触れ合っているわけでもないのに、背中がじんわりと熱く、心地よい。
 片方が動くと片方がさり気なくその背後を護る、言葉にする必要もない、ごくごく自然なことのような――まるで初めから決められているような一連の動作に、レーヴェリヒトはこれまでにない充足感を味わっていた。
「……風が、変わったな」
 エルンストライトがぽつりと呟く。
 つい先刻、エルンストライトをはじめ、百人以上のハルノエン人に囲まれても、恐怖も危機感も覚えることもなかったレーヴェリヒトだが、アスカが現れ、彼と背中を合わせてから、ますますそれは強くなった。
 たくさんの人間の命がかかった戦場でありながら、それらの命を背負うべき立場でありながら、今のレーヴェリヒトは、すべての感情を超越した強い喜びとともに戦っている。
 ――アスカが護ると言ってくれた。
 リィンクローヴァも、ハルノエンも。
 レーヴェリヒトがハルノエンの幸いを望むなら、そのようにと。
 なら、それは、真実になるのだろう。
「エルンストライト、これ以上の戦いは無意味だ、剣を、兵を退け!」
 剣を合わせながら強く呼ばわる。
 アスカが、レーヴェリヒトの横から斬りかかってきた兵士の脚を引っ掛けて転ばせ、鳩尾を一撃して無力化する。その背に切っ先を突き入れようとした騎士の剣を弾き飛ばしたのは、レーヴェリヒトのヴァイスゲベートだ。
 大きな戦場で、ふたり一緒に戦うのは初めてのはずなのに――何を示しあったわけでも、訓練したわけでもないのに、こんなにも呼吸がぴたりと合うことに、身体が震えるような喜びを覚えるのは、もう、本能、魂の領域と言うしかないのだろう。
「徒に犠牲を増やすことはお前の本分じゃねぇだろう、潔く降れ!」
 アスカがああ言った以上、そのことで自分を裏切るはずがないというのは、アスカを怒らせると何をされるか判らない、というのと同等に、この二ヶ月でレーヴェリヒトの中に刻み込まれた真理で、だからこその彼の物言いだったのだが、無論その辺りの事情を知らないエルンストライトが簡単に受け入れられるわけもないことも理解している。
「何を今更……勝利できず、戻ることも出来ぬ我らに、取るべき道などない! 戦いが無意味であるのなら、我らの死こそ意味……せめて見届けられよ、遠き同胞たる方よ!」
 裂帛の気合とともに繰り出される鋭い剣の一閃一閃を凌ぎながら、レーヴェリヒトは思案していた。
 勝利するためというより最初から死ぬためにここへ来た彼に、一体どんな言葉をかけてやれば、ここに希望があるのだと気づかせることが出来るだろうか、と。
「陛下のお心に感謝いたす……どうか、あの方を、どうか」
 彼は気づいているだろうか。
 彼らが死ぬことは、あの、無垢で清らかでか弱い、儚い乙女の肩に、数千の命を圧し掛からせるという事実に他ならないのだと。
「駄目だ、許さねぇ」
 言って、振り下ろされた剣を受け止める。
「陛下、」
「自分のために何千もの人間が進んで命を捨てたなんて知ったら、あの姫はとてもじゃねぇが耐え切れねぇだろう。お前たちは、命を捨てることで彼女を護るつもりなのかも知れねぇが、同時に、その命で彼女を壊すことになるかもしれねぇんだ。……それじゃ意味がねぇ」
 その言葉に、エルンストライトが唇を噛み締めるのが見えた。
「……ならば!」
 彼の激昂をレーヴェリヒトは初めて見た。
「我らに、他のいかなる選択肢があると! 役目を果たせず、戻れず、常に見張られ続けている我らに、いかなる道が!」
 苦渋の、どうしようもない選択だったのだと、そうするより他なかったのだと――本当ならもっと別の方法を取りたかったのだと、泣き喚く幼児のような頑是なさで、エルンストライトが剣を振りかぶる。
 がぢっ、という、堅い金属音。
 その、
「――……『見張り』なら、もういない」
 エルンストライトの剣を受け止めたのは、レーヴェリヒトの前で身構えたアスカの、交錯した両の腕。
 黒く輝く鱗をまとった。
「黄の御使いは去ったぞ、騎士団長」
 射抜くようなアスカの視線と、静かな言葉に、エルンストライトが大きく目を見開いた。
 その一瞬の隙を、彼は見逃さなかった。
 羽毛が舞うような軽やかさで回転したアスカが、エルンストライトの剣を蹴り飛ばし、更に一歩踏み出すと同時に、彼の腹部に強烈な拳の一撃をお見舞いする。どん、という鈍い音と、エルンストライトの苦痛の表情は、彼が身につけている甲冑など何の役目も果たしていなかったことを如実に物語っていた。
「……ッ!!」
 目を大きく見開き、ぐらりと身体を傾がせるエルンストライトの頭上で、宙へと飛んだ剣がくるくると回転し、落ちて来る。
 それを何でもないように掴み取り――その頃には腕はもとの形状を取り戻している――、アスカは、ついに膝をついてしまったエルンストライトの首筋に、剣の切っ先を突きつけた。
 その様子を目にして息を呑み、ハルノエン兵が動きを止める。
 それは少しずつ伝播していって、戦場が徐々に鎮まってゆく。
「エルンストライトというのか、あんたは。――山中の二千人は俺が始末をつけた。ここも、俺が来た以上、あんたたちに勝ち目はない」
 激しく咳き込んだあと、のろのろと顔を上げたエルンストライトは弱々しい笑みを浮かべた。
「ならば、死を。――グラナートたちと同じように」
「却下だ、何で俺が負けた奴らの言いなりにならなきゃいけない?」
 ばっさりとした物言いに、エルンストライトが惚けたような表情をする。
「レイがあんたたちにも生きて欲しいと願ってる。――なら俺は、その願いを叶えるだけだ。というか、反論は許さん」
「何故そうも強情を言われる。『見張り』がいる限り、我らの行動は筒抜けなのだ……! 我々を救ったことで、あの方が喪われてしまっては、なんの意味もないと何度申せば判っていただける!」
「あんたこそ判ってないな。姫さんもあんたたちも助けるって言ってるだろ」
「だから、『見張り』が、」
「魔法の鏡って奴か? それなら俺がさっき掻き消したぞ。今はまだ発動されていないようだな」
「な、」
「あんたたちの大事な姫さんを捕らえてる悪者の傍には、まだ魔法使いがいるのか。まあ部外者だけに魔法的な要素を全部任せるほど間抜けじゃないだろうとは思うが」
「う……上級中位のものが、ふたりほど」
「ふむ……ハルノエン王城とここをつなぐ規模の遠見の鏡なら、再発動まであと数分といったところかな。――なら、もう一芝居、打とうか」
 実に楽しげなアスカの様子に、レーヴェリヒトは首を傾げた。
「おいアスカ、何の話だ」
「ん? ここでハルノエン人を殲滅したって意味がないってお前は思うんだろ、レイ」
「……ああ」
「俺も、彼らを殺すってのはどう考えても資源の無駄遣いだろうと思うわけだ」
「……?」
「だから、連中は生かす。そこのおっさんも、生き残ってるハルノエン人も、全部」
 アスカが言うと同時に、彼の周囲から光沢のある闇が噴き上がった。
 神威を含んだそれに、両軍の兵士たちからどよめきが漏れる。
「確かに、他人のために死ねる連中をむざむざ死なせたいとは思わないが、正直、お前ほど、俺はハルノエンの連中の命に対して執着があるわけじゃない。まあ、リィンクローヴァの安全に比べたら、だけどな」
「ああ……?」
「要するに、だ」
 と、そこでアスカが浮かべた笑みは、いっそ晴れやかなほど悪者っぽかった。
「ハルノエンの始末はハルノエンがつければいい。そういうことだろ。――というか、そうさせる。ここで捨てて構わない命なら、そのための手駒になったところで文句はないはずだしな」
 恐ろしいまでに自分の都合一辺倒の物言いに、レーヴェリヒトは――たぶん、エルンストライトもだ――呆然とするしかなかったが、レーヴェリヒトより一瞬早く我に返ったエルンストライトが、アスカの足元にしがみ付くようにして早口に問う。
「待て、待ってくれ、ではグラナートは。私の部下たちは。貴殿は先ほど、始末をつけたと」
 それに対してアスカは、胡散臭いくらい爽やかに笑ってみせ、
「殺したなんて、俺がいつ言った? ――そんな面倒臭いこと、誰がするか」
 それから右手を空に掲げた。
 ぱりぱりっ、と空が鳴り、恐ろしい勢いで雨雲が集まってくる。
 夜の空であってもそれと判る濃厚な暗雲が、あっという間に星を覆い隠してゆき、その雲間から金色の光がチラチラとこぼれる。
 それと同時に、濃厚な水の臭いが漂って、急激に気温が下がり始める。墨のような黒雲の狭間に、黄金の光が瞬き、銀色の亀裂が走った。
 すぐに、耳をつんざく雷鳴が辺りを支配する。
 天の気紛れで済ますにはあまりにも唐突過ぎる、異常な光景に、兵士たちの間に動揺とざわめきが広がってゆく。ハルノエン兵の中には、すでに腰を抜かしてしまったものもいるようだし、リィンクローヴァ人たちも明らかに腰が引けている。
「ま、正直あんま威力はないんだけどな、ほとんど示威のめくらましだから」
 黄の御使いを騙せるくらいだから見てくれはそこそこだろ、とつぶやくアスカに、エルンストライトは信じ難いという表情で彼を見上げたが、
「何故だ……何故。それだけの力を持ちながら、怖気づいたとでも?」
「馬鹿を言え。あんたたちを一瞬で消し炭に出来るからこそ、だ。怖気づくもくそもない……それが必要であるなら、あんたたちなんぞは何度でも完膚なきまでに打ち砕いてやろう、骨の一片も残らないくらいに。だが、その無意味を、別の位置にある最善を、俺は誰よりも理解出来るだけだ」
 彼の、きっぱりとした言葉に口を噤み、がくり、とこうべを垂れた。
「――……ならば、もう……神々の思し召しの通りに」
「物判りがよくていい。まあ、俺は、神々の思し召しなんてもののために動く気はないが」
 激烈な勢いで雷光が周囲を照らし出し、唐突な突風が松明を吹き消した。
 雲間から漏れる金光は、心臓に悪いほど凶悪な輝きを放っている。
「……観客がおいでだ」
 ちらりと空の彼方を見遣ってアスカが呟き、掲げた右手を振り下ろす。
 それと同時に、黄金の光が、物理的な破壊力を――圧倒的な熱量を伴って、降った。
 どこかから、絶叫。
 何かが打ち砕かれる音、耳が潰れそうな大音響、そして、何も見えなくなるほどの閃光。
 そんな中で、
「さて……まァ、精々巧く踊ってくれよ?」
 アスカの、その、面白がるような声を聴いたのは、恐らくレーヴェリヒトだけだっただろう。