安堵がちらつき、同時に罪悪感めいた光が揺れる。
「ありがとうございます……すみません」
「まあ、正直口約束だからな、礼を言う必要も、申し訳なく思う必要もないぞ」
「いえ、でも、私は安心をいただきましたから」
生真面目なフライハイトの様子に飛鳥は少し笑い、
「そうか、なら……まあ、多少は気にかけるさ」
そう言ってから、フライハイトとカーナシエーラ、グローエンデに軽く手を振って――シュバルツヴィントに手を振ったところで苛立たせるだけだろうと思ってスルーした――、飛鳥は踵を返した。
「アスカ、今度はどこへ?」
「自分の準備だ。もう少し、戦争らしい格好をしてくるさ」
グローエンデの問いに、普段着そのままの黒装束を指し示して答え、そのまま家屋をあとにする。
背中に、いくつもの視線が注がれているのが判り、飛鳥は口の端だけで微苦笑した。
背負い込むものばかり増やしてどうすると思いもするが、――最終的に自分が選ぶとすればたったひとり、たったひとつだと自覚もしているが、それでも、手の届く場所に『出来ること』があるのなら、手を伸ばすことを厭いはしない。
――そういうものだろう、と、思う。