たった一目、見ただけで判った。
 あの、最聖なる黒を負った竜が、一体『誰』なのかなどということは。
 戦いが始まる前、アスカと交わした他愛ないやり取りが思い起こされて、黒竜の翼が巻き起こす颶風の中、薙ぎ倒された兵士たちがようよう起き上がるのを視界の片隅に見つつ、たったひとり何ひとつ揺らぐことなく立ち、レーヴェリヒトは楽しげに笑った。
「……なるほど、そういうことか」
 颶風が髪を撫でていく。
 甲冑を着込んだ兵士がつんのめるほどの強風であるにも関わらず、レーヴェリヒトの髪はそよ風に遊ぶかのようだった。
 竜の起こす風も風圧も絶大なる神威も、そのどれもが、レーヴェリヒトをわずかにすら傷つけないし、一瞬絡んだ視線の先で、至高なる漆黒の双眸が、レーヴェリヒトにしか判らない微かさで悪戯っぽく細められたことも知っている。
 それらからも、あの竜が何者であるのかは明白だ。
「見事なもんじゃねぇか、なあ」
 竜を見上げ、つぶやく。
 これがアスカの本来の姿なのか、それとも界神晶の力なのか、もしくは別の要因によるものなのか、はっきりしたことは何も判らなかったが、あの漆黒の、三対六翼の“調停者”がアスカ・ユキシロという響きのよい名前の、激烈かつ極悪な少年の転じたものであることだけは確かだった。
 そもそも、根本的に、出身地や過去からして謎だらけの、どこの国の人間であるとか、その国が一体どんな文化や文明を持っていたのかとか、界神晶を得た経緯とか、むしろ本当にただの人間なのかとか、知らないことだらけの人物ではあるのだが、彼がレーヴェリヒトに向けてくれる感情に、約束に偽りがないことだけは判っているし、それだけでいいとレーヴェリヒトは思っている。
 煩雑な事柄を超越した信頼だから、かえって強いのかもしれない。
 ヒトが竜に変化するなど、見るのも聞くのも初めてのことだったし、多少驚きはしたものの『だからどうした』という意識の方が強い。
「あ、あれは……“調停者”……まさか……!?」
 颶風に吹き飛ばされ、踏ん張りきれずに尻餅をついていたエルンストライトが、何とか立ち上がりながら驚愕とともに言う。
「ホントのところはどうだか知らねぇけどな。なんにせよすげぇよな」
「あなたは、畏れを感じておられぬのか……?」
「ん? ああ、怖いって気はしねぇな」
「何故だ」
「や、だって、あいつが俺のこと傷つけたり裏切ったりするはずねぇし」
 あっけらかんと、当然の、天地開闢級の真理ででもあるかのようにレーヴェリヒトが言うと――事実、それは決して覆されることのない真実でもあるので――、エルンストライトは目を大きく見開いた。
「では、あれは、あなたが慣らしたと。……あの、至高なる存在を、調教するようなわざが、リィンクローヴァにはあるのか……!」
「え? あー、いや、慣らしたとかそういうのじゃねぇんだが……っていうか、何だろう、調教って言葉にすげー違和感を覚える……」
 レーヴェリヒトが小首を傾げて言うと、エルンストライトは「あなたは変わっておられないな」と少し笑い、そしてまた剣を構えた。
 それを見て、惚けていたハルノエン兵たちが我に返り、落ちたり吹き飛んだりした武器を拾い上げて、次々と臨戦態勢を取ると、顔に強い畏怖を貼り付けたリィンクローヴァ人たちも否応なしに戦いを再開せざるを得なくなる。
 黒竜はまだ上空で羽ばたき、強烈な風を送り続けているが、何か考えがあるのだろう、自ら光を放って輝くような双眸で地上を見下ろしているだけで、攻撃してくる様子はなかった。
 もちろん、あの巨体で攻撃されたら、ハルノエン兵だけではなくリィンクローヴァ側も巻き込まれかねないので、そしてハルノエン兵とて殲滅したいわけではないので、もうしばらくいい子で大人しくそこにいてくれ、というのがレーヴェリヒトの偽らざる心境だった。
 そんなことを考えていたと知られたら、あとで逆さ吊りにされるかもしれないが。
「……まだやんのかよ。お前じゃ俺に勝てねぇって、判ってるだろ」
「もとより承知の上だ……我らに生きて帰るつもりなどありはせぬ。かの黒竜があなたの守護者だというのなら、かえって都合がいいほどだ」
 銀色がかった青の目に、我が身を顧みぬ決意と覚悟をちらつかせてエルンストライトが言い、
「聞け、ハルノエンのつわものたちよ!」
 朗々とした大音声を響かせた。
「我らが麗しき“小鳩の乙女”のために死ぬ時が来た! ――我らの戦いは、死は、恐らく誰にも語られないだろう……だが、これは意味の、価値のある死だ。怖れるな、躊躇うな、“小鳩の乙女”が幸いの礎となれることをこそ至福と思え!」
 悲痛な、悲壮な、しかし迷いも苦悩も振り捨てた潔さでエルンストライトが告げると、ハルノエン兵たちの顔つきが変わってゆく。
 悲壮な中に、何か自分より大切なもののために斃れる覚悟と誇りを覗かせて、ハルノエン兵たちが喊声を上げ、剣を振り上げ、手近な場所にいたリィンクローヴァ人たちに次々と打ちかかってゆく。
 戦場はまた騒然とした。
 それを見下ろす竜の巻き起こす颶風、それだけが、先ほどとは違う要素だった。
 レーヴェリヒトもまた、エルンストライトと剣を交えていた。
「何があったんだ、エルンストライト。……いや、何となく判るが、一体誰が、どうして」
 いかなる事情があったのかは判らないが、今回のこの急な侵攻と、闖入者たちから感じられる『後のなさ』には、予測がついている。
 ハルノエン王家がリィンクローヴァ侵攻を画策するはずも命令するはずもなく――永の友好国であるという以前に、リィンクローヴァの堅牢さ強さをもっとも知っているのがハルノエン王家であるという意味も含めて――、だとするとこの命を出しているのは王族以外の人間ということになる。そのうえ、王族ではない人間がこれだけの数の兵を動かし、王族以外の命など受けるはずもない近衛騎士たちを無理やり戦場に向かわせることが出来た経過から、王族を主とする近衛騎士が逆らえない状況が現在ハルノエンでは出来上がっていると予測するのは難しくない。
 要するに、現在、“小鳩の乙女”ヴュセルエリンデ・タニア・ルシュカの命が、何らかのかたちで危機に晒されており、彼らはそれを盾にこのいくさへと駆り出されたのだろう。同時に、ゲミュートリヒを、リィンクローヴァを手中に収めない限り、何も果たさないまま彼らが戻れば“小鳩の乙女”を殺す、などと脅しをかけられているのだ。
 レーヴェリヒトには、エルンストライトの、そしてこの戦いに駆り出された人々の焦燥、恐怖感が理解出来る。
 ――ハルノエン王家には、現在、王がいない。
 第一王女ヴュセルエリンデが成人の儀を迎える来年までは、大宰相が彼女の後見人となり、国王代理として国を動かしているのが現状だ。
 先王は三年ほど前に身罷って、王妃、つまり先代の“小鳩の乙女”もその翌年に亡くなった。
 先王夫妻はヴュセルエリンデしか子どもに恵まれず、またハルノエン王の選定を行い、次代の選定者である第一王女を産む“小鳩の乙女”となる資格を持つ王族も他におらず、よって、彼女の死は、ほぼハルノエン王家の滅亡を意味するのだ。
 王家への愛の深いハルノエンの人々が、彼女の命を盾に取られて他国へ攻め入ったのは、何もおかしなことではなかった。
 レーヴェリヒトは、この一連の侵攻で喪われた命や、第二の親と言って過言ではなかったメイデとアルディアの存在を惜しむけれど、事情を知った今、ハルノエンの人々を憎む気にはなれなかった。
 憎むべきは“小鳩の乙女”の命を握り、忠義篤き人々を無理やり、望まぬ戦いに――そして死地に追い込んだ何者かであって、今、この場で剣を交えている人々ではないのだ。
「――……言えぬ」
 それゆえのレーヴェリヒトの言葉だったが、案の定、エルンストライトは首を横に振った。
「『見張り』がいる、か」
「ご想像にお任せする」
 堅い口と硬い表情とは裏腹に、彼の双眸は様々な事柄を雄弁に語っていた。
 ヴュセルエリンデの命を盾に取り国を動かしている何者かには、強力な魔導師がついているということだろう。
「お前たちを全員抹殺して、お前らに代わってハルノエンを『何とか』したら、それでいいか? お前たちはそれで満足か?」
「……もしも、願えるならば」
 レーヴェリヒトの言葉に、エルンストライトが微笑んだ。
 すでに己が死を受け入れた、穏やかですらある笑みだった。
「図々しい願いと知って、申し上げる。あなたがそれを約束してくださるのならば、我らに思い残すことは何もない」
「……そうか」
 苦いものを飲み込むようにレーヴェリヒトは頷く。
 エルンストライトも、ハルノエン兵たちも、すでに覚悟を決めている。
 否、ここへ派遣されることが決まった際に、理解しただろう。
 恐らく、戦いの勝利よりは、己が最期を。
「今でもハルノエンは俺たちにとって隣人だ。何とかしてぇ、してやりてぇって気持ちに変わりはねぇ。だが……だからって、リィンクローヴァを危険に晒すことは俺には出来ねぇ」
「ええ」
「せめて、ハルノエンに平和を。そう約束するくらいしか、俺にはしてやれねぇが」
「……過分なほどの言葉だ」
 安堵を浮かべてエルンストライトが言い、剣を正面に構えた。
 近衛騎士らしい、様式美に則った構え方だった。
 レーヴェリヒトもまた、無言でそれに倣う。
 神のごとき力を揮って何もかもを瞬時に解決するような奇跡が起こせる身でなし、ハルノエン人たちの苦悩と絶望と恐怖が理解できないわけではないがリィンクローヴァを護る王としての責務を放棄できるはずもなく、ならばレーヴェリヒトに出来ることは敬意を持って彼らを倒し、せめて彼らの心残り、気懸かりを解決する程度だろう。
 それでも、虚しいな、と思った自分をレーヴェリヒトは否定しない。
 彼らの愛情、彼らの献身、彼らの気持ちが、ここで消えてしまうことが惜しく、虚しい、と。
 甘ったれた考え方だと思いつつも。
 ――その思考を読んだのだろうか。
 それとも、表情に出ていたのだろうか。
 戦場の上を滞空していた黒竜が、一際大きく羽ばたき、唐突に上空へと舞い上がった。巻き起こった突風に叩かれて、またぱらぱらと兵士たちが吹き飛ばされる。あちこちで悲鳴が起きた。
「……アスカ?」
 一体何をするつもりなのか、とレーヴェリヒトが空を見上げた瞬間だった。
 上空へと舞い上がった黒竜が、身体を捻り、今度は地上目がけて一直線に降下してきたのだ――……戦場の真っ只中へと。
 それはまるで、黒い稲妻のようにも、伝説に聞く星の墜落のようにも見えて――恐ろしいばかりの圧倒的な質量で、まっすぐに突っ込んで来る竜を目にしてしまった兵士たちが悲鳴を上げ、逃げようとして転倒し、腰を抜かして引っ繰り返る。
 同時に、颶風、突風、凄まじい風圧。
 重い甲冑を着込んだ兵士たち、指揮官たちが、まるで風に翻弄される枯葉のような軽さで吹き飛ばされ、目を開けていることもその場に踏ん張ることも出来ずにもつれ合って地面を転がる。
 その激烈さたるや先刻以上で、エルンストライトも、グローエンデもシュバルツヴィントも、ユージンもアスカの下僕騎士たちも、いかなる手練れたちであっても例外なく風の餌食になっていた。
 だから、きっと、誰も目には出来なかっただろう、風に、何の不具合も与えられなかったレーヴェリヒト以外には。
 地上に辿り着く寸前、地面や兵士たちにぶち当たる直前に、空中でくるりと軽やかに回転した黒竜が、次の瞬間には、漆黒の武装を身にまとった黒の御使いとなって、羽のような身軽さで地面に降り立っていた――……などということは。
 竜のかたちをした衣装を脱ぎ捨てたかのような、唐突にして鮮やかな変化だったが、アスカに関しては、今更何を驚けばいいのか、というのがレーヴェリヒトの偽らざる心境だ。
「い、今のは――……ッ!? まさか、黒の、御使い……!」
 吹き飛ばされた際にどこかを打ったのか、顔をしかめて起き上がったエルンストライトが、アスカの姿を見つけて目を見開く。
 ざわり、とざわめきが広がってゆく。
「さて……戻って来たわけだが、なにやらややこしいことになってるな?」
 普段と何ら変わりない表情と口調で言ったアスカが――かなり離れた位置に降り立ったにも関わらず、何の支障もない程度には声が聞き取れたのは、何か理由があるのだろうか――、周囲を見遣って小首を傾げた。
 不変のごときその姿に、妙に安堵しつつ、レーヴェリヒトは、それでも戦意を失わずどうにか身構えたエルンストライトと向き合い、距離を測りあう。
「黒竜はどこへ。いつの間に黒の御使いが」
「あー……」
「……そうか、判った、あの黒竜は、黒の御使いの乗騎ということか」
「え? あー、うん、そういうことにしとくか」
 人間が、加護持ちや御使い云々はさておきヒトならざる姿に変化したり戻ったりという現象は皆無と言うことはないが稀有で、少なくとも常識の範囲内では考えられないことのため、エルンストライトはそう結論付けたようだった。
「そのように稀有な者の御座す地へ、約定をたがえてまで攻め込もうというのがそもそも間違いだな」
 アスカを、レーヴェリヒトを見遣って、ひとつ大きな息を吐くと、エルンストライトは剣を振りかぶった。
「あなたがたの手を煩わせることをお許しいただきたい。それでも、せめてあなたの手にかかれることが、私にとっては幸せなのやもしれぬ」
「そんないいもんじゃねぇよ」
 レーヴェリヒトは苦笑して、的確に急所を狙って来る剣を、ヴァイスゲベートで受けて流した。
「情けは無用……一思いにお願いいたす」
 早く殺せと言外に催促してくるエルンストライトにせっかちなやつだとまた苦笑し、視界の隅で、我に返って斬りかかってくるハルノエン兵をどんどん打ち倒してゆくアスカを見遣る。
 漆黒に身を包んだ少年は、軽やかに跳躍しては拳や蹴りを繰り出し、たった一撃で兵士たちを無力化している。
 剣よりも拳の似合う少年だ、とレーヴェリヒトは思い、同時に、――アスカが戻って来た、と胸中に呟いた。
 そこにあるのは安堵と確信だ。
 彼ならば、きっともっといい手を提示してくれる、何かもっと、どちらにとってもよい方法を見出してくれる、という、子どもの願望のような。
 そして、アスカがそれを裏切らないだろうことも――いくつもの重い祈りを背負ってなお期待に応えてくれるのがアスカという少年であるということも、レーヴェリヒトには判りすぎるほど判っているのだった。