館へ戻ったら、優美だが鋭利な印象の甲冑で武装したリーノエンヴェ・カイエ・ゾイレリッタァがいた。何かを運んできていたのか、足元には籐編みの大きな行李がある。
「アスカ」
「ああ」
女性的でありながらか弱さを感じさせない、白く美しい面には哀しみがたゆたっていて、飛鳥は、ああそういえばこいつはあの人たちの息子だった、などと今更のように思い起こしていた。
「……何も出来なくてすまん」
淡々と、しかし様々な思いを込めて飛鳥が言うと、リーノエンヴェは微苦笑し、首を横に振った。
「そこであなたを責めたら、『向こう』に行った時両親に締め上げられます」
「……そういうものか」
「ええ。あの人たちは満足して逝った。あの顔を見れば判ります。それを担ってくれたのがアスカ、あなたなのだとしたら、私にあなたを責める道理などあるはずがない」
リーノエンヴェはそう言って、深々と頭を下げた。
「ありがとう、アスカ」
「何故そこで礼を言われるのかが判らん」
「言うと思いました。あなたが彼らから心残りと心配を取り除いてくれたからですよ」
「……ああ」
「口には出しませんでしたが、彼らは何かを知っていたし、何かを悩んでいた。そうですね、恐らく、レヴィに関することで。私たちにすら話さなかったのは、どうにもならない類いのことだったからでしょう」
リーノエンヴェのかたちよい唇に、寂しげな微苦笑が浮かぶ。
「ふたりが背負っていたのがなんだったのか、今となっては判りません。知ったところで私には何も出来ないでしょうし、何であれ私は私の務めを果たすだけのことです。――無論、息子として残念には思いますが」
「そうだな」
「しかしアスカ、あなたがあの時、間に合ってくれたから、彼らはその荷物をおろすことが出来た。だからこその、あの顔だったのでしょう。――その分、あなたが、それを背負わなくてはならないということなのでしょうけどね」
リーノエンヴェの、やわらかな色彩の目が、わずかな気遣いといたわりを含んで飛鳥を見る。
飛鳥は緩やかに、静かに、首を横に振った。
「全部覚悟して、約束した。荷の重さを気にするつもりはないし、苦だと思うこともないだろう。託された重大さだけを、いつも肝に銘じるだけだ」
「――……ええ、知っていますよ。だから、ありがとうと言うのです」
「そうか」
飛鳥が頷くと、リーノエンヴェは普段なら絶対見せないような――何せこの近衛騎士団長閣下にとって飛鳥は永遠のライバルであるらしいので――穏やかな顔で微笑み、足元の行李を持ち上げて、飛鳥に手渡した。
「……?」
「両親が遺していました。あなたのために、仕立てていたようです。今日のような日には相応しいだろうと」
「そうなのか」
「弔いのためである必要はないと私は思っています。私たちにとっては、この国と、このまちと、そして何よりもレヴィを護るための戦いであればいい。そう思いませんか」
悪戯っぽく、力強く微笑まれて、飛鳥は唇の端に笑みを浮かべた。
行李を受け取りながら、頷く。
「ああ、そうだな、それだけでいい。あの人たちも、そう言うだろ、きっと」
「ええ。今は戦うだけです。哀しむのも、悼むのも、憤るのも、全部、そのあとで。――終わったあとの弔いの杯は、付き合ってくださいね」
「もちろんだ」
わずかに瞑目し、界神晶のある手を握り締めてリーノエンヴェの胸元に突きつけると、飛鳥は厳かに告げた。
「黒の御使いの名にかけて、誓いは果たす。これはその魁だ」
「ええ。信じていますし、頼りにもしていますよ」
「レイのために?」
「可愛いレヴィ陛下のためにね」
以前と同じように、似たような言葉が重なって、飛鳥は肩を竦め、リーノエンヴェはくすりと笑った。
そう、悼みも哀しみも、全部あとだ。
今はただ、やるべきことをやるだけだ。
きっと、この場に集った誰もがそれを理解し、実践しようとしているのだろうが。
「……まァ、十全を尽くすさ。俺がここにいる意義も意味も、全部あいつの傍にあるんだろうから」
そう言って、踵を返すと、背中にリーノエンヴェの視線を感じつつ、私室代わりに使っている客間へと戻る。
「くそ重たい甲冑なんぞを身につけるつもりはないが……」
行李の重さからして、そういうものではなさそうだ。
思いつつ、蓋を開けると、中からは、漆黒の生地に銀糸で精緻な縫い取りのされた、どこか和を思わせるデザインの、サーコートや下穿き、手袋、鉢金が出て来た。
あまりの『らしさ』に、飛鳥は苦笑するしかない。
「……なるほど」
黒の御使いが身にまとって戦うのに、これほど相応しいものはあるまい。
ましてやそれが、夫妻の最後の贈り物であるというのなら。
「なら……まっとうするとしよう。メイデ、アルディア、あんたたちがそう望むように」
言いながら、今まで来ていた衣装を脱ぎ捨て、新たな武装に袖を通していく。
特殊な繊維を使ってあるのだろう、それらは軽く、自分の皮膚のように飛鳥の身体に馴染んだが、動きを何ひとつとして妨げないのと同時に、ちょっとやそっとの衝撃ではびくともしなさそうな丈夫さも併せ持っていた。
下穿きを身につけてから普段は仕舞ってある地球産のごついブーツに脚を通し、防刃効果のありそうなシャツに袖を通してその上から漆黒のサーコートをまとうと、腹部を保護もしてくれるベルトを締め、鉢金と呼ぶには若干洒落たデザインのそれを額に巻きつける。
「なかなかに、物々しいな」
呟きつつ剣帯を締め、夫妻から贈られた星鋼の剣を腰に佩いて、ガントレットの簡易版を思わせる丈夫で柔軟な手袋をすると、それですっかり準備は完了だった。
自分に頓着のない飛鳥には量るすべもないが、漆黒に身を包み静謐に佇む彼の姿は、鋭利で強靭でありながら神秘的で、そして滔々と深く、外見云々ではなく美しかった。
そう、まるで、飛鳥の覚悟の深さを表しているかのように。
「――……そろそろ、か」
他の誰に感じ取れずとも、何の偵察に頼らずとも、国境近くの山から、人間の塊が少しずつ移動を始めたのが判る。
こちらからの迎撃を警戒してのことだろう、移動は確実だが緩慢だ。
それゆえに、あの塊がここまで到達するにはまだ二時間近くかかるだろうが、飛鳥の仕事はもうじき始まる。
人の命を奪う仕事だ。
人の心をずたずたにする仕事だ。
だが、同時に、人の命を護り、人の心を救うための仕事でもある。
そのどちらもが真理だと思うから、罪を自覚しつつも、怯むつもりはない。
「……」
ほんのわずか、瞑目し、何とも知れぬものに祈ろうとして、飛鳥は苦笑した。
自分には神などいないのだ。
自分に力を与えてくれたソル=ダートすら、飛鳥の祈るべき『何か』ではない。
飛鳥の神は、ほとんどレーヴェリヒトだった。
我が身を、魂を律する『絶対』という意味で。
「……ふたりの顔を見てくるか」
永遠の眠りにまどろむふたりの前で、もう一度誓いを捧げよう、と、そうすることで自分を鼓舞しようと、飛鳥は彼らの遺体が安置されている礼拝用の部屋へ向かう。
心は戦いに向かいつつも、魂は凪いでいる。
その安らぎも、ふたりが、そしてレーヴェリヒトが与えてくれた。
それに報いるための戦いでもあるのだろう、と、飛鳥は思った。