戦況は――五分。
 否、わずかにこちらが押されている。
 フライハイト・ネスカはそう冷静に判断し、友軍の補助をしつつ戦場を走り抜けていた。
「こういう状況は……ある意味、気楽では、あるけど……」
 中級貴族だが軍族の名門でもあるグレイアー家の跡継ぎとして生まれたフライハイトは、異端の王族レーヴェリヒト・アウラ・エストが王冠を戴いた九年前、レーヴェリヒトが十五歳、フライハイトが十歳の時に、いずれは第五天軍将軍グローエンデ・バイトの側近、つまり副将軍となるべく選ばれ、教育を受けて来た。
 九歳で選別されたカーナシエーラ・エルダと同じく、未だ成人もしていないどころか学校にすら通っていない少年が将来の副将軍となることを決定づけられるなど、無論前例もなく、当時の王城内では相当揉めたらしいが、結局前王ジークウルムが反対派を押し切るかたちでそれらを決め、フライハイトの人生、運命も決まった。
 レーヴェリヒトを――リィンクローヴァを護るに足る武人となるべく、またグローエンデに相応しい側近となるべく、周囲の期待を重圧とはせず励みにして、十七歳で正式に副将軍として就任するまで、厳しい鍛錬と勉強に日々を費やしてきたし、また十三で初陣を飾り戦功も上げてきた。
 同じ立場のカーナシエーラとともに、フライハイトは、齢十九にしてすでに頭角を現していて、リィンクローヴァ正規軍の中では相当の手練れだし、将の風格も漂わせている。
 とはいえ、本来のフライハイトは、午後のお茶と甘い菓子を楽しみにしている大人しい、穏やかで生真面目な青年で、出来ることなら誰も傷つけたり傷つけられたりしない世界で国や人々のために尽くしたいと考えていたが、もちろん、今の世の中でそれが難しいこともよく理解していて、まずは自分の果たすべき責務を果たすだけだと常々思っている。
「エーラァノ……どこだ……?」
 そんな彼が、戦場のひとところに留まらず、あちこちを行き来しているのは、手の足りない、防御の薄い場所の補助のためでもあるのだが、もうひとつは、戦いが始まるやいなや飛び出して行ってしまった幼馴染を探すためでもあった。
 今回、ゲミュートリヒ市私兵軍以外でこの戦いに参加した人間は、全員が客分という扱いなので、ゲミュートリヒの指揮官たちの指示に従う必要はなく、取る行動も自由だ。
 グローエンデもシュバルツヴィントも、引き連れてきた数十の手勢に大まかな指示を出してからは、遊撃要員としてあちこちを飛び回り――どことなく楽しげなのは、本来の彼らが獰猛な戦士だからだろう――、屍の山を築いていて、特にフライハイトやカーナシエーラが補佐する必要もなさそうだった。
 そのため、フライハイトは一番の気懸かりである少女の安否を確かめ、彼女が無茶をするようなら止めようと、幼馴染の姿を探しているのだが、なにせ敵味方入り乱れた戦場ゆえ、未だそれは果たせていなかった。
「気持ちは判る……判る、けど」
 エーラァノ・シュテルン。
 ほんの二年前まで、エーラァノ・ネルウェ・ヴァイトシュテルンという名前だった彼女は、彼女の父が家督争いに敗れて貴族の座を追われるまで、将来的にはフライハイトの許婚に……と言われていた少女だった。
 お互いにそれを意識して育ったわけではなかったが、双方の親同士が親しく、家柄も同級で、行き来が頻繁だったのもあって、漠然と、いずれはそうなるのかもしれない、程度には思っていた。
 事実、フライハイトはエーラァノが好きだったし、今でも好きだ。
 男女間の生々しい愛とはほど遠くとも。
 きっと、エーラァノもそうだろうと思っている。
 ――それが崩れたのが二年前だった。
「でも、エーラァノ……エリィ。きみが死んだら、何も意味がない」
 実の伯父の姦計で、ヴァイトシュテルン家の当主の座を追われた父ともども、屋敷から追い出された日の、エーラァノの顔を今でも覚えている。
 十四歳の少女ながら、いずれはフライハイトのいる第五天軍に入って手伝いをするのだと、日々鍛錬と勉学に勤しんでいた彼女には青天の霹靂であったのだろう。
 粗末な服に身を包み、わずかな荷を抱えて――いかなる憎しみがあったのか、彼女の大伯父は、甥一家に何ひとつ与えず、彼らを慕う侍従や奴隷が供をすることすら許さず、彼らの持ち物をほとんどすべて奪って放り出したのだ――、両親と年の離れた弟妹とともに逃げるように屋敷を出て行く彼女の、引き結ばれた唇と、今にも泣き出しそうに見開かれたスミレ色の眼を、フライハイトは今でもよく覚えている。
 あの時、誇り高い彼女になんと言えばいいのか判らなくて、声をかけることも出来ず、物陰から見送るしかなかった自分の不甲斐なさとともに。
 フライハイトの父が陰ながら援助をして、エーラァノ一家はアインマールの一角に兵民として住み着くことが出来た。
 エーラァノの父は争いごとの得意ではない穏やかなたちで、しかも病弱だったために伯父にいいようにされたのだったが、学者肌の、博識で手先の器用な人物でもあったので、すぐに近隣の子どもたちが通う学校の教師としての職が見つかった。
 その際、兵民として兵役の義務を果たすために登録されたのがまだ十四歳のエーラァノで、驚くことに、彼女は、その半年後には、試験を受けて見事に騎士となったのだった。
 そして、アインマールの治安を護る傍ら、鍛錬と勉学に励み、――恐らく、ヴァイトシュテルン家に戻るための方法を模索している。
 自分のためと言うよりは――無論それがまったくないわけではないだろうが――、敬愛する両親と、目にいれても痛くないほど可愛がっている幼い弟妹のために。
 貴族ではない自分など想像もつかないフライハイトに、貴族の座を取り戻すために必死なエーラァノを止める資格はないし、そんな彼女を笑うことも出来ない。
 ただ、フライハイトに出来るのは、陰ながら彼女を見守ること、彼女の矜持を傷つけぬ範囲で手助けをすることだけなのだ。
「……まさか……」
 こんなに探し続けているのに、エーラァノの姿をどこに見い出せず、最悪の事態を想像してフライハイトが絶望しかけた時、視界の端を、淡い金色の光がかすめた。
「エリィ!」
 あの髪の色を、フライハイトが間違えるはずもない。
 愛称を呼び、パッと振り向くと、二十シェン・ロフほど先で、エーラァノが剣を揮っているのが見えた。
 あちこちに血を滲ませ、傷をこしらえているようだったが、行動不能に陥るような、死に至るようなものは見い出せず、またエーラァノの表情は、緊張はしていたが顔色も悪くなく、フライハイトはホッとして……そして、少し、泣きそうになった。
「エリィ……きみは、ホントに、変わってない……」
 エーラァノは、背後に、傷を負って動けなくなったゲミュートリヒの兵士たちを庇いながら戦っていたのだ。
 淡いスミレ色の双眸を誇り高い戦意に燃やし、一歩も退くことなく彼女は剣を揮っている。ハルノエン兵の必死の攻撃を掻い潜り、剣を揮っては相手を打ち倒して行く。エーラァノの呼吸は荒く、眼差しは時折疲労と困惑、わずかな恐れに揺れたが、彼女は折れることなく剣を揮っている。
 少女の心は、渇望に揺らぎつつも、軍族として……武人として他者を護る使命と誇りを失ってはいない。
 『逸った彼女が引き起こす何か』を心配した数時間前の己を、フライハイトは恥じた。
 唇を引き結び、ギュッと剣の柄を握り直す。
「きみが誰かを護るために戦うなら……私も、今は、きみを護るために戦おう」
 幼馴染で、許婚になるかもしれなかった、苦境に何もすることが出来なかった、二年前からはお互いに少しぎくしゃくした、そんなものを全部、なにもかもなかったことにしても、フライハイトはエーラァノが大切で、護りたいのだ。
 この先、彼女が生涯をともにする男が自分ではないのだとしても、今のエーラァノを護りたいのだ。
 ――折しも、エーラァノを強敵と見たハルノエン兵たちが、数人がかりで彼女を取り囲むところだった。
 彼女の周囲に、助けになりそうな、戦える味方の姿はなく、エーラァノは背後を気にしつつも、唇を引き結んで身構えた。
 彼女に庇われた兵士たちが、しきりと逃げろと言っているのが判る。
 確かに、そこから逃げれば――兵士たちを護らずに戦えば、きっとエーラァノは安全だろう。
 しかし、恐らく、絶対に、たとえ我が身を危機に晒しても、エーラァノにそれは出来ない。
 それが判ったから、フライハイトは走り出していた。
 行く手を阻むハルノエン兵を問答無用で斬り倒し、友軍兵を突き飛ばしながら、一直線に彼女の元へ奔る。
「エリィ!」
 声が届いたのか、エーラァノがフライハイトを見、そして――――泣きそうな、幼い日のままの顔をした。
 しかし……まだ、遠い。
 振り上げられた剣、掲げられた槍に、フライハイトはまだ届かない。
「やめろ、彼女を傷つけるな!」
 叫びながら、いっそ我が身ごと盾になろう、と、フライハイトがそこへ飛び込んだのと、
「いけない、ライト兄様!」
 エーラァノが悲鳴のように叫び、それを見越したかのように剣が――武器が振り下ろされたのと、

 ゴオウッ!

 不意に、唐突に、嵐の如き漆黒の颶風が戦場を吹き抜けたのとは、ほぼ同時だった。
「う、わ……ッ!?」
 轟音、震動、強烈な風圧。
 凄まじい風だった。
 それは、決して軽くない甲冑をまとい、重い剣を手にした兵士たちがなすすべもなく吹き飛ばされ、ばたばたと倒れ伏していったほどの風で、フライハイトもまた、それに我が身をさらわれ、エーラァノともつれ合うようにして地面を転がった。
 武器を振り上げていたハルノエン兵も、負傷した友軍兵も、皆、散り散りに吹き飛ばされ、どこにいったのかも判らない。
「エリィ、大丈夫か」
 それでも、ふたりが危機を脱したことに変わりはなく、どうにか立ち上がったフライハイトが手を差し伸べると、エーラァノは躊躇わずにその手を取り、かすかに笑って、しっかりした足取りで立った。
「ありがとう、大丈夫」
「きみの気性を理解していないわけじゃないけど、無茶をしすぎだよ」
「そう? 普通だと思うけど」
「きみの普通は心臓に悪い。頼むからもう少し、――……ッ!?」
 フライハイトの言葉が半ばで途切れ、
「どうしたの、ライト兄様、ッ!」
 エーラァノの眼が大きく見開かれたのは、
「な……なんだ、あれは……!?」
「黒竜!? この辺りに竜が生息しているなんて、聴いたこともないぞ!?」
「三対六翼……まさか、“調停者”……!?」
 どうにか身を起こした兵士たちが、甲高く裏返った声で口々に言う通り、数十シェン・ロフ上空を、巨大な、神々しいほどの漆黒に輝く竜が、やはり巨大な翼をはためかせながら飛翔していたからだ。
 先ほどの風は、この竜が起こしたものであるらしい。
 全長で三十シェン・ロフ、いや、もっと大きいかもしれない。
 漆黒の鬣、角、鱗、力強く勇壮な三対六翼、長く太い尾、猛禽を思わせる前脚、強靭で凶悪な後脚。
 猛々しく恐ろしいとしか表現できないのに、あまりにも勇壮で美しい竜だった。
 自ら輝きをまとうような、漆黒でありながら目映いとしか表現出来ない、光沢のある闇を髣髴とさせる神々しく美しいその輝きは、かの黒の御使いの持つ界神晶にも似て、見つめているだけで絶大な畏怖が込み上げる。
 黒竜は、漆黒の、極上にして最聖なる黒貴水晶のような双眸で辺りを睥睨し、水晶めいた透明の牙が輝く顎を大きく開いて、辺り一面が震動するような咆哮を響かせた。
「……ッ!!」
 さすがに恐怖に顔を引き攣らせたエーラァノが耳を塞いでしゃがみ込む。
 これだけ巨大で強い色を持った竜を身近に見るなどフライハイトも生まれて初めてのことで、当然、腰が抜けそうな錯覚に陥ったのだが、エーラァノの手前ぐっと堪え、唾液を飲み込んで竜を見上げた。
 黒竜がここに現れた目的が何であれ、あの大きさの竜に襲われたら、この場にいる全員で打ちかかったところで無意味だ。人間の武器の大半は、彼らの鱗一枚、傷つけることは出来ない。
 せめてエーラァノだけでも避難させないと、と、麻痺しかけた思考の中でフライハイトが思ったその時、ちらりと視界の端にまぶしい白銀が映り込み、そちらを見遣ると、そこには予想通りレーヴェリヒトの姿がある。
 その少し奥には、今回の戦いの総司令官と思しき壮年の男がいるから、恐らく彼と渡り合っているところだったのだろう。
「レヴィ陛下……?」
 フライハイトの語尾が、訝しげな色彩を孕んだのは、竜を見上げるレーヴェリヒトの稀有な紫貴水晶の双眸に、絶対的な信頼と友愛が、唇には笑みが満ちていたからだ。
 周囲の兵たちが全員吹き飛ばされ薙ぎ倒されていたにもかかわらず、レーヴェリヒトだけは揺らぎひとつなく、髪一筋さえ乱すことなく、たったひとり、真っ直ぐに立っていた。地面に開いた大輪の花の花芯のような、凛とした真っ直ぐさだった。
 そして、実年齢よりも彼を幼く――少年めいて見せる闊達な笑みとともに、竜を見上げている。
 彼の前で尻を落として座り込んだ壮年の男が、畏怖と絶望に顔色をなくしているのとは対照的な、あまりにも満ち足りて幸せそうな、無邪気な笑みだった。
「あれは……一体……?」
 水を打ったように静まり返ったのち、ざわざわとざわめき始めた戦場で、フライハイトの呟きは、掻き消されてしまったが、きっとこの場にいたほとんどの人間が、そう感じていたことだろう。