館の、もっとも日当たりがよく風通しのよい、とても居心地のいい場所にその礼拝室はある。
黒き双ツなる神に祈りを捧げるための、清潔で簡素な部屋で、本来ならここには祭壇に花や菓子が捧げてあったり、たくさんの燭台が置いてあったりするのだが、今は、二台の祭壇にやわらかな布と花を敷き詰め、そこにメイデとアルディアの遺体を安置してあるのだった。
「……レイ」
部屋に踏み込んだら、武装に身を固めたレーヴェリヒトがいた。
黒銀の地に青で意匠化された鈴蘭と狼の描かれた甲冑は、戦いのために身にまとう武骨な道具でありながら優美な、この上もなくレーヴェリヒトに似合った代物で、飛鳥はまたあまりの『らしさ』に苦笑した。
「アスカ、か」
レーヴェリヒトは、色鮮やかな花々に護られるようにして眠るメイデとアルディアの額に、交互に静かな口付けを落としてから顔を上げ、飛鳥の姿を目にして小さく笑った。
「へえ、アズリシュカの……ずいぶん似合ってるじゃねぇか。なるほど、メイデとアルディアの贈り物だな、それは」
「そうだ、リーノエンヴェが届けてくれた。アズリシュカっていうのはこの衣装のことなんだろうが、いったい何なんだ?」
「千年以上生きた竜のな、髭とか鬣とか、あと腸とか筋とかを使ってつくられた、貴重で特殊な衣装だ。生半可な刃物じゃ疵ひとつつけられねぇし、火だの魔法攻撃にも強ぇ。本来はもう少しゆったり仕立てて、裾や袖を長くしてな、魔導師とか神官のための武装にするんだが……巧く考えたな、さすがあのふたりだ。要するに、お前にゃあ甲冑よりこっちの方が使いやすいだろうと思って仕立てさせたんだろうな」
「……そうか」
頷き、飛鳥はレーヴェリヒトの――ふたりのもとへ歩み寄る。
花の祭壇に横たわるふたりは、声をかければ目を開きそうな、ほんの一日前の別れなど何かの夢だったのではないかと思わず錯覚しそうになるほど穏やかな、安らかな表情で眼を閉じていた。
血まみれだった全身を丁寧に清められ、花と光に埋もれて、唇に微笑みすら浮かべたその面から、どうしてあの悲痛な別れが想像出来るだろう。
「明日の朝になったら、目を覚ますんじゃないか、と思ってしまいそうだ」
「ん」
「せめて……ふたりの道行きが、穏やかであるようにだけ、祈る。――俺には、祈る神などいないが」
「まあ……そうだな、俺だって似たようなもんだ。黒双神を主神として崇めつつ、たぶん俺は、俺たちは、結局のところ全部自分たちでやるしかねぇって判ってる。信仰と現実は違う、そういうことなんだろ」
「神は、お前たちにとっても遠いのか」
「誰にとっても近いもんじゃねぇだろうな。神様は俺たちにこの世界をくれて、ここで生きていいって許してくれてる。それ以上、それ以外のことを願ったって、神様たちを困らせるだけじゃねぇか?」
「なるほど」
レーヴェリヒトの信仰観がリィンクローヴァ及びソル=ダート人の一般的な概念であるかどうかはさておき、彼が、この戦いのみならず、日常的な物事においてさえも、神などという存在に頼ろうと思っていないことは確かだ。
以前、レーヴェリヒト自身が言っていた、神はひどく遠いという言葉を思い起こしながら、飛鳥はメイデとアルディアの傍らでこうべを垂れ、右の拳を心臓の位置に当てる。
「メイデ、アルディア」
名を呼ぶ声は、もう震えはしなかった。
重い悲嘆はまだ己が魂の奥底で弱々しい声を上げているが、飛鳥はすでに、果たすべき約束を見据えている。自分が人間でなくなろうとも、得た力が我が身を削り、残された時間を食いつぶすことになろうとも、そのためなら後悔しないと決めた約束がある。
「あんたたちの愛したもの、護りたかったもの、全部、俺が護ってやる」
それは同時に、飛鳥の愛するものであり、飛鳥の護りたいものでもあるのだから。
「だから……見ていてくれ」
それを犠牲と思ったことはない。
とはいえ、死ぬこと、殺すことをまったく怖れないわけでもない。
死は今も昔も飛鳥の隣人で、それは諦観とともに飛鳥の傍らにある。
物心ついた頃から、三十の年を待たずに『稼働』を終えることになるだろうと言われて育てば慣れてしまおうというものだし、そもそも、ソル=ダートに来るまでの飛鳥には、自分の命に執着するだけの理由も意味もなかった。
しかし今、たぶん、本当の気持ちを言えば、飛鳥はずっと『ここ』にいたいと思っている。ここで、平和に生きて、寿命とかいうもので穏やかに眠りにつきたいと思っている。
平和なソル=ダートで、レーヴェリヒトの傍らで、ずっと他愛ない話をして笑っていられたらと思っている。
その小さな、初めての思いを育んだのは、きっとこの地と、この男と、彼を取り巻く様々な環境だった。
――無論、それが叶わないことを痛いほどに知っているのも、飛鳥自身なのだが。
「俺は、レイを護る」
静かに告げると、レーヴェリヒトがくすぐったげな表情をした。
穏やかな喜びと充足の気配を感じ、飛鳥の唇にはかすかな笑みが浮かぶ。
そう、飛鳥はそのためにここにいるのだ。
「そのために、全身全霊で、戦おう」
最期のその時に、自分が何を思うのか、今の飛鳥には判らない。
ただ、後悔がないようにとだけ、祈るのみで。
「黒の御使いとして、――ただの雪城飛鳥として、その両方で、誓う」
見かけを裏切る低い声で言って、先ほどレーヴェリヒトがしていたように――生前のメイデが、発作に苦しむ自分を休ませるときにしてくれたように――、ふたりの額に唇を触れさせる。
ふたりの額はひやりと冷たく、人体とは思えないほど硬かったが、こみ上げてくるのは思慕や哀惜ばかりで、死者の身体に触れる畏れや嫌悪感などというものは欠片もなかった。
もう会えないことをひしひしと感じるだけだ。
それでも、ふたりがくれたものが決して消えないことを理解しているだけだ。
「――……レイ」
しばらく、何とも知れず誰とも知れぬものに、ふたりのゆく場所が穏やかであるよう祈ったあと、飛鳥は顔を上げ、レーヴェリヒトを見遣った。
「ああ」
「グロウ閣下辺りから聞いてるかも知れないが、俺はこれから連中の撹乱に出る」
「ん、聴いた。何か、仕掛けもしてまわったみてぇだし、まあ……お前のことだから大丈夫だろうとは思うけど、気をつけてな」
「ああ。『仕事』が終わり次第戻る。――なあ、レイ」
「ん?」
「お前、俺がこの姿じゃなくても、俺だって判るか?」
それは問いかけのかたちをしていながら当然の事柄の確認のような、戯れめいた言葉遊びだ。
なぜなら、飛鳥には、
「当たり前だ」
レーヴェリヒトの答えが、最初から判っているのだから。
「お前だって、俺が別の格好をしてたって、別の生き物になってたって、判るだろ」
「……まあな」
「だろ?」
「お前みたいなヘタレが他に存在するとは思い難いからな。外見はともかく内面のこのヘタレぶりが、外ヅラが変わった程度で覆い隠せるとは思えん」
「えっもしや今のって噂に聞く薮蛇ってヤツか」
「それ以外のなにものでもないだろうな」
「……忘れてたよ、お前がそういう奴だってこと」
「それはまずいな、次の試験には出るぞ、魂の隅にでも書き込んでおけ」
他愛ないやり取りをして、顔を見合わせ、同時に軽く噴き出す。
同時に眠るふたりを見遣って、同時に唇を引き結ぶ。
窓から差し込む光は、もう、じきに訪れる黄昏の色を孕んでいる。
「じゃあ……征(い)って来る、メイデ、アルディア」
飛鳥が言うと、
「ゲミュートリヒもリィンクローヴァも、俺たちが護る。だから……心配すんな、ゆっくり休んでくれ」
レーヴェリヒトが腰の剣を叩いて笑った。
飛鳥も同じように、ふたりがくれた剣を叩いてみせ、それからレーヴェリヒトとほぼ同時に踵を返す。
「なあ、アスカ」
並んで礼拝室を出ながら、レーヴェリヒトが言ったので、飛鳥は小首を傾げて彼を見上げた。
「どうした、腹でも減ったのか」
「さすがに緊迫感なさすぎるだろ、俺」
「じゃあくしゃみが出そうで出ない」
「違うっつの。なんでわざわざそう情けない方向に持って行こうとするんだ、お前は」
「そりゃ、レイだからだろ」
「嬉しくねぇ」
「そうか? 俺としちゃ最大級の褒め言葉なんだが」
「えー……それ、褒められてんのかなー……?」
自分の発言を煙に巻かれていることにも気づかぬままレーヴェリヒトが首を捻り、飛鳥はかすかに笑う。
「で、何だって?」
「あ、ん、えーと……何言いたかったのか忘れるとこだったぜ……。いや、その、ありがとうな、って」
「ん? どこにかかる礼だ? というか、そもそも礼を言うのは基本的に俺だ。俺は、お前からあまりにもたくさんのものをもらった」
「え、や、その。――俺さ、たぶん、今までずっと、『何で俺ばっかり』って思ってたんじゃねぇかと思うんだ。誰にも言ったことはねぇけど、ずっと、そんな風に思ってたんだ、きっと」
並んで歩きながら、照れたように、気恥ずかしげにレーヴェリヒトが言うそれは、
「こんな痣なんか要らなかった、王様になんかなりたくなかった、もっと自由になりたかった、もっと平和に生きたかった、ってさ」
「……そうか」
「勿論、今の俺はどう逆立ちしたって王だしそれを蹴っ飛ばすつもりはねぇよ。負ったからにはまっとうする。そのために斃れて悔いねぇ。親父殿から王冠を譲られた時からその覚悟はしてる。それでも、そんな風に思っちまう小狡い自分がいたってのは事実だ」
「ああ」
「でも……だけど、これが全部揃ってたお陰で、今の俺がいるんだよな。今、こうしてお前と並んで歩いてるんだよな。そういう風に思えてるのも、たぶん、お前と会ったからだから。――判ってるよ、柄でもねぇって」
飛鳥を微苦笑させ、彼の脚を軽くする。
――戦うこと、傷つけること殺すことへの、自分が血で汚れることへの覚悟を深くする。
望まぬものを背負ってなお真っ直ぐに立ち、誇りを持って生きるこの男の心根に触れるにつけ、飛鳥の魂は喜びに共鳴するのだ。恐らく、レーヴェリヒトを愛し慕うすべての人々がそうなのだろうが。
「お前は面白いな、レイ」
「え、どっか面白ぇって要素があったか、今の」
「ああ、満載だ」
真面目くさって言ったのち、飛鳥はきょとんとしているレーヴェリヒトの背中を叩いた。
「これが終わったら、ふたりの弔いをきちんとして、それからフィアナ大通りの露店に飯を食いに行こう」
「ん、そうだな。皆で賑やかに送ってやろうぜ、きっとその方が喜ぶ」
「ああ、だったら、手っ取り早く済ませなくてはな。迅速に、被害は最小限に」
「――……頼りにしてるぜ、“黒の御使い”」
「頼りにしてくれ、国王陛下」
戯れのように言い合って、拳をぶつけ合う頃には、あと一時間もすればハルノエン軍が到着するであろう門の傍へと辿り着いている。
「レヴィ陛下、アスカ」
リーノエンヴェが、カノウとウルルが、グローエンデたちが、他の将や兵士たちが、ふたりに気づいて声を上げる。
レーヴェリヒトがそれに応えるのを見遣って、飛鳥はじきに閉ざされるであろう門の向こう側へと歩み出た。
どこか心配そうにこちらを見ている金村やイスフェニア、ノーヴァに目だけでとりあえず自分の仕事をしろと促して、不審げな――不安げな眼差しで自分を見つめている兵士たちに向かってかすかに肩を竦めてみせてから、森の中へ歩を進める。
ハルノエン兵が進軍しつつあるあの山道へ至る森の中へ。
「アスカ!」
背後からかかる、闊達な美声。
振り返らずとも、それが誰であるかなど間違えるはずがない。
「――……あとでな!」
万感の思いの込められたそれに、ただ拳を高く掲げて応え、飛鳥は真っ直ぐに前を見つめた。
「さあ……始めようか」
つぶやきは低く、不敵で、ふてぶてしい。
唇に浮かぶ、薄い笑みと同じく。
――そうして、めいめいの戦いが、始まる。