何が一番重要で、何が一番確実か。
のたのたと地上を這いずって、細くか弱い針を揮う、脆くて小さな生き物を――竜化している時の自分の思考がかなり『人間』から逸脱することをここで初めて知った――しばし観察し、次の行動を思案していた飛鳥は、その中で唯一、竜化の意識に呑まれることなく認識出来た、白銀の王の姿を目にしてすぐに自分のなすべきことを決めた。
意識が竜であれ人であれ、『飛鳥』にとってレーヴェリヒトはレーヴェリヒトだった。それ以外の何者でもなく、他の何者にも変え難く、ただひとり……たったひとつ、飛鳥を律し魂の根本まで縛る存在だ。
彼がいなかったら、そしてあの小さな生き物たちから攻撃を受けていたら、竜化の意識に引き摺られたまま、敵も味方も関係なく、この場で一方的な殺戮を繰り広げてもおかしくない程度には、その時の飛鳥の意識は竜だったが、同じく、竜としての本能を凌駕する程度には、レーヴェリヒトの存在は絶対だ。
レーヴェリヒトは、リィンクローヴァの兵士たちと同様に、ハルノエンの人々が喪われることを惜しんでいる。
リィンクローヴァを護ることこそ責務と断じつつも、侵略者たちをひとり残らず殲滅しても悔いず、すべての命を背負う覚悟をしつつも、ハルノエンの人々がここに来た理由を察し、ここで彼らが喪われることを――彼らの献身が無為になることを虚しく思っている。
それが、ハルノエンの騎士団長を前にした彼の表情から読み取れた。
一国の王があそこまで全部顔に出てどうする、と思いはするが、それは、飛鳥にとって心地よい。
お人好しで甘ったれなヘタレだからあの男はレーヴェリヒトなのだ。
その補佐、手助けくらいなら、幾らでもする。
だから彼は、彼のままであればいい。
レーヴェリヒトがレーヴェリヒトだからこそ、飛鳥は彼のために――彼の幸いと、彼の愛するすべてのもののために生きたいと思うのだから。
――飛鳥にとって一番重要なのは、それだった。
竜化を解いて地上に降り立ち、向かってくる連中は容赦なく打ち倒しながら――といっても殺してはいない、骨の一本や二本は折れたかも知れないが――、レーヴェリヒトのもとへ向かう。
上空からざっと計測したところ、双方すでに千人規模の死者が出ているようだった。地球という故郷の、特に日本という国で換算すれば凄まじい数の、小さな町のひとつやふたつが消えてなくなったのと同義の犠牲者だ。
「……まあ、こっちにとっては普通のことなのかもしれないが」
それでも、その『普通』の中に、親しいものを喪って悲嘆に暮れる誰かがいることに代わりはない。
そこで落とされる涙の重さに何の代わりもないように。
「少なくとも、レイは誰かに泣いてほしいなんて思っちゃいないだろう」
呟き、歩を進める。
途中、第五天軍副将軍フライハイトの幼馴染の少女を見かけた飛鳥だったが、彼女が負傷者を庇って苦戦しているようだったので、戦いの輪の中に飛び込んでハルノエン兵を蹴り飛ばし、殴り倒し、脚を払ってぶん投げて、あっという間に周辺を沈黙させる。
「あ……あの、ありがとう、ございます……」
息を荒らげた少女が言うのへ小さく肩を竦め、
「他人を庇って傷つけるような人間をなくすのは惜しい」
「えっ」
「そういう人間こそ、護られてしかるべきだろ。手の届くものなら、そのくらいのことはする。……まァ、大したことじゃない」
飛鳥の起こした風で分断されたか何かだろう、こちらへ駆け寄ってくるフライハイトに小さく頷いてからその場を離れる。
ちらと見遣った少女の、飛鳥を見つめる目が潤み、頬が朱に染まっていたような気がするが、緊張が緩んだ所為だろうと結論付けて、ハルノエン兵を文字通り蹴散らしながらレーヴェリヒトのもとへ辿り着くと、彼は騎士団長と剣を交えていた。
更に、騎士団長を何とかして助けようと、ハルノエン騎士やハルノエン兵がレーヴェリヒトを取り囲んでいる。
ざっと数えても、その数は百を超える。
――メイデやアルディアが『視』たというレーヴェリヒトの危機、彼の最期は、こういう場面で起きたのかもしれない、と、ふと思った。
深く深く、強く強く慈しんでくれた人たちを喪った哀しみに我を見失って、たったひとりで奥へ奥へと進み、誰からの助けを受けることもなく、重い重い悲嘆と苦悩と絶望に全身を浸されたまま、無数の刃を受けて死んでいったのだろうか、と。
それを思うと――真っ赤な血に染まった清冽な白銀の髪を、白皙を想像すると、この先決して起こりようのない未来だと断じつつも、心臓を氷の塊に包み込まれるような気持ちになる。
メイデとアルディアも、きっと、そうだったのだろう。
だからこそ、ふたりは命をかけたのだろう。
――しかし、今のレーヴェリヒトに悲壮さはない。
哀しみや自暴自棄、絶望とはほど遠く、紫水晶の双眸に満ちて漲るのは強い意志ばかりだ。
飛鳥は、そのことに安堵する。
それこそが、メイデとアルディアの望みだっただろうと思うから。
「レイ」
低く名を呼び、包囲網の中へ飛び込む。
兵士たちの首筋を手刀で一撃し、次々と――まるでドミノ倒しのように無力化し、騎士のひとりを跳び蹴りで吹っ飛ばして『通路』を開け、するり、とレーヴェリヒトの背後へ入り込む。
ぴたり、と、背中と背中が合って、すべてのピースが合わさったパズルのような充足感に、自分がひどく喜んでいることが判る。
「遅かったじゃねぇか」
どこか楽しげに弾んだレーヴェリヒトの声に、飛鳥は小さく笑った。
「後片付けに手間取ってな。まァ……間に合ったようだから、いいだろ」
「おう。まあ、合格かな」
「……レイのくせに俺の合否を云々するとは生意気すぎるぞ。これが終わったら覚えておけ」
「え、またしても薮蛇!?」
「見事なまでの薮蛇だな」
締まらない、緊張感のない会話を交わしつつも、叫び声とともに打ち掛かってきた兵士の手首を打ち据え、剣を取り落とさせてから、親指と人差し指で彼の頚動脈を強く圧迫し、瞬時に意識を刈り取る。
その背後から剣を振りかぶった兵士には、
「……俺に上段から斬りかかるとはいい度胸だ」
あっという間に懐へ踏み込むと、彼に剣を振り下ろす暇など無論与えず、正面から鳩尾へ拳を突き入れ、鎧など何の気休めにもなっていない激烈な衝撃を与えてそのまま昏倒させる。
ひとりがふたりになっただけで、明らかに空気が変わった。
ただでさえレーヴェリヒトは手練れ中の手練れで、多数で囲んでようやっと相手取れるような武人なのに、その背後を護るものが現れ、しかもそれが神話や伝承、伝説に描かれ続け、畏怖され続ける黒の御使いなのだ。
正直なところ、出来ることこそ増えたものの、自分などまだまだ出来損ないの“黒の御使い”に過ぎないと思っている飛鳥だが、それを知る由もないハルノエン人たちの動揺は、彼らの側に立って考えれば気の毒なほどだ。
しかし、飛鳥に彼らを皆殺しにするという意識はない。
そもそも、飛鳥はまだ『誰も殺してはいない』のだ。
それが十全ではないと気づいた瞬間から――レーヴェリヒトが何を望んでいるかを理解した瞬間から、すべての意識を『生かす』方へ向けている。
「レイ」
「ん」
「――……もう、殺さなくていい」
その言葉に、レーヴェリヒトがはっとしたのが判って、
「俺が何とかしてやる。リィンクローヴァも、ハルノエンも」
飛鳥は、にやり、と悪人くさい笑みを浮かべた。
「どっちも、護ってやる。天才の――……“黒の御使い”の本領発揮だ。お前の望むように、お前の役に立ってやる。お前がハルノエンの安寧と幸いをも望むというのなら、その願いのままに」
そして、腰を低く落とし、拳を握って身構える。
「だから、まずは……まァ、話をする場を作ろうか。少々、手荒になるかもしれないが」
その言葉とともに、地を蹴る。
レーヴェリヒトもまた、踏み込んでいた。
先程より数段活き活きとした表情で、ヴァイスゲベートを揮っている。
――彼は、護るため、生かすために戦えばいい、と、思う。
本当は誰も殺さずに済めばいい、と、甘ったれた理想と現実の食い違いに溜め息し苦笑し悩みつつ、誇りと覚悟は捨てず、忘れず、ただひたすら自分の思うように戦えばいい、と。
自分をソル=ダートへ招いた何者かの意図などどうでもいいが――正直にいえば、最近はその辺りに関して考えること自体減っている――、少なくとも、飛鳥が今ここに、リィンクローヴァにいる意味、意義は、背に黒翼を負う白銀の王の願いを現実にするためだった。
それが乱世を終わらせ、世界に平穏を取り戻させ、天と地に御座す至高なる存在を救うなどという大それたことはどうでもいい。
今はまだ、大陸の覇も、この国を狙う他国の存在も、遠くていい。
「お前がそう望むなら、俺が叶えてやる」
兵士のひとりを投げ飛ばし、その隣の騎士を殴り倒して、低く独白する。
ただ、この瞬間、死すら甘受する覚悟で、我が身より大切な『たったひとり』のためにここへ来たハルノエン人たちの献身に――そしてそれを惜しむレーヴェリヒトに――応える。
そのために我が身を削り次の『種』を蒔く。
飛鳥にとっては、それだけのことだ。