12.極悪少年、本領を発揮する。
無言だ。
誰もが無言だった。
鼓舞の言葉を口にするものも、私語をするものもおらず、ただ、武骨な甲冑の立てるかたかたという音と、息を殺して進む人々のかすかな足音だけが聞こえている。
誰もが青い顔をして、前だけを見つめている。
エルンストライト・オーム・ベデッケンは、先頭に立って歩を進めながら、奥歯を噛み締めていた。
エルンストライトには、彼らの蒼白の理由が誰よりも判る。
数百年の友好の歴史を踏み躙って、一方的に侵略をしようとしている己の罪を畏れ、自分たちがこれから攻めようとしているリィンクローヴァに……ゲミュートリヒに、調停者とも呼ばれる、最強の『黒』を持つ御使いが――ないしは、それに匹敵する強大な力を持ったなにものかが――在って、容易く彼らを通しはしないだろうことに怯え、何よりも、自分が護りたいと願ったものに糾弾されることに絶望して、彼らは無言に、そして蒼白になっている。
自分たちの罪を誰よりも自覚しているのが、今、戦場へと進む場にいるハルノエン兵たちだ。
エルンストライトもまた、そのひとりだった。
(これは、裏切りだ)
脳裏を、美しい乙女のかんばせが過ぎる。
花と絹と小鳥に埋もれた、華奢な乙女の哀しげな眼差しが、無言のままに彼を責める。
彼女は――かの優しき乙女は、こんなことを望んではいない。
きっとこのことを知れば、彼女は嘆き哀しむだろう。
喪われたすべてのものを悼んで泣くだろう。
(あの方と、かの国への)
判っていて、彼らは投げ捨ててしまえないのだ。
それはすなわち、ハルノエンの終焉を意味するのだから。
罪と知って、この裏切りをまっとうするしかないのだ。
(――……私は、恐らく、死ぬだろう)
唇を引き結んで前を見据えながら、エルンストライトは覚悟を決めていた。
そもそも、エルンストライトは将軍ではない。白鳩近衛騎士団を統べる長である、王家の人々を護ることが責務の彼が、この場にいることそのものがおかしいのだ。
無論、それもまたあの男とその一派の目論見なのだと理解してはいるが、理解しているところで事態が改善するわけでもなく、どうすることも出来ないもどかしさに息が詰まるだけだ。
(彼奴らの思惑に乗ってやることは業腹だが……あの方の安寧には変えられぬ。そのためならば、我が身など幾らでも差し出そう)
彼は、自分たちが勝利できるとも思ってはいなかった。
あの男も、恐らくそこまで思ってはいないだろうし、エルンストライトが死ぬことはむしろ彼らにとって都合がいいくらいだろう。
何せ相手は少数精鋭で知られるリィンクローヴァの、暢気な田舎都市と言われつつ鉄壁の守護でもあるゲミュートリヒ市だ。
偵察兵が全員死亡していた経緯から、指揮系統を潰して市内に混乱を招き、一気に制圧するという初めの作戦が失敗に終わったことは明らかだし、偵察部隊の確認に行った兵士たちの戻りが異様に遅かったことから、向こう側から何がしかの干渉があり、またゲミュートリヒ市が彼らの侵攻に気づいていることも明白だ。
防御の都市が護りに入れば、陥落させることは更に難しくなる。
今回の作戦が無謀だらけであることを、将軍や軍師ではないエルンストライトすら理解している。否、恐らく、選ばれてこの場に身を置かざるを得なくなったすべての兵たちが理解しているだろう。
どちらにせよ、何であれ、ハルノエンとリィンクローヴァが交戦状態にあることを、他国に知られてはならない。
あの男とその一派は、今、その隠匿に走り回っていることだろう。
秘密裏にリィンクローヴァを手に入れ、それを足掛りに世界の覇者を目指す。 御使いがリィンクローヴァに顕れたのなら、リィンクローヴァごと御使いも手に入れろ、と、あの男ならば言うかもしれない。
それが可能なのかどうかは、エルンストライトには判らないが。
(……どちらにせよ、私に選択できるものは少ない。この戦いを、この死を、まっとうするだけだ……)
物思いに耽りながら――最期の道行きなのだ、そのくらいは許されてしかるべきだろう――山道をくだっていたエルンストライトだったが、不意に視界がぼやけてきたことに気づき、疲労と心痛のゆえかと、己が軟弱さを嘲りたい気分になった。
しかし、
「エルンストライト様、霧が……!」
側近であり副騎士団長でもあるグラニート・ターク・ザクチェの声が低く響いて、エルンストライトはハッとなり、周囲を見渡す。
ざわざわと兵士たちがざわめいた。
「何だ、こんな、突然……この辺りに、ここまでの濃い霧が発生するなどと、聴いていないぞ……!」
それはまるで、優美な絹のヴェールのようだった。
ほんの数シェン・ロフ先も見えないような、ずっしりと濃厚な、息苦しささえ覚える霧だ。霧の向こう側に、何か得体の知れない光や影が蠢いたような気がしてエルンストライトが目を瞠ると、同じものを見たらしい兵士が息を飲み、その怯みが伝播してざわめきが広がる。
何かがおかしいことを、誰もが気づいていただろう。
「……何が来る。何が起きる……?」
しかし、それでも、彼らは進まねばならない。
ここで立ち止まっていても、事態はどちらにも動かない。
エルンストライトは眦を厳しくし、グラナート及び近くの騎士たちに――そう、この場に駆り出されたのは一般兵だけではない――指示を下す。
「……周囲の警戒を強化。隊ごとに互いを補い合いながら進み、所定の位置にて合流、待機するよう重ねて伝えろ」
「はっ」
表情を引き締めた騎士たちが、それぞれの隊に指示を伝達するため散ってゆく。
それを見送った後、エルンストライトはまたきつく奥歯を噛み締めた。
「裏切りであろうと、罪であろうと」
低い、低い、悲壮で悲痛な声。
「――……私は、あなたを護る」
ゆらめく白霧に嘲笑われているような錯覚に陥りつつ、ただ覚悟だけを口にする。
「美しきヴュセル姫……われらが、小鳩の乙女よ」
その独白を聴くものは、ここにはいなかったが。