リューゲユーベル・ライン・レトリヒカイトは、自身の執務室の豪奢な椅子にゆったりと腰掛けて、蒼白な表情でガタガタと震える大宰相とともにその一切を見ていた。
「ああ……エルンストライト殿……!」
大宰相の悲痛な声を心地よく聴きながら、目を細めて画面を見遣る。
“黒の御使い”が喚んだ雷雲は、ほんの一時間ほど前に山中の兵士たちを粉々に打ち砕いたように、一瞬画面が真っ白になるほどの閃光を放ち、こちら側までが一瞬震えたような激烈さで大地に降り注いだ。
あまりの神威に鏡が揺らいだものの、先ほどと同じ轍を踏むほど彼の魔導師たちは愚かではなく――そう、たとえそこに黄を負う御使いがおらずとも――、状態を微調整すること二三分で、明晰な画像が戻ってくる。
「……恐るべき威力です」
上級第五位の魔導師、ベラーター・ヌウエが言い、上級第三位の魔導師、シュテュツェ・ラディンが頷く。
「やはり、黒の御使い、か?」
「恐らく」
「加護持ちでは、あそこまでの力は揮えませんでしょう。リィンクローヴァはいい駒を得ました」
「……手に入れられるか、リィンクローヴァごと」
「それがあなたの命であるのなら」
「なら、そうしろ」
「御意」
リューゲユーベルの端的な命令に、同じ動作で胸に手を当てたふたりの上級魔導師が恭しく一礼する。
そこには絶大な自信と彼への忠誠があふれていて、二十年という長い付き合いの彼らを頼もしく……満足げに見下ろした後、リューゲユーベルは魔法鏡の前にへたり込む大宰相を見遣った。
彼がリューゲユーベルの手先となったのはほんの一ヶ月ほど前のことであるはずなのに、つい先日まででっぷりと太り、血色のよい顔にいつも玉のような汗を浮かべていたはずの大宰相は、今や頬はこけ、肌は土気色に変色してかさかさになっていて、見るも憐れな様相を呈していた。
もちろん、彼をこの状態に追い込んだのはリューゲユーベルなのだが。
「ゾルゲ大宰相閣下、姫様はご息災であらせられるかな」
皮肉っぽくリューゲユーベルが尋ねると、死人の顔をした大宰相は、画面を凝視していた顔をのろのろと彼に向けた。
「そのようなことは、私などにお尋ねにならず、ご自身でご覧になればよかろう……貴殿にはそれが許されるのだから」
「はは、そう睨まれるな、射殺されそうだ」
まったく堪えていない風情で笑うリューゲユーベルを、大宰相は拳を握り締めて睨み付けている。とはいえ、まつりごとに三十年以上を捧げてきた文官中の文官に睨まれたところで、大した脅威ではない。
折しも魔法鏡の向こう側では、白一色のような光がおさまり、震動も絶叫も収まって、何ごともなかったかのように静寂が落ちたところだった。
先ほどまで白鳩近衛騎士団長エルンストライト・オームがいたはずの場所には、半ば砕けた甲冑と折れた剣が真っ黒に焼け焦げて、黒い煙を立ち昇らせながら残っているばかりだ。
否、ゲミュートリヒ市の正面で戦いを繰り広げていた五千の兵士たち、まだ生きていたものもすでに息絶えていたものも、そのすべてが、何らかの焼け焦げてくすぶる塊を残して消滅していた。
残骸の真ん中に淡々と佇む黒の御使いとリィンクローヴァ国王の静謐さが異様なほどの無残な最期だった。
――たったひとりであの虐殺を行いながら、漆黒の少年の表情にはいかなる変化も、いかなる悼みも見出すことが出来ない。二千の兵士たちを粉々に打ち砕いたのと同じく、五千の敵軍など、彼にとっては路傍の塵程度の価値しかないということだろう。
それだけの胆力を持った人物なのだろう。
「……いい面構えだ、気に入った」
リューゲユーベルは、どこか少女めいた繊細な面立ちの、決して美形などという言葉でくくることは出来ないのに何故か目を離せなくなる雰囲気を持った、全身に絶大な神威をまとって立つ少年を見遣りつつ顎を撫でた。
「リィンクローヴァごとお前を手に入れて、アルバトロウム=シェトラン攻略の足掛りにする。すべての国を併呑し、ハルノエンを、第三大陸の、ソル=ダートの覇者にしてやる……この俺の手で」
彼がそう言った時、まるでその言葉が聞こえでもしたかのように、漆黒の少年が鏡を――リューゲユーベルを真っ直ぐに見据え、獰猛に笑った。
彼と少年の視線が真っ向からぶつかり合う。
どこまでも深い漆黒に、何もかもを見透かすようなその黒に、全身を飲み込まれそうな錯覚があって、背骨がすうっと冷えたところで、
「……気づかれましたか……やはり、使命の黒を負う者」
「これ以上の向こう側への干渉は危険です、逆にこちら側へ侵入されかねない」
ベラーターとシュテュツェが手を、杖を振り、魔法鏡を無へと還した。
「大丈夫ですか、リューゲ様」
「ああ、大事ない。さすがは、と言ったところか?」
「はい」
「それでも手に入れられると言ったお前たちの言葉に相違ないな?」
「無論です」
その応えは、リューゲユーベルをいたく満足させた。
「なら、すぐに始めろ。黄の魔導師殿が置き土産にくれた好機だ、逃す手はない」
「……御意」
再度恭しく一礼し、ふたりの魔導師が退室する。
それを見送って、大宰相がぽつりと呟いた。
「何故……」
リューゲユーベルは小首を傾げて、老年に差し掛かった男の、ずいぶん広くなった額を見下ろす。
彼が今の地位についた十年前、大宰相と言えばハルノエンで最大の規模を誇る大貴族で、更に言うなら泣く子も黙る辣腕家として腕を揮っていたはずだったが、今やその男は小さく小さくなってゆくばかりだ。
「いかがされた、ゾルゲ閣下」
リューゲユーベルの揶揄にも激昂することなく――彼らがこういう関係になってしばらくは反抗的な態度を取り続け、何度も意識を失うまで拷問を受けたから、というだけではなく――いっそ頑是なくすらある風情で、
「先代殿下の信頼も篤かった貴殿が、何故このようなことを、総大将殿」
そう、問われたそれに、リューゲユーベルはしばし黙った。
愚かなことを訊くなと鼻で笑うことも、貴様にその質問をする権利は与えていないと彼を蹴り倒し踏み躙ることも容易だったが、リューゲユーベルはそのどちらも選択しなかった。
ただ、
「……だからこそ、だ」
「今、何と?」
「…………何でもない。衛兵、大宰相閣下にお部屋へお帰りいただけ。少々お疲れのようだ、丁重にな」
静かにつぶやいた後、人を呼んで、老宰相を下がらせただけだった。
「……そうとも」
人気のなくなった広い部屋で、壁にかけられた肖像画を見上げながらリューゲユーベルは独白する。
「別に、誰のためでもない……これは、俺のための戦いだ。それ以外の、なにものでもない」
肖像画に描かれた美しい乙女に――自分に言い聞かせるように。
『彼女』がこれを見たらどう思うのだろうか、などと、益体もない想像に思考を委ねつつ。
* * * * *
「……ふむ、まあ、こんなもんか」
見られている感覚、この場への干渉が完全に消えたのを確認して、飛鳥はやれやれと腕を回した。
さすがに今日一日で色々な力を使いすぎた感覚がある。
脳味噌の裏側辺りが、痺れたように重い。
今回使った力の大半は補助系のものだが、補助系でこれだけの負担ということは、絶大な威力を持った攻撃系の力を使ったときどのくらいの負荷がかかるのか、それなりに想像もつくというものだ。
もちろん、使うべき時が来たら、躊躇うつもりはないが。
「お疲れ、アスカ。しかしまぁ派手だったな」
「ああ。――派手なだけで殺傷能力は皆無に近いけどな。見える範囲も滅茶苦茶狭いし」
レーヴェリヒトの労いに肩を竦めてみせると、彼は周囲をぐるりと見遣って小首を傾げた。
「連中はどこに?」
「俺たちが初めてここに来たとき、異形が発生して滅んだとかいう村があっただろう。グラナートだったか、副騎士団長や取り残されてた連中も一緒に、あそこにまとめて送った。一応、『覗き見』を撹乱する効果をつけた結界で覆ってある」
「そうか。後で行って打ち合わせをしなきゃな」
「だな。たぶん、あまり猶予もないだろ」
「ああ……とにかくヴュセル姫が心配だ。優しくておとなしくて、病弱な子でな、彼女に“小鳩の乙女”を継がせるのは無理なんじゃねぇかって話も出たことがあるくらいなんだ。今の彼女の心痛と、それがもたらす肉体への負担を思うと、エルンストライトが焦る気持ちもよく判る」
「なら、早めに手を打たないとな」
情報収集と向こうへの働きかけと……と思いつつ、魔法鏡にほんの一瞬干渉して得たわずかな黒幕像を脳裏に思い描く。
「あの男……」
鈍い鉄色の目に、濃い赤茶色の髪の、三十代半ばといった風貌の男だった。
がっしりとした、実用本位に鍛え上げられたと判る均整の取れた身体と、尊大かつ獰猛な雰囲気の、雄々しさと高貴さの同居する整った顔立ちから、彼がハルノエンの貴族で、上位に位置する軍族だという予測は容易くついたが、何故彼が国を、王家を裏切ったのかはもちろん判らない。
「……頑固そうな顔をしていたな」
理由も、目的も、真に望むものも、何ひとつとして判らないが、ああいう顔をした男が、手段を問わずに攻めてくることは確かだ。
「その辺りに付け込める隙があればいいんだが」
「ん? どうした、何か言ったか、アスカ?」
「いや……こっちの話だ」
飛鳥の返しにレーヴェリヒトはまた首を傾げたが、答える気がない飛鳥に何度尋ねたところで無駄だということを理解しているのだろう、そうか、とだけ言って、未だ燻り続けるハルノエン軍の残骸を見遣った。
「なあアスカ、そういやこの甲冑って……」
「当然、連中のだ」
「なんでこれだけ残ってんだ?」
「残骸が何もないんじゃ、さすがに怪しまれるだろうが。向こうで同じことをやったときは、人型を焼いて誤魔化したんだが、こっちにはそういうのもなかったしな……というか、目くらましを維持しながらあの人数を一斉に転移させるのに、今の俺では『人体』を選択するのが精一杯で、他のものは置いて行かさざるを得なかったっつーかな」
「ふうん……骸は? 灼いたのか?」
「一瞬考えたが、それじゃ弔いにくくなるだろ、判別がつかなくなって。たぶん、どっちの奴らも、せめて死に顔だけでも見たいだろうと思ったから、一緒に飛ばした。後で収容に行ってもらう」
「……お前って、変なとこで気遣いの人だなあ」
「変なとこで、だけ余計だ。誰だってそうだろうが」
「おう。……ん? しかし、てことは、今頃エルンストライトたちって」
「正味の話、全裸だ」
「……うわー……」
全裸でひと塊になったハルノエン兵士たちを想像したのか、レーヴェリヒトが非常に微妙な表情をする。
「っつーことは、とりあえず、当座の食糧とか着る物とか、用意しなきゃなあ。生き残りが六千弱だったか……用意する分には何とでもなるんだが、そのくらいの数なら」
「ああ。……しかしそれを持ってあそこに行くのもわりと勇気が要ると思う」
「あいつらには悪いが、俺もあんまり見たくねぇな……」
それどころではないと判っていて、飛鳥も同じような表情をせざるを得ない。
「……まあ、ひとまず、一応ゲミュートリヒ市の防衛には成功したわけだから」
「そうだな……次は、戦死者の弔いと、後片付けと、第二陣への備え、か。すぐに来ると思うか、アスカ?」
「いや……そこまで性急には来ないだろ。来られない、と言った方が正しいかもな。ハルノエンとしても、他国にリィンクローヴァと交戦中だなんて知られたくはないだろうし、何より今回の一件で“黒の御使い”の得体の知れなさは把握したはずだ。来るにしても、まずは正面からじゃない方法で、のような気がする」
「概ね同じ意見だな。つーことは、ゲミュートリヒでの警戒は水面下で維持したまま、ハルノエン本国に働きかけた方がよさそうだ」
「だな。とりあえず向こうの連中と意思疎通をして、動き方を打ち合わせようか」
「おう。……まあでも、アスカ、お前ひとまずちょっと休めよ、疲れただろ」
「ん? いや……特には?」
「そうなのか? すげえな、俺はさすがに疲れたよ」
やれやれ、と息を吐くレーヴェリヒトを、若干不機嫌なリーノエンヴェが呼びに来て――国王を護り、補佐して戦うべき近衛騎士団長が、国王自身にまかれて置いてけぼりにされたのでは怒っても仕方ないかもしれない――、飛鳥はしばしひとりになる。
全体的な戦いが始まってから数時間、そのたった数時間で双方合わせて二千以上の命が失われたのだと考えると凄まじいとしか言いようがないが、乱世という時代においてはまだまだ序の口なのかもしれない、とも思う。
――それでも、今この時において、ゲミュートリヒが、リィンクローヴァが……そしてレーヴェリヒトが護られたことも事実だった。
「メイデ、アルディア。――……これで、よかったか。心残りなく、眠れるか」
空を見上げて呟く。
もう、泣き喚きたいような激情はなかったが、ふたりの笑顔を思うと胸の奥がじわりと痛く、寂しい。やるべきことを見い出したから迷いはしないと思いつつも、もう会えないと思うと心臓が軋む。
「こっちは、心配要らない。全部、俺たちが何とかする」
それこそが何よりも、短い間ではあったけれど惜しみない愛情を注いでくれたふたりへ報いることになるだろう、と、祈るように告げたところで、左手小指の違和感に気づいた。
なんともいえない、不思議な、不快ではないが言葉で説明出来ない、水晶が擦り合わされるような感覚に首を傾げ、手袋を外して、
「……ああ、そういうことか」
飛鳥は納得したように苦笑した。
「まあ、そういうもんだろ。何の犠牲もなしに果たされるものなんかないんだからな」
言って、左手を掲げ、松明の灯りに透かしてみる。
「それが俺ひとりで済むんなら、安い話だ」
怖れも感慨も感傷もなく、それが、きらり、と光を反射する様子を、目を細めて見遣る。
――飛鳥の他に見るものがあれば、どうしてそんな箇所が、と不審に眉をひそめただろう。
その、貴くも異質な輝きに。
そして、息を呑んだかもしれない。
飛鳥の左手小指が、そこだけ、挿げ替えられでもしたかのように、界神晶と同じ、光沢のある漆黒の闇色に変わっていることに。
――飛鳥が界神晶を使って奇跡を起こすことは、すなわち我が身を削ることに他ならず、そのたびに彼は変質してゆくのだという事実に。
それも、今はまだ、誰も知らないことだったが。