――時間は、少し、遡る。

「……来たな」
 飛鳥は目を細めて足元を見下ろした。
 二十メートルはあろうかという高さの、古く太い樹の天辺から。
 彼らもまさか、七千の軍を迎撃・撹乱に来たのがたったひとりの少年で、しかもそれが、こんな位置から、密かに――冷ややかに、自分たちを見下ろしているとは思いもしないだろう。
 百メートルばかり向こう側からは、位階の高い人物と思われる、他の兵士たちとは一線を画す精緻なつくりの甲冑をまとった壮年の男を先頭に、肩当ての部分に緑の小枝を咥えた鳩の紋章が入った甲冑を身につけた兵士たちが、無数と言っていい止め処なさでこちらへと進んでくるのが見えた。
 恐ろしく性能を増した感覚は、彼らが徐々に薄暗くなってくる森の中にあってなお、彼らの表情、顔色、仕草までを、精確に把握させる。
 偵察兵三百名がなすすべもなく全滅したと知りながら――リィンクローヴァに“黒の御使い”がいると理解しながらも――、それでもこうして進軍してくるのだ。彼らにも、どうしても退けぬ、何か深刻な理由があるのだろう、その顔色は悪く、表情はどこか悲壮だ。
 下手をすれば、最後のひとりになっても戦うつもりかもしれない。
 恐らく、その程度の覚悟はして来ているだろう。
 ――本意でない戦いに身を置かざるを得ない彼らに同情はする。
 しかし、手を抜くつもりはない。
「そちらの事情は知らん、が……」
 空に向かって界神晶を掲げながら、ごちる。
「少なくとも、それはリィンクローヴァが負うべきものじゃない。――速やかにお帰りいただくとしよう」
 折しもハルノエン軍は、飛鳥がこの森全体にしかけた撹乱用の罠に足を踏み入れたところ。
「すべてをどうこうは無理でも、まァ、ゲミュートリヒの負担を減らすくらいは、出来るだろ」
 ハルノエン兵たちが何かに怯え、何かを恐れ、何かに苦しんでいることが判る。飛鳥はそれを利用するだけのことだ。
 護るべきものが彼にはある。
 卑怯もくそもない。
「さて、では……始めるとしよう」
 つぶやき、界神晶に意識を集中させる。
 同時に思い描くのは、下僕の皆さんに手伝わせて設置したヒトガタと、それらの周囲に設置された大きな水樽、そしてヒトガタの背後に『結ん』でおいた力点だ。
 静かに何かが震えるような感覚とともに、脳裏をいくつものコンテンツ――要するに、飛鳥たちの故郷では魔法だのなんだのと言われるような『力』を発動させるためのスイッチのようなものだ――がよぎる。
 くるくると回転する光点をひとつひとつ確認し、飛鳥は唇に薄い笑みを刷く。
「――まずは、霧」
 このソル=ダートにおいては、魔法を使うためには何らかの決まった言葉が必要であるらしかった。
 以前、レーヴェリヒトは神霊魔法を使った際、呪文のようなものを口にしていたし、精霊王と同等の魔力を持つと言われるハイリヒトゥームでさえも、その強大な力を揮うためには、呪文を唱えるという手順を踏む必要があるらしかった。
 しかし、飛鳥にはそれがない。
 飛鳥に必要なのはコンテンツを選択することと、それを『クリック』することだけだ。
「覆い尽くせ……絹の如くに」
 言葉を口にするのは、力の方向性を確定するため。
 それと意識しながらであれば、レーヴェリヒトをからかう言葉であっても、圓東を罵倒する言葉であっても、方向性のコントロールたり得る、その程度の事柄に過ぎない。
 しかし、それは――界神晶のはらむあまたの力は、飛鳥の言葉には絶対服従であるようだった。
 飛鳥が低く命じると同時に、水樽がかすかに鳴動し、まるでドライアイスを大量にまき散らしたかのような勢いで真っ白な霧を吹き上げ、周囲に濃密な白幕を垂れ込めさせ始めた。
 飛鳥が設置した水樽は、全部で二十。
 そのすべての樽から、恐ろしい勢いで白霧が発生し、辺りを漂い始めた。
「そして、それを固定・増殖……」
 白霧は空気中にとけることも消えることもなく――それどころかどんどん規模を増して――、物理的な圧迫感すら伴いながら宙を漂い、周辺を満たしてゆく。
 あっという間に、辺りは濃霧によって覆い尽くされた。
 無論、ゲミュートリヒ市目指して進軍するハルノエン兵たちをも。
 もう少しすれば、この森林を含む山全体が白く染まるだろう。
 自然に発生するにしては、異様な濃度と速度を持つ霧で、その唐突さの異常に気づかぬわけもなく、ハルノエン軍がざわめいているのが判る。
「……上出来だ」
 飛鳥は口角をつり上げて笑った。
 濃厚な白のヴェールが覆い尽した森は、数m先を見定めるのも困難な状況となっており、ハルノエン兵たちは、右往左往までは行かずとも困惑・混乱しているようだ。
 無論、霧の発生があまりにも唐突だったこともあるだろう。
 とはいえ、飛鳥が界神晶を使って発動させたのは、ごくごく簡単な、他愛のない現象を引き起こすものに過ぎない。
 飛鳥がしたのは、樽内の水を通常では考えられない速度で蒸発させたことと、水樽周辺の空気の温度を意図的に下げたこと、そしてそれによって発生した霧を霧の状態のまま固定し、倍化させたこと。
 界神晶がなければ別の方法を模索しただろうし、界神晶がなければ何も出来なかったと問われれば躊躇いなく首を横に振るが、せっかく得た力を使うべき時に出し惜しみしても仕方がない。
 ちなみに、この、蒸発霧という発生の仕方は、川や湖などでよく見られるもので、空気中に漂う大量の水蒸気が、冷たい空気によって微細な水滴となり、光を反射したり取り込んだりする馴染みの『霧』となる。
 日本の気象台では、水平視程が1km未満の場合を『霧』と呼び、1km以上の場合は『靄』と呼んでいるが、今の飛鳥にとってはどうでもいいことだ。
「さて、なら……次は、と」
 もちろん、飛鳥の仕掛けはこれだけではない。
 飛鳥がヒトガタの背後に『結ん』でおいた力点のいくつかに意識を集中させると、そこに強い光が灯り、それはヒトガタを貫くように輝いて、周囲を幻想的に照らし出す。
 と、
「おい、なにか光っ……」
「待て、あれは何だ!? 誰かいる……!?」
「っ、あっちもだ、何か動いた!」
 ハルノエン兵たちに別の動揺が走り、無限のように思われる長大な隊列は目に見えて乱れた。
 隊列の中にいる兵士たちは観ただろう、自分たちの前方にわだかまる濃霧の中で、虹を思わせる光の膜とともに無数の人影が動いている様を――少しはなれた茂みの向こうで、いくつもの人影が蠢き、彼らを嘲笑うようにかき消える様を。
 誰何しようにも、霧がうねり、すぐに人影を隠してしまう。
 かと思うと、別の場所にまたいくつもの人影が現れ、揺らめく。
「くそっ……まさか、待ち伏せをしているとは……!」
 誰かが歯噛みし、剣を抜いた。
 それにつられて、何人、何十人もの兵士が剣を抜く音が聞こえる。
 止める声がどこからかかかったが、惑乱した兵士の耳にそれは届くまい。
「くそ、くそっ……このやろうっ!」
 罵りながら周囲の霧を斬り払う兵士。
 だが……そこには何もない。
 斬ったと思った次の瞬間には、またあの光が彼らを嘲るように揺らめき、人影を別の場所に浮かび上がらせる。
 それと同時に、何かが空を切って飛来し、
「うわあっ!?」
「ぎゃっ」
「な、何……!?」
 何人もの兵士たちが悲鳴とともに転倒した。
「くそ、姿を見せろ、卑怯者!」
 喚き散らし、剣を振り回す兵士の傍らを颶風が吹き過ぎた、そう思った瞬間には、彼は強かに鳩尾を打ち据えられて声もなく昏倒している。
 ざわざわざわざわッ!
 恐慌寸前のざわめきが、最前線を歩く兵士たちの間で巻き起こり、そのざわめきはどんどん後方の部隊へと伝播してゆく。
 その間にも、あちこちであの強い光が揺らめき――それはついに彼らの背後からも灯るようになった――、あちこちに人影を見せ付けて、人影に気を取られた瞬間、目に見えぬとしか思えない唐突さで何者かに攻撃され、兵士たちがひとりまたひとりと脱落してゆく。
 霧はまだ、ほとんど視界を閉ざす濃密さで彼らの行く手を阻む。
「誰だ……何者だ!」
 霧の中に、虹を伴った丸い光が浮かび上がり、その中で人影が――向こうも剣を抜いているのが判る――こちらに向かって身構えているのが見えた。緊張にぐびりと咽喉を鳴らした兵士たちが、剣の柄を握り締め、じりじりと前方へ進む。
 ――とたんに、背後からいくつものつぶてが飛来し、人間業とは思えない鋭さで飛んだそれに身体のあちこちを強打されて転倒した。
 動揺と混乱とが兵士たちの間を奔る。
「く、くそおおおおおおおッ!」
 まだ若い兵士が、人影の揺らめいた霧に向かって駆け出してゆき、
「何なんだ、何なんだお前らッ! おれたちにはやることがあるんだ、お前らなんかと遊んでる暇はないんだ、退けよおおおおおおッ!!」
 無我夢中といった面持ちで、必死に、滅茶苦茶に剣を振り回した。
 しかしその彼も、
「退け、消えろ、いなくな――……ぐっ」
 まったく別の場所から隼のような速さで飛んだ石くれに眉間を強打され、白目を剥いてその場に昏倒しただけだった。
「落ち着け、隊列を乱すな……相手の思惑に乗ってはならぬ!」
 指揮官たちが混乱を鎮めようと声を嗄らすが、その間にも目に見えぬ何者かによって数人が一時に打ち倒され、事態の収拾はつきそうもない。
 なまじ、後ろめたさや畏怖、恐怖感を持っている分、目に見える人影と目に見えぬ襲撃者に右往左往させられてしまうのだろう。
 混乱を極めた兵士が滅茶苦茶に振り回す剣に、近くにいた兵士が腕を斬られ、そのことで恐慌に陥った兵士が喚きながら走り出して別の誰かにぶつかり、周囲を巻き込んで転倒するなど、辺りは怒号と金切り声で満ちた。
「奴らに踊らされるな、思い出せ……我らの課された務めを!」
 そんな中、人品卑しからぬ風情の壮年の男が、腹の底から声を張り上げている。
 先ほど、隊列の先頭を歩んでいた男だ。指揮官と目される人々の中でも特に身なりがよいし、甲冑の精巧さ、立ち居振る舞いなどから見ても最高司令官と目して間違いあるまい。
 それらを冷静に観察しつつ、
「――……あいつは、『向こう』にやった方がいい、な。ここで斃しても、混乱を助長するだけだ」
 飛鳥がぼそりとつぶやいたのは、濃霧の一角、惑乱するハルノエン兵たちのただ中である。
 とはいえ、ひとりを打ち倒した次の瞬間には立ち位置を変えているから、兵士たちの中に漆黒に身を包んだ飛鳥の姿を視覚的に捉えることが出来たものがいるかどうかは謎だ。
「お前らとか奴らとか……まあ、正直ひとりなんだけどな」
 拳くらいの大きさの石塊ふたつを丈夫な縄でつないだ即席ボーラとでも言うべき投擲用武器を片手に、飛鳥は軽く跳躍して木の幹に取り付き、そのまま木の枝を伝ってまったく別の方向へ飛び降りた。
 降り立った先では、また別の方向に浮かび上がった人影に兵士たちがざわめいており、飛鳥がその隙だらけの背後に忍び寄って一撃食らわせ、相手に状況を把握させないままその場を離れることはまったくもって容易い仕事だった。
「……なかなかの動揺っぷりだな。この辺りは霧もあまり出ないと聴いていたし……いい撹乱になったようだ」
 飛鳥は、自分がつくりだした、『一定時間ごとに明滅する光』によって浮かび上がるいくつもの人影をチラと見遣って唇の端に笑みを浮かべた。
 浮かび上がり、揺らめいては消える人影の正体が何なのか、ここにいたのが飛鳥と同じ現代地球人であれば気づくものも少なくはなかっただろう。
 要素は、濃霧と強い光。
 そしてあのヒトガタ、もしくはハルノエン兵自身。
 ――アレは結局、光によって照らされた影が、霧のスクリーンに映し出されているに過ぎない。
 要するに、ハルノエン兵たちは、霧の中に踊るヒトガタの影に、そして剣を抜いた自分自身の投影に怯え、右往左往しているのである。
 そう、発動こそ魔法なる不可思議な力によるものだが、これはれっきとした自然現象の一種で、地球では、ブロッケンの妖怪、もしくはご来迎と呼ばれるものなのだ。
 飛鳥はその混乱に乗じて、高い身体能力を駆使し、夜陰ならぬ霧影に紛れてハルノエン兵を撹乱しているだけなのである。
 無論、飛鳥でなければ出来なかったことではあるのだが。
「ま、しばらく踊ってくれ……その間にいくらか削る」
 何でもないことのように呟き、飛鳥はまた混乱を極める兵士たちのただ中へと踏み込んでゆく。
 ――指揮官たちが冷静さを失わないまま声をかけあっているのが見えたから、あまり長いことは持たないだろう、と客観的に判断しつつ。